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「すごい寝癖だね。ライオンみたい」
 そうつぶやいて視線を上げた有月は、活字の並ぶ手元の文庫本から興味の対象がうつったのか、楽から目を離さない。半分寝ぼけたままの楽はひとまずおおきく欠伸をし、首の後ろを掻くついでに自身の髪に触れてみた。シャワーを浴びたあとろくに髪を乾かさずに寝るのはいつものことだが、加えて寝相がよくなかったらしい。どういう体勢で寝ていたかなんて知る由もないが、ふだんは前髪ごとうしろに掻き上げている髪が、四方八方に跳ねている。
 ライオン。と言われれば、たしかにそうだろう。かたくまっすぐな髪は重力にこれでもかと逆らい、がしがしと乱雑に掻き回してみてもまだ跳ねる。あまりない寝癖のつきかたに、有月が感心するのも無理はない。
「あー。これ、水かぶんないとどうにもなんないっすね」
「ちゃんと乾かしてから寝ないから」
「鹿島さんみたいなこと言わないでくださいよ」
 軽口を返す楽は周囲を見渡し、いつもであればとっくに「今何時だと思ってるんですか」「顔を洗いなさい」「だらしないから着替えなさい」とお決まりの小言を飛ばしてきているはずの鹿マスクを探す。しかしどうしたことか、それらしき影もツノも見当たらない。
「他の奴らは?」
「鹿島は買い出し、宇田くんは面接」
「あー、宇田さんの面接、今日かあ」
 殺連支部への潜入目的で、宇田自らが入社する。大胆でリスキーな作戦とも取れるが、宇田の経歴と能力をもってすれば造作もない。どうせしれっと内定もらって、一切怪しまれることなくどっかの部署に配属されて、ちゃっかり同僚と仲良くなって飲み会なんかも参加したりして、滞りなくスパイの役目を果たして帰ってくるのだろう。
「頭と家柄がいいって得だよなあ」
 楽は二度目の欠伸まじりにそうつぶやき、こいこいと手招きをする有月に従う。バネが傷みはじめたソファに腰を下ろすと、二人分の体重のかかったそれがぎしりと軋んだ。場末のラブホのベッドみたいな、そんな、情けなくて安っぽい音である。
「どんな寝方したらこんなふうになるんだい」
「さー? 別に、フツウだったと思うけど」
「後ろから暴風にあおられ続けたみたいな跳ね方だね」
「俺の部屋だけ嵐だったかもしんないっす」
 よほど面白いのか、それともただの暇つぶしか。有月の指が無遠慮に楽の頭に触れ、毛の流れに沿って離れていった。手櫛で整えるためでなく、ただ寝癖の形をたしかめるだけの雑な梳き方。ともすれば毛先を引っ張り、離したときに反動でぴょんと跳ねる様が、いっとうお気に召したらしい。何度か繰り返される興味本位の戯れと、それでもなお重力を無視する頑固な寝癖。楽は自身の髪に手を伸ばす男を一瞥し、どうせ遊ぶんならもっと面白そうな顔をすればいいのに、と。そう思った。
 いつまで続くのか分からないお遊びに、いい加減飽きてくる。酸素は回ったから欠伸も出ないし、睡眠で消費したエネルギーを補充したいと腹が鳴る。サイドテーブルに置いてある飲みかけのコーヒーをとりあえず拝借し、マグカップに半分ほど残っていたそれをぐいと飲み干す。炭酸が入っているわけでも甘くもない、ただの苦くて黒い水。喉の渇きがマシになればと思ったが、むしろ裏目に出たということを、舌先に残る苦味が告げている。
「美味いもんじゃないっすね」
「勝手に飲んだのは君だろう」
「喉からから。なー、ボス、もういいっすか?」
「ん、もうちょっと」
 もうちょっと。とは、あと何分を指すのだろうか。「俺の気が済むまで待て」の意であることは理解できるが、手持ち無沙汰は好きではないし、そもそも、そんなに辛抱強くもない。楽のそういう性質を知ったうえで、それでも有月に言われれば不承不承ながらも待つことを分かっていての、「もうちょっと」。
 どうやらこの男は、寝癖の手触りも含め、楽が言いつけを守ってじいっとしている状況を愉しんでいるらしい。
 こんなことなら、二度寝すればよかったな。

 楽は退屈凌ぎに目の前でふわふわと揺れる白い髪を見るでもなしに眺め、見慣れたそれがどんな手触りなのかを知らないことにふと気付き、手を伸ばした。
「なに、仕返し?」
「仕返しっつーか、好奇心」
 有月の耳の横から指をさしこみ、自分がそうされたように毛の流れに沿って梳く。癖のつよい、自身と比べると幾分かやわらかな髪。とはいえ見た目ほど軽いわけでもないし、いつかに触れた女の髪のように入念な手入れが施された艶があるわけでもない。シャンプーの香りが微かにした気がするけれど、同じものを使っているのだ。好き勝手掻き撫でられた自分の髪の匂いかもしれない。
「ワックスとかつけないんすね」
「滅多に使わないかな。セットするのは、必要な日だけ」
「あ〜。ボスのオールバック、いいっすよね」
「俺は、あまり好きじゃない。視界が開けて、落ち着かない気分になるというか……」
「ふーん。ボスにも、そういうとこあるんすね」
 有月の襟足をなぞっていた指を、前髪に持っていく。サイドやトップと比べると長めの前髪は、ゆるやかに波打ち、いつだって目元に翳を落とす。それを許可も取らずに無造作に掻き上げると、迷惑そうに細められた色素の薄い双眸と、眉間に寄る皺があらわになった。
「やっぱ、いいっすね。すげーエロい」
「楽のその感覚、あまり一般的ではないと思うな」
「けど、褒め言葉っすよ」
「口説き文句としては、落第点」
「きびしー」
 指に絡めていた前髪から手を離すと、目元はあっけなく隠れてしまった。まったく普段通りの、見慣れた、翳った瞳。有月は楽の寝癖への関心が失せたのか、ソファで所在なさげに伏せられている文庫本に手を伸ばした。相変わらず気まぐれで、思わせぶりで、飽きっぽい男である。とはいえ今更何を思うこともない。月日の流れは、だいたいのことを慣れさせる。
 楽はソファの背もたれに体重を預け、視線だけを隣に残した。
 耳がじゃっかん薄いことも、喉仏や鎖骨がうつくしく浮き出ていることも、あばらを覆う皮膚が病的に白くやわいことも、無駄な脂のない腹部と背中がしなやかな筋肉に覆われていることも、内腿だけは吸えば痕が残りやすいことも、知っている。のに、髪の手触りや、前髪を掻き上げられると迷惑そうに顔を顰めることは、知らなかった。もっといえば、そのからだの内側に触れたことさえあるのに、だ。
 有月の口元に手を伸ばし、下唇を指で押し開く。濡れた色の粘膜と、丁寧に並べられた白くて硬い歯。

 寝癖を好き勝手触らせてやったわけだし、と、顔を寄せる。
 けれども返ってきたのは「気分じゃない」、というにべもない一言と、口元を本で隠すという、なんともつれない反応だった。








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 初出:2023.01.15