宇宙人め、よくも
こどもが嫌いだ。
蜜柑は足元で泣き喚くクソガキを見下ろし、嫌悪感と不快感で肌の表面を削がれる感触に舌を鳴らした。威圧的に目を細め、低く深いため息を吐き、首を傾ける。されど泣き喚くクソガキには、こんなわかりやすいシグナルさえ届かない。殺意が物理的な干渉力を持つのなら、心臓を貫く程度には、露骨に睨みつけたというのに。
だからこどもが嫌いだ。大嫌いだ。
ついさっき、今朝の気分に合った小説を書店で選び、一冊だけ購入した。書店のロゴの入った紙袋と、併設されているカフェでテイクアウトしたコーヒー。いつもであれば自宅まで持ち帰るのだが、買ったばかりの小説の、そのまあたらしくやわらかな紙を、めくりたい気持ちがつい急いた。だれにも邪魔されることなく、まだ触れたことのない言葉を追い、それ以外を排除した世界にひとり揺蕩う心地良さを求める衝動を、抑えきれなかったのだ。心地よい秋晴れで、雲が多かったからだろうか。しばしば横切る緑地公園の端、溜池のほとりの、緑道からやや外れた殺風景な広場で足が止まった。遊具も砂場も自販機もなく、古いベンチが設置されているだけのしめった木陰。蜜柑は、気付けば砂埃でざらついたベンチに腰を下ろし、紙袋に貼られた黄色いテープをはがしていた。
はじめて手に取る作家の作品だが、殊の外蜜柑の琴線に触れた。ユニークな文体も、言葉として理解できるのにどうしてだか意味不明なストーリーも、蜜柑を愉快な気分にさせた。
作中に、「どこまでいっても、宇宙には何もなかったし、それは何かがあるにはあったのだが、そのほとんどが空っぽだった。」とあるけれど、まさにこの作品のことではないかと心のなかで相槌を打った。
バナナ型宇宙人を夢想し続ける無人探査機が、その高度機能中枢が、どこにいきつくのかを見届けたかった。
涼やかな木陰は宇宙の色に、秋風は無人探査機の軌道にゆがむ真空になっていた。束の間、蜜柑も空っぽの宇宙空間に漂っていた。
そしてその宇宙空間をいっしゅんで破壊し、蜜柑を現実に引き戻したのが、足元で泣き喚くクソガキである。探検に夢中になって保護者からはぐれたのか、蜜柑の座るベンチの真後ろ、木と雑草との陰から飛び出してきたクソガキは、勢い余って蜜柑の背中にぶつかり、おどろいたついでにコーヒーをこぼし、慌てふためき足をもつれさせ尻餅をついた。こぼれたコーヒーでスラックスが濡れた蜜柑は咄嗟に立ち上がり、クソガキを見下ろす格好になった。蜜柑の背丈はクソガキの倍以上あり、人好きのする笑顔など当然持ち合わせていないのだから、一拍置いたのち、クソガキがギャン! と泣き出すのは道理であった。
蜜柑は、こどもが嫌いだ。
五月蝿くて、傲慢で、わがまま。世界の中心は自分だと思い上がり、あたかもそれが当然のように自己主張する。未熟な語彙で拙く下品な言葉を並べ、唾を飛ばし、伝わらないと自分が被害者であるかのように傷ついた顔を見せ、つぎの瞬間にはごうごうと怒り出す。みじかい手足を不格好にばたつかせ、地面に寝転がり、泣き疲れると、ぷつんとねむる。
だから蜜柑にとって、こどもはほとんど未知の生命体であり、極力関わりたくない厄介な宇宙人といっても、過言ではない。
保育士と共にぞろぞろ列をなす幼児を見かけるたびに、地球外生命体のパレードに鉢合わせた気分になる。公園で砂埃にまみれ姦しく騒ぐ小学生たちを見れば、独自の超音波で会話する未知のコミュニティに紛れ込んだ落ち着かなさを覚える。小説のなかの出来事であれば、その新鮮な光景にこころはずむ感覚を得られるが、それが現実世界での出来事であると思い知るたびにうんざりする。うんざりして、うっかりやらかさないよう、目を逸らす。蜜柑は殺し屋を生業としているけれど、エゴイズムに陶酔した殺人鬼ではないからだ。
コーヒーで濡れたスラックスの生地をつまみ、太腿からはがす。今日に限って、蜜柑が選んだスラックスは、黒ではなくグレーだった。クソガキは依然泣き続けている。妙ちきりんな状況に、こめかみのあたりがにぶく痛んだ。
立ち去ろうかとも考えたが、小説内の無人探査機の行方が気がかりだ。加えて、独特のテンポで紡がれるほとんど詩に近い独白の観劇に、一刻も早く戻りたかった。そしてなにより、しめっぽいが涼しいこの場所は、手元の小説を読むのに最適な場所なのだ。しかしクソガキの発する泣き声はあまりに騒々しく、相応しからぬ要素だった。
「うるさい、泣くな」
低く命令するが、クソガキには届かない。ふざけるな、泣きたいのはこっちのほうだ。
なりふり構わず泣くせいで、クソガキの背負うリュックがずり落ちた。
緑色のリュックに視線を遣ると、見慣れたタンク式機関車のマスコットが付いていた。
「……パーシー」
蜜柑がそう言ったのは、無意識だった。パーシーは、かわいいタンク式の機関車で、檸檬のお気に入りの機関車だ。クソガキも、檸檬と同様に機関車トーマスを愛しているのか、パーシーの名前を聞いた途端に目をまるくした。よく見ると、Tシャツの胸元にも、パーシーがプリントされている。檸檬の言う通り、パーシーはこどもに人気らしい。
蜜柑は咳払いをしたのち、「おい、パーシー。パーシーは、『やんちゃでいたずらがだいすき』だが、『とてもいっしょうけんめいにしごとをする』機関車なんだろう。脱線事故を起こしても、車庫に戻るくらいの気概を見せたらどうだ」と淡々と諭し、しっしと手を振った。クソガキはしゃくりあげながらも、意識を蜜柑に向けている。
蜜柑としては、それとなく「失せろ」と伝えたつもりだった。けれどクソガキは、目の前の大男が機関車トーマス好きの同志と勘違いしたのか、ついには目を輝かせ、ぐしゃぐしゃの顔をほころばせた。
「ねえ、ねっ、キガイってどんな意味?」
「そんなところまで、パーシーに似てるのか。脱線しても、故障しても、あきらめずに進む強さのことだ。わかったら、おまえもさっさと起き上がって、どっかに行け。俺はいま、忙しいんだ」
檸檬が観ていたアニメで、パーシーがしばしば「──ってどんな意味?」と仲間の機関車に訊ねていたことを思い出す。檸檬はそのたびに「パーシーはな、知らないことを、ちゃんと学ぼうとするやつなんだ。いまはまだ未熟だから、からかわれてばかりだが、役に立つ機関車になるための努力を惜しまない。どうだ、いじらしくて、泣けるだろ」と、何故か得意気に語っていた。
「パーシーがっ、脱線すると、トーマスくんがいつもたすけてくれて、んで、きょうはね、おれもトーマスくんとの冒険でっ。ソドー島の元気をいっぱいにする、宝探しの旅でね。そんっ、んでっ、トーマスくんは、ハヤオくんていうんだけど、おれのトーマスくんで、トーマスくんのあかしを持っててさっ。んでさっ、おれのパーシーのあかしは、これで、トップハム・ハット卿は、ママなんだけど、っち、ちゃんとっ、黒い帽子をねっ。んで、パーシーは、脱線したら、いつもトーマスくんがたすけてくれるからさあっ」
クソガキが滔々と喋り出し、面食らう。舌が短いのか滑舌が甘いうえに、しゃっくりをはさむせいで、さっぱり意味がわからない。
目元を引き攣らせた蜜柑がうなるも、要領を得ない演説は延々と続いた。
こどもじみた表情でトーマスを語る檸檬と、クソガキが重なる。機関車トーマスを愛する連中は、みんながみんなこうなのか。
檸檬はなにかといえばトーマスの話を持ち出す上に、例え話の大半は機関車たちのエピソードだ。人生の学びも教訓もすべてそこから学んだような思い入れをにじませ、仕事がどれだけまずい状況でもその姿勢がぶれたことはない。
檸檬のそのマイペースな言動はしばしば蜜柑を苛立たせるが、言ってることは存外的を射ていたりする。蜜柑は、檸檬のその裏表のないわかりやすさを、直接言いはしないが気に入っていた。知り合ったばかりはの頃は、檸檬を宇宙人かなにかだと半ば本気で思っていたのにも関わらず。
「──だからね、マードック。わかった? ねっ、マードックってば」
「おい。誰が、なんだって?」
「だから、つよそうで、おおきくて、シーっとしてるから、マードックなんだってば、おれ、さっきそう言ったじゃんか」
聞き流しているうちに、勝手にクソガキの仲間にされていたらしい。その図太さとふてぶてしさ、切り替えの早さに、怒りを通り越して呆れ返る。
「違う。俺は、マードックじゃない」
マードックについて、檸檬が説明していた内容を思い出す。「かっこいいぞ、マードックは。『どうりんが10こもついたとてもおおきなきかんしゃです。とてもおちついていて、しずかなばしょがすきです』、だ。ちなみに、怒らせるとかなりまずい。そういうところは、蜜柑にそっくりだな。けど、おまえはマードックじゃない」そう言って、最近手に入れたシールを見せびらかしてきた。「あのな、双子の黒い蒸気機関車は、こいつらしかいねえんだ。おれが兄で、おまえが弟。なんせ、俺のほうが先輩だからな。いい加減覚えろ、何度も説明してやっただろう。丁寧な言葉でしゃべる、除雪作業が得意なテンダー機関車で、物知りな──」
「『ダグラス』、と言ったか。俺は、あれらしいからな」
蜜柑は表情をゆがめ、他人事のような言い方をしたが、いまさらだった。檸檬の前では機関車についてまったく覚えていませんという顔をしている分、ばつが悪かった。このことを檸檬に知られたら、かなりやばい。六文字だ。
「じっ、じゃあ、じゃあさ、ドナルドもいるってこと?」
「……ああ。今頃車庫で、ぐうたらしてるんじゃないか」
歯の抜けた顔で、クソガキが笑った。屈託のない、無邪気な笑い方だった。
檸檬と蜜柑は双子ではないし、血縁関係も当然ない。コンビで仕事をしているだけの、単なる同僚である。しかし檸檬は、知らない相手に出会うたびに、「俺はドナルド、そいつはダグラス」とでたらめを言う。檸檬はよほどその口上を気に入っているらしく、最近ではどこか得意気ですらある。
もしも檸檬の話に乗ってやれば、このクソガキとおなじように笑うのだろうか。
蜜柑は深く息を吐き出すと、ベンチに腰掛け、クソガキの機関車トーマス語りに黙って耳を傾けた。
あっというまの休日だった。
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初出:2023年某日
すなおじゃなかったわけだ