失われた風景
【13日目】
窓の外の流れる景色を眺めるともなく見ていると、隣の運転席から派手な溜息が聞こえてきてそちらに視線を向ける。
「本当にこれでいいの?」
「…うん。迷惑かけてゴメン。逃げるみたいで申し訳ないけど…」
最初から二週間の約束だった。
それでよかった。
だから決めてたんだ。
それ以上はここに居られない。
「逃げるみたいじゃなくて、逃げてるよな?」
「…そうだね」
「まぁ…そうするってことも知ってたから今更言える義理でもないけど」
「うん、ごめん」
前を見たままのソンミンがもう一度小さく息を吐きだす。
今日「鍵」を置いて出ていくつもりだったのはシウォンの依頼を引き受けた時に決めていたし、決まっていた。
自分の我儘にソンミンや探偵事務所のみんなを巻き込んでしまったのは本当に申し訳ない気持ちだけれど。
それでも、これでやっと自分の中の区切りが付けられる。
予想外のことがありすぎて、区切りはついてもまだ多少の未練はあるのだけど。
それは時間がどうにかしてくれるだろう。
空港前のロータリーに滑り込んだ車が停車するとキュヒョンはシウォンの家へ来た時と同じボストンバックを抱えて降りる。
「本当にありがとう。ソンミニヒョン、元気でね」
「お前も。何かあったらすぐ連絡しろよ」
「うん。大丈夫だよ、俺は」
ソンミンが諦めたように微笑んだのに微笑み返すと、一歩。
やっと自分の一歩が踏み出せた気がした。
休日の朝はいつもよりゆっくりと起き出す。
それが一番の贅沢で休日の醍醐味だ。
部屋を出て、違和感に気づく。
何故だかわからない胸騒ぎがした。
リビングのドアを開けてコンロの前に立つキュヒョンの姿がないことにとてつもない焦燥感を覚える。
違和感の正体はこれか。
二週間前はこの風景が当たり前だったのに、今はただキュヒョンが居ない事に違和感しかないのだ。
「キュヒョン?」
窓から入ってくる柔らかい陽射しとは対称的なほどシンと冷えた空気にその名前が溶けて消える。
テーブルの上には大きめの封筒に入った「報告書」とその上にメモが置かれていた。
そしてそのメモ紙を押さえるように置かれていたのは…。
「これ…」
キュヒョンのペンダント。
【シウォンさん 「鍵」をお返しします。報告書があなたの会社にとって大事な「鍵」になりますよう。 これで依頼調査終了です。ご迷惑をお掛けしてすみません。この鍵があなたの人生に幸運をもたらしますように キュヒョン】
「どういうことだ…?」
封筒の中の資料にざっと目を通してソンミンに電話をかける。
ほどなくして出た相手はシウォンの話に慌てたように「今すぐにそちらに向かいます」と告げて電話を切った。
あとは身内でもあるし、何かと顔の利くヒョクチェにだけは話しても大丈夫かと同じように呼び出す。
椅子に腰を降ろして今起きていることを整理しようとしてみるが一人では上手くいきそうになかった。
確かにこの内容が事実なら、会社の鍵であることは間違いない。
けれどこちらが依頼した「鍵」はこんなことではないのだ。
細いチェーンを持ち上げる。
忘れて行ったわけではないだろう。
いつでも身に着けていたものだ故意に置いていったとしか考えられない。
何故?
自分の顔の前で揺れているペンダントトップはの小さなチャームはロケットになっているようだ。
掌に乗せてじっくりと眺めるとツタの模様だろうか、美しい彫刻の一部にシウォンは目を瞠った。
まるで彫刻に隠されるように刻んであるのは家紋だった。
それも自分の。
そしてその彫刻と似た装飾をされたものを思い出す。
「まさか」
ロケットを開くと、中に折り返されたように鍵先が収められていて、鍵先を出して閉じるとそれは「鍵」になった。
細工した様子はないから元からこういう仕掛けになっていたようだ。
リビングを出て書斎に向かう。
会社から持ち帰っていた卓上の箱には四隅ツタらしき装飾が施されていた。
鍵を鍵穴に差し込んで回すと、当然のように解錠され、ゆっくりと蓋を開けると中からはガラクタとしか思えない物ばかりが入っていて、これが父のものとは到底思えなかった。
数枚の紙きれ、キャラクターのマスコットキーホルダー、小さな貝殻。
カタカタと音を立てていたものの正体は紙で包まれたマーブル模様のビー玉だった。
そしてそれを包んでいた紙に覚束ない字で「キュヒョナのおほしさま」そう書かれていた。
「キュヒョナ…キュヒョン…?」
これはキュヒョンものだったということか?
彼がカギを持っていた事実から、同じ名前の誰かだとは考えにくい。
それなら「鍵」を返すという表現はおかしい。
そもそも彼は一体この箱とどういう繋がりがあるというのか。
何にしても彼に話を聞く以外に手掛かりはない。
けれど、この家にはすでにキュヒョンの気配は何一つ残っていなかった、このペンダント以外は。
ソンミンとヒョクチェが揃ったところで資料を広げる。
内容を確認してソンミンは天を仰いだ。
「これが本当なら早く手をうたないと、ですね」
「ソンミン。今一応仕事外だから、敬語じゃなくていいよ」
「…話は聞いたことはあったけど、こんな深刻な状況だなんて誰も知らないんじゃないかな?」
ヒョクチェの言葉に視線を向けると「聞きかじっただけだから」と苦笑する。
「多分この人、先代と親しかったと思う」
ソンミンがそう言いながら手に持っていた紙をパンと指で弾いた。
「親父と?」
今、この面子で会社で事を起こせば異変に気付く人間もいるだろうと、とりあえずはここで話をまとめることにした。
父と親しかったなら顔くらいは見覚えがあるかと思ったが添えられている写真の人物は見覚えがない。
寧ろ会社にこんなに貢献している人物だというのに知らない自分にも嫌気がさした。
いや、知ろうとしなかったということか。
全てが上手くいっているようで、全然うまくいっていない。
そんな違和感ばかりが苛立ちと焦りになる。
「で?探偵さんは?」
「…居ない」
「居ない?え、仕事終わったから出てったの?」
「多分」
「多分ってなんだよ」
「俺だって知りたいよ。朝起きたらここにこの資料と鍵が置いてあったんだ」
「挨拶なし?」
「このメモだけ」
置いてあったメモを見せるとヒョクチェは楽しそうに笑う。
「鍵。あったってこと?開いた?何が入ってたんだよ」
黙ったままで箱をヒョクチェの方へ押しやると、それを開けて明らかに残念そうな顔をする。
「なんだよー、これ」
「俺が聞きたい」
何かに気づいたようにヒョクチェは小箱を掲げてしばらくじっくりと眺める。
「あ。これ…」
「なんだよ」
「思い出した。シウォナの宝箱だ」
「…は?」
「だからシウォナが子供の頃大切にしてた宝箱。このキャラクター好きだったろ?…っても、覚えてないかぁ」
「…それ、もっと早く思い出せよっ‼!」
「知るかよ。自分のものならともかくシウォナのまで覚えてられるか。そもそも子供の頃の記憶なんて大概覚えちゃいないだろ」
その言葉はシウォンも口にした。
キュヒョンに聞かれて。
事故で子供の頃の記憶がないのだと言った時に記憶がないのは不安かと聞かれた。
『大人になってからなら不安だったかもしれないけれど。でもさすがに7歳くらいの事だから…。普通に記憶がある人間だってそれくらいの歳のことなら大人になればあやふやなものだろ?…不安とは違うけど、たまにね。大切なことを忘れてるような気はするよ』
そうだ。
きっと、これは大切な記憶のはずだ。
「全く。この件も動かなきゃならないのに、キュヒョンの事も探さなきゃ」
顔を上げたソンミンがシウォンに向ける視線に気づいて「何?」尋ねると首を横に振ってふっと笑った。
「探すの?彼を?」
「ああ、鍵を持っていた理由が知りたいし」
「え⁉ 鍵持ってたの?」
驚いた様子のヒョクチェの前にペンダントを下げた手を差し出すと首を傾げる。
「…催眠術でもかけるのか?」
「…鍵。ここに来た時からキュヒョンが着けてた」
「初日からつけていた事に気づいてた?」
今度はソンミンに驚いたように尋ねられて頷く。
「無意識だったんだろうけど、何か有るごとにソレに触ってたから気づかない方がおかしいくらいだ」
「探すのももちろんシウォナの自由だけど。これを片付けないと動けないよ?」
「もちろん。片付けてからじゃないと会えないだろ。せっかくここまで調べてくれたんだから」
満足そうに頷いたソンミンに笑って、資料を広げる。
「さぁ、どう動こうか?」
出来そうな事を具体的に上げていく。
本人に了承を取らないと動けないこともあるけれど、取れ次第動けるように準備をする手はずをたてた。
ここはソンミン以外に適任は居ないはずた
あとは周りに悟られないよう。
ヒョクチェにはその辺りの下調べを任せることにする。
大体のプランが出来上がる頃にはすっかり日も傾き始めていた。
「腹減った…」
力なくテーブルに突っ伏したヒョクチェにもっともだと頷く。
よくよく考えれば朝から何も食べていない。
「デリバリーでも頼むか」
「だね。もう外で食べる気分でもないし」
ソンミンがメニューを纏めているホルダーを取りに行こうとした時に呼び鈴が鳴る。
玄関に向かってドアを開けるといつもの穏やかな笑顔のリョウクが居てなんだか日常に引き戻された気分になった。
「こんばんは、夕食作りにきました」
「え…?今日は日曜だから頼んでないよね」
「はい。シウォンさんからは。でも昨日ギュ…キュヒョンさんの依頼で。ちゃんと雇われましたよ?」
「いや、正直助かるけど…」
「では失礼します」
ペコリと頭を下げてリョウクは中に入るとキッチンに向かう。
キュヒョンは一体どこまで読んでいたんだろうか。
こうなるだろうと予想していたということだ。
リビングに戻るとソンミンとヒョクチェが何事かと問うようにこちらを伺うから、肩を竦めて返事をする。
「うちに来てくれてる家政婦のリョウクくん。夕食作りに来たてくれたって」
椅子から立ち上がってヒョクチェが心底嬉しそうに微笑んだ。
「マジ⁉助かったー」
「…ほんとに」
「何か食べたいものありますか?」
出来るだけご希望に沿えるようにします、と笑ったリョウクにシウォンは一つだけリクエストをすると、彼は目を丸くた。
「えっと、それでいいんですか?」
「うん。あ、二人の意見は聞いてやって、一応」
「僕はシウォナと同じでいいよ」
ソンミンはパソコンに何やら打ち込んで今回の件で必要な手続きなどの資料を集めている様子のままでそう言った。
「俺、玉子サンド食べたいー。がっつり食べたいけどそれどころじゃなさそうだし」
「わかりました。あー…玉子どうしますか?ゆで卵のサラダみたいにします?スクランブルエッグか厚焼きの方がお好みですか?」
「ふわっふわの玉子焼き!」
にっこりと笑ったリョウクは調理を始める。
その間、こちらの事は気にする様子でもなく頼まれたことだけをきっちり熟す様子はさすがにプロだなと感心させられた。
出来上がった料理をテーブルに並べるとリョウクはエプロンを外す。
「出来ました。暖かいうちにどうぞ」
塩だけのおむすびとスープ。
そして厚焼きの玉子サンド。
トーストされた玉子サンドにかぶりついたヒョクチェはそのまま一瞬固まった。
「うまっ!何これ。ほんとにふわっふわなんだけど」
「…本当においしそうに食べてくださいますね…」
ヒョクチェの食べっぷりにリョウクが笑う。
そしてシウォンもおにぎりを口にする。
程よい力加減で握られたご飯粒は口の中でほろりとほぐれる。
確かに美味い。
でも…
「…キュヒョンに作り方教えたのリョウクくんなんだよね?」
「え…。あぁ、おにぎりですか?まぁ、ごはん握るだけですけどね。…カタチとか歪でもキュヒョンさんが作った方が美味しかったでしょう?」
ふふっとリョウクが笑う。
「僕はお仕事ですから食品用の薄いビニール手袋をつけてますし。おにぎりの一番美味しい作り方って炊き立ての火傷しそうな熱いご飯を素手で握るんです。彼はそれをちゃんとやってた。だからちゃんと愛情が入るんですよ。それに…一人より一緒に食べるのも美味しい理由です」
ヒョクチェがおむすびにも手を伸ばして、また「美味い」と笑って。
「なんだ。もうシウォナにも一緒にいるだけで楽しくて、何を食べても一緒だってだけで美味しく思えるような人。いたんじゃないか」
なんて言われて。
そこでようやく感情に名前を付けることができたのだ。
そうか。
俺はキュヒョンの事が好きなんだ。
窓の外の流れる景色を眺めるともなく見ていると、隣の運転席から派手な溜息が聞こえてきてそちらに視線を向ける。
「本当にこれでいいの?」
「…うん。迷惑かけてゴメン。逃げるみたいで申し訳ないけど…」
最初から二週間の約束だった。
それでよかった。
だから決めてたんだ。
それ以上はここに居られない。
「逃げるみたいじゃなくて、逃げてるよな?」
「…そうだね」
「まぁ…そうするってことも知ってたから今更言える義理でもないけど」
「うん、ごめん」
前を見たままのソンミンがもう一度小さく息を吐きだす。
今日「鍵」を置いて出ていくつもりだったのはシウォンの依頼を引き受けた時に決めていたし、決まっていた。
自分の我儘にソンミンや探偵事務所のみんなを巻き込んでしまったのは本当に申し訳ない気持ちだけれど。
それでも、これでやっと自分の中の区切りが付けられる。
予想外のことがありすぎて、区切りはついてもまだ多少の未練はあるのだけど。
それは時間がどうにかしてくれるだろう。
空港前のロータリーに滑り込んだ車が停車するとキュヒョンはシウォンの家へ来た時と同じボストンバックを抱えて降りる。
「本当にありがとう。ソンミニヒョン、元気でね」
「お前も。何かあったらすぐ連絡しろよ」
「うん。大丈夫だよ、俺は」
ソンミンが諦めたように微笑んだのに微笑み返すと、一歩。
やっと自分の一歩が踏み出せた気がした。
休日の朝はいつもよりゆっくりと起き出す。
それが一番の贅沢で休日の醍醐味だ。
部屋を出て、違和感に気づく。
何故だかわからない胸騒ぎがした。
リビングのドアを開けてコンロの前に立つキュヒョンの姿がないことにとてつもない焦燥感を覚える。
違和感の正体はこれか。
二週間前はこの風景が当たり前だったのに、今はただキュヒョンが居ない事に違和感しかないのだ。
「キュヒョン?」
窓から入ってくる柔らかい陽射しとは対称的なほどシンと冷えた空気にその名前が溶けて消える。
テーブルの上には大きめの封筒に入った「報告書」とその上にメモが置かれていた。
そしてそのメモ紙を押さえるように置かれていたのは…。
「これ…」
キュヒョンのペンダント。
【シウォンさん 「鍵」をお返しします。報告書があなたの会社にとって大事な「鍵」になりますよう。 これで依頼調査終了です。ご迷惑をお掛けしてすみません。この鍵があなたの人生に幸運をもたらしますように キュヒョン】
「どういうことだ…?」
封筒の中の資料にざっと目を通してソンミンに電話をかける。
ほどなくして出た相手はシウォンの話に慌てたように「今すぐにそちらに向かいます」と告げて電話を切った。
あとは身内でもあるし、何かと顔の利くヒョクチェにだけは話しても大丈夫かと同じように呼び出す。
椅子に腰を降ろして今起きていることを整理しようとしてみるが一人では上手くいきそうになかった。
確かにこの内容が事実なら、会社の鍵であることは間違いない。
けれどこちらが依頼した「鍵」はこんなことではないのだ。
細いチェーンを持ち上げる。
忘れて行ったわけではないだろう。
いつでも身に着けていたものだ故意に置いていったとしか考えられない。
何故?
自分の顔の前で揺れているペンダントトップはの小さなチャームはロケットになっているようだ。
掌に乗せてじっくりと眺めるとツタの模様だろうか、美しい彫刻の一部にシウォンは目を瞠った。
まるで彫刻に隠されるように刻んであるのは家紋だった。
それも自分の。
そしてその彫刻と似た装飾をされたものを思い出す。
「まさか」
ロケットを開くと、中に折り返されたように鍵先が収められていて、鍵先を出して閉じるとそれは「鍵」になった。
細工した様子はないから元からこういう仕掛けになっていたようだ。
リビングを出て書斎に向かう。
会社から持ち帰っていた卓上の箱には四隅ツタらしき装飾が施されていた。
鍵を鍵穴に差し込んで回すと、当然のように解錠され、ゆっくりと蓋を開けると中からはガラクタとしか思えない物ばかりが入っていて、これが父のものとは到底思えなかった。
数枚の紙きれ、キャラクターのマスコットキーホルダー、小さな貝殻。
カタカタと音を立てていたものの正体は紙で包まれたマーブル模様のビー玉だった。
そしてそれを包んでいた紙に覚束ない字で「キュヒョナのおほしさま」そう書かれていた。
「キュヒョナ…キュヒョン…?」
これはキュヒョンものだったということか?
彼がカギを持っていた事実から、同じ名前の誰かだとは考えにくい。
それなら「鍵」を返すという表現はおかしい。
そもそも彼は一体この箱とどういう繋がりがあるというのか。
何にしても彼に話を聞く以外に手掛かりはない。
けれど、この家にはすでにキュヒョンの気配は何一つ残っていなかった、このペンダント以外は。
ソンミンとヒョクチェが揃ったところで資料を広げる。
内容を確認してソンミンは天を仰いだ。
「これが本当なら早く手をうたないと、ですね」
「ソンミン。今一応仕事外だから、敬語じゃなくていいよ」
「…話は聞いたことはあったけど、こんな深刻な状況だなんて誰も知らないんじゃないかな?」
ヒョクチェの言葉に視線を向けると「聞きかじっただけだから」と苦笑する。
「多分この人、先代と親しかったと思う」
ソンミンがそう言いながら手に持っていた紙をパンと指で弾いた。
「親父と?」
今、この面子で会社で事を起こせば異変に気付く人間もいるだろうと、とりあえずはここで話をまとめることにした。
父と親しかったなら顔くらいは見覚えがあるかと思ったが添えられている写真の人物は見覚えがない。
寧ろ会社にこんなに貢献している人物だというのに知らない自分にも嫌気がさした。
いや、知ろうとしなかったということか。
全てが上手くいっているようで、全然うまくいっていない。
そんな違和感ばかりが苛立ちと焦りになる。
「で?探偵さんは?」
「…居ない」
「居ない?え、仕事終わったから出てったの?」
「多分」
「多分ってなんだよ」
「俺だって知りたいよ。朝起きたらここにこの資料と鍵が置いてあったんだ」
「挨拶なし?」
「このメモだけ」
置いてあったメモを見せるとヒョクチェは楽しそうに笑う。
「鍵。あったってこと?開いた?何が入ってたんだよ」
黙ったままで箱をヒョクチェの方へ押しやると、それを開けて明らかに残念そうな顔をする。
「なんだよー、これ」
「俺が聞きたい」
何かに気づいたようにヒョクチェは小箱を掲げてしばらくじっくりと眺める。
「あ。これ…」
「なんだよ」
「思い出した。シウォナの宝箱だ」
「…は?」
「だからシウォナが子供の頃大切にしてた宝箱。このキャラクター好きだったろ?…っても、覚えてないかぁ」
「…それ、もっと早く思い出せよっ‼!」
「知るかよ。自分のものならともかくシウォナのまで覚えてられるか。そもそも子供の頃の記憶なんて大概覚えちゃいないだろ」
その言葉はシウォンも口にした。
キュヒョンに聞かれて。
事故で子供の頃の記憶がないのだと言った時に記憶がないのは不安かと聞かれた。
『大人になってからなら不安だったかもしれないけれど。でもさすがに7歳くらいの事だから…。普通に記憶がある人間だってそれくらいの歳のことなら大人になればあやふやなものだろ?…不安とは違うけど、たまにね。大切なことを忘れてるような気はするよ』
そうだ。
きっと、これは大切な記憶のはずだ。
「全く。この件も動かなきゃならないのに、キュヒョンの事も探さなきゃ」
顔を上げたソンミンがシウォンに向ける視線に気づいて「何?」尋ねると首を横に振ってふっと笑った。
「探すの?彼を?」
「ああ、鍵を持っていた理由が知りたいし」
「え⁉ 鍵持ってたの?」
驚いた様子のヒョクチェの前にペンダントを下げた手を差し出すと首を傾げる。
「…催眠術でもかけるのか?」
「…鍵。ここに来た時からキュヒョンが着けてた」
「初日からつけていた事に気づいてた?」
今度はソンミンに驚いたように尋ねられて頷く。
「無意識だったんだろうけど、何か有るごとにソレに触ってたから気づかない方がおかしいくらいだ」
「探すのももちろんシウォナの自由だけど。これを片付けないと動けないよ?」
「もちろん。片付けてからじゃないと会えないだろ。せっかくここまで調べてくれたんだから」
満足そうに頷いたソンミンに笑って、資料を広げる。
「さぁ、どう動こうか?」
出来そうな事を具体的に上げていく。
本人に了承を取らないと動けないこともあるけれど、取れ次第動けるように準備をする手はずをたてた。
ここはソンミン以外に適任は居ないはずた
あとは周りに悟られないよう。
ヒョクチェにはその辺りの下調べを任せることにする。
大体のプランが出来上がる頃にはすっかり日も傾き始めていた。
「腹減った…」
力なくテーブルに突っ伏したヒョクチェにもっともだと頷く。
よくよく考えれば朝から何も食べていない。
「デリバリーでも頼むか」
「だね。もう外で食べる気分でもないし」
ソンミンがメニューを纏めているホルダーを取りに行こうとした時に呼び鈴が鳴る。
玄関に向かってドアを開けるといつもの穏やかな笑顔のリョウクが居てなんだか日常に引き戻された気分になった。
「こんばんは、夕食作りにきました」
「え…?今日は日曜だから頼んでないよね」
「はい。シウォンさんからは。でも昨日ギュ…キュヒョンさんの依頼で。ちゃんと雇われましたよ?」
「いや、正直助かるけど…」
「では失礼します」
ペコリと頭を下げてリョウクは中に入るとキッチンに向かう。
キュヒョンは一体どこまで読んでいたんだろうか。
こうなるだろうと予想していたということだ。
リビングに戻るとソンミンとヒョクチェが何事かと問うようにこちらを伺うから、肩を竦めて返事をする。
「うちに来てくれてる家政婦のリョウクくん。夕食作りに来たてくれたって」
椅子から立ち上がってヒョクチェが心底嬉しそうに微笑んだ。
「マジ⁉助かったー」
「…ほんとに」
「何か食べたいものありますか?」
出来るだけご希望に沿えるようにします、と笑ったリョウクにシウォンは一つだけリクエストをすると、彼は目を丸くた。
「えっと、それでいいんですか?」
「うん。あ、二人の意見は聞いてやって、一応」
「僕はシウォナと同じでいいよ」
ソンミンはパソコンに何やら打ち込んで今回の件で必要な手続きなどの資料を集めている様子のままでそう言った。
「俺、玉子サンド食べたいー。がっつり食べたいけどそれどころじゃなさそうだし」
「わかりました。あー…玉子どうしますか?ゆで卵のサラダみたいにします?スクランブルエッグか厚焼きの方がお好みですか?」
「ふわっふわの玉子焼き!」
にっこりと笑ったリョウクは調理を始める。
その間、こちらの事は気にする様子でもなく頼まれたことだけをきっちり熟す様子はさすがにプロだなと感心させられた。
出来上がった料理をテーブルに並べるとリョウクはエプロンを外す。
「出来ました。暖かいうちにどうぞ」
塩だけのおむすびとスープ。
そして厚焼きの玉子サンド。
トーストされた玉子サンドにかぶりついたヒョクチェはそのまま一瞬固まった。
「うまっ!何これ。ほんとにふわっふわなんだけど」
「…本当においしそうに食べてくださいますね…」
ヒョクチェの食べっぷりにリョウクが笑う。
そしてシウォンもおにぎりを口にする。
程よい力加減で握られたご飯粒は口の中でほろりとほぐれる。
確かに美味い。
でも…
「…キュヒョンに作り方教えたのリョウクくんなんだよね?」
「え…。あぁ、おにぎりですか?まぁ、ごはん握るだけですけどね。…カタチとか歪でもキュヒョンさんが作った方が美味しかったでしょう?」
ふふっとリョウクが笑う。
「僕はお仕事ですから食品用の薄いビニール手袋をつけてますし。おにぎりの一番美味しい作り方って炊き立ての火傷しそうな熱いご飯を素手で握るんです。彼はそれをちゃんとやってた。だからちゃんと愛情が入るんですよ。それに…一人より一緒に食べるのも美味しい理由です」
ヒョクチェがおむすびにも手を伸ばして、また「美味い」と笑って。
「なんだ。もうシウォナにも一緒にいるだけで楽しくて、何を食べても一緒だってだけで美味しく思えるような人。いたんじゃないか」
なんて言われて。
そこでようやく感情に名前を付けることができたのだ。
そうか。
俺はキュヒョンの事が好きなんだ。