失われた風景

【11日目】
朝から機嫌がすこぶる悪そうなシウォンの頬をヒョクチェが掴んで横に引っ張る。
「変な顔」
「なにふるんら」
「でも、こっちの方がまだマシか」
ぱっと手を離すと、シウォンが自分の頬を撫でた。
「何が」
「朝からクマでも殺しそうな顔してるからさ。何かあった?」
はぁぁぁ、と盛大な溜息をついてシウォンはうなだれる。
「青い封筒がさ…」
「…きたか。そういや俺ここに来た理由それだったわ」
昨夜の火事はやはり不審火だったらしい。
直営店だけならともかく、取扱い店にまで被害が及ぶとなるとその範囲はとんでもないことになる。
「本当になんなんだろうね。いきなり始まった感じがするし」
「確かに。仕事の関係かとも思ったけど…」
「元カノとかでもないよね?」
「…それ、前にキュヒョンにも言われたけど。そんなのが居たのいつの話だよ。それにふられたのはこっちだ」
「だなぁ。お前女に甘いもん」
従兄でもあり友人でもあるヒョクチェにはその辺りは把握されている。
「でも、それがかえって悪いなんて可能性なくない?」
「どういう意味?」
「例えば、言い寄られてもはっきり断るには断るだろうけど。だからって相手に接する態度を変えたりしないだろ。しかももともと女に甘いから優しいしさ。それがかえって怒りに変換されちゃう、とか?」
ありえそー、と楽しそうにヒョクチェが笑う。
いや、そこ楽しむとこじゃないだろう。
「そんなことまで気にし出したら何を疑えばいいのか分からなくなるじゃないか」
頭を抱えるシウォンの様子に溜息を吐いたソンミンが資料をデスクの上に置く。
「警察の方には連絡されたんてすか?」
「んー…。キュヒョンがしてくれてるはずだよ。…なんか前に来た刑事と知り合いっぽかったし…ちゃんと聞いてはないけど」
「そうなの?どっちと?」
少しばかり驚いた表情のヒョクチェを見て、もうひとつ思い出す。
「お前と知りあいじゃないほう」
「なんだよ、その言い方」
「だって、知りあいなんだろ?」
以前の様子からすると結構親密な気もするのだが、ヒョクチェから彼の名前を聞いた記憶がない。
「あの刑事とは友達?」
「んー…。まぁ、友達っていうか…」
視線を泳がせて、俯いたヒョクチェがボソリと呟く。
「付き合ってる」
「…ん?…どこに?」
「だから…なんていうか…恋人…?」
「あぁ、恋人か。…って!えぇ⁉」
「あー!うるさいな!」
だから、黙ってたんだよ。
でもシウォナにはそのうちバレそうだし、それなら言っちゃったほうがいいかなとか考えて、でも話すきっかけもなくて。
ヒョクチェがワタワタと言い訳を始めるのを、シウォンが手で制する。
「いや、まぁ…。正直驚いたけどだからって反対するとかそういう訳では…」
「反対されたって困る、ってのもあるし」
「相手が男だからってだけじゃ反対はしないよ。要するは中身だし。…で、ヒョク。飯は?」
「今からだけど」
少しネクタイを緩めたシウォンが笑って立ち上がる。
「とりあえず、飯食いに行こう。そこでじっくり聞かせてもらうってことで」
困った表情のまま、それでもどこか安心した様子でヒョクチェも頷く。
大切な従兄弟なのだ。
彼が幸せならそれでいい。
けれど、どうしたってダメだと判断すれば反対することも厭わない。
ただシウォンはよく知っているのだ。
ヒョクチェは人の意見だけで判断しない。
自分自身で向き合って中身までしっかり判断出来る人間だ。
だからこそ彼の回りに人は集まる。
昼食を摂りながら聞いた話は、なんだか微笑ましかった。

ありふれた合コン。
人数が足りないと急遽他社の営業の知り合いから呼び出された。
ヒョクチェはといえば現在フリーだし、ここで貸しを作って置いても損はないかと承諾したのだ。
そんな理由だったから男性側の面子も呼び出した男以外は顔を会わせたのは初めてだった。
そのうちの一人がドンヘだ。
合コン相手は有名航空会社のCA。
延期や中止にならなかった理由にも納得がいった。
そんな中、CAそっちのけでやたらと話しかけてくるドンヘの相手をしていたらいつの間にか其々にグループが出来ていて、完全にふたりで取り残されるはめになっていたのだ。
「あのさ。おたく、女のコと話しなくていいの?」
多分向こうは相当話したがってるとおもうんだけど。
チラチラとこちらに視線を向けてくる彼女達にきっかけすら与えないドンヘにさすがにひと言そう言うと。
「あ。迷惑だった?」
困った顔でそう返された。
「迷惑ではないけど」
そんなに飲めないアルコールを少し含んだカクテルに口をつける。
正直、先程から話していると、好きなものが似ていたり色々と話も弾んで楽しいのだ。
「ヒョクチェさん、さぁ」
「同じ年みたいだし、呼び捨てでいいよ」
「…仲のいい人からはなんて呼ばれてるの?」
「だいたいヒョクだな」
「じゃあヒョクって呼んでいい?」
それがきっかけだった。
それから二人で遊んだりしているうちにドンヘに好きだと告白されたらしい。
「そりゃあ、悩むだろ。俺、今まで男に惚れたことないし。でもさ…」
温かいお茶を一口。
ヒョクチェは言葉を大切に紡ぎ出す。
「好き、なんだ。どう考えてみても」
「ほだされた、とかじゃなくて?」
コクリと頷く。
「あいつさ、俺が居ないと生きて行けないってバカみたいなこと言うんだ。でも、俺は多分ドンヘが居なくても生きて行ける。だけど多分何をしてもあいつとするほど楽しくないし、何を食べてもドンヘと食べるほど美味しく感じないと思う。だからなくせない」
「そんなものか」
「シウォナにも、そのうち現れるよ。その人と一緒にいるだけで楽しくて、何を食べても一緒だってだけで美味しく思えるような人。なくせない人。そうしたら今の俺のことも何となく納得してくれればいい。反対されたくはないけど、いきなり納得しろってのも無理だと思うからさ」
そうして微笑んだヒョクチェはすっきりした顔をしていて。
ただ、それだけで幸せなんだなと思えたのだ。


リビングに入るといつものように資料らしきものを広げてパソコンのキーボードを叩いているキュヒョンが居る。
探し物をするのにこんなに資料が必要なのか、それとも並行して何か別の事を調べているのかは分からないが、間違いなく仕事はしているようだ。
「お帰りなさい」
こちらの気配に顔を上げたキュヒョンがいつもと違っていてじっくり観察してしまう。
「髪…切ったんだ」
「あ…焼けちゃったから」
困ったように微笑んだキュヒョンが短くなった前髪を引っ張りながらそう言う。
少し幼さを含んだように見えるのは黒目がちな瞳のせいだろうか。
「今、片付けますね」
散乱している用紙をかき集めるのを手伝うと、手渡す時に短くなった髪に触れてみた。
「似合ってる」
「そう、ですか?」
ずっと前髪を伸ばしたままだったから違和感があるのだと笑う表情が可愛いと思う。
確かに今まで口元でしか分からなかった表情が見えるだけで随分雰囲気は違って見えた。
「やっぱり綺麗な顔してる」
隠してるのはもったいないよ。
そう言うと少し俯いてまた前髪を引っ張った。
どうしたって照れくさいらしい。
小さく笑ったシウォンはもう一度髪を撫でるとポンと軽く叩いた。
「そんなに引っ張ったって伸びないよ」
「それは、さすがに分かってますけど。あ。あの手紙、警察に連絡しておきました」
「ありがとう。…ところであの刑事とは知り合い?」
「え?」
「先日偶然一緒のところを見かけたから」
車の中から見かけた場所を言うと、キュヒョンが納得したように頷いた。
「ヨンウンさんはうちの事務所の所長と警察学校の同期だったそうで、色々仕事をもってくるんですよね」
「仕事?」
「自分達の捜査内容については何一つこちらに流しはしませんけど、調査は手伝わされる事が多くて。所長が受けるんで仕方ないんですけど。あの日は調査内容の資料を手渡しに行ってました。所長がどうしても手が離せなかったみたいで代理です」
「そうなんだ。随分親しげに見えたから」
「確かに可愛がってはもらってますけど。あの人慣れると誰にでもあんな感じなんですよ」
そう言いながらキュヒョンはまとめた用紙の端を揃えるとキッチンに向かう。
「今日はリョウガの自信作だそうですよ」
「へぇ、それは楽しみだな」

着替えて戻ってきたリビングのテーブルには夕食の準備が整えられている。
席について並んでいる料理を口にすると、向かいに座っていたキュヒョンが小さくつぶやいた。
「うま…」
「うん。美味いな」
サーモンのフライにタルタルソース。
添えられているブロッコリーと人参のソテーも優しい味がする。
根菜のたっぷり入ったスープに焼きたてのバケット。
きっちりと栄養を考えられて作られた食事だ。
「リョウガお店出したら毎日通うのになー」
キュヒョンがちぎったバケットを口に入れて幸せそうに笑った。
「残念だったね。それができるんだったら俺がそのまま引き抜いて専属で家政婦契約するよ」
「…ずるいなぁ。独り占めですか?」
そう言って、また笑う。
「キュヒョンも来ればいいじゃないか」
「え?」
「いつでも歓迎するよ」
驚いたような顔でほわりと口を開けたまま止まっていたキュヒョンが思い出したように瞬きをすると、なんとも言えない柔らかい微笑みを浮かべるものだから、思わず見惚れる。
こんな破壊力のある笑みを今まで隠していたのは正解かもしれない。
「ありがとうございます」
「本当に。リョウクくんが作るものが美味しいのもあるだろうけど、誰かと一緒に食べるのは美味しいし。相手がキュヒョンなら尚更だよ」
「シウォンさんって…」
「ん?」
「女性にだけじゃなく、男性にもモテそうですよねぇ」
しみじみと言われてしまうと、どういう反応をすべきなのか。
嫌われるよりはいいけれど、モテ方にもよると思うのだ。
「そういうキュヒョンの方こそ」
返すと、にんまりと笑う。
「モテますよ。髪を切っちゃうと余計」
なんだか、妙に説得力がある。
頷くと、キュヒョンが苦笑いした。
「そこは、突っ込んでください」
「いや、なんか納得した」
「するんだ」
「するよ。綺麗な顔してるし可愛いし」
「…そういうところですよ。本当にもう」
けれど事実だから仕方がない。
何だか文句らしき事を言いながらも美味しそうに食べている様子は可愛い以外に適切な言葉が思い浮かばないのだ。
鍵が見つかって彼にとっての「仕事」が終わってもこうした時間が持てればいいのに。
本当にそう思っているのだけど。

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