失われた風景

【45日目】
昼食の最中に吐き出された溜息にヒョクチェは呆れたように笑った。
現在、一週間ランチを奢るとの約束を律儀に守っている最中だ。
「何、進んでないの?」
「あぁ、大学の卒業生名簿とかで親父の名前から何か割り出せないかとは思ってみたものの…今って個人情報保護だとかでそうそう簡単に連絡先とかわかるわけでもないし。同じ学部だとかそれだけで全員当たるわけにもいかないと思ってさ…」
そもそも、父の専攻はかなり特殊だ。
理学部 宇宙地球物理学科 自分の通っていた大学なのにそんな学科があったことすら初めて知った。
それだけ専門的に勉強していたのにその道に進んだわけではなかったのだから、それもまた不思議な話だ。
「あの探偵が、母さんが言ってた親友の子供だったら同じ姓で当たってみるとか?」
「それも考えてはみたんだけど、同じ学部とは限らないだろ。サークルで知り合ったとかだと学年すら変わってくるし…同じ姓も多すぎるしなぁ…。なにより本人には会えないはずなんだ」
「どうして?」
「キュヒョンの両親も亡くなったって言ってた」
「そっか…」
こうなってくるとどこから切り崩していいものか…。
相変わらず気持ちのいい食べっぷりを発揮していたヒョクチェが入り口の方を見て手を挙げる。
入ってきた長身の美青年は海外事業部の部長のチョウミだ。
ヒョクチェに手招きされてテーブルに近づいた彼は一緒に居るのが自社の社長だと気づくと姿勢を正す。
空いている席を勧めると、一瞬躊躇するそぶりを見せたが素直にそこに着席した。
そこそこの規模の企業とは言えども、本社社屋は小規模だ。
大きくしなかったのは自分の目が配れるようにという父の配慮もあったのだろう。
今となっては確かめる術もないし、シウォン自身も幹部の顔と名前を把握しやすくて助かっている。
チョウミもまた若くに役職に就いたエリートだ。
同期の入社だったヒョクチェとは仲がいいらしい。
「珍しいですね。お二人が外で昼食なんて。仕事の話とかだったらお邪魔になりませんか?」
「全然プライベートだよ。シウォナに貸しを作ったから報酬として一週間ランチ奢ってもらってるんだ」
「結局、なにも解決してないのに貸しかよ」
「手がかりは掴んだかもしれないからいいだろ。で?ミーミは今からメシ?」
急に話を振られたチョウミはにこやかに頷く。
「ええ。取引先との連絡にトラブルがあって…あ。解決したんですけどね。あやうく昼食を食べ損ねるところでした」
こちらに嬉々としてやってきたウエイトレスにランチプレートを注文してグラスの水を一口飲んだチョウミは首を傾げる。
「それにしてもヒョクに一週間のランチなんて破産覚悟ですよ。とんでもない貸しですね」
楽しそうなチョウミにヒョクチェは体ごと向き直る。
「店ごと食う訳じゃあるまいし。…そーだ。例えば!親の親友だった人を探すってなったらミーミどうする?」
全然例えになってない内容にチョウミに笑いを噛み殺すような表情で視線を向けられてシウォンは苦笑いで肩を竦める。
「そうだなぁ…。名前が分かれば日記とか写真なんかあれば速いでしょうけど」
「無いんだよ」
「手掛かりなし?」
「大学で知り合ったってだけで、同じ学年か学部かも分からないみたいだし。名前も姓の方だけ。その子供はフルネームわかるんだけど」
「それは、それは。名簿も今時難しいだろうね」
「珍しい学部だから同じだったら分かりやすいだろうけど」
自分の事のように話しているヒョクチェに、わかっていながらも合わせているチョウミを見ていると何だかおかしくなってくる。
他人事でなはいのだけれど、なんだかすっかり和んでしまった。
「でも、珍しい学部なら今の教授や助教授が学生時代に学んだ人という可能性はあるよね。それくらいの方なら親と同年代ということはあるんじゃないの?」
「…あ」
「それなら大学のホームページに経歴とか載ってる可能性はあるし。ダメ元で探してみるとか?」
「ミーミ…あったまいいー」
「ありがとう」
チョウミはシウォンを見ると「例えば、なので期待はしないでください」と微笑んだ。
「それで、どんな学部なんですか?」
「理学部 宇宙地球物理学科だって」
「また、難しそうですね。…理学部自体は僕が通っていた大学にもありましたよ。妹が理学部でした」
「そうなの?」
「ミーミはS大学出身だよ」
「じゃあ、キャンパスは近くだったんだな」
「はい。そういう話からヒョクとも仲良くなったんです」
運ばれてきたランチプレートに「やっと食べられる」と笑ったチョウミはシウォンに微笑みかけて、そのままヒョクチェに言葉を向ける。
「もし僕に手伝えることがあったらいつでも声かけて」


【56日目】
チョウミの助言とおり、父と同年代の同じ学科を専攻していた教授がいた。
現在はS大学の理学部の教授をしているらしい。
父親の親友の事を探していると詳しい内容は伏せながらも事情を説明すると、快く時間をとってくれた。
こちらの大学にはまた耳慣れない惑星学科なるものがあるらしい。
自分が知らないだけで世の中には宇宙や自然を研究しようとする人間は多いようだ。
「ウォノの子供が今はあの大手の会社の社長だなんて驚くよ」
そう言って笑った教授は学生時代の父の事を色々と教えてくれた。
自分の知らない父親が少しばかり形作られていく。
「親友というのは多分チョ・サンミンの事じゃないかな。あの二人は天体観測が好きで、よく一緒に見に行っててね。何度か誘われたけど毎回はつきあってられなかったなぁ」
姓も天体観測という叔母が口にした言葉とも一致する。
ほぼ間違いないだろう。
「そのサンミンさんにお子さんが居ませんでしたか?」
「卒業してから会うこともなかったけど、結婚して子供が生まれたっていうのは聞いたよ。彼がなくなってからはどうしたのか…」
「じゃあ…子供の事は分かりませんよね…ギュヒョンという名前かもしれないのですが」
その言葉を聞くとその教授は驚いたように目を見開く。
「サンミンの子供の名前は分からないけど、チョ・ギュヒョンという名前なら知ってるよ。それが君の探している人かは分からないけど」
そう言って積み上げた資料をどけながらその後ろの棚から何かを探し出した教授は手にしたファイルを捲って、あるページを広げるとシウォンに一枚の写真を見せた。
「その後ろの左から二番目に写ってる子がそうだけど」
同じ学科のメンバーなのだろうか。
集合写真の言われた場所に写っているのはシウォンの知っているキュヒョンだ。
「…連絡先とかわかりませんか?」
「学生の頃に使っていた携帯とかならわからなくもないけど…多分使ってないと思うよ。彼は勉強熱心だったよ。ただ、詳しいことは分からないけど色々プライベートの方では問題もあったみたいでね。卒業してからは誰とも連絡を取ってないようだし」
「そうですか…」
多分誰も連絡先を知らないのではないかと暗に含んだ言葉にシウォンもそれ以上は追及できなくなった。
それでもただ一つだけの可能性を思い出す。
丁寧に礼を述べて、大学を出るとシウォンは電話をかけた。

「…本当にすいません」
恐縮した様子で自分の前に座っているのはチョウミだ。
結局あの後、ヒョクチェに電話をかけて、チョウミに連絡を取ってもらった。
以前チョウミがS大学の理学部に妹が行っていたと話していたからだ。
彼の妹ならキュヒョンと同じくらいだろうか。
学科は違っていてももしかしたら知っている可能性はある。
そして、その期待は裏切られることはなかった。
キュヒョンのことを知っているという。
チョウミに聞き出してもらうのも手間だし、もしよかったら会って話をさせてもらえないかと頼むと「兄と一緒でもよくて、食事でもごちそうしてもらえるのなら」と、こちらが快諾できる条件で了承してくれた。
そして、都合がいいと言っていた時間と場所で待つこと30分。
未だ彼の妹は現れていない。
「大丈夫。こっちが無理言ったし」
「無理じゃないですよ。大体時間も場所も指定したきたのは妹ですし…」
はぁ、とチョウミが息を吐きだしたところにフラフラとした足取りの女性が入ってくる。
ガツンと入り口近くのショーケースにぶつかって、ケースに謝りながらずれたメガネを押し上げた。
きょろきょろと店内を見渡すと、こちらにやってくる。
「…すみません。お待たせしました。兄がお世話になっております」
「ジア…また、そんな恰好で…」
シンプルなニットにデニムパンツ。
どうやら白衣らしきものを纏った上からダウンのジャケット。
肩までの髪をきゅっと後ろで一つにまとめてはいるが、長めの前髪がメガネを半分隠している。
化粧っ気はないがそれでもさすがにチョウミの妹というだけあって美人の部類に入るだろう。
キュヒョンを初めて見た時を思い出した。
「こちらこそ、無理を言ってすみません」
「いえ。キュヒョン先輩のお話を聞きたいってどんな人なのかと…」
興味がありました、そう言って微笑む。
「ジア、せめて白衣くらい置いてこれないの?」
「あ…。忘れてた」
「人に会うんだから少しくらい化粧も…」
「めんどくさくて。…ほんと、お兄ちゃんと私、中身が逆だったらよかったわねぇ」
声を出して笑うジアに頭を抱えるチョウミと何食わぬ顔でグラスに口をつけるその妹の姿は微笑ましい。
「それで、キュヒョン先輩の何をお話すれば?」

事故で子供の頃の記憶を無くしていて、その記憶の中に彼がいる可能性があること。
その頃に預けていたものを返してもらったこと。
そして、彼がそのまま消えたこと。
自分が返したい物があること。
それを簡単に説明すると、ジアは納得したように頷いた。
「ストーカーとかではないようで安心しました」
「ジア…本当にすみません…」
「いや、そういうのありそうなんだよね。彼の場合。でも聞いたところ大学時代の友達とか連絡取ってないとか聞いて…。それでも誰か心当たりがあればと思ったんだけど」
ふっ、と眉尻を下げるように笑ったジアはシウォンを真っ直ぐに見る。
「あの頃のキュヒョン先輩の話を他の人から聞いていないなら幸いです。とにかく勉学に関しては教授達からも一目置かれるほど熱心でした。でも学生の中ではよくなかったんですよね」
「…どうして?」
「…他の人から耳に入るくらいなら、私が話す方がいいかと思うので、お話ししますが…。噂がありました『チョ・ギュヒョンは一回やった女はすぐに捨てる』それが本当かどうかはわかりません。ただ、付き合ってる女性が短期間で変わってたのは本当です。それから男性とも付き合ってるって噂が…」
「…え?」
「あ…そうか…少し待ってくださいね」
ジアは鞄からモバイルを取り出すと店の出口に向かう。
しばらくして、戻って来るとニッコリと微笑んだ。
「キュヒョン先輩の今の連絡先はわかりませんけど、実家の住所ならわかりましたよ」
「誰か、知ってる人がいた?」
「はい。キュヒョン先輩の元彼氏で、私の元カレでもある人が」
その言葉にチョウミとシウォンは口を開けたまま固まった。
「ちょ…ジア!どういうこと⁉」
「キュヒョン先輩が男性と付き合ってたってことは本当って事」
「そういうことじゃなくて!」
「はいはい、お兄ちゃんはだまってて」
ポンポンと隣の兄の肩を叩いてジアは笑った。
「それを含めた上でも、私はキュヒョン先輩が噂どおりの人だとは思ってません」

そして、その理由を語ってくれた。
ジアが大学生活で大変だったのは人との付き合い。
人と一緒でないと行動できないタイプではない。
寧ろ一人で動くことの方が楽だ。
だからと言って人との付き合いをすべて拒否しようとも思っていない。
友達だってそれなりにはいるし、友達の誘いもちゃんと受ける。
「急に一人参加できなくなったから」と誘われた合コン。
それが主役の引き立て役だということは言われなくてもわかっていたし、特に彼氏が欲しいと思っていたわけでもないジアはこれまた言われるまでもなく控えめに食事を楽しんでいた。
そんな彼女に声をかけてきたのは、その場の女子一同が一番に狙っていたイケメンだ。
「さっきから美味しそうにたべてるなぁ、って思って」
そう言って笑った人は、自分の兄で「美形」という人種にそこそこ免疫のあるジアですら少し見惚れるほどだった。
連絡先を交換して、何度か会って、付き合いを始めた。
優しくて、自分にはないいろんな世界の話をしてくれる人だった。
彼のバイトが終わるのを店で待っていると、その店に見たことのある人物居た。
それがキュヒョンだ。
バイト仲間だと教えられた。
「とりあえず話すことでもないし、話せば長くなるので端折りますが」
「端折るとか、なんだよ」
「うん。黙ってようか、お兄ちゃん。…しばらくして彼がキュヒョン先輩とも付き合ってることをしりました。要するに私とキュヒョン先輩二股かけられてたんですよね」
はぁ、と大きく息を吐いて肩を竦めたジアは小さな声で、ふざけてる、と呟いた。
「当然と言えば当然ですけど、別れました。キュヒョン先輩も。そしたら彼、大学まできて泣きついたんですよ、キュヒョン先輩に。私じゃなくて。信じられます?私だとしても許せないので一緒ではありますけど。あのバカのせいでキュヒョン先輩が男と付き合ってるって噂があっという間に広がりました。そのせいであることないことまで…成績が優秀なのはあの人自身の努力なのに教授と寝たんだとか」
「…ジアさんは、そんな事があってキュヒョンの事は嫌いじゃないの?普通ならキュヒョンの事も嫌いになりそうなのに」
「そうですね。もちろん腹立たしかったですよ。でも先輩も彼が私と付き合ってるなんて知らなかったわけですし…。それに先輩に謝られちゃって」
学校でジアに会ったキュヒョンは頭を下げて「知らなかったとはいえ君を傷つけることになってゴメン」謝罪した。
「先輩が謝る必要はないです。それなら私もあなたに謝らなきゃならなくなっちゃうじゃないですか」
ジアがそう言うとキュヒョンが苦笑いした。
「…君は…彼が好きだった?」
「もちろん。でも、あの人に謝られるのは当然としても先輩からは違う気がします」
「僕は…友達以上には結局見れなかった。気持ちが大きい人の方が絶対辛い。だから僕が謝るのは当然だと思う」
「…だったら。一回殴っていいですか?」
キュヒョンは驚いたように目を瞠って、そのあと笑って「どうぞ」と言った。
だからジアはその頬を叩いたのだ。
「そのせいで先輩と私が付き合ってて、結局私が捨てられた腹いせに殴ったんだって話が…。一応否定はしたんですけどねぇ。噂なんてそういうものらしいです。先輩に言わせると」
運ばれてきたパスタを食べながらジアが顔をしかめた。
話している内容のせいなのだか、これじゃあパスタの味がよくないようにも見えかねない。
「…その彼氏は男としては最低かもしれないけど」
シウォンの言葉に頷くジアとチョウミに笑って、シウォンは続ける。
「ジアさんや、キュヒョンを選んだという点で人を見る目はいいんじゃないかな?」
口元をナプキンで拭いて、ジアはカバンを探ると手帳を取り出して破った一枚をシウォンに手渡した。
「これ。ご実家の住所です。…余談ですけど。大学に入って先輩が最初に付き合った彼女は 外見は清楚で大人しい女性ですけど、中身はプライドと自意識だけは高い子でしたからあの子が別れた時にみんなに言い触れていた事だけは絶対に信じてませんから」
「断言するね」
「ええ。小学生の時から知ってる子なので」
心当たりがあるのか、チョウミが「あー…」と小さく頷いた。
その兄の横顔に妹が小さく笑う。
やっぱり兄妹っていいものだな、なんて思いながら手の中の紙切れを胸のポケットに仕舞った。
やっとつかんだ手がかりはまた驚くようなものだった。

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