am 或いは pm
さよちゃんはいつからか、わたしの家を自分の家みたいに使うようになった。
お手洗いの位置は当然丸暗記しているし、玄関先の靴がお父さん、お母さん、わたしの順で並んでいることも、二人で食べていいお菓子がパントリーのどこに入っているかも知っている。
お母さんは、喜んでいるように見えた。わたしには家に呼ぶような友達が小学校にも中学校にも居なかったからだろう。だから毎週末さよちゃんがインターホンを押しに来ても、嫌な顔ひとつせず、スーパーの焼き菓子を出してくれる。
さよちゃんは土曜日の朝にやってきて、日中好きなだけくつろいで、日が沈む頃に帰っていく。まるで太陽の日周運動みたいに、規則的に。でも過ごし方はその時々で違って、共通しているのは、必ずしもわたしとずっと同じことをしたり、一緒に遊ぶ訳ではないということだけだった。
同じ家にいる、それだけ。みたいな。わたしは本を読んでいて、さよちゃんは気に入りの音楽ゲームで遊んでいる。それはとても心地よい時間だった。気を張る必要も、孤独に苛まれることもない、楽園のように。
きっとさよちゃんは、わたしが貴方と出会ってしまった所為でひとりぼっちをこわがるようになったことも、でもひとと話し続けることも僅かに苦痛なことも、全部わかっていて、こんな関わり方をしてくれている。さよちゃんはわたしのことを世界でいちばんわかっている。とてもうれしくて、もどかしい。わたしがもっとひとと関わるのが上手だったら、きっと彼女はわたしを気兼ねなく外に連れ出して、わたしの知らない世界をもっと沢山見せてくれるのだろう。
わたしが心地よい空間とは、さよちゃんがずっと気を遣わなきゃいけない空間のことだと、そう、どうしても思ってしまう。
すこしひとりになりたくて、わたしはさよちゃんのいる自室を出て、庭にやってきた。
さよちゃんにわたしの憂鬱を慰めることなんて赦されない。陽だまりという不必要に明るい空間に出てでも、わたしはひとりにならなければいけない。
茶色く乾いた芝生を眺めていると、不意に幼少期の記憶が甦った。
あれはそう、なんのときだったか。自己表現が乏しく、何も言わないわたしを両親はいつも心配していて、そんなわたしが珍しく物欲を見せたから、大層喜んで買ってくれた、シャボン玉セット。
カラフルなあれは早々にわたしの中で絵本に負けてしまった。だから使わずに残っている、はず。
どこにあっただろう。シューズクロークの奥底だろうか。手探りで探した先に、あっさりそれは見つかった。
ああ、わたしはこんな幼児のおもちゃも上手に扱えないのかと、項垂れる。余計な悲しみを増やしたそれをほんの少し睨んでいると、勝手口の戸がきゅーと音を鳴らして開いた。さよちゃん、なんでここに来たの。
「るあちゃんが何してるのか気になって探したら、お家のどこにもいないからびっくりして、ここが最後だったの」
柔らかなはにかみを浮かべてこちらに駆け寄ってくる。やめてよ。わたしは、何も出来ないんだよ。あなたに照らされて、手を繋がれていないと、いたとしても、何も出来ない。あなたはわたしなんかに繋がれているには、余りにも勿体ないのに。
俯いたわたしの手に、温度の違うそれが触れる。
「しゃぼん玉だ!懐かしいな、昔やったな〜…」
言葉を紡ぐ間もなく、ベタついた容器とストローはさよちゃんの手に渡って、思わずわたしは声をあげた。
「まってよそれ、口、つけたやつ_」
そうして渡っていったストローは、彼女のふっくらとした唇に運ばれていき、肺からやってくる神聖な空気に押し出されて、筒の先の膜は小さな泡と化す。
虹色のシャボン玉。
光がスペクトルごとに分かれて、きらきら輝いて、それを生み出すさよちゃんも、神話の中の女神さまみたいに光っている。目を奪われる。芸術品みたいな横顔がこちらに振り向く動作に、息が詰まる。
わたしの哀しみの残骸は、彼女の一息で、泡沫のようにはじけてしまった。
「久しぶりにやるときれいで楽しい〜!」
わたしは目の前の景色に唖然として、ただ頷くことしかできなかった。わたしの言葉は穢してしまうだけだと思った。芝生の上をくるくる回って歓びを表現するさよちゃんが、ひたすらに眩しい。
「ね、しゃぼん玉の歌ってあったじゃん どんなのだっけ」
憶えはある。易しい歌詞なのに、どこかかなしくて、こわくて泣いていたから。
「シャボンだまとんだ、やねまでとんだ、やねまでとんで…なんだっけ?」
「こわれてきえたんだよ」
屋根まで、気流に乗って頑張って飛んだのに、そこで表面張力が限界を迎えたしゃぼん玉。
頑張ったのにだめだった。そこに世の中の不条理さを読み取ったかつてのわたしは泣いていた。
でも、本当にかなしいのはここじゃない。
「シャボンだまきえた、とばずにきえた」
「うまれてすぐに、こわれてきえた」
咲けないいのちもある。そのことをわたしはこの唄ではじめて知った。そして、どうやらそれは自分のことだと、感じとってもいた。
「こんな歌詞だっけ?なんか…記憶より怖いなー!」
「わたしも…こわかった、すごく」
「だよねえ」
「でもさ」
「その散ったしゃぼん玉だって、きっと全部無駄じゃないよ」
はっと顔を上げた。あなたは、そんなにも明るいのに、わたしのような存在にも、手を伸ばしてくれるの?
「ストローに残った液は次のシャボン玉になる」
「零れた液も、要するに石鹸水なんだから…下の植物の糧になるんじゃないかな」
わたしに、意味を持たせてくれるの。
「きれいなことと同じくらい、価値あることだよ!ねっ」
やわらかくはにかむさよちゃんがわたしを抱きしめる。まるでわたしの存在を肯定するみたいに。
「そう、かも」
「そうだよね〜!」
わたしの周りを、さよちゃんが回る。あなたは恒星なのに。
「ね、るあちゃんのお母さんがサンドイッチ作るって言ってたよ、そろそろ出来たと思う」
「ほんとう?じゃあ、戻ろうかな 」
「うんうん!美味しいもの食べたら、それが幸せ!」
駆け出していくさよちゃんの上を、光が追いかけていく。手にはあなたが咥えたシャボン玉セットが残った。
わたしは止めた。同じのをつかったら、それは…だって、間接的な接吻だと思ったから。
さよちゃんはなんにも気にしなかった。それはきっと…友達なら、同じものをつかうくらい、当たり前のことだから、だと、思う。
あかるいあなたのことを想いながら、もう一度ストローを口につける。今度は優しく、細い息を注ぐと、大きなシャボン玉がひとつ飛んでいった。
ひかりに触れることなんて赦されない。気にしてるのはわたしだけ。
わたしだけが、この泡の中に夢を見ている。
お手洗いの位置は当然丸暗記しているし、玄関先の靴がお父さん、お母さん、わたしの順で並んでいることも、二人で食べていいお菓子がパントリーのどこに入っているかも知っている。
お母さんは、喜んでいるように見えた。わたしには家に呼ぶような友達が小学校にも中学校にも居なかったからだろう。だから毎週末さよちゃんがインターホンを押しに来ても、嫌な顔ひとつせず、スーパーの焼き菓子を出してくれる。
さよちゃんは土曜日の朝にやってきて、日中好きなだけくつろいで、日が沈む頃に帰っていく。まるで太陽の日周運動みたいに、規則的に。でも過ごし方はその時々で違って、共通しているのは、必ずしもわたしとずっと同じことをしたり、一緒に遊ぶ訳ではないということだけだった。
同じ家にいる、それだけ。みたいな。わたしは本を読んでいて、さよちゃんは気に入りの音楽ゲームで遊んでいる。それはとても心地よい時間だった。気を張る必要も、孤独に苛まれることもない、楽園のように。
きっとさよちゃんは、わたしが貴方と出会ってしまった所為でひとりぼっちをこわがるようになったことも、でもひとと話し続けることも僅かに苦痛なことも、全部わかっていて、こんな関わり方をしてくれている。さよちゃんはわたしのことを世界でいちばんわかっている。とてもうれしくて、もどかしい。わたしがもっとひとと関わるのが上手だったら、きっと彼女はわたしを気兼ねなく外に連れ出して、わたしの知らない世界をもっと沢山見せてくれるのだろう。
わたしが心地よい空間とは、さよちゃんがずっと気を遣わなきゃいけない空間のことだと、そう、どうしても思ってしまう。
すこしひとりになりたくて、わたしはさよちゃんのいる自室を出て、庭にやってきた。
さよちゃんにわたしの憂鬱を慰めることなんて赦されない。陽だまりという不必要に明るい空間に出てでも、わたしはひとりにならなければいけない。
茶色く乾いた芝生を眺めていると、不意に幼少期の記憶が甦った。
あれはそう、なんのときだったか。自己表現が乏しく、何も言わないわたしを両親はいつも心配していて、そんなわたしが珍しく物欲を見せたから、大層喜んで買ってくれた、シャボン玉セット。
カラフルなあれは早々にわたしの中で絵本に負けてしまった。だから使わずに残っている、はず。
どこにあっただろう。シューズクロークの奥底だろうか。手探りで探した先に、あっさりそれは見つかった。
ああ、わたしはこんな幼児のおもちゃも上手に扱えないのかと、項垂れる。余計な悲しみを増やしたそれをほんの少し睨んでいると、勝手口の戸がきゅーと音を鳴らして開いた。さよちゃん、なんでここに来たの。
「るあちゃんが何してるのか気になって探したら、お家のどこにもいないからびっくりして、ここが最後だったの」
柔らかなはにかみを浮かべてこちらに駆け寄ってくる。やめてよ。わたしは、何も出来ないんだよ。あなたに照らされて、手を繋がれていないと、いたとしても、何も出来ない。あなたはわたしなんかに繋がれているには、余りにも勿体ないのに。
俯いたわたしの手に、温度の違うそれが触れる。
「しゃぼん玉だ!懐かしいな、昔やったな〜…」
言葉を紡ぐ間もなく、ベタついた容器とストローはさよちゃんの手に渡って、思わずわたしは声をあげた。
「まってよそれ、口、つけたやつ_」
そうして渡っていったストローは、彼女のふっくらとした唇に運ばれていき、肺からやってくる神聖な空気に押し出されて、筒の先の膜は小さな泡と化す。
虹色のシャボン玉。
光がスペクトルごとに分かれて、きらきら輝いて、それを生み出すさよちゃんも、神話の中の女神さまみたいに光っている。目を奪われる。芸術品みたいな横顔がこちらに振り向く動作に、息が詰まる。
わたしの哀しみの残骸は、彼女の一息で、泡沫のようにはじけてしまった。
「久しぶりにやるときれいで楽しい〜!」
わたしは目の前の景色に唖然として、ただ頷くことしかできなかった。わたしの言葉は穢してしまうだけだと思った。芝生の上をくるくる回って歓びを表現するさよちゃんが、ひたすらに眩しい。
「ね、しゃぼん玉の歌ってあったじゃん どんなのだっけ」
憶えはある。易しい歌詞なのに、どこかかなしくて、こわくて泣いていたから。
「シャボンだまとんだ、やねまでとんだ、やねまでとんで…なんだっけ?」
「こわれてきえたんだよ」
屋根まで、気流に乗って頑張って飛んだのに、そこで表面張力が限界を迎えたしゃぼん玉。
頑張ったのにだめだった。そこに世の中の不条理さを読み取ったかつてのわたしは泣いていた。
でも、本当にかなしいのはここじゃない。
「シャボンだまきえた、とばずにきえた」
「うまれてすぐに、こわれてきえた」
咲けないいのちもある。そのことをわたしはこの唄ではじめて知った。そして、どうやらそれは自分のことだと、感じとってもいた。
「こんな歌詞だっけ?なんか…記憶より怖いなー!」
「わたしも…こわかった、すごく」
「だよねえ」
「でもさ」
「その散ったしゃぼん玉だって、きっと全部無駄じゃないよ」
はっと顔を上げた。あなたは、そんなにも明るいのに、わたしのような存在にも、手を伸ばしてくれるの?
「ストローに残った液は次のシャボン玉になる」
「零れた液も、要するに石鹸水なんだから…下の植物の糧になるんじゃないかな」
わたしに、意味を持たせてくれるの。
「きれいなことと同じくらい、価値あることだよ!ねっ」
やわらかくはにかむさよちゃんがわたしを抱きしめる。まるでわたしの存在を肯定するみたいに。
「そう、かも」
「そうだよね〜!」
わたしの周りを、さよちゃんが回る。あなたは恒星なのに。
「ね、るあちゃんのお母さんがサンドイッチ作るって言ってたよ、そろそろ出来たと思う」
「ほんとう?じゃあ、戻ろうかな 」
「うんうん!美味しいもの食べたら、それが幸せ!」
駆け出していくさよちゃんの上を、光が追いかけていく。手にはあなたが咥えたシャボン玉セットが残った。
わたしは止めた。同じのをつかったら、それは…だって、間接的な接吻だと思ったから。
さよちゃんはなんにも気にしなかった。それはきっと…友達なら、同じものをつかうくらい、当たり前のことだから、だと、思う。
あかるいあなたのことを想いながら、もう一度ストローを口につける。今度は優しく、細い息を注ぐと、大きなシャボン玉がひとつ飛んでいった。
ひかりに触れることなんて赦されない。気にしてるのはわたしだけ。
わたしだけが、この泡の中に夢を見ている。
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