帰るよ
※〜days84/8巻までの情報で書いたものなので最新刊との整合性がとれない箇所が複数あります
ペダルを片方の足で踏み込むと、入れ替わるようにもう片方のペダルが上がってくる。上がってきたペダルをまた踏み込み、もう片方を踏み込み、また踏み込み、の繰り返し。自転車の運転は一見すると単調な作業のようでいて、なかなかどうしてむずかしい。ふたり分の体重を乗せたタイヤは否が応でもコンクリートに沈み込むし、錆びたチェーンはきぃきぃ鳴りながら摩擦を生じさせている。車体は思うように真っ直ぐ進まないし、カーブは足をつかないと曲がれない。まだ小さかった楽がいとも容易く乗りこなしていたからか、心のどこかで侮っていたらしい。
「チャリ漕ぐのヘタっスね」
わざわざ振り返らなくとも、その声色から楽が呆れていることが読み取れた。俺を後ろに乗せていても軽やかに自転車の運転ができる楽からすれば、荷台からいつ振り落とされてもおかしくない不安定さや、カーブのたびに俺が足をつくこと、ゆっくりゆっくり進むことに理解ができないのだろう。
何せ楽は、自転車を買ったその日のうちに乗りこなせてしまったから。支えようかと声をかけた俺にも補助輪にも頼らずに。楽がサドルにまたがりペダルを踏み込めば、自転車は危うげなくすいすい進んだ。いきものが生まれながらに呼吸できるのと同様の容易さで、楽が小さな拳で岩くらいなら簡単に砕けたのと同じくらいの自然さで。
五分ほど試運転したところで「後ろに乗って」、と言われ、さすがに無理があるだろうと渋ったけれど、当時二十センチ以上身長差のあった俺を荷台に乗せても楽は何でもないようにペダルを踏み込み、嘘みたいなスピードで、カーブでも足をつくことなく、最寄りのコンビニへと漕ぎ着けた。
「タクシー代、コーラでいっすよ」
とにんまり笑った小さな楽に、
「コンビニまで、なんて頼んだ記憶ないけどなあ」
と肩をすくめつつ、自転車をマスターした記念にホットドッグまでつけてしまった。その数日後には鍵をかけ忘れたせいで自転車を盗まれてしまい、
「盗んだやつとっつかまえて殺していい?」
などと物騒なことを言う楽をたしなめるのには骨が折れた。
「鍵をかけ忘れた楽にも非はあるのだから、盗んだ相手を見つけてもせめて半殺しじゃない?」
悩んだ末にそんな平和的解決案を提示し、数時間後に楽は自分の自転車を連れて帰ってきた。盗んだ相手をどうしたのかは聞かなかった。そもそも興味がなかったし、まあ、目には目をとハンムラビ法典にも書いてあるわけだし。
「はじめてなんだよ。意外とたのしいね」
「チャリ漕いだことないとかありえるんすか?」
「ね。バイクや自動車や飛行機なら訓練で一通りこなしてきたけど、考えてみれば、自転車に乗る機会はなかったなーって」
「あーー、バイクいっすね。いつか乗ってみてえ」
「維持費がかかるから
「まあ困ってねえしな〜〜」
「うん。俺も楽が後ろに乗せてくれるから困ってないし、……おっと」
「っぶねー」
痛んだコンクリートを踏んだせいで車体が跳ねた。揺らいだ体幹に力を入れ直し、曲がったハンドルの主導権を取り戻す。ずいぶん慣れてきたと思うけど、楽がダメ出しをするようにあからさまにため息を吐いた。
「おっことさないでくださいね。今俺バランス感覚にぶってるんで」
「片腕なくなっちゃったもんね」
「指と耳もなー」
「一応持ち帰って来たから、鹿島が何とかしてくれるよ。多分ね」
「鹿島さんよく自分の腕とか脚とかくっつけてるもんな〜〜」
「そうそう。だから、今度からもう捨てちゃダメだよ」
「あ〜〜〜〜〜〜い」
緻密な計画をもとに実行した殺連関東支部への襲撃は失敗に終わった。本来であれば跡形もなく消し去る予定だった。関東支部に勤める職員も、殺し屋も、武器も、データも、建物も。すべて。
しかし世の中そううまくはできていないらしく、篁さんの介入により撤退を余儀なくされた。坂本くんとの再会もまた然り。死刑囚のうちのひとりを懐柔し、そこから情報を引き出すとは予想だにしなかった。あの坂本太郎がひとを手懐ける術を身に付けていたとは。にわかに信じ難いが、事実は事実だ。殺し屋を引退してからの彼の人生は、どうやら殺連に飼われていた頃とはまったく違うものらしい。
宇田くんがいなければ、手負いの楽を抱えて逃げ切れていたとも言い切れない。楽に次ぐ長さの付き合いになる友人の死は自分にとっても組織にとっても痛手だが、あいにく感傷に引き摺られたまま生きていけるようにはできていない。正しくは、そのようになってしまったのだろう。脳の作りも、心の在り方も。
楽もまた俺と同様に、別れを惜しむそぶりをかけらも見せない。死別は永遠の空白が確約されることと同義だが、楽にはまだむずかしいのだろう。あるいは生涯を通し、死に付随する感傷を知らずに生きていけるのかもしれない。楽のその無垢な純真さはある種の美徳であり、羨ましさすら覚える。
「機嫌いっすね」
「そう?」
「おん。なんか声ふわふわしてる」
「楽がそう感じるんなら、そうかもね」
「あのサカモトってやつのせい?」
「どうだろう、それもあるかも。同窓会みたいでちょっと楽しかったし」
「ふーん」
「けど、宇田くんは死んじゃったし、楽も傷だらけだし、せっかくの計画は失敗だし。たのしいだけじゃないよ」
「あ〜〜〜〜〜」
間伸びした声が心地よく響く。楽にはきっと、何と答えればいいのか分からないのだろう。正解を見つけられない問いに根気良く向き合える性格でもない。そう言い切れるのは、宿題も、自由研究も、読書感想文も、一度だってやり終えた試しがないから。面倒くさがりで、自分のしたいことしかしたくなくて、わがままで、自由で、それでも俺のあとについてくる。どれだけ危険な仕事でも、下手すれば死ぬかもしれないような無茶な訓練でも、多勢に無勢な潜入でも、ちょっとした買い出しでも。それが楽だ。小さかった楽はみるみるうちに立派に育ったけれど、中身はほとんど変わっていない。楽は楽のまま大きくなって、いまだに俺のあとをついてきて、気付けばふてぶてしく隣にいる。
「まあ、たのしいだけじゃないけど、よかったこともあるよ」
「チャリ乗れるようになったこととか?」
「あ、ちょっとばかにしてるでしょ」
「してないっすー」
「ニヤニヤしてるくせによく言うよ」
「背中に目ぇついてるんすか」
「うん。鹿島につけてもらった」
「マジか。ずり〜〜〜〜〜」
「っふ、うそだよ」
「うわうそついた。泥棒じゃん」
「怪盗スラー? いいね。殺連をリセットしたら、悪い奴らから宝物を奪う組織でも作ろうかな」
「俺ルパンには興味ないんすけど」
「えー。楽がいたら百人力なのに」
「用心棒として俺を雇うほど弱くねーじゃん」
「俺が
「あ〜〜〜〜〜?」
「俺が自分を見失わずにいられるのは、楽のおかげってこと」
きっと、言っても楽には分からないだろう。
楽は死に付随する感傷を知らず、無垢な純真さをたずさえ、小さかった頃のまま、それでもたしかにおとなに近付いていっている。楽は強くなった。幼いながらに持て余していた荒々しい殺戮衝動はずいぶんと使える形になってきた。まだまだ危なっかしい部分はあるものの、見惚れるほどになめらかになってきた。楽の殺意をこのまま無駄なく研ぎ澄ませていけば、俺くらい容易く殺せるようになるだろう。
何せ、坂本くんに勝るとも劣らない天賦の才に恵まれているのだから。
「ボスがボスじゃないときなんてあるんすか」
「……どうかな」
我を忘れ、記憶が朧げな瞬間があると言ったら、楽は何と言うだろう。
坂本くんと対峙し、言葉を交わし、見るに耐えない甘っちょろさに辟易するなかで、いつの間にか、当時
自分自身と世界とを隔絶する不透明な膜に思考の主導権を奪われ、死に際に酷似した暗闇に視界が閉ざされ、全身の感覚を失った。
──ボス! さっさとずらかろーぜー
その刹那に俺の肩を引き、現実に引き戻してくれたのは楽だった。
死が何たるかを知らず、斬り落とされた自身の腕をも瞬時に武器にし、篁さんに向かっていく楽に「帰るよ」と告げたのは自分の方なのに。
無茶をする楽をこれまで散々連れ帰ってきたけれど、今回ばかりは楽のおかげで帰路につけた。
楽とはスラーの名を持たなかった頃から一緒にいる。有月としての僕も、
「なあ、このままだと追っ付かれんじゃね? さっさと帰ろうぜー」
のんびりとした声で急かされる。これだけの重傷を負ってもなおけろりとしているのだから末恐ろしい。
「そうだね、急ごうか」
いっとう強くペダルを踏み込み、路地裏を抜けて鹿島の待つ倉庫に向かう。スピードに乗れば、あとはもう障害物を避けて進むだけだ。ペダルを踏み込まなくても慣性に則り進む楽の自転車。普段後ろに乗せてもらってばかりだったから知らなかったけど、たまにはハンドルを握ってみるのも悪くない。楽の方を一瞥する。荷台から落ちないようコートの裾を掴み、感心したようにこちらを見ていた。
「ボス速ぇ〜〜〜〜きもちいーーー」
「後ろに乗るのもなかなかいいだろう?」
「たまにはいっすね」
「でも、次からはまた楽に運転手を任せたいな」
「ふーん。別にいいけど、何でだぁ?」
首を傾げる楽から目を逸らし、少しだけ声のボリュームを落として本音を漏らす。
「だって、自転車漕ぐのって想像以上に疲れるから」
「っは。ボスらしいっすね」
何がそんなに可笑しいのか、めずらしく楽が笑った。
表情が大きく変わらないため分かりにくいが、どうやら面白がっているらしい。
それにつられたのか、肩の力がゆるりと抜けたように感じた。
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初出:2022.06.22
楽スラにはまった原点