その色の名前は
わたしの歴史は、きっとそこから始まったのだと思う。
昼休みの喧騒の中、わたしはいつものように独り娯楽小説の頁をめくり続けていた。
開け放たれた窓から入ってくる、湿り気を孕んだ風が教室の空気をかき混ぜている。耳を傾けると名前も知らない鳥が忙しなく鳴いているのがわかった。あなたの名前はなんていうのですか、問うたところでなんの意味もないが、わたしは知れたらならうれしいとおもう。
「___、____!」
ささやかな環境音にノイズが混じる。なんの音だろう。わたしはまだ、自分が誰かに話しかけられている可能性を考慮していなかった。その確率はわたしの中で、鳴く鳥が突然日本語で話しかけてくるよりも低かった。
「___さん、月詠さん」
自分の苗字が頭に入ってきて、肩がびくっと跳ねる。教師でもない人間にそれを呼ばれることはめったにないので、響きが妙に新鮮に感じた。
違う。そんなことを考えている場合じゃない。呼ばれたらなにか応答しなければいけないはずだ。
「………あぅ」
絞り出されたのは、その二音だけだった。流石にまずい、このままだと話の通じない人間になってしまう。
「月詠さんだよね?合ってるかな……」
やっと、顔を上げる。まず目に入ったのは、吸い込まれるように輝く琥珀色の瞳。水色がかった髪が、光を透かして揺れている。
「あ、合ってます」
「よかった!ねえ、下の名前はなんていうんだっけ」
クラス掲示の名簿は随分前に撤去されていたなと、思い出す。
「る、流明……流れるに、明るいって書きます……はい」
わたしのぎこちない自己紹介を、目の前の彼女はにこにこしながら聞いて、それから突然わたしの手を取った。
「月詠流明さん!ねえ、よければちょっと話さない?月詠さんのすきなところに移動していいから」
「え、え」
「どこがいい?あたし、月詠さんのことが知りたいの」
目がきらきらしている。それはわたしと住む世界が違うことの証で、なのになんでこのひとは、わたしなんかに興味を持っているのだろう。
「あぇ、図書館とか…どう、ですか」
「いいねいいね!あたしも図書館すきだよ、一緒にいこ!」
取られた手が力強く、しかし優しく引かれる。わたしは読んでいた本のことも忘れて、後を追いかける。
「あたし、御伽紗夜!今から二十分は、取り敢えず友達ってことにしてくれない?」
それは、余りにも鮮烈で、強い色彩を帯びていて、眩しい出会いだった。確か、六月二十五日の出来事だったと思う。
図書館へと繋がる渡り廊下を手を引かれながら進む。わたしたちの通う公立中学校では、図書館が別棟に建っていて、そこは訪れる人も少ない、地上の孤島と化していた。
わたしはその図書館のことを気に入っていた。人がこないのは会話が苦手なわたしにとってとても好都合で、休み時間や放課後はあの窓辺の席か図書館で過ごすのがわたしの日常だった。
それが、こんな風に誰かと、しかもなにか話す為に行く日が来るなんて。
すのこの端に靴を揃えると、御伽さんは静かに入口の戸を開けた。彼女はとても弁えていて、図書館で過ごす人間が大抵静寂を好むことをよく理解しているようだった。
「会話OKな方の閲覧室でいい?」
「は、はい」
大きな一枚板のテーブルの、端に向かい合って座る。御伽さんは膝に手を置いて、微笑みを湛えながらこちらを見ていた。
「名前は聞いたもんね、じゃあ…どうしよう、誕生日とか、聞いてもいい?」
「え、あ、あの、十月二十七日……です」
なにか音を挟まないと言葉が発せない。わたしの口は、どうにも上手く動かない。
「もうちょっと先なんだね!あたしは七月二十四日、もうあと一ヶ月もしたら誕生日なんだ」
彼女は自己開示と質問を交互に繰り返し、わたしが怯えないように細やかな配慮をしながら、わたしという人間を探っているようだった。
「そうだ、月詠さんって本がすきでしょ」
数回問答を繰り返した後に、切り出された話題は、わたしにとって唯一戦えるフィールドといっても過言ではなかった。
「は、はい……人並みに」
「だよね!いっつも本読んでたから、あたし遠くから見てたの」
「え、そうなんですか」
となると、御伽さんは、今日初めてわたしに目を向けた訳ではなかったのか。
人の視線に疎すぎる自分が恥ずかしくなる。そして、御伽さんの視野の広さにも驚く。
「月詠さんはどんなジャンルを読むの?今日読んでたのは、作者さんの名前ならわかるんだけど、どんな本だった?」
「あ……大衆小説がメインなんですけど、じゅ、純文学にもたまに触れますし…人文系とか、入門なら学術書も多少…」
しまった、少し喋りすぎてしまったかもしれない。普段全く会話というものをしないせいで、勝手がわからない。
それなのに御伽さんは、うんうんと頷いたあと、ふふ、と小さく笑った。
「やっぱり、本の話ならちょっとだけ楽しそう!」
「ぁ……」
「いいの、もっと聞かせて?月詠さんの話が聞きたいな、あたし」
わたしはそこで、ずっと張り詰めていた緊張の糸を少しだけ解くことができた。
恐怖はまだ拭えない。なんであなたみたいなひとがわたしに話しかけてくれるのか分からない。
それでも、こちらに歩み寄って、わたしの扉をとんとんと叩いて、入っていいか確認してくれるあなたはきっと、やさしいひとなんだろうなと思った。
休み時間の終わりが近いことを告げるチャイムが鳴って、わたしたちは教室に戻ることにした。
教室までの道のりをまた歩く。渡り廊下の左右には大した管理もされていない樹木達が、規則性ということばを全く無視してのびのびと枝を繁らせていた。
御伽さんが不意に歩みを止めて、わたしも思わず立ち止まる。彼女はぶつかりそうになるのを意に介さずに、何気なく、しかし少し真剣な目つきでわたしに問いかけた。
「ねえ、月詠さんはなんで本を読むのがすきなの?」
それは本当に、何の変哲もない問い。しかし彼女の瞳は、その問いに問い以上の意味があることを示していた。
どう応えるべきか、わたしは少し悩んで、それから言葉をゆっくり選んで、口を開いた。
「世界の知らない素敵なところを、たくさん教えてくれるのがうれしくて……もっと世界のことを愛おしく思えるから、です」
どうですか。わたしは御伽さんの目を見つめ返す。
御伽さんは、答えを聞いて少し驚くように目を見開いたあと、すぐにふわりと笑った。
「……そっか!」
それ以上気にしないでと言わんばかりの返答に、わたしもそのことは深く考えないことにして、教室へ急いだ。
次の日も、その次の日も、週が変わっても御伽さんは話しかけてこなかった。
わたしはそれを、彼女との関係は終わったものとして頭の中で処理した。そうだ、そういえば御伽さんは、「二十分だけ友達ってことにしてくれない?」と言っていたではないか。あれは本当に文字通り、あの休み時間だけ話しましょう、という以上の意味はなかったのだろう。
わたしは教室の端からもう片方の端にいる御伽さんを見つめた。彼女は自分の席の周りに集まってきた友人と、よく通る声で談笑しているのが、わたしの耳にもわかった。彼女は人を笑顔にできる。それは、笑顔になる人が増えることだから、うれしいことだとおもう。
こうしていると、御伽さんとの距離が、実際よりもずっと遠く感じる。元々大した興味もなかったクラス内の人間関係を改めて観察していると、御伽さんはこのクラスで一番と言っていい程多くの人間と交友関係を持っていて、その全てに分け隔てなく接していることがわかった。
ああ、御伽さんはすごいなあ。わたしには一生かかってもなれないだろう。こんなわたしにまで優しさを届けてくれるあなたが、もう二度と話しかけてくれないとしても、しあわせでいてくれますようにと、わたしは静かに祈った。
ところが、予想に反して、御伽さんと再び話す機会は案外早く訪れた。
三限目、国語。いつもは教師の授業を聞いて、時折プリントに書き込み、提出するだけのような授業だったが、その日は違っていた。
何らかの詩を読んで、解釈をグループで共有し、意見をまとめ、代表として誰かが発表する。それはわたしにとって苦痛とも言える程難易度が高いプロセスだった。発表に関しては、まず代表に選ばれることがないことからよいとしても、グループ内ですらまともにことばを交わせないわたしは、いざその時間になると、身体がかちこちになって、反対に頭はパニックを起こしそうになっていた。
四人一組のグループワークは、机を二対二で突き合わせ、わたしの向かいのひとから時計回りに発言が進んでいく。前に御伽さんと話した日から、席替えがあって、御伽さんの席はわたしのひとつ前になっていた。要するに、彼女はこの机の配置だとわたしの隣になる。
御伽さんの発言が始まる。どうやらかなり的を得たことを言っているようだったが、わたしは緊張と恐怖で、殆ど内容を頭に入れることができなかった。
「…この詩では擬人法が効果的に使われていて、海は眠らないし、季節は何かを差し出すことはないけど、人間の動きのようなその例えをつかうことで、詩の世界をより生き生きと表現しているように思えます…」
発言がどこか遠くで聞こえる中で、頭の中で何度も、言おうとしていることを復唱する。大丈夫、大丈夫。口の動かし方がわかれば、あとはそれを本番でも繰り返すだけ。
順番がくる。そこで、わたしを凍らせるような考えが前頭葉を揺らがせた。
もし、わたしの考えが、全く的外れで、誰にも理解されないようなものだったら。
向かいのひとのわらいごえが頭に響く。困ったように顔を見合わせる斜向かいのひとがはっきり見える。わたしはそのとき、どうしたらいいのだろう。
本を読む時、わたしは自由だった。わたしはわたしだけの考えを、わたしだけの大切なものとして、こころの宝箱にしまっておけばよかったから。
でも、今は誰かに伝えなければいけない。誰かの目に触れる。誰かが触る。そのとき、わたしの考えは、わたしだけのものではなくなってしまう。
大事に抱きしめるだけではいられない。
世界が静寂に包まれる。わたしが口を開くのを、三人が、いや三十人が、じっと見ているような気がしてしまう。
わたしは固まった。石のように、動けなくなってしまった。
口が開けない。苦しい。息が吸えない。
「…………ぅあ」
「月詠さん?」
はっとなって、わたしは声の主を見た。
御伽さんが、眉を下げた表情で、こちらを向いている。
かと思えば突然笑顔になって、彼女はわたしのノートに手をのせた。
「ねえ、ちょっと読んでもいい?」
「ぇ、あの」
何か言う間もなく、ノートは手から手へと受け渡され、彼女はわたしの字をじっと検分し始めた。
彼女が何を言うのか、ひどく恐くて、ノートを取り返したい衝動に駆られたが、如何せん身体が動かない。
「わ、すごくいいじゃん!」
聞こえたことばは、余りにも響きがやさしくて、わたしは「……ぇ」という声を漏らすことしかできなかった。
「第二連は短いが、重要な役割を持っていて、ここ……現在地や、今現在のこと……からは見えない場所に、知らない素晴らしいものが待っているので、怖がらずに進んでみよう…という作者の考えが短くまとめられている……だって!ね、めっちゃよくない?」
斜向かいのひとが頷いている。わたしは思わず顔を覆った。
なんとなく、恥ずかしい。わたしの頭の中身が三人ものひとに開示されて、知られていることが。
けれど、恐れていたことは起きなかった。だれも笑わなかった。
御伽さんは、わたしの文章を、わたし自身と一緒に抱きしめてくれたから。
「見えないところに、素敵なものがあるから、だからそこに一歩踏み出して欲しい、ってことなんだね。あたしそこまで考えてなかったなあ」
ノートがわたしの手に滑り降りてくる。
「勝手に読んじゃって、ごめんね」
「い、え……全然、大丈夫です、はい」
「あたし、月詠さんの考え、すきだなあ」
「ひぇ、そ、そうですか」
「うん!なーんか、胸の奥の冷えた部分を、あったかくしてくれる」
そんなことを言われたのは初めてだ。わたしなんかの考えが、あなたにとって、価値があるなんて。
「……う、うれしいです」
御伽さんがにこ、とわらう。
考えを伝えることは、知らないことを知ることとおんなじで、なにも怖いことではなくて、むしろすてきなことなんだ、って。
教えてくれたあなたのことが、わたしは、もっと知りたい。
あなたはどんなひとなのですか。なにを見てわらうのですか。
ひとのことをこんなに知りたいと思ったのは、はじめてのことだった。
あの日から、御伽さんと、時々放課後の時間をつかって話をするようになった。
彼女は意外にも部活動に所属しておらず、わたしと同じ帰宅部だったので、その"時々"はかなり頻度の高い"時々"だった。
会話の内容は今読んでいる本の話から、学校の話、家に帰ってからの話、わたしの妄想の話…など、多岐にわたったが、それらは大抵、どちらかといえばわたしに都合がいい話題で、可能な限りわたしのコミュニケーション能力不足を補おうとしてくれている配慮を感じざるを得なかった。
御伽さんはとても聡明なひとだ。彼女は自分の話をするのも上手で、わたしの知らない、御伽さんの御伽さんらしい友達との話を、まるでわたしもそこに居たかのような気分になる程、面白く話した。それから「月詠さんはどう思う?」と聞くのも忘れないで、兎に角相手を楽しませる会話の技量があった。
普段のクラスでの会話はろくに上達しなかったが、御伽さんと話している時間なら、わたしは自分のことを少しずつ相手に伝えることが出来るようになった。御伽さんは聞き上手でもあって、わたしの拙い話をにこにこ笑いながら聞き、適切な相槌を打って、もっと話して!とせがんだ。それは話を引き伸ばしたいというよりは、真剣にわたしの話を聞きたがっているような聞こえだったので、わたしも安心して話すことができた。
七月に入って、夏は世界を覆い、学校も家もビニールハウスの中にしてしまったが、図書館の空間は更にわたしたちの世界を覆って、ひんやりと包んでいてくれる。
ここに居たら、日の光がちょっと眩しいだけで済む。わたしは陽の光によって生み出される熱エネルギーのことは好んでいなかったけど、光自体のことはとても好いていたので、それもわたしがここにいる理由になった。
廊下に近い席に座っていると、廊下を歩くだれかの音が聞こえる。わたしはその音を敏感に聞き分けて、御伽さんの足音を探した。彼女の足音はとんとんと軽くて、なぜか、儚いという言葉が似合う音色だった。
今日も、御伽さんが来てくれた。
わたしはそれがたまらなくうれしかった。うれしさのあまり、読んでいる本のことはすっかり忘れてしまっていた。彼女と出会ってから、わたしは本を読むペースが落ちてしまっていたが、そんなことはまったくかなしくなかった。
御伽さんは、本を読んでいては知らないことを教えてくれる。知らない楽しみ、知らない喜び、知らない考え、知らないことば。
それは本を読むのと同列か、それ以上にすてきなことだった。
「やっほー!今日は何読んでるの?」
「あ、これですか……?これは、SF作品で……音しかしらない地球外生命体が出てくるんです」
「音しか知らないってことは、じゃあ色とか、光とか、全部わからないってこと?おもしろいね」
「はい、わたしは……音しか知らない生命体がつくりだす音楽って、どんなにうつくしいなのかなっておもって……この本の主題は宇宙戦争なので、そんなことは書いてないんですけど」
「え!それ気になる、どうなんだろうね」
にこ、とわらう。その笑顔が、どうにも眩しくて、目を背けそうになってしまって、それでも見るのをやめられない。
「わたし、彼らがどんな世界を生きていて、どんなものがきれいで、どんなことをうれしいとおもうのか、知りたいです」
そう言うと御伽さんの笑顔が、何故かすこし寂しくなった。
その変化は微々たるもので、きっと彼女も気づいていないくらい些細なのだと思う。でも、わたしにははっきりと映ったのだ。
「……月詠さんは、世界のことを根本から愛しているよね」
御伽さんはわたしが不安げに見つめていることに気づいてしまったのか、こう付け足した。
「だめとか、変とかじゃなくてね?すごいなっておもうの」
あたしにはできないことなんだ、それって。
それは御伽さんがはじめてわたしに零した、くらい部分だった。彼女はきっと、かなしみの中から、わたしに語りかけている。
わたしはそのひとしずくを丁寧に舐めとって、飲み込む。
「あなたは……御伽さんは、世界のことをあまり好いていないのですか」
困ったようにあなたが笑う。まるで、それ以上踏み込まないで、というみたいに。
それでもわたしは我儘をいう。
「……ううん、ちょっとちがう、かも」
わかんないや。
あはは、と誤魔化すように微笑んだから、わたしもそれ以上は何も言わないことにしようと思ったけど、それでもこれだけは、伝えたくて。そう、伝えることの素晴らしさは、あなたが教えてくれたから。
「わたし、御伽さんのことも、もっと知りたい……です」
「え」
「御伽さんが、うれしいとおもうことだけじゃなくて……かなしいとおもうことも、全部」
言い切ってから、わたしはすこしこわくなった。これは、所謂、踏み込みすぎというやつだとおもう。
御伽さんはふうと息をついて、それからふふ、とわらいはじめた。
「やっぱり不思議、月詠さんって」
「そ、そうですか」
「うん。そんなことを言ったひとは、月詠さんがはじめて」
「……わたしは真剣です」
「んふふ、じゃあ、これからもいっぱい話さなきゃだね」
それは、次の話題に移ろう、の合図だった。
御伽さんは彼女のすきな水族館の話をはじめた。
わたしは、その話を聞きながら、頭の中でさっきの言葉を反芻し続けていた。
夏休みに入っても、わたしたちが会う習慣は続いた。
てっきり、わたしはもう休み明けまで会わないのかなとおもっていたのだが、終業式の日、教室で話しかけてきた御伽さんに「ねえねえ、明日も十四時くらいから図書館で話さない?」
と言われて、とてもびっくりしたのを覚えている。
わたしにとって夏休みとは、家で本を読んだり、時折勉強する以外に何もやることのない、無味乾燥なものだと理解していたが、御伽さんと過ごすそれは全く違っていた。
会うのは数日おきだったが、前日はいつもそわそわして、いつもは九時くらいに眠れるのに、十一時まで寝れないなんてことがよくあった。それなのに起きる時間は変わらなかったから、わたしは彼女と会う日はいつもすこしだけ睡眠不足で、それを見破られた時はなんだか気恥ずかしかった。
図書館での話題は、最初の頃にあった配慮が少なくなり、御伽さんだけが詳しい話題へ移っていくことも多くなった。わたしはそれがかえって心地よくて、御伽さんの高いトーク力に裏打ちされたピソードたちは、物語のような味わいをもたらしてくれた。
それから、図書館が十六時に閉館してからは、帰り道の途中までを共にするようになった。夏休みまでの御伽さんはひとりで帰っていたので、それは新鮮な変化だった。わたしは、誰かとの帰り道も初めてだったので、はじめどうしたらいいのかわからず右往左往していたが、御伽さんが「図書館で話してるみたいなことを話しながら、同じ歩幅で歩いたらいいんだよ」と教えてくれたので、その通りにしていた。
帰り道には、お外ならではの楽しみがあって、見慣れた景色の中の小さな変化を教え合うのは、その最たるものだった。
「……あ、ツユクサ」
「え、なになに?」
わたしは道端で茂るツユクサの花弁を優しく撫でる。
「これ、ツユクサっていうんだ!夏によく見るのは知ってたけど、名前まで調べたことはなかったんだよね」
「草花なのに、鮮やかな青色で……綺麗、です」
「ね、名前を知ると見え方まで変わる感じがする〜!」
御伽さんも花弁に触れて、うっとりとしているようだった。
「朝露を浴びた花びらが夕方には萎んでしまうから、露草って呼ばれている…という説があったとおもいます」
「へえ、そんなに早く萎んじゃうんだ」
明日に咲いている露草は、同じ花じゃない。明日の朝咲いた、別の花。
「でも、この子はじゃあ、今に種を作って、来年また咲くってことだよね」
「うん……切なくて、愛おしい、です」
わたしは立ち上がる。御伽さんも、続いて立ち上がる。
「また知ってる草花があったら、教えてくれる?」
「はい、植物に特別詳しい訳ではないですけど……今度、勉強してこようかな」
「そこまでしなくてもいいよ!?でも、周辺知識があるとないとで、やっぱり世界の見え方が違っておもしろいね」
わたしの知っているものと、御伽さんの知っているもの。
ちょっとづつ交換したら、もっと鮮やかな世界が見られる。
「……うれしいな」
呟く声音は、とろけるくらい甘美だった。
それから、どこかに寄り道をするのも、学校がない日の帰り道ならではだった。
わたしは余り意識していなかったが、校則で学校がある日の寄り道は禁じられていて、こっそりお店に入りでもすると、鬼の生徒指導の先生が出てきてしまうらしい。これは、御伽さんに聞いた話だけど。
夏季休業中の図書館からの帰り道にそのような縛りはなく、わたしたちはどこでも気になったら好きに入って、涼を取ることができた。何せわたしは暑さというものに弱く、長く外にいるとバテてしまうことが多かったので、御伽さんが定期的に休憩を提案してくれるのは、とてもありがたいのと同時に、彼女の気遣いの繊細さがどこがくすぐったかった。
夏休みもど真ん中のとびきり暑い一日、わたしたちはちょうど帰り道の半分の道程にあるコンビニへと駆け込んだ。
わたしにとって、コンビニは滅多に入らない場所だった。入る必要がある時は、大抵両親と一緒だったので、わたし自身で買い物というのは、ほぼしたことがなかったのだ。
だから冷房の効いた店内でずらり並んだ商品を前に、わたしは途方にくれてしまった。御伽さんに「暑いしさ、アイス買おうよアイス!」と言われてアイスケースの前に来たはよいものの、どれに手を伸ばしたらよいのか全くわからず、わたしは立ち尽くすしかできなかった。
「……もしかしてアイス買ったことない?」
「は、はい」
「そっか、じゃあわたしが月詠さんの好みのアイス、当てちゃおっかなー!」
そう言って御伽さんは、わたしに質問を繰り返した。
棒とカップとソフトクリームならどれがすき?
うーん、多分カップです……
果物かチョコかミルクなら?
暖かいミルクがすきなので、冷たいミルクもすきだとおもいます
ねっとり系とあっさり系、どっちが好み?
あっさりしてるほうです、はい
そうやってて渡されたのは、百八十円の、シンプルなバニラアイスだった。
「乳脂肪分少なめで、そんなに高くないやつを選んだんだけど…どうかな」
「う、うれしいです、わたしのために、わざわざ」
「いーの、気にしないで!お礼は食べてからでいいよ」
レジに持っていって、お会計をして、ようやくわたしの手に収まったアイスを見ていると、なんだか愛着が湧いてきて、食べるのが勿体ないような気がしてくるのだった。
店から出てすぐの街路樹の下で、わたしたちはアイスの封を開けた。あまりよく見ていなかったが、御伽さんは紅茶味のカップアイスを選んでいたらしい。そういえば、彼女は紅茶についてかなり熱く語っていて、抽出時の温度や、使う茶葉の種類にも気を配っていると言っていたような気がする。紅茶味のお菓子もすきなんだ、覚えておこうかな。
わたしは蓋を開けて、白く輝くアイスをひとくち掬い、口へ運んだ。まず感じたのは冷たさ。それから、上品な甘みが、くどくなく、すうっと溶けてゆく。
「あ、おいしい、です」
「ほんと!?よかったー!」
あなたは満面の笑みを浮かべる。それを見て、わたしも笑顔になる。
御伽さんは終始、自分のアイスの味より、わたしのアイスの味を気にしているようだった。だから、わたしもたくさん美味しいと伝えた。それでよろこんでくれるなら、しあわせだなと思った。
「ね、本当によかった!わたしはアイスよく食べるから今日ぐらい失敗してもいいけど、るあちゃんはアイス全然食べないから…あ」
わたしもそこで、聞き慣れない響きに気がついた。いま、御伽さん、わたしのことを、るあちゃんって。
「わ、ごめん!……でも、そろそろかなって思ってたんだよね」
「ぁ、わたしはいいんですけど、その、そろそろって」
「あたしはるあちゃんって呼んで、るあちゃんはあたしのことさよちゃんって呼ぶの!ついでにるあちゃん、敬語もやめちゃわない?」
「えっ、えっ」
それは、わたしとあなたの間に掛かっていたカーテンを一気に取り払ってしまうような、そんな大きな変化で。
敬語というカーテンを通さないと、わたしは何を言うにもすこしだけ、怯えてしまう。
丁寧な言葉を必死に選んで、可能な限り失礼のないように話すことは、わたしなんかが誰かと話す為の、絶対的必要事項だとおもっていた。
それをやめてしまっても、あなたはわたしを受け入れてくれるのだろうか。
カーテン越しのわたしは、見られてもいいような存在だろうか。
でも、あなたと顔と顔、目と目を合わせて会話できるようになるのは、それ以上に魅力的だった。
答えを待っている御伽さんに向けて、わたしは口を開く。
「そう、したい、です」
「やった!るあちゃん、素敵な名前だから、前から名前で呼びたかったんだあ」
ひときわ嬉しそうに顔を華やかせる御伽さんを見ていると、わたしまでなんだか満たされたような気持ちになってくる。
わたしは頷いただけなのに、あなたはそんな思いごと全部掬いとって、ジェラートみたいに綺麗に仕立ててくれるのだ。
「……さよちゃん」
言い慣れない名前を紡ぐと、さよちゃんは「なーに!」と笑顔で答えた。
その笑顔が余りにも眩しくて、わたしは思わず、泣きそうになってしまった。
九月、わたしとさよちゃんは、まだ繋がっていられた。
図書館で話す習慣は勿論、教室でも言葉を交わすことが増えてきた。さよちゃんは人気者で、休み時間は中々周りにひとが絶えなかったが、教室を移動する時や、お昼ご飯の時に声を掛けてくれて、それがたまらなくうれしかった。
両親、特に母は、わたしによく話す友達が出来たことをとてもよろこんで、大切にしてね、と言ってくれた。夏休みに数日おきで出かけるのも、今までのるーちゃんの夏休みと全然違うね、と呟きながら、水筒にたっぷりの麦茶をつめてくれた。
九月の席替えで、わたしの席は窓際に、さよちゃんの席は廊下側の端に、それぞれ移動してしまったので、七月よりずっと離れてしまい、そのことは残念だった。けれど、遠くからさよちゃんのことを目で追いかけるのも、それはそれで愉しみだった。
かなりの頻度で、じっとさよちゃんの後頭部の上の方を見ていると、不意に振り向いて、にこ、とわらってくれるときがある。そう、ちょうど今のように。
誰かと話している途中なのに、さよちゃんはすごく視線に敏感だった。こんなに遠くにいるのに、よく気づいてくれる。そんなに周囲に気を張って、疲れないのかなとおもったけど、どうも彼女は意識せず、自然な状態でそれをやってのけているように見えた。
さよちゃんはこちらを向くと、にこ、と太陽みたいな笑みのひとかけらを見せてくれて、それからすぐに誰かとの会話へ戻る。それだけのことだけど、わたしはたまらなくしあわせで、心を躍らせていた。
さよちゃんはきっと、天使さまなのだ。天から舞い降りた、わたしの世界を色づけてくれる、光の天使さま。
こちらを向いて笑ったトパーズの瞳を思い出しながら、わたしはそんな妄想を広げる。
ちょうど窓から差す光がさよちゃんの髪の上にまあるい光の輪をつくって、エンジェルヘイローのようになっていた。
また、さよちゃんがこちらを振り向いた。こんな短い間に二回もわたしを見てくれるのは、中々ないことだった。
今度はわたしも、精一杯の微笑みを返す。さよちゃんはちいさくウィンクをする。
一瞬のそれが、わたしの網膜を灼いて、しばらく消えずに残り続けていた。
やがて秋が深まり、通学路の樹木たちが色を変え始め、夏の草花が秋のそれとバトンタッチしたのを、わたしは歩きながら観察していた。
風もすっかり冷え、雲は斑模様を描いている。晩秋の始まりの今日は、制服にカーディガンを重ねても、なんとなく寒さを感じた。
もう学校に着くという時、わたしは門のすぐ手前に、水色の彼女の影を捉えた。
それは珍しいことだった。さよちゃんは、いつもならわたしより少し遅くに学校に来るので、通学路で会うこともなければ、わたしより前にいることはもっとまれだ。
すぐに早歩きで追いかけると、ちょうど昇降口に入るときに追いつくことができた。わたしは息を切らしながら、さよちゃんの顔を横から覗き込む。
「……わ!びっくりした」
「ご、ごめんね、でも見つけちゃったから……」
「ぜーんぜんいいよ!うれしい、こんなとこで会えるなんて」
そう言って笑うさよちゃんは、いつもとなにも違わない。はずだったのに、靴を履きかえながら、こちらをちらちら窺って、すぐに目を逸らす様子は、なんだか不思議で、でもその時は大して気にとめなかった。
それから教室まで歩きながら、わたしたちはとりとめのないことを話した。
「今日短縮時程だから、授業短くなってラッキーだよね」
「うん、放課後……もっと、さよちゃんと過ごせる」
「あ、それなんだけどさ、放課後、ちょっと教室で待っててくれないかな?」
「え、う、うん…待てる、けど」
なんで、どうして。そう聞こうとするのを遮って、さよちゃんは続けた。
「ちょっと、伝えたいことがあるんだよね、あはは」
さよちゃんは少しぎこちない笑みを浮かべる。それは僅かな違いで、きっとわたし以外の誰が見ても気づかないような部分だったけど、確かに、一瞬何もかもが止まったような違和感があった。
どうしたんだろう、どこか具合でも悪いのかな。
「じゃ、そういうことで!また放課後会おーね」
さよちゃんが去っていく。まって、と止める勇気は、わたしにはなかった。
そんなこともあって、いつもよりわたしはさよちゃんの観察に熱を注いでいた。
しかし、どの休み時間になっても、さよちゃんは一度もこちらを向いてくれない。
それも、些細な違いだとおもう。だけど、どうしても気になって仕方がない。
次第にわたしの中では、自分がなにか気に障ることをしてしまったのではないかという考えが思考を埋めるようになっていった。
昨日の会話を思い出す。さよちゃんとの会話の内容は、いつでもはっきりと思い出すことができた。何を言ったか順番に精査していくが、特別思い当たる節がない。でも、わたしはひとと話すのが得意じゃないから、どこかで地雷を踏んでしまっていてもおかしくない。
ああ、自分が恨めしい。わたしがもっと、ひとと話すことを得意としていたら、こんなことにならなかったかもしれないのに。自己嫌悪でおかしくなりそうだ。天使さまも、こんな人間はきっと救済してくれない。
その日の授業はいつもより五分ずつ短かったのに、わたしにはひどく長く感じられて、まるで永遠のようだった。
やっと、放課後が訪れた。
それはわたしにとって最後の審判に等しかった。これで夏から続いていたわたしたちの関係が終わってしまうのだとしたら、恐怖で心が張り裂けそうだったが、同時にわたしの頭の冷静な部分が、そうなってしまっても仕方がない、だってあなたはそれに値するようなことをしてしまったのだから、と諭していた。
さよちゃんは毎週の掃除当番があって、教室を出ていってしまっていたので、ここにはわたしと、わたしの鞄と、さよちゃんの鞄だけが残っていた。その部屋が妙に広くて、わたしは中々落ち着くことが出来ず、うろうろと動き回って心を慰めていた。
廊下から足音が聞こえてきて、思わず扉の方を見る。すぐにその扉はがらがらと開き、今一番逢いたくて、今一番逢いたくない人の姿が現れた。
「あ、るあちゃん!待っててくれたんだ」
明るい声音で話しかけてくれるあなたが、次にどんなことばでわたしを裁くかと思うと不安で仕方がない。その声音が冷えきるのを想像する。それは、わたしの世界から色がなくなるのと同じようなことだとさえ感じられた。
「待たせちゃってごめんね、今日は大事な日だから、図書館でもない場所で、二人きりで話したかったんだよね」
確かに、それがふたりをひとりとひとりに分かつ話だったら、人がいるところでは話したくないのかもしれない、と思った。
さよちゃんの手が彼女の鞄へと伸びる。しばらくまさぐったあと、その白い手に絡んでいたのは、藤色のリボンだった。
「ハッピーバースデー、るあちゃん!これ、誕生日プレゼントだよ」
祝うのが遅くなっちゃって、ごめんね。
「え、え……?」
一瞬、何を言われたのかわからなくなって、わたしはその場で固まってしまった。
誕生日。だれの、わたしの、誕生日。
わたしは、さよちゃんのことばかり考えていて、今日が十月二十七日なことを、すっかり忘れてしまっていたのだ。
さよちゃんがリボンをわたしに差し出す。
ウィスタリアのグログランリボン。やわらかくてきれいな色で、ほんのすこしつややかな。リボンの真ん中にはチェーンが通されていて、先には紫色のチャームが飾られていた。
「るあちゃん、いつも黒ゴムでサイドのひとつくくりにしてるでしょう?だから、そのゴムの上から結んでみたら似合うんじゃないかなって……どう、かな」
さよちゃんがこちらを窺っているのが、ぼやけて見えない。
あれ。わたし、もしかして、泣いているのかな。
「大丈夫……?嫌だったら、持って帰るけど……」
「ううん、いやじゃないの、すごく、うれしい」
「でも、そんな、泣いてるよ」
「ちがうの……うれしいから、泣いてるの、きっと」
さよちゃんの顔が、ぱあっと明るくなる。
「よかった、ほんとうに、よかった」
涙がぽろぽろと零れ落ちる。それらは全部、溢れ出たしあわせだった。
「わたし……わたし、さよちゃんはもう、わたしのことなんか嫌いになっちゃったんだとおもって……それで」
「そうだったの!?ごめんね、なんか朝から驚かせなきゃーって気持ちでいっぱいで、舞い上がってたんだ、あたし」
「うん……うん……わたしも、よかった」
さよちゃんがティッシュをわたしの目元にあてがう。はっきりした視界で、さよちゃんの目を真っ直ぐ見つめた。
「選んでくれてありがとう、さよちゃん」
「えへ、どういたしまして!」
教室の隅、窓のすぐ横で、わたしとさよちゃんは並んで座っていた。
さよちゃんの指がわたしのくくられた髪をすくって、下からリボンを添え、二、三回丁寧に巻き付ける。
その手はこわれものを触るみたいにやさしく、けれど祈りを込めるみたいに力強くて、わたしは思わず息を吸うのを忘れてしまいそうになる。
それからちいさな輪を作って、リボンを通し、左右対称の蝶が形づくられた。
「うん、できた」
「わあ……ありがとう」
窓に映る自分の姿は、見慣れているようで、でも全く新しいようで。藤色の蝶は、羽ばたきを忘れたみたいに、静かにそこにあった。
そっと、リボンに触れる。熱を持っていないはずのリボンが、なぜだか暖かい。
涙を拭ったティッシュは、いつの間にか机から消えていた。
「やっぱり、すごく似合ってる」
「うん、わたしもそうおもう」
「かわいいよ、るあちゃん」
かわいい。かわいいんだ、わたしって。
そのことばはわたしの胸にすうっと入り込んで、やわらかく響いた。
わたしの世界に色をつけたひとは、わたし自身にも色をくれたのだ。
「……全部、さよちゃんのおかげだ」
わたしは小さく呟く。
「え、何か言った?」
「ううん、なんでもない」
はにかむあなたを見つめる。
わたしの恋は、ここから始まった。
昼休みの喧騒の中、わたしはいつものように独り娯楽小説の頁をめくり続けていた。
開け放たれた窓から入ってくる、湿り気を孕んだ風が教室の空気をかき混ぜている。耳を傾けると名前も知らない鳥が忙しなく鳴いているのがわかった。あなたの名前はなんていうのですか、問うたところでなんの意味もないが、わたしは知れたらならうれしいとおもう。
「___、____!」
ささやかな環境音にノイズが混じる。なんの音だろう。わたしはまだ、自分が誰かに話しかけられている可能性を考慮していなかった。その確率はわたしの中で、鳴く鳥が突然日本語で話しかけてくるよりも低かった。
「___さん、月詠さん」
自分の苗字が頭に入ってきて、肩がびくっと跳ねる。教師でもない人間にそれを呼ばれることはめったにないので、響きが妙に新鮮に感じた。
違う。そんなことを考えている場合じゃない。呼ばれたらなにか応答しなければいけないはずだ。
「………あぅ」
絞り出されたのは、その二音だけだった。流石にまずい、このままだと話の通じない人間になってしまう。
「月詠さんだよね?合ってるかな……」
やっと、顔を上げる。まず目に入ったのは、吸い込まれるように輝く琥珀色の瞳。水色がかった髪が、光を透かして揺れている。
「あ、合ってます」
「よかった!ねえ、下の名前はなんていうんだっけ」
クラス掲示の名簿は随分前に撤去されていたなと、思い出す。
「る、流明……流れるに、明るいって書きます……はい」
わたしのぎこちない自己紹介を、目の前の彼女はにこにこしながら聞いて、それから突然わたしの手を取った。
「月詠流明さん!ねえ、よければちょっと話さない?月詠さんのすきなところに移動していいから」
「え、え」
「どこがいい?あたし、月詠さんのことが知りたいの」
目がきらきらしている。それはわたしと住む世界が違うことの証で、なのになんでこのひとは、わたしなんかに興味を持っているのだろう。
「あぇ、図書館とか…どう、ですか」
「いいねいいね!あたしも図書館すきだよ、一緒にいこ!」
取られた手が力強く、しかし優しく引かれる。わたしは読んでいた本のことも忘れて、後を追いかける。
「あたし、御伽紗夜!今から二十分は、取り敢えず友達ってことにしてくれない?」
それは、余りにも鮮烈で、強い色彩を帯びていて、眩しい出会いだった。確か、六月二十五日の出来事だったと思う。
図書館へと繋がる渡り廊下を手を引かれながら進む。わたしたちの通う公立中学校では、図書館が別棟に建っていて、そこは訪れる人も少ない、地上の孤島と化していた。
わたしはその図書館のことを気に入っていた。人がこないのは会話が苦手なわたしにとってとても好都合で、休み時間や放課後はあの窓辺の席か図書館で過ごすのがわたしの日常だった。
それが、こんな風に誰かと、しかもなにか話す為に行く日が来るなんて。
すのこの端に靴を揃えると、御伽さんは静かに入口の戸を開けた。彼女はとても弁えていて、図書館で過ごす人間が大抵静寂を好むことをよく理解しているようだった。
「会話OKな方の閲覧室でいい?」
「は、はい」
大きな一枚板のテーブルの、端に向かい合って座る。御伽さんは膝に手を置いて、微笑みを湛えながらこちらを見ていた。
「名前は聞いたもんね、じゃあ…どうしよう、誕生日とか、聞いてもいい?」
「え、あ、あの、十月二十七日……です」
なにか音を挟まないと言葉が発せない。わたしの口は、どうにも上手く動かない。
「もうちょっと先なんだね!あたしは七月二十四日、もうあと一ヶ月もしたら誕生日なんだ」
彼女は自己開示と質問を交互に繰り返し、わたしが怯えないように細やかな配慮をしながら、わたしという人間を探っているようだった。
「そうだ、月詠さんって本がすきでしょ」
数回問答を繰り返した後に、切り出された話題は、わたしにとって唯一戦えるフィールドといっても過言ではなかった。
「は、はい……人並みに」
「だよね!いっつも本読んでたから、あたし遠くから見てたの」
「え、そうなんですか」
となると、御伽さんは、今日初めてわたしに目を向けた訳ではなかったのか。
人の視線に疎すぎる自分が恥ずかしくなる。そして、御伽さんの視野の広さにも驚く。
「月詠さんはどんなジャンルを読むの?今日読んでたのは、作者さんの名前ならわかるんだけど、どんな本だった?」
「あ……大衆小説がメインなんですけど、じゅ、純文学にもたまに触れますし…人文系とか、入門なら学術書も多少…」
しまった、少し喋りすぎてしまったかもしれない。普段全く会話というものをしないせいで、勝手がわからない。
それなのに御伽さんは、うんうんと頷いたあと、ふふ、と小さく笑った。
「やっぱり、本の話ならちょっとだけ楽しそう!」
「ぁ……」
「いいの、もっと聞かせて?月詠さんの話が聞きたいな、あたし」
わたしはそこで、ずっと張り詰めていた緊張の糸を少しだけ解くことができた。
恐怖はまだ拭えない。なんであなたみたいなひとがわたしに話しかけてくれるのか分からない。
それでも、こちらに歩み寄って、わたしの扉をとんとんと叩いて、入っていいか確認してくれるあなたはきっと、やさしいひとなんだろうなと思った。
休み時間の終わりが近いことを告げるチャイムが鳴って、わたしたちは教室に戻ることにした。
教室までの道のりをまた歩く。渡り廊下の左右には大した管理もされていない樹木達が、規則性ということばを全く無視してのびのびと枝を繁らせていた。
御伽さんが不意に歩みを止めて、わたしも思わず立ち止まる。彼女はぶつかりそうになるのを意に介さずに、何気なく、しかし少し真剣な目つきでわたしに問いかけた。
「ねえ、月詠さんはなんで本を読むのがすきなの?」
それは本当に、何の変哲もない問い。しかし彼女の瞳は、その問いに問い以上の意味があることを示していた。
どう応えるべきか、わたしは少し悩んで、それから言葉をゆっくり選んで、口を開いた。
「世界の知らない素敵なところを、たくさん教えてくれるのがうれしくて……もっと世界のことを愛おしく思えるから、です」
どうですか。わたしは御伽さんの目を見つめ返す。
御伽さんは、答えを聞いて少し驚くように目を見開いたあと、すぐにふわりと笑った。
「……そっか!」
それ以上気にしないでと言わんばかりの返答に、わたしもそのことは深く考えないことにして、教室へ急いだ。
次の日も、その次の日も、週が変わっても御伽さんは話しかけてこなかった。
わたしはそれを、彼女との関係は終わったものとして頭の中で処理した。そうだ、そういえば御伽さんは、「二十分だけ友達ってことにしてくれない?」と言っていたではないか。あれは本当に文字通り、あの休み時間だけ話しましょう、という以上の意味はなかったのだろう。
わたしは教室の端からもう片方の端にいる御伽さんを見つめた。彼女は自分の席の周りに集まってきた友人と、よく通る声で談笑しているのが、わたしの耳にもわかった。彼女は人を笑顔にできる。それは、笑顔になる人が増えることだから、うれしいことだとおもう。
こうしていると、御伽さんとの距離が、実際よりもずっと遠く感じる。元々大した興味もなかったクラス内の人間関係を改めて観察していると、御伽さんはこのクラスで一番と言っていい程多くの人間と交友関係を持っていて、その全てに分け隔てなく接していることがわかった。
ああ、御伽さんはすごいなあ。わたしには一生かかってもなれないだろう。こんなわたしにまで優しさを届けてくれるあなたが、もう二度と話しかけてくれないとしても、しあわせでいてくれますようにと、わたしは静かに祈った。
ところが、予想に反して、御伽さんと再び話す機会は案外早く訪れた。
三限目、国語。いつもは教師の授業を聞いて、時折プリントに書き込み、提出するだけのような授業だったが、その日は違っていた。
何らかの詩を読んで、解釈をグループで共有し、意見をまとめ、代表として誰かが発表する。それはわたしにとって苦痛とも言える程難易度が高いプロセスだった。発表に関しては、まず代表に選ばれることがないことからよいとしても、グループ内ですらまともにことばを交わせないわたしは、いざその時間になると、身体がかちこちになって、反対に頭はパニックを起こしそうになっていた。
四人一組のグループワークは、机を二対二で突き合わせ、わたしの向かいのひとから時計回りに発言が進んでいく。前に御伽さんと話した日から、席替えがあって、御伽さんの席はわたしのひとつ前になっていた。要するに、彼女はこの机の配置だとわたしの隣になる。
御伽さんの発言が始まる。どうやらかなり的を得たことを言っているようだったが、わたしは緊張と恐怖で、殆ど内容を頭に入れることができなかった。
「…この詩では擬人法が効果的に使われていて、海は眠らないし、季節は何かを差し出すことはないけど、人間の動きのようなその例えをつかうことで、詩の世界をより生き生きと表現しているように思えます…」
発言がどこか遠くで聞こえる中で、頭の中で何度も、言おうとしていることを復唱する。大丈夫、大丈夫。口の動かし方がわかれば、あとはそれを本番でも繰り返すだけ。
順番がくる。そこで、わたしを凍らせるような考えが前頭葉を揺らがせた。
もし、わたしの考えが、全く的外れで、誰にも理解されないようなものだったら。
向かいのひとのわらいごえが頭に響く。困ったように顔を見合わせる斜向かいのひとがはっきり見える。わたしはそのとき、どうしたらいいのだろう。
本を読む時、わたしは自由だった。わたしはわたしだけの考えを、わたしだけの大切なものとして、こころの宝箱にしまっておけばよかったから。
でも、今は誰かに伝えなければいけない。誰かの目に触れる。誰かが触る。そのとき、わたしの考えは、わたしだけのものではなくなってしまう。
大事に抱きしめるだけではいられない。
世界が静寂に包まれる。わたしが口を開くのを、三人が、いや三十人が、じっと見ているような気がしてしまう。
わたしは固まった。石のように、動けなくなってしまった。
口が開けない。苦しい。息が吸えない。
「…………ぅあ」
「月詠さん?」
はっとなって、わたしは声の主を見た。
御伽さんが、眉を下げた表情で、こちらを向いている。
かと思えば突然笑顔になって、彼女はわたしのノートに手をのせた。
「ねえ、ちょっと読んでもいい?」
「ぇ、あの」
何か言う間もなく、ノートは手から手へと受け渡され、彼女はわたしの字をじっと検分し始めた。
彼女が何を言うのか、ひどく恐くて、ノートを取り返したい衝動に駆られたが、如何せん身体が動かない。
「わ、すごくいいじゃん!」
聞こえたことばは、余りにも響きがやさしくて、わたしは「……ぇ」という声を漏らすことしかできなかった。
「第二連は短いが、重要な役割を持っていて、ここ……現在地や、今現在のこと……からは見えない場所に、知らない素晴らしいものが待っているので、怖がらずに進んでみよう…という作者の考えが短くまとめられている……だって!ね、めっちゃよくない?」
斜向かいのひとが頷いている。わたしは思わず顔を覆った。
なんとなく、恥ずかしい。わたしの頭の中身が三人ものひとに開示されて、知られていることが。
けれど、恐れていたことは起きなかった。だれも笑わなかった。
御伽さんは、わたしの文章を、わたし自身と一緒に抱きしめてくれたから。
「見えないところに、素敵なものがあるから、だからそこに一歩踏み出して欲しい、ってことなんだね。あたしそこまで考えてなかったなあ」
ノートがわたしの手に滑り降りてくる。
「勝手に読んじゃって、ごめんね」
「い、え……全然、大丈夫です、はい」
「あたし、月詠さんの考え、すきだなあ」
「ひぇ、そ、そうですか」
「うん!なーんか、胸の奥の冷えた部分を、あったかくしてくれる」
そんなことを言われたのは初めてだ。わたしなんかの考えが、あなたにとって、価値があるなんて。
「……う、うれしいです」
御伽さんがにこ、とわらう。
考えを伝えることは、知らないことを知ることとおんなじで、なにも怖いことではなくて、むしろすてきなことなんだ、って。
教えてくれたあなたのことが、わたしは、もっと知りたい。
あなたはどんなひとなのですか。なにを見てわらうのですか。
ひとのことをこんなに知りたいと思ったのは、はじめてのことだった。
あの日から、御伽さんと、時々放課後の時間をつかって話をするようになった。
彼女は意外にも部活動に所属しておらず、わたしと同じ帰宅部だったので、その"時々"はかなり頻度の高い"時々"だった。
会話の内容は今読んでいる本の話から、学校の話、家に帰ってからの話、わたしの妄想の話…など、多岐にわたったが、それらは大抵、どちらかといえばわたしに都合がいい話題で、可能な限りわたしのコミュニケーション能力不足を補おうとしてくれている配慮を感じざるを得なかった。
御伽さんはとても聡明なひとだ。彼女は自分の話をするのも上手で、わたしの知らない、御伽さんの御伽さんらしい友達との話を、まるでわたしもそこに居たかのような気分になる程、面白く話した。それから「月詠さんはどう思う?」と聞くのも忘れないで、兎に角相手を楽しませる会話の技量があった。
普段のクラスでの会話はろくに上達しなかったが、御伽さんと話している時間なら、わたしは自分のことを少しずつ相手に伝えることが出来るようになった。御伽さんは聞き上手でもあって、わたしの拙い話をにこにこ笑いながら聞き、適切な相槌を打って、もっと話して!とせがんだ。それは話を引き伸ばしたいというよりは、真剣にわたしの話を聞きたがっているような聞こえだったので、わたしも安心して話すことができた。
七月に入って、夏は世界を覆い、学校も家もビニールハウスの中にしてしまったが、図書館の空間は更にわたしたちの世界を覆って、ひんやりと包んでいてくれる。
ここに居たら、日の光がちょっと眩しいだけで済む。わたしは陽の光によって生み出される熱エネルギーのことは好んでいなかったけど、光自体のことはとても好いていたので、それもわたしがここにいる理由になった。
廊下に近い席に座っていると、廊下を歩くだれかの音が聞こえる。わたしはその音を敏感に聞き分けて、御伽さんの足音を探した。彼女の足音はとんとんと軽くて、なぜか、儚いという言葉が似合う音色だった。
今日も、御伽さんが来てくれた。
わたしはそれがたまらなくうれしかった。うれしさのあまり、読んでいる本のことはすっかり忘れてしまっていた。彼女と出会ってから、わたしは本を読むペースが落ちてしまっていたが、そんなことはまったくかなしくなかった。
御伽さんは、本を読んでいては知らないことを教えてくれる。知らない楽しみ、知らない喜び、知らない考え、知らないことば。
それは本を読むのと同列か、それ以上にすてきなことだった。
「やっほー!今日は何読んでるの?」
「あ、これですか……?これは、SF作品で……音しかしらない地球外生命体が出てくるんです」
「音しか知らないってことは、じゃあ色とか、光とか、全部わからないってこと?おもしろいね」
「はい、わたしは……音しか知らない生命体がつくりだす音楽って、どんなにうつくしいなのかなっておもって……この本の主題は宇宙戦争なので、そんなことは書いてないんですけど」
「え!それ気になる、どうなんだろうね」
にこ、とわらう。その笑顔が、どうにも眩しくて、目を背けそうになってしまって、それでも見るのをやめられない。
「わたし、彼らがどんな世界を生きていて、どんなものがきれいで、どんなことをうれしいとおもうのか、知りたいです」
そう言うと御伽さんの笑顔が、何故かすこし寂しくなった。
その変化は微々たるもので、きっと彼女も気づいていないくらい些細なのだと思う。でも、わたしにははっきりと映ったのだ。
「……月詠さんは、世界のことを根本から愛しているよね」
御伽さんはわたしが不安げに見つめていることに気づいてしまったのか、こう付け足した。
「だめとか、変とかじゃなくてね?すごいなっておもうの」
あたしにはできないことなんだ、それって。
それは御伽さんがはじめてわたしに零した、くらい部分だった。彼女はきっと、かなしみの中から、わたしに語りかけている。
わたしはそのひとしずくを丁寧に舐めとって、飲み込む。
「あなたは……御伽さんは、世界のことをあまり好いていないのですか」
困ったようにあなたが笑う。まるで、それ以上踏み込まないで、というみたいに。
それでもわたしは我儘をいう。
「……ううん、ちょっとちがう、かも」
わかんないや。
あはは、と誤魔化すように微笑んだから、わたしもそれ以上は何も言わないことにしようと思ったけど、それでもこれだけは、伝えたくて。そう、伝えることの素晴らしさは、あなたが教えてくれたから。
「わたし、御伽さんのことも、もっと知りたい……です」
「え」
「御伽さんが、うれしいとおもうことだけじゃなくて……かなしいとおもうことも、全部」
言い切ってから、わたしはすこしこわくなった。これは、所謂、踏み込みすぎというやつだとおもう。
御伽さんはふうと息をついて、それからふふ、とわらいはじめた。
「やっぱり不思議、月詠さんって」
「そ、そうですか」
「うん。そんなことを言ったひとは、月詠さんがはじめて」
「……わたしは真剣です」
「んふふ、じゃあ、これからもいっぱい話さなきゃだね」
それは、次の話題に移ろう、の合図だった。
御伽さんは彼女のすきな水族館の話をはじめた。
わたしは、その話を聞きながら、頭の中でさっきの言葉を反芻し続けていた。
夏休みに入っても、わたしたちが会う習慣は続いた。
てっきり、わたしはもう休み明けまで会わないのかなとおもっていたのだが、終業式の日、教室で話しかけてきた御伽さんに「ねえねえ、明日も十四時くらいから図書館で話さない?」
と言われて、とてもびっくりしたのを覚えている。
わたしにとって夏休みとは、家で本を読んだり、時折勉強する以外に何もやることのない、無味乾燥なものだと理解していたが、御伽さんと過ごすそれは全く違っていた。
会うのは数日おきだったが、前日はいつもそわそわして、いつもは九時くらいに眠れるのに、十一時まで寝れないなんてことがよくあった。それなのに起きる時間は変わらなかったから、わたしは彼女と会う日はいつもすこしだけ睡眠不足で、それを見破られた時はなんだか気恥ずかしかった。
図書館での話題は、最初の頃にあった配慮が少なくなり、御伽さんだけが詳しい話題へ移っていくことも多くなった。わたしはそれがかえって心地よくて、御伽さんの高いトーク力に裏打ちされたピソードたちは、物語のような味わいをもたらしてくれた。
それから、図書館が十六時に閉館してからは、帰り道の途中までを共にするようになった。夏休みまでの御伽さんはひとりで帰っていたので、それは新鮮な変化だった。わたしは、誰かとの帰り道も初めてだったので、はじめどうしたらいいのかわからず右往左往していたが、御伽さんが「図書館で話してるみたいなことを話しながら、同じ歩幅で歩いたらいいんだよ」と教えてくれたので、その通りにしていた。
帰り道には、お外ならではの楽しみがあって、見慣れた景色の中の小さな変化を教え合うのは、その最たるものだった。
「……あ、ツユクサ」
「え、なになに?」
わたしは道端で茂るツユクサの花弁を優しく撫でる。
「これ、ツユクサっていうんだ!夏によく見るのは知ってたけど、名前まで調べたことはなかったんだよね」
「草花なのに、鮮やかな青色で……綺麗、です」
「ね、名前を知ると見え方まで変わる感じがする〜!」
御伽さんも花弁に触れて、うっとりとしているようだった。
「朝露を浴びた花びらが夕方には萎んでしまうから、露草って呼ばれている…という説があったとおもいます」
「へえ、そんなに早く萎んじゃうんだ」
明日に咲いている露草は、同じ花じゃない。明日の朝咲いた、別の花。
「でも、この子はじゃあ、今に種を作って、来年また咲くってことだよね」
「うん……切なくて、愛おしい、です」
わたしは立ち上がる。御伽さんも、続いて立ち上がる。
「また知ってる草花があったら、教えてくれる?」
「はい、植物に特別詳しい訳ではないですけど……今度、勉強してこようかな」
「そこまでしなくてもいいよ!?でも、周辺知識があるとないとで、やっぱり世界の見え方が違っておもしろいね」
わたしの知っているものと、御伽さんの知っているもの。
ちょっとづつ交換したら、もっと鮮やかな世界が見られる。
「……うれしいな」
呟く声音は、とろけるくらい甘美だった。
それから、どこかに寄り道をするのも、学校がない日の帰り道ならではだった。
わたしは余り意識していなかったが、校則で学校がある日の寄り道は禁じられていて、こっそりお店に入りでもすると、鬼の生徒指導の先生が出てきてしまうらしい。これは、御伽さんに聞いた話だけど。
夏季休業中の図書館からの帰り道にそのような縛りはなく、わたしたちはどこでも気になったら好きに入って、涼を取ることができた。何せわたしは暑さというものに弱く、長く外にいるとバテてしまうことが多かったので、御伽さんが定期的に休憩を提案してくれるのは、とてもありがたいのと同時に、彼女の気遣いの繊細さがどこがくすぐったかった。
夏休みもど真ん中のとびきり暑い一日、わたしたちはちょうど帰り道の半分の道程にあるコンビニへと駆け込んだ。
わたしにとって、コンビニは滅多に入らない場所だった。入る必要がある時は、大抵両親と一緒だったので、わたし自身で買い物というのは、ほぼしたことがなかったのだ。
だから冷房の効いた店内でずらり並んだ商品を前に、わたしは途方にくれてしまった。御伽さんに「暑いしさ、アイス買おうよアイス!」と言われてアイスケースの前に来たはよいものの、どれに手を伸ばしたらよいのか全くわからず、わたしは立ち尽くすしかできなかった。
「……もしかしてアイス買ったことない?」
「は、はい」
「そっか、じゃあわたしが月詠さんの好みのアイス、当てちゃおっかなー!」
そう言って御伽さんは、わたしに質問を繰り返した。
棒とカップとソフトクリームならどれがすき?
うーん、多分カップです……
果物かチョコかミルクなら?
暖かいミルクがすきなので、冷たいミルクもすきだとおもいます
ねっとり系とあっさり系、どっちが好み?
あっさりしてるほうです、はい
そうやってて渡されたのは、百八十円の、シンプルなバニラアイスだった。
「乳脂肪分少なめで、そんなに高くないやつを選んだんだけど…どうかな」
「う、うれしいです、わたしのために、わざわざ」
「いーの、気にしないで!お礼は食べてからでいいよ」
レジに持っていって、お会計をして、ようやくわたしの手に収まったアイスを見ていると、なんだか愛着が湧いてきて、食べるのが勿体ないような気がしてくるのだった。
店から出てすぐの街路樹の下で、わたしたちはアイスの封を開けた。あまりよく見ていなかったが、御伽さんは紅茶味のカップアイスを選んでいたらしい。そういえば、彼女は紅茶についてかなり熱く語っていて、抽出時の温度や、使う茶葉の種類にも気を配っていると言っていたような気がする。紅茶味のお菓子もすきなんだ、覚えておこうかな。
わたしは蓋を開けて、白く輝くアイスをひとくち掬い、口へ運んだ。まず感じたのは冷たさ。それから、上品な甘みが、くどくなく、すうっと溶けてゆく。
「あ、おいしい、です」
「ほんと!?よかったー!」
あなたは満面の笑みを浮かべる。それを見て、わたしも笑顔になる。
御伽さんは終始、自分のアイスの味より、わたしのアイスの味を気にしているようだった。だから、わたしもたくさん美味しいと伝えた。それでよろこんでくれるなら、しあわせだなと思った。
「ね、本当によかった!わたしはアイスよく食べるから今日ぐらい失敗してもいいけど、るあちゃんはアイス全然食べないから…あ」
わたしもそこで、聞き慣れない響きに気がついた。いま、御伽さん、わたしのことを、るあちゃんって。
「わ、ごめん!……でも、そろそろかなって思ってたんだよね」
「ぁ、わたしはいいんですけど、その、そろそろって」
「あたしはるあちゃんって呼んで、るあちゃんはあたしのことさよちゃんって呼ぶの!ついでにるあちゃん、敬語もやめちゃわない?」
「えっ、えっ」
それは、わたしとあなたの間に掛かっていたカーテンを一気に取り払ってしまうような、そんな大きな変化で。
敬語というカーテンを通さないと、わたしは何を言うにもすこしだけ、怯えてしまう。
丁寧な言葉を必死に選んで、可能な限り失礼のないように話すことは、わたしなんかが誰かと話す為の、絶対的必要事項だとおもっていた。
それをやめてしまっても、あなたはわたしを受け入れてくれるのだろうか。
カーテン越しのわたしは、見られてもいいような存在だろうか。
でも、あなたと顔と顔、目と目を合わせて会話できるようになるのは、それ以上に魅力的だった。
答えを待っている御伽さんに向けて、わたしは口を開く。
「そう、したい、です」
「やった!るあちゃん、素敵な名前だから、前から名前で呼びたかったんだあ」
ひときわ嬉しそうに顔を華やかせる御伽さんを見ていると、わたしまでなんだか満たされたような気持ちになってくる。
わたしは頷いただけなのに、あなたはそんな思いごと全部掬いとって、ジェラートみたいに綺麗に仕立ててくれるのだ。
「……さよちゃん」
言い慣れない名前を紡ぐと、さよちゃんは「なーに!」と笑顔で答えた。
その笑顔が余りにも眩しくて、わたしは思わず、泣きそうになってしまった。
九月、わたしとさよちゃんは、まだ繋がっていられた。
図書館で話す習慣は勿論、教室でも言葉を交わすことが増えてきた。さよちゃんは人気者で、休み時間は中々周りにひとが絶えなかったが、教室を移動する時や、お昼ご飯の時に声を掛けてくれて、それがたまらなくうれしかった。
両親、特に母は、わたしによく話す友達が出来たことをとてもよろこんで、大切にしてね、と言ってくれた。夏休みに数日おきで出かけるのも、今までのるーちゃんの夏休みと全然違うね、と呟きながら、水筒にたっぷりの麦茶をつめてくれた。
九月の席替えで、わたしの席は窓際に、さよちゃんの席は廊下側の端に、それぞれ移動してしまったので、七月よりずっと離れてしまい、そのことは残念だった。けれど、遠くからさよちゃんのことを目で追いかけるのも、それはそれで愉しみだった。
かなりの頻度で、じっとさよちゃんの後頭部の上の方を見ていると、不意に振り向いて、にこ、とわらってくれるときがある。そう、ちょうど今のように。
誰かと話している途中なのに、さよちゃんはすごく視線に敏感だった。こんなに遠くにいるのに、よく気づいてくれる。そんなに周囲に気を張って、疲れないのかなとおもったけど、どうも彼女は意識せず、自然な状態でそれをやってのけているように見えた。
さよちゃんはこちらを向くと、にこ、と太陽みたいな笑みのひとかけらを見せてくれて、それからすぐに誰かとの会話へ戻る。それだけのことだけど、わたしはたまらなくしあわせで、心を躍らせていた。
さよちゃんはきっと、天使さまなのだ。天から舞い降りた、わたしの世界を色づけてくれる、光の天使さま。
こちらを向いて笑ったトパーズの瞳を思い出しながら、わたしはそんな妄想を広げる。
ちょうど窓から差す光がさよちゃんの髪の上にまあるい光の輪をつくって、エンジェルヘイローのようになっていた。
また、さよちゃんがこちらを振り向いた。こんな短い間に二回もわたしを見てくれるのは、中々ないことだった。
今度はわたしも、精一杯の微笑みを返す。さよちゃんはちいさくウィンクをする。
一瞬のそれが、わたしの網膜を灼いて、しばらく消えずに残り続けていた。
やがて秋が深まり、通学路の樹木たちが色を変え始め、夏の草花が秋のそれとバトンタッチしたのを、わたしは歩きながら観察していた。
風もすっかり冷え、雲は斑模様を描いている。晩秋の始まりの今日は、制服にカーディガンを重ねても、なんとなく寒さを感じた。
もう学校に着くという時、わたしは門のすぐ手前に、水色の彼女の影を捉えた。
それは珍しいことだった。さよちゃんは、いつもならわたしより少し遅くに学校に来るので、通学路で会うこともなければ、わたしより前にいることはもっとまれだ。
すぐに早歩きで追いかけると、ちょうど昇降口に入るときに追いつくことができた。わたしは息を切らしながら、さよちゃんの顔を横から覗き込む。
「……わ!びっくりした」
「ご、ごめんね、でも見つけちゃったから……」
「ぜーんぜんいいよ!うれしい、こんなとこで会えるなんて」
そう言って笑うさよちゃんは、いつもとなにも違わない。はずだったのに、靴を履きかえながら、こちらをちらちら窺って、すぐに目を逸らす様子は、なんだか不思議で、でもその時は大して気にとめなかった。
それから教室まで歩きながら、わたしたちはとりとめのないことを話した。
「今日短縮時程だから、授業短くなってラッキーだよね」
「うん、放課後……もっと、さよちゃんと過ごせる」
「あ、それなんだけどさ、放課後、ちょっと教室で待っててくれないかな?」
「え、う、うん…待てる、けど」
なんで、どうして。そう聞こうとするのを遮って、さよちゃんは続けた。
「ちょっと、伝えたいことがあるんだよね、あはは」
さよちゃんは少しぎこちない笑みを浮かべる。それは僅かな違いで、きっとわたし以外の誰が見ても気づかないような部分だったけど、確かに、一瞬何もかもが止まったような違和感があった。
どうしたんだろう、どこか具合でも悪いのかな。
「じゃ、そういうことで!また放課後会おーね」
さよちゃんが去っていく。まって、と止める勇気は、わたしにはなかった。
そんなこともあって、いつもよりわたしはさよちゃんの観察に熱を注いでいた。
しかし、どの休み時間になっても、さよちゃんは一度もこちらを向いてくれない。
それも、些細な違いだとおもう。だけど、どうしても気になって仕方がない。
次第にわたしの中では、自分がなにか気に障ることをしてしまったのではないかという考えが思考を埋めるようになっていった。
昨日の会話を思い出す。さよちゃんとの会話の内容は、いつでもはっきりと思い出すことができた。何を言ったか順番に精査していくが、特別思い当たる節がない。でも、わたしはひとと話すのが得意じゃないから、どこかで地雷を踏んでしまっていてもおかしくない。
ああ、自分が恨めしい。わたしがもっと、ひとと話すことを得意としていたら、こんなことにならなかったかもしれないのに。自己嫌悪でおかしくなりそうだ。天使さまも、こんな人間はきっと救済してくれない。
その日の授業はいつもより五分ずつ短かったのに、わたしにはひどく長く感じられて、まるで永遠のようだった。
やっと、放課後が訪れた。
それはわたしにとって最後の審判に等しかった。これで夏から続いていたわたしたちの関係が終わってしまうのだとしたら、恐怖で心が張り裂けそうだったが、同時にわたしの頭の冷静な部分が、そうなってしまっても仕方がない、だってあなたはそれに値するようなことをしてしまったのだから、と諭していた。
さよちゃんは毎週の掃除当番があって、教室を出ていってしまっていたので、ここにはわたしと、わたしの鞄と、さよちゃんの鞄だけが残っていた。その部屋が妙に広くて、わたしは中々落ち着くことが出来ず、うろうろと動き回って心を慰めていた。
廊下から足音が聞こえてきて、思わず扉の方を見る。すぐにその扉はがらがらと開き、今一番逢いたくて、今一番逢いたくない人の姿が現れた。
「あ、るあちゃん!待っててくれたんだ」
明るい声音で話しかけてくれるあなたが、次にどんなことばでわたしを裁くかと思うと不安で仕方がない。その声音が冷えきるのを想像する。それは、わたしの世界から色がなくなるのと同じようなことだとさえ感じられた。
「待たせちゃってごめんね、今日は大事な日だから、図書館でもない場所で、二人きりで話したかったんだよね」
確かに、それがふたりをひとりとひとりに分かつ話だったら、人がいるところでは話したくないのかもしれない、と思った。
さよちゃんの手が彼女の鞄へと伸びる。しばらくまさぐったあと、その白い手に絡んでいたのは、藤色のリボンだった。
「ハッピーバースデー、るあちゃん!これ、誕生日プレゼントだよ」
祝うのが遅くなっちゃって、ごめんね。
「え、え……?」
一瞬、何を言われたのかわからなくなって、わたしはその場で固まってしまった。
誕生日。だれの、わたしの、誕生日。
わたしは、さよちゃんのことばかり考えていて、今日が十月二十七日なことを、すっかり忘れてしまっていたのだ。
さよちゃんがリボンをわたしに差し出す。
ウィスタリアのグログランリボン。やわらかくてきれいな色で、ほんのすこしつややかな。リボンの真ん中にはチェーンが通されていて、先には紫色のチャームが飾られていた。
「るあちゃん、いつも黒ゴムでサイドのひとつくくりにしてるでしょう?だから、そのゴムの上から結んでみたら似合うんじゃないかなって……どう、かな」
さよちゃんがこちらを窺っているのが、ぼやけて見えない。
あれ。わたし、もしかして、泣いているのかな。
「大丈夫……?嫌だったら、持って帰るけど……」
「ううん、いやじゃないの、すごく、うれしい」
「でも、そんな、泣いてるよ」
「ちがうの……うれしいから、泣いてるの、きっと」
さよちゃんの顔が、ぱあっと明るくなる。
「よかった、ほんとうに、よかった」
涙がぽろぽろと零れ落ちる。それらは全部、溢れ出たしあわせだった。
「わたし……わたし、さよちゃんはもう、わたしのことなんか嫌いになっちゃったんだとおもって……それで」
「そうだったの!?ごめんね、なんか朝から驚かせなきゃーって気持ちでいっぱいで、舞い上がってたんだ、あたし」
「うん……うん……わたしも、よかった」
さよちゃんがティッシュをわたしの目元にあてがう。はっきりした視界で、さよちゃんの目を真っ直ぐ見つめた。
「選んでくれてありがとう、さよちゃん」
「えへ、どういたしまして!」
教室の隅、窓のすぐ横で、わたしとさよちゃんは並んで座っていた。
さよちゃんの指がわたしのくくられた髪をすくって、下からリボンを添え、二、三回丁寧に巻き付ける。
その手はこわれものを触るみたいにやさしく、けれど祈りを込めるみたいに力強くて、わたしは思わず息を吸うのを忘れてしまいそうになる。
それからちいさな輪を作って、リボンを通し、左右対称の蝶が形づくられた。
「うん、できた」
「わあ……ありがとう」
窓に映る自分の姿は、見慣れているようで、でも全く新しいようで。藤色の蝶は、羽ばたきを忘れたみたいに、静かにそこにあった。
そっと、リボンに触れる。熱を持っていないはずのリボンが、なぜだか暖かい。
涙を拭ったティッシュは、いつの間にか机から消えていた。
「やっぱり、すごく似合ってる」
「うん、わたしもそうおもう」
「かわいいよ、るあちゃん」
かわいい。かわいいんだ、わたしって。
そのことばはわたしの胸にすうっと入り込んで、やわらかく響いた。
わたしの世界に色をつけたひとは、わたし自身にも色をくれたのだ。
「……全部、さよちゃんのおかげだ」
わたしは小さく呟く。
「え、何か言った?」
「ううん、なんでもない」
はにかむあなたを見つめる。
わたしの恋は、ここから始まった。
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