催花雨







 ※8巻までの情報で書いたものなのでファンタジーです








 途方に暮れるほどに連日続く春の長雨。ヴエールのように街をうすく覆った雲からは、細かい雨粒がしくしく流れ落ちてくる。
 夏のような激しさを伴わない、しずかで、故にこそ際限のない宙からの暴力。
 この時候の雨を、桜の開花を促す催花雨とはいうけれど、むしろ、土壌をゆるやかに腐らせそうな降り方だった。

 夜明けにはまだはやい街。
 平和でまっとうな人間は、雨の音にも気づかず深々と眠りについているだろう。

 季節の変わり目特有の気圧の変化も相俟って、目の奥からこめかみにかけての鈍痛が強く出る。
 痛みに耐えかねて上体を起こすと、汗ばんだ上半身が外気にひんやりさらされた。
 片手で顔を覆い、その隙間から遮光カーテンの向こう側を睨め付ける。ハリボテの平和に惑わされる何も知らない歪な世界。愚かで無知な善人たち。躍起になって善人を騙し、汚らしく肥えていく醜い悪人。

 鈍い頭痛と微かに感じる眩暈。
 何より、一度殺されたときの傷、その裏側が膿んだかのように痛んだ。
 当時激しく血を流し、縫い付けたあとも高熱を伴い身体中を犯した傷は、今となっては単なる白く浮き上がった線だ。触れて痛むこともなければ、当然、膿んだかのような痛みが生じるはずもない。

 忌々しい気分で傷痕に爪を立てる。
 憎悪に近しい感情が、ずる、ずるりと爪先から這い上がってくる。
 粘土が高く、重く、暗く、空虚に堕ちたかのような途方もない嫌悪感。

 脳内で声がする。
 慟哭に似た音。
 死人は黙って死んでろよ。
 声に出さずに吐き捨てて、いつからか止めていた呼吸を意識的に行う。

「いてぇーの?」
 聞き慣れた、呑気で、気楽で、抑揚のない低い声。
 爪を立てていた箇所をやんわり撫でられ、その温度にはっとする。
「……ちょっとね」
「ボスって昔っから雨の日嫌いだよなァ」
「そうだっけ」
 むくりと起き上がった楽が傷痕にまじまじと目を凝らす。互いに夜目が利く。灯りのない暗い寝室でも、楽の目には、傷痕に食い込んだ爪の痕までくっきりと見えているだろう。

「俺はけっこうすきだぜ〜〜」
「へぇ、初耳。雨のせいにして何度もズル休みしてたのに?」
「覚えてねー」
「都合のわるいことはすぐに忘れるんだから」

 太く逞しくなった腕を撫でながら、縫合痕に視線を落とす。俺の傷痕よりもうんと新しい傷痕。まだここにあることさえ奇跡に近しい右腕。
「楽は痛まない?」
 ここ、と縫合部を指でさす。
「あ〜〜〜〜〜? 全然ヘーキだけど」
「さすが」
「何せ“有月くん”に鍛えられたからなァ〜〜」
 当時を思い出しているのか、楽の目が遠くを見つめた。JCC時代を思い返すとどうしたって苦い顔になってしまう俺とは対照的に、楽はむしろ、どこか愉しげですらある。

 フィジカルももちろんのこと、さらにはこのメンタルの強度。
 これを天賦の才と言わずしてなんというだろう。

「俺だったら俺を憎むね。毒を飲まされたり、飢えた猛獣の前に放置されたり、麻薬取引の場に丸腰で行けって言われたら」
「面白けりゃ何でもありっしょ」
「面白がってたの?」
「クソつまんねー授業受けるよりはよっぽど」
「楽って本当に変わってる」
「そーかァ?」
 首を傾げる仕草も表情も、いつでも眠そうな黒目がちの瞳も出会った頃と変わらない。けれどいつの間にか楽の背はずいぶんと伸び、筋肉の厚みが増し、純粋な力勝負なら敵わなくなっていた。

 こどもの成長はおそろしくはやい。
 まばたきをする間に楽は少年期を走り抜け、いつのまにかすっかり青年期に差し掛かっている。
 頼もしいが、けれどどこか物悲しい。からだの奥にすぅすぅと木枯らしが吹く心地だった。

「あ、そうだ。ニベア塗るか〜〜?」
「うん? なんでいきなり」
「痛くて起きたんだろ?」

 ベッドサイドに落ちている鞄から青い缶を取り出した楽が、返事を待たずに蓋を開けた。独特で馴染み深い甘いにおい。

 傷痕に生じたのは決して物理的な痛みではない。
 そう理解はしていたが、どこか浮き足立ったように白いクリームをたっぷりと掬う楽を見ていたら、説明するのもおっくうになってきた。
「まぁ、いいか。……じゃあお願い」
「あ〜〜い」

 ひやりと冷たいクリームが傷痕にそって塗りたくられ、乾燥でつっぱっていた皮膚がやわくほぐれていく。明らかに掬いすぎたクリームは傷痕の範囲だけでは伸びきらず、楽が「ヤベー、これどうすりゃいんだァ?」と眉を顰めた。
「楽しそうだね」
「いっぺんやってみたかったんすよね。怪我すんのはいっつも俺だったし」
「ああ、たしかにそうかも。それ、余るだろうから、そうしたら背中に塗って。もったいないし」
「あ〜〜〜い」
 首筋、胸、脇腹、うつ伏せになり背中。体温でぬくまったクリームが薄く伸ばされていく。あたたかなてのひらに撫でられ血行がよくなったのか、気づけば目の奥の鈍痛まで落ち着いていた。



 ある程度塗り終えると、楽がのっそりと背中に覆い被さってきた。やわらかくぶあつい筋肉と、高すぎるくらいの体温。
 指先をぎゅ、ぎゅ、と揉まれる。てのひらに残っていたらしいクリームで、ささくれた爪のまわりが保湿された。
「楽、おもい」
「ウン。また体重増えてた」
「まだ大きくなるの? 勘弁してよ、つぶれちゃう」
「ボスはさ〜〜、ヒョロくなったよな。相変わらずつえーのに」
「まあ、闘い方には色々あるからね」
「テクニシャンっすもんね」
「っふふ、まあね」
 明らかな含みを込めた言い方が楽らしくなくて笑ってしまう。こういうひとつひとつの言動からも、すっかり昔の楽ではなくなったことを思い知る。

「あい」か「むり」しか言わず、「ありがとう」も「ごめんなさい」も知らず、「おかえり」と「ただいま」のやりとりに首を傾げていたちいさな楽。

 親と環境に恵まれなかったが故に感情が未分化なまま育ったのか、生まれながらにそもそも感情が希薄だったのかはわからない。

 けれどちいさな楽を拾い、共に過ごす中で、楽はたしかに笑うようになった。
「うづき」とどこか舌ったらずに呼んでいたはずが、鹿島や宇田くんの影響からか、いつしか「有月さん」と呼ぶようになった。拙いながらも敬語を覚えた。おかえり、といえば、ただいま、と返事をするし、何かをしてもらったら礼を言える子に育った。

 肩に乗せられた楽の頭を撫でる。硬くて真っ直ぐな、俺とは正反対の髪。
 いつまでもこどもあつかいすべきでないことはわかっているけれど、撫でてと言わんばかりに擦り寄られたら、考えるよりも先に手を伸ばしてしまう。もしも宇田くんが生きていたら、「甘やかしすぎっすよ」と言ってくれただろう。けれど宇田くんは死んでしまったから、楽を甘やかす俺を咎める友人はいない。それもあり、なんとなく、線引きがより有耶無耶になっている自覚はあった。

「うづきが俺を拾ったのって、ヤベー大雨の日だったじゃん」
 耳元でゆったりと話しはじめた楽の声は、どこか舌ったらずで、とろとろと頼りない。半分眠りこけているのか、むかしみたいに「うづき」と呼んでいる自覚はないだろう。
「うん。真夏の夕立のなか、泥だらけになってたね」
「あ〜〜〜、たぶん? 大雨、ってとこだけおぼえてる」
「八月のね、うんと蒸し暑い日だったよ。その頃から楽は鬼みたいにつよかった」
「けどうづきにボロ負けした」
「でも、何回転ばせても、諦めずに起き上がってきた。楽しそうに、相撲をとって遊ぶみたいに」
「へェ。まー、だからかもなァ。雨がけっこうすきなのって」
「そんな理由で? まあ、楽らしいといえば、そうか……」
「うづきはなんで? なんで、雨がきらいなんだー?」
 ごろりと隣に寝そべり、大欠伸をした楽が言った。起きるにはまだ早すぎる時間であることを思い出す。耳を澄ますと、催花雨はまだ降り続いていた。さっきとはうってかわった、子守唄のような静けさで。

「雨が降ると、土壌が潤い、草木が茂り、花が咲くのが常だろう」
 わかりやすくクエスチョンマークを浮かべた楽に身体を向け、欠損した耳を指先で撫でる。
「でも、俺の人生では、雨は災厄をもたらすことばかりだった。雨が厄を呼び込んだのか、災厄の日に偶然いつも雨が降っていたのかはわからない」
「ほぉん」
 わかるようなわからないような、という曖昧な相槌を打つ楽の額に手をすべらせる。前髪を払うと、すべすべとしたまるい額が覗いた。そこはじわりと汗ばんでいて、とろりと落ちかけた瞼は、いまにも眠気に負けるだろう。

「でも、楽みたいないい子に出会えたんだから、それで相殺かもね」

 瞼に触れて、「おやすみ」と小さくささやく。

 夜明けが近い。
 雨は静かに降り続いている。








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 初出:2022.03.18