失われた風景

【35日目】
資料は揃った。
あとは、本人の意思確認だけだ。
会議室に現れた開発部の責任者、キム・ヨンソクはそこに並んだ顔ぶれに一瞬戸惑ったような表情を浮かべる。
「今日は一体どのような会議なんでしょうか?」
前の席を勧め座るのを確認すると、ソンミンがその前に資料を置いてシウォンの横に座る。
反対側の隣に座っているヒョクチェは落ち着かないと言いたげに椅子を揺らした。
「どうぞ御覧ください」
ソンミンの言葉に一枚目を捲ったヨンソクは弾かれたように顔をあげる。
「…これは」
「失礼だとは思いましたが調べさせていただきました。単刀直入にお聞きします。他社からの引抜きの話は本当でしょうか」
ヨンソクは黙ったままでそこから先の資料を捲ると諦めたように笑った。
「よくここまで…。正直悩みました。ここに書かれているとおり金が欲しい状況ではありますから。けれど、この会社を裏切ることもしたくはなかった。先代には目をかけていただきましたし、思い入れもあります。それに私も定年まであと少しですし、それまで勤めあげれば退職金でも少しは足しになるかと断るつもりでした」
「ところが容態が悪化した」
ヨンソクは力なく縦に首を揺らした。
「あと少しとはいえ定年までと悠長な事を言ってられなくなりました。ですから先方と会うことにしたんです」
「確かに破格の金額ですよね」
「はい。でも会っても決心するまでには至りませんでした。彼らは私の技術力だけを買ってくれたわけではないと分かりましたし」
その言葉にヒョクチェが首を傾げる。
「どういうことですか?」
「情報提供です。特許に関する」
「インサイダー取引が可能になるって寸法か」
「そんなことをしたとしてもすぐに出所なんてわかるのに…。要するに私が必要なわけではなく私が持っている情報が欲しいということでしょう」
自分が彼の立場ならどうしただろうか。
寧ろ自分には人のためにそこまでの犠牲を払えるのかと考える。
「相談してくださればよかったのに」
「自分の身内であればそうしたかも知れません。しかし血の繋がりがあるわけでもない。それでもあの施設は私が育った場所で今そこにいる子供は私にとっては身内みたいなものです」
彼は施設出身だった。
奨学金とバイトをしながら大学に通い優秀な成績で卒業。
その後、この会社に就職した。
先代と同期で、そのころからの付き合いらしい。
父は奨学金を返済しながらも時折は施設に寄付をしていた彼に、才能相応の報酬と施設への定期的な寄付をしていたようだ。
会社からの寄付は今でも続いている。
それゆえにこれ以上の迷惑はかけられないとヨンソクも施設側も公にはしていなかったようだが、難しい病気を抱えた子供がいるらしい。
手術をして、成功すれば普通の子供たちとなんら変わらない生活が送れるはずだが国内では手術をできる医師がなく海外での手術をしなければならないそうだ。
ヒョクチェは相変わらずつまらなさそうに床を見つめたままで。
「誰だって生きたいと思う気持ちは本当なのに、自分が居る場所のせいで遠慮ばかりするなんておかしいよね」
と呟いた。
「そこで提案が…。募金団体を作る気はありませんか?こればかりはこちらで勝手に作るわけにもいきません。施設の事も病気を抱える子も公になります。もちろん私たちが出来ることはお手伝いしますので、考えてみてください。それが可能になった時点で社内でも募金を募ります。そして会社からももちろん寄付させていただきます」
シウォンの提案に横にいる二人が口角を上げる。
「許可がいただけるならすぐにでも行動できるようにヒョクチェとソンミンに動いてもらいました。それからヨンソクさんがよければ退職までの給与を前払いという形を取らせてもらいます。その代り月々の給料と退職金はかなり少なくなりますし、申し訳ありませんが定年後も技術後継のため頑張っていただく可能性もありますが」
いかがですか?
まるでその言葉に祈るように手を組んだヨンソクが頭を下げる。
「そうしていただけるならどれだけありがたいことか…先代だけでなく社長にまでお世話になりっぱなしで…」
「いえ…父ならもっと早く、上手く対処出来ていたかもしれません。それにあなたの技術力に我社は頼っていますから。そんなことに僕は今まで気づけなかった。気づこうともしませんでした。会社のために懸命に動いていたつもりでしたが肝心なところを何一つ見ようとしていなかった…。それに気づかせてくれた人のお陰です」
自分が懸命になるだけではだめなのだと。
自分を支えていてくれる人たちに目を向けなければならないのだと。
もし彼が自分の見えないところで、失った記憶の中で自分を支えていてくれた一人だというのなら探し出さなければ。
彼が世界を変えたんだ。
こんなにも愛おしいものに。

【41日目】
「頼むよヒョク」
「そりゃあ、シウォナのことは手伝ってはやりたいけど…」
苦笑いしたヒョクチェに気持ちは分からなくもない。
とりあえずヨンソクの件はなんとか落ち着いたし、社内で協力を要請すると驚くほどの募金が集まった。
彼を慕う部下、それ以外の社員ももちろん、直営のショップの店員までが協力してくれたのだ。
あとはキュヒョンを探す。
ペンダントの事を聞くという理由があれば探すには十分な理由にはなる。
本当はただ会いたいだけなのだけれど。
とりあえず探偵事務所に連絡はした。
当然と言えば当然個人の情報については教えられないと言われた。
それでも所長らしき人物が「彼は当事務所を退所していますので、彼が仕事において何かミス、及び満足できない調査内容のままで仕事を終えたというのであれば別の所員に伺わせます」とだけは答えてくれた。
多分精一杯の許容範囲内で答えてくれたのだろう。
キュヒョンはもうあの事務所の探偵ではない。
シウォンの仕事を終えたあの日が最後の日だったようだ。
「人探しのご依頼なら引き受けないわけでもありませんが」
おどけたようにそう告げた声に自然に笑みがこぼれた。
「いえ…自分で探しださなきゃいけないので」
なぜだかそう思った。
誰かに探してもらうのではなくて自分で探さなければ。
そうは思ったもののどこからどう手がかりを探せばいいのか。
彼が子供の頃の自分の宝箱である箱の鍵を持っていたのなら接点はそこしかない。
父も、自分の本当の両親もいない今、自分の子供の頃を知っているのは叔母だけだ。
だから叔母に連絡を取ってみたのだけれど…。
「話くらいいくらでも。でも、条件があるわ。ヒョクチェを連れて帰ってきて」
声は柔らかいけれど有無を言わせない叔母の迫力にシウォンはとりあえず了承の返事をしたのである。
「お前、随分帰ってないんだろ?叔母さんのこと嫌いなわけじゃないだろうに」
「嫌いじゃないよ、ちゃんと好きだけどさ…けど苦手なんだよ」
「…まぁ、あの溺愛ぶりはすごいと思うけど」
「それに最近は山のような見合い写真押し付けられるんだ」
「あー…。お気の毒に」
「…言っとくけど、お前も行ったらお見合い写真とか見せられるぞ」
「適当に言い訳する。お前みたいに溺愛されてないからなんとでもごまかせるだろ」
「うっ…卑怯者」
それでも「来週一週間ランチ奢りで」という条件でヒョクチェは笑って翌日一緒に家に向かってくれたのだ。
「おかえり!ヒョク、相変わらず私の息子は可愛いわね、今日はゆっくりして行ってよ。あなたの好きなものたっくさん用意したんだから!あ、シウォナ。久しぶりね。元気そうで何よりだわ」
ヒョクチェをギュっと抱きしめたまま笑顔でそう言った叔母に本気で笑ってしまう。
若くに息子を授かったのと、日々の努力の賜物なのか叔母と言ってしまうには抵抗を感じるほどの若さと美貌だ。
「それにしてもあなたが兄さんの話を聞きたいなんて言うと思わなかったわ」
紅茶の入ったカップを前に置いて、座った叔母はそう言う。
「なんだか…どっちにも悪い気がして」
無くなった両親の事を育ててくれた両親に聞くのは悪い気がした。
実際はそんなことはなかったのかもしれないけれど。
自分の記憶がなくて支障がなかったせいもあるのだろう。
「じゃあ、またどうして今頃になって?」
「うーん…アイデンティティーの構成をしたくなったというか」
「…自分の事を知りたくなるような人に出会ったの?」
驚いて彼女を見るとにっこりと微笑んだ。
洞察力の良さはさすがあの息子の母親といったところか。
「ふふっ。何年あんたの叔母さんやってると思ってるの?あなたも私にとっては可愛い甥っ子なのよ」
「…お見合い写真寄越せとか言い出しませんよね」
「ヒョクね…。もうやらないわよ」
ぷくっと頬を膨らませた叔母は手をパンと叩いた。
「さて、何を聴きたいのかしら?夕食は食べていくでしょ?ゆっくり話してあげるわ」
父の書斎に置いてあった小箱の鍵を探していたら他人が持っていた事。
そして小箱自体がシウォンの子供の頃の宝箱だったことをヒョクチェが思い出してくれた事。
中から鍵を持っていた人物の事らしきメモが出てきた事。
そしてその人が自分の前からいきなり姿を消した事。
ざっと纏めたその話を聞いて彼女は納得したように頷いた。
「小箱…これくらいのツタの模様が入ったやつのことよね。あれは、事故にあった時にもシウォナが大事に持ってたものだってセヨン兄さんが言ってたわ」
セヨンは育ててくれた父親、長男で本当の父のウォンホは次男だ。
記憶がなくなっていると知ったセヨンはそれを社長室に保管した。
その箱のせいでつらい記憶が戻るきっかけになるのが怖かったからだと彼女は言う。
もし、記憶が戻って本当にその箱が必要なら何か聞いてくるだろう、その時に渡せばいいと考えていたようだ。
「鍵がかかっているから開けられないって。あの事故で無くなったんじゃないかって言ってたんだけど。それを持ってる人が居たならシウォナがそれを渡したのかしら」
「多分そうだと思います。子供の頃に仲が良かった…友達だったのかも」
「そうねぇ。友達とかだと学校の子とか?それなら探すのも大変…あ。シウォナの友達ではないかもしれないけど、ウォンホ兄さんと親友だって、よく一緒に星を観に行ってたご夫婦は居たわね。たしかあなたと歳が変わらないくらいの子供が居た気がするけれど」
「その人達のことわかります?」
残念だけど、と叔母は首を振る。
長男のセヨンが会社を継ぐことが決まり、経営の手伝いをするようにとは言われていたが「自分のしたいことをやる」と早々に家を出たウォンホは大学時代知り合った女性と結婚して小さなパン屋を始めた。
別に家族も反対したわけではないが、協力的というわけでもなくなんとなく疎遠になっていた。
だから事故で亡くなった時に弔問に来てくれたその夫婦から色々な話を聞いたのだと叔母は言った。
「…星って」
箱の中に入っていたメモにも見た言葉を無意識で口にした。
「ウォンホ兄さん好きだったのよ。大学も天文台があるからって理由だけで選んだくらいだから。そのお友達とも天体観測のサークルに入っててその時に知り合ったんだって言ってたわ」
「天文台…俺が行ってた大学にもあったような…」
「ええ。同じ大学よ」
それなら、何かしら大学で調べられるのかもしれない。
少しは光が射した。
知らなかったのねぇ、と少し驚いたようにそう言って、叔母はキッチンに立つと、ソファに座って足元に纏わりつく犬とじゃれあっている息子を微笑ましく見つめて袖をまくり上げた。
「シウォナ、何か食べたいものはないの?」
「…特にないですねぇ」
「もう、作り甲斐のない子ね」
そう笑って腕によりをかけた料理を並べてくれた。
ヒョクチェが食べているのを何より楽しそうに見ている彼女を見て実感する。
やっぱり誰かと食べるのが美味しい理由なんだと。
自分が作ったものを食べてくれる人が居るのが楽しいのだと。
それなら、あの二週間。
キュヒョンは少しでも朝出してくれるスープを俺が食べるのを見て楽しいと感じてくれたのだろうか。
それならいいのに。
また、あのスープを飲めたらいいのに。
そう思った。
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