花雲に眩む





 ※8巻あたりまでの情報で書いています








 楽は充電の切れかけたスマートフォンを放り出し、綺麗とはいえないフロアに寝そべった。廃工場の薄汚れた天窓を見上げると、埃やら鉄粉やらの膜の向こう側に空が見えた。
 うすく雲が張っている。それでもその奥、もっと高いところの空は青く晴れている。隙間から入り込む空気がぬるく、視界が明るいからである。雨雲ではない春の特有の曇り空。

 花粉症を患っていたかつての同級生は、この季節になると、いつも恨めしそうに空を睨んでいた。もう顔も名前も思い出せないけれど、春を憎むその同級生を理解できなかった感覚だけが微かに残っている。

 春は嫌いではない。
 正しくは、嫌いな季節はない。

 楽にとって四季はただうつろいゆくだけの周囲の変化であり、暑さも寒さもどうでもよかった。花粉に目が痒くなったことも、暑さにばてたことも、季節の変わり目に風邪をひいたことも、寒さに震えたこともない。

 裏を返せば、とりわけ好きな季節もない。
 ものにもひとにも、それどころか自分自身に対しても無頓着。
 強いて言うなら空腹と退屈が凌げればそれでいい。そういった感覚のままこれまで生きてきた。


「退屈?」

 おだやかでやや掠れた声のほうに目を向ける。楽を退屈から拾い上げたある種の恩人、人生ではじめてできた自分よりも格上の存在──スラーである。いつにも増して疲労を滲ませるスラーは、目の下のくまが心なしか濃く見えた。
「あ〜〜〜〜〜。そっすね」
 上体を起こし、スラーに向き直る。折りたたみの簡易テーブルで書類とタブレットに目を通していたスラーが首を回すと、こき、っと音が鳴った。
「それならいい仕事があるけど」
「や、頭使う系は無理。九九も七の段で挫折してっし」
「だいじょうぶだって」
 スラーがこいこいと手招きをしたため、楽は服についた埃を払い落として立ち上がった。テーブルの向かい側に近付き、書類の山とタブレットを見て思わず舌を出す。何に関する書類なのかもわからない。

「もっとこっち」
「あ〜〜い」
 命令の趣旨が読めないまま机を迂回していると、スラーがおもむろにコートを脱いだ。見慣れない姿に思わず目を丸くする。
「エロい感じの命令っすか」
「エロい感じの命令じゃなくて悪いね。肩を揉んでほしいだけ」
「あーね。そういう感じかァ」
 なあんだ、とぼやきながら、パイプ椅子に深々と腰掛けるスラーの背後に回る。
 淡いグレーのタートルネックと、白いスラックス。コートを滅多に脱がないスラーの薄着(とはいえ首までニットで覆われているのだが)はどこか新鮮でいやでも目がいく。

 楽には肩が凝るという感覚が分からないし、当然、他人の肩を揉んだこともない。とりあえずの見切り発車でスラーの肩に触れると、親指の腹に骨の硬さが伝わってきた。力を込めて指を押し込む。
「痛っ、ちがうちがう。そこ、骨」
「え、違うとかあんの?」
「骨じゃなくて、筋肉をほぐすんだよ。関節が砕けちゃうかと思った」
「肉んとこを押せばいいのか〜〜?」
「うーん。ナイフが抵抗なく刺さるところを探す感じ」
「俺ナイフ使わねえからなァ」
「あ、そこ。今親指を当ててるところ、ぐ、って押して」
 言われるがままに親指に力を入れる。
 骨を押してはいけないことと、強張った筋肉の感触をはじめて知った。
 不思議な気分で言われるがままに指の位置を移動させ、肩周りから背中にかけてほぐしていく。

「僧帽筋よりも、肩甲挙筋と、小菱形筋の場所を覚えておいて。そこが、きもちいいから」
「肩と首の境目と、背骨と肩甲骨の間らへん?」
「うん、そう。じょうず」
 スラーが深く息を吐き、肩の力を抜く。楽がコツを掴んできたため、うっかり骨を砕かれる心配がなくなったのだろう。

 普段よりもうんと低い位置にあるスラーの後ろ姿を見下ろしながら、肩と背中、骨の合間を縫うように指を入れていく。時折親指で小さな円を描くようにすると、よほど気持ちがいいのか、スラーがうっそりと声を漏らした。
「やっぱこれエロい感じの命令じゃん」
「エロい感じの命令じゃないってば……。あ、そこ、もっと押して。つよめに」
「えーー。わざとっすか」
「さっきから何言ってるの。鹿島や宇田くんにだって頼むことあるよ」
「マジか」
「宇田くんがね、すごく上手なんだ。力加減が絶妙で、気持ちいいところをよく知ってる」
「それ鹿島さんが聞いたら泡吹くんじゃね?」
「鹿島は遠慮しぃだからなぁ。楽は、テクニックはないけど、力強くていいね。疲れない?」
「どこが?」
「腕や指先」
「全然」
「さすが。体力も無尽蔵」
「ドーモ」

 骨張った広い肩と、くっきり浮き出ている肩甲骨。
 そこから視線を上げると普段は見えないつむじが見えた。無造作なウェーブのかかる銀糸のような髪は、生え際にさえ黒がない。
「ボスって地毛?」
「うん、地毛。楽はずいぶんプリンになってきたよね」
「そうなんすよね。次何色にしよっかな〜〜って。赤とかどうだァ?」
「うちは基本自由だけど、あんま目立つのはなあ」
「じゃあまたこの色?」
「いいじゃん、似合ってるよ。シルバーアッシュだっけ」
「鹿島さんが上手いんすよね、ブリーチすんのも色入れんのも」
「鹿島は器用だからねえ」
「けど宇田さんには銀色猿って言われた」
「猿っていうより、狼みたいだけど。ネブラスオオカミって知ってる?」
「知んね」
「今の楽にそっくりだよ」
「へェ。物知りっすね」

 細く編まれた毛糸越しに、スラーの体温がてのひらに伝わってきた。血の巡りが良くなり、からだがぬくまってきたらしい。楽は気分が良くなり、ふとこれが自分だけの仕事になればいいと思った。

 基本的に現場でしか仕事のない、つまりは交渉や潜入やハッキングといった知能戦や裏方に向かない楽は、このところ暇を持て余す時間が増えていた。渋谷や原宿をふらふらすることもあったけれど、遊ぶのには金がいる。正しい稼ぎ方なんて知らないし、目立つ行動は避けるようにと常々釘を刺されている。そのため仕事がない日の多くを、スラーの護衛という名目で一緒に過ごすようになって久しい。宇田が潜入任務に入ってからはなおのこと。

「専属マッサージ師募集してないっすか?」
「楽がやるの?」
「そーいうこと」
「うーん、悪くないね。特別手当とかつかないけどいい?」
「いっすよ、別に」
「それに、宇田くんが戻ってきたらその仕事なくなっちゃうかも」
「エ〜〜〜。宇田さんじゃ満足できねーくらい俺の腕が上がってもかァ?」
「それかなり難易度高いよ」
「ほぉん」
 楽はくちびるを尖らせ、宇田の飄々とした佇まいを思い出した。
 組織に入ってすぐの頃は、宇田と一緒の仕事を割り振られることが多かった。冷静で堅実、あらゆる武器の扱いに長け、敵の懐に入り込むのも隙をつくのも上手かった。常々「宇田さんには勝てねえな」と思ってはいたものの、今この場で言われたことで、どこかがもやりとくすんだように感じた。

「宇田さん今頃どうしてんのかな」
「潜入の首尾は上々みたい。さっき定期連絡が入ってた」
「それ向こうにバレねーの?」
「バレないように上手くできるのが宇田くんだから」
「あの人頭イイもんなァ」
「ほんと、優秀な部下に恵まれたよ。鹿島もラボの所在地を掴んできてくれたしね」
「ラボってなんかアレだろ、ヤベー実験やってるとこだろ?」
「地下科学研究施設、通称LABO。研究内容は多岐に渡るけど、中でも脳の活動限界の拡張研究は興味深い。まさか科学博物館の地下にあるなんてね」
「早速乗り込むかァ?」
「まだダメ。いま、鹿島が部下を集めてる」
「あ〜〜? 俺呼ばれてねーけど」
「うん、楽は外した」
「え〜〜〜〜〜」
「だってすぐ壊しちゃうじゃん。それに、賢い連中には相応の交渉術が必要だ」
「つっても脅しだろ?」
「楽はそれ以前に、ノーと言われたらすぐ殺しちゃうから」
「まあ鹿島さんと比べられたら何にも言えねェけどさ〜〜。最近つまんねー仕事ばっかっすもん」
「楽レベルの殺し屋なんてそういないからね。でも、大丈夫。準備が整い次第、早くて秋にも暴れてもらう予定」
「最高。何すんの?」
「まだ秘密」
「出た、ヒミツ」
「いたたた、ごめんごめん。肩甲骨の真ん中は痛いって」
「ボスの弱点見っけ」
「弱点くらいあるよ、俺も人間なんだし」
「ふーん。他には?」
「秘密。いてて、痛いって。こら、楽。ぁ、そこだめ」
「は〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
「なにそのため息」
「サーセン、つい」
 楽は肩先の骨に置いていた指をずらし、スラーの首の付け根をゆっくり押した。細い猫っ毛が指に絡まりこそばゆい。ただ腕から先に力を入れているだけなのに、背中にじわりと汗が滲んでいることに気が付いた。

「なんでいつもこういう服なんすか。よけー肩凝りそう」
 スラーの首周りを覆う襟にちょんと触れる。冬ならまだしも、酷暑の日でもスラーは肌を露出しない。
「うーん、見られたくないからかな」
「え、じゃあ宇田さんにも見せたことねェの?」
「何でそこで宇田くん? ないけどさ」
「鹿島さんは?」
「ないよ」
「他のヤツは?」
「ない。俺、こういう服以外持ってないし」
「へぇ」

 見たことがないものを見たいと思うのは人間の性だ。
 それが他の誰も知らないというのなら、なおさら。

 楽は積もったばかりのまっさらな雪にはじめて足跡をつけた日のことを思い出した。平坦で退屈な白に自分の足跡がくっきりとつき、あまり動くことのない感情が微かに揺らいだ。足跡だけでは飽き足らず、大の字になって雪に埋もれた。手も首も耳も冷たく湿ったがどうでもよかった。雪の下には当然ながら土があり、最後には雪と泥とでぐちゃぐちゃになった。ただ綺麗なだけだった白が崩れる様に、幼いながらにえも言われぬ感動を覚えた。

 襟から僅かに覗く白い肌は、その日の雪を彷彿とさせた。
 気が付けば、襟の隙間に指を滑り込ませていた。

「楽」

 名前を呼ばれ、はっとする。
 スラーと視線がかちあう。

「だめだよ」

 襟に触れていた指をやんわりと掴まれ、自分よりもうんと冷たくさらりと乾いた肌の感触に心臓が鳴った。
 スラーの表情はやわらかだった。こどもを叱るおとなのような、愛犬の甘噛みを咎める飼い主のような。そこにあるのは相手を過信しきった余裕と侮りに他ならず、妙な艶と色気があった。

 言い表せない衝動と歯痒さに突き動かされ、ニット越しに歯を立てる。
 覚えたばかりの、肩のもっともやわい部分。たしかに見るなと言われたが、触れるなとは言われていない。勢いに任せて犬歯を食い込ませると、ニットのざらりとした表面が舌に当たった。うっかり肉を食い千切ってしまわないよう離れると、唾液で湿った箇所だけ色が濃くなっていた。

「そんなことある?」

 噛まれた箇所を押さえるスラーは、呆気に取られて目を白黒とさせている。驚きのあまり叱るどころではないらしい。

「…………やー、つい」
「え、なに、歯でも痒いの?」
「ウン」

 適当な相槌を打って目を逸らす。
 楽自身、どうしてそんなことをしたのかわからない。
 面白くない、という感情が基盤にあって、昔ぐちゃぐちゃにした白い景色をまた見たくなった。
 だから噛んだ。
 本能と衝動のおもむくままに。
 けれど地雷を踏まない程度の理性は残っていた。
 理性の欠片さえ消えていたら、今頃スラーに殺されていた。

「え〜、勘弁してよ。あ、そうだ」

 なにかを思い出したように呑気に鞄をあさるスラーを見下ろしながら、楽は自身の歯に触れた。歯の隙間に入り込んでいた繊維を取り除き、ため息を吐く。咥内に残っているのはやわく薄い肉の感触と、毛糸の繊維のみ。血が滲む程度に力を入れたつもりだったが、どうやら足りなかったらしい。

「楽。ビーフジャーキーあるけど食べる?」
「あ〜〜〜〜〜〜〜?」
「いらない?」
「いや、まあ、食うけど。ボスって天然入ってんすか」
「それ楽が言う?」
「いや〜〜〜〜〜〜?」

 腑に落ちない部分もあるが、深く考えるには向かない思考回路をしている自覚はあった。楽は差し出されたビーフジャーキーに歯を立てながら、硬く塩辛い肉を噛み切る。

「今度から歯が痒くなったら言うんだよ。これ、切らさないようにしておくから」
「ウィ」

 ものにもひとにも、それどころか自分自身に対しても無頓着。
 強いて言うなら空腹と退屈が凌げればそれでいい。そういった感覚のまま生きてきた。
 その感覚に、ひずみが生じた。

 ぬるま湯のような空気が漂うある日の午後の出来事だった。



***

「えっ……?」
 LABOの視察を終えて廃工場へと足を運んだ鹿島は、その光景に思わず息を呑んだ。
「ああ、おかえり鹿島。どうだった?」
「おつかれーっす。俺も博物館行ってみてェ〜〜」
「え、いえその、LABO占領作戦の首尾は順調ですが、お二人は一体なにをなさって……?」
 スラーのもとに楽がいる光景は珍しくも何ともないが、問題はそのやりとりだった。本を読むスラーの手にはビーフジャーキーが握られており、スラーの手に握られたジャーキーを楽が噛んでいる。まるで獣に餌を与える飼育員のような取り交わしに、疑問符ばかりが脳を占拠する。
「歯が痒いんだって」
「鹿島さんもジャーキー食うかァ?」
「鹿島、いきなり噛み付かれないよう気を付けてね」
「噛…………ッ!?」
「え、ソレ言うんすか? 鹿島さんに怒られんじゃん」
「今度宇田くんにも言うよ」
「え〜〜〜〜〜。あの人容赦ないからイヤっす」
「しっかりお灸を据えてもらいなよ」
「もうしませ〜〜〜ん。多分」
「多分って。鹿島、ちょっと楽に言ってやってよ。いきなり人を噛んではいけませんって。……鹿島?」
「なんかフリーズしてね?」
「鹿島〜? 大丈夫、疲れてる?」
「鹿島さ〜〜〜〜〜ん。し、死んでる……」
「こら」
「イテッ」

 鹿島はどこか遠くでスラーと楽のやりとりを聞きながら、宇田の不在を心底嘆くことしかできないのであった。










 ____________
 初出:2022.03.08