失われた風景
【9日目】
リビングからはいつものスープの香り。
キッチンには欠伸をしながらコンロの前に立つキュヒョンが居る。
「おはよう」
「おはようございます」
顔を上げてこちらを見たキュヒョンに、昨日の夜から置かれていたチョコレートの箱を掲げてみせる。
「これ、ありがとう」
「つまらないものですみません」
「久々に食べたよ。美味かった」
「それなら良かったです」
その箱を、同じくテーブルの上に置かれていた新聞に持ち変える。
「封筒は?」
「入ってませんでした」
「隠してる?」
「隠す必要がありませんけど」
続けて入っていたものが入っていないと、それはそれで落ち着かない気にさせられる。
しかも昨日刑事が来たというタイミングまでが揃っているから尚更だ。
どこからか話が漏れてでもいるのかと考えてしまう。
元から繋がっているかどうかもはっきりしていないのに。
「確かにタイミングがよくて気持ち悪いですけど」
こちらが考えていることを読んだみたいに朝の空気に馴染んだ声が溜め息と共にそう言った。
「それこそ偶然かもしれませんから」
「そうだね」
「…納得してないって顔してますね」
「それは、そっちもだろ?」
「まぁ、そうですけど」
いつものようにスープを二人分運んで、キュヒョンはさくりとトーストを齧る。
「美味そう」
「食べますか?」
「いや、いいんだけど。キュヒョンが食べてると美味しそうだ。それに昨日はパーティーだったからね。まともに食べてないし」
首を傾げたキュヒョンにシウォンは笑う。
普通はそう聞けば食事もできるだろうと思うだろう。
けれど実際は挨拶や紹介などでほとんど食べることはできない。
もちろんそれを重視しないのであればきっちりと食べることもできるのだろうが。
「今日もですよね?」
「うん。そのかわり明日は家で食べることができそうだし」
「…体調とか大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。もう慣れてるしね」
「そんなこと、慣れないでください」
少し怒ったような声。
それに笑うと「笑い事じゃないですよ」と怒られる。
やっぱり母親みたいじゃないか。
キュヒョンにそういったらどんな顔をするんだろう。
そう考えると更に可笑しくなった。
怒るだろうか。
呆れるだろうか。
それとも笑うだろうか。
もしかしたら、呆れたように怒って苦笑いするのかもしれない。
そんなキュヒョンを見てみたい。
見せてくれればいいのに。
そんなことを考えている自分が一番可笑しい。
こんな感情を何て呼べばいいのかまだ分からないけれど。
パヒューム部門の立ち上げのせいで慌ただしい日々が続いている。
そちらを任せた人物は社内でも仕事には定評があるし、なにより本人が好きなジャンルらしい。
精力的に動いてくれているお陰で随分と助かっている。
ヒョクチェは新商品の発売の準備に追われているようだが、それでも社長室に顔を出しては色々と情報を置いて行ってくれる。
不審火騒ぎの方も今日はなかったと知らせてくれた。
夕方になってパーティー会場に向かう車の中から、ぼんやりと窓の外の景色を眺める。
信号待ちで止まった時に目に飛び込んできたのは見覚えのあるダウンジャケット。
後部座席に沈んでいた背中を浮かせる。
誰かを待っているのか、手の中のモバイルに視線を落とすと、顔を上げて辺りを見渡す。
そして軽く手を上げると、それを見つけた男性が近づいてキュヒョンに書類袋らしきものを押し付けると、笑って肩を組んで歩き出す。
戸惑ったような表情をしたのも一瞬でキュヒョンはあきらめたようにそれについていった。
「…え?」
思わずこぼれた声を拾ったソンミンがこちらに顔を向ける。
「どうかしました?」
「いや…。なんでもない」
あの男性はこの前きた刑事のうちの一人だ。
キム・ヨンウン。
そういえばキュヒョンの名前を聞いて驚いたような表情をしていたのを思い出す。
知り合いだったのだろうか。
胸の辺りにざわり波が立つような感覚にぐっとシャツを握りこむ。
何だったっけ、この感覚は。
随分と昔にあったような気はするのだけど。
もやもやとした感覚は消える事なく、胸にあるままだ。
それを抱えたまま、賑やかなパーティーでの恒例の挨拶回りを何とかやり過ごして帰宅する。
やはり遅い時間になるとキュヒョンの姿はリビングにはないが、昨夜と同様にテーブルの上に何か置かれていた。
ラップのかけられた皿の上にはおにぎり。
そして、今日は少し長めのメッセージ。
「お疲れ様でした。パーティーでは食事ができないとのことでしたので、無理にとは言いませんが食べれそうならどうぞ。隣の国では神様に「米」「水」「塩」がお供えされるそうです。神様にお供えするものだけで作っている塩むすびは「神様ごはん」なんだとか。信じている神様とは違うでしょうがシウォンさんに運がむきますように」
薄いフィルムをめくって一つを手に取る。
どちらかと言えば歪な形のそれは、それでも美味しそうに見えた。
一口齧ってみると、冷めているのに暖かく感じた。
塩だけのシンプルな握り飯なのに美味い。
腹が減っているという感覚はなかったのに一つを食べきると、シウォンはキッチンに立つ。
薬缶をコンロにかけて、茶葉を取り出すと熱いお茶を淹れた。
シンプルなものにあうのは、やはりシンプルなものなのだろうか。
熱いお茶を一口。
そして、もう一つの握り飯に手を伸ばす。
胸にあった不可解な感情が次第に薄れるのは、これが神様のご飯だからなのだろうか。
そうだとしたら素晴らしい効力だ。
【10日目】
体を揺すられて意識が覚醒する。
柔らかい声で名前を呼ばれて、ゆっくりと目を開けるとキュヒョンに見下ろすように顔を覗き込まれていた。
「…あれ?」
「あれ?じゃないですよ。こんなところで寝て風邪でもひいたらどうするんですか」
少し前屈みになっているせいか自分が見上げるようになっているせいか、前髪の下のこちらに向けられている瞳が見えた。
思わず手を伸ばして頬に触れる。
少し驚いたように見開かれた瞳に何故か悪いことをした気分になって言い訳を探した。
「おはよ…。眼鏡かけてないんだ」
「今、起きたところなので」
困ったように笑って離れた体温が惜しくて、閉じ込めるように手を握る。
体を起こして首を回すと、体のあちらこちらで音がした。
これはメンテナンスが必要かもしれないな、と苦笑いしたところでキュヒョンが遠慮がちに声をかけた。
「シウォンさん、用意しなくて大丈夫ですか?」
「…大丈夫じゃないね。ちょっと着替えてくるよ」
まずはシャワーか。
バスルームへ向かおうとしてシウォンは振り返る。
「あ。神様ごはんありがとう。お陰で元気が出たよ」
「…握るの下手ですいません」
「いや、あれはあれで味があると言うか」
「慰めになってませんけど。リョウガは上手なのにな」
「リョウクくんが作ったのは?」
キュヒョンはニッコリ笑うと楽しそうに答えた。
「勿論、僕が食べましたよ」
当たり前のように言われてしまうと笑うしかない。
しかしながら、雇い主より居候のほうが出来のいいものを食べるっていうのはどうなんだ。
だからシウォンは笑うととんでもない要求をキュヒョンにしたのだ。
「…社長に似つかわしくない昼食だな」
昼休みに入って社長室にやってきたヒョクチェの開口一番だ。
「そうか?」
ラップに包まれたご飯の塊を口に入れながらシウォンが面白そうに笑う。
「美味いよ」
「まぁ、よっぽどのことがなければ不味くはならないだろうけど」
机の上の一つに手を伸ばしたヒョクチェがそれを遠慮もせずに口にいれる。
「…うま」
「だろ?」
そこにソンミンがお茶の入った湯飲みを置く。
「わ。ミニヒョンありがとう。っていうか、ここはミニヒョンがお茶まで淹れるの?」
ソンミンは苦笑いをすると二人の顔を交互に見て呟いた。
「だって社長と営業部長がここでおにぎり食べてる姿を女性社員に晒す訳にはいきませんから」
「俺は別に構わないけど」
「俺もー」
モゴモゴと口を動かす二人にソンミンは大きく息を吐く。
「貴殿方は構わないでしようけど、女性社員のモチベーションが下がるんで」
「なにそれ」
あははと声に出して笑うヒョクチェの横に腰を落ち着けたソンミンも湯飲みに口をつける。
「ソンミンも食べろよ。美味いから」
「…いただきます」
「で。なんでおにぎり?」
ヒョクチェの疑問にシウォンが笑う。
「神様ごはんなんだってさ」
塩むすびが神様ごはんだという理由と今朝のことを話す。
リョウクが作ったものを自分が食べたと言い切ったキュヒョンは見た目はともかく教えて貰って作ったのだから味は同じだと主張した。
そこでシウォンは見た目だけならリョウクが作ったものを100点とすると、キュヒョンのは何点かと訊ねたのだ。
50点位だと答えたキュヒョンに、だったら、とシウォンは提案した。
「あと50点分作れば点数的には一緒だろ?」
「おかしな理由ですね」
「で、作ったんだ。あの探偵」
「そう。ご飯炊く所から始めて」
ぷっ、とヒョクチェが吹き出す。
ソンミンも横でくすくすと愉しそうにわらっていた。
「真面目というか、律儀というか。面白いなぁ」
「だよな。一緒にいて飽きない」
「本来の仕事ではないでしょうけど。でも神様ごはんは間違ってない気がします」
ソンミンがニッコリと微笑んだ。
「こんなに楽しい昼食は久しぶりです」
久々にゆっくりと家で食事ができた。
キュヒョンとの会話は相変わらず楽しかったし、リョウクの料理も相変わらず美味しい。
温め方のレクチャーが上手くいっているのか温かい料理が食べられるのもありがたかった。
食事が終わってからリビングでパソコンを操っていたキュヒョンが立ち上がる。
「僕、コンビニ行ってきますけど、シウォンさん何か必要な物ありますか?」
「うーん…別に無いけど。それにしてもよく行くね、コンビニ」
「コンビニ依存症なんで」
ふふっと笑うと部屋に戻って出てきたキュヒョンはやっぱりモコモコの格好で子供の頃家にあったテディベアを思い出させた。
それがかれこれ一時間前。
ドアを見つめて、そのまま壁に掛けてある時計に目をやるとシウォンは小さく舌打ちした。
「やっぱり一緒に行くべきだったかな…」
外に出て彼が歩いていた、或いは歩いているはずである道を見遣ってみるけれど、仕事終わりのサラリーマンらしき人影が一つみえるだけだ。
彼の目的地であるはずのコンビニまでたいした距離はない。
あのコンビニでどんなに買う物に悩んだとしても、どんなにゆったり歩いたとしても、いくらなんでも時間が掛かりすぎだ。
暫く街灯を睨み付けていたシウォンは諦めて溜め息吐いた。
ああ、全く。
なんでこんな心配をしてるんだか。
部屋に戻って上着を掴むと再び外に出る。
コンビニまでの道を歩いていると、向こうからモバイルの明かりに顔を照らされながら歩いてくるキュヒョンが見えて一気に脱力した。
顔を上げた彼の口角が少し上がる。
「シウォンさん、どうしたんです?」
「いや、ちょっとコンビニに…」
「だったら電話してくれればよかったのに」
本当に頼みたいものがあればそうしていたけれど。
今更、引き返すわけにもいかない。
「まぁ、たまにはね。なんとなく甘い物が食べたくなったんだよ」
「じゃあ、僕も一緒に行こうかな」
「…行ってたんじゃないの?」
「そうですけど、まぁ、いいじゃないですか」
楽しそうに踵を返すキュヒョン。
「本当にコンビニ好きなんだね」
「なんか、安心しません?いつでも明るくて誰かが居る場所って」
「それは分かる気がするけど」
だからってコンビニ。
まぁ、本人が楽しいのであれば仕方がないか。
見えてきたなじみの看板と灯りは確かに寒い夜にはほっとさせる空間かもしれない。
「なにかお勧めある?」
「僕、ですか?」
「そう。コンビニ依存らしいからよく知ってるかと思って」
キュヒョンは冷蔵棚を指差した。
「僕はあの苺のはいったロールケーキ、好きですよ?」
最近のコンビニスイーツはクオリティーが高いと食べることが好きなヒョクチェもシウォンの家に遊びに来る時によく持ってきたりはしているけれど自分で買うことはあまりない。
人気商品とポップが貼られているそれを2つレジに持っていくと会計を済ませた。
「シウォンさんって甘い物好きなんですか?」
「嫌いじゃないけど、なんで?」
「2つも食べるのかなと思って」
「1つはキュヒョンのだよ。食べるだろ?」
「僕の?」
「そうだけど?」
それ以外に理由なんてあるわけもない。
「一緒に食べよう」
「…いただきます」
少し照れたような声にシウォンが笑ったその時。
嵯わめく声が耳に届いた。
それから黒い煙と赤い炎。
その相反する色は二人が居る大通りから横道に入った場所だ。
「火事だ」
呆然とした様子でキュヒョンが呟くとそろりと動いた手がペンダントを握り込む。
そのまま立ち尽くすキュヒョンはその一点を見つめたまま。
「キュヒョン?」
名前を呼んでみても反応がない。
その肩を掴んで揺すると、やっと視線がこちらに向いた。
「シウォン、さん」
「大丈夫か?」
こくりと頷くのを確認するとその現場を確認した。
この場合どう対処していいものだか。
何事もなかったように家に帰るのもなんとなく気持ちがいいものではない。
あれだけ人が居るのであればもう通報もされているだろうし、自分たちに出来る事なんて何もないに等しい。
「あ」
何かを思い出したようにキュヒョンが炎の方向に走り出した。
慌ててそれを追いかける。
火災現場に近づくとそこが小さな店舗になっていることに気付く。
「ここ、シウォンさんのところの商品扱ってるところですよ」
「え?」
「コスメのセレクトショップみたいなところです」
そこまで言って今度は辺りを見渡す。
そしてまた炎に向かって走り出した。
「キュヒョン!」
「すぐに戻りますから!」
嘘だろう。
少し離れたこの場所でさえ熱気が凄いというのに一体何を考えているんだ。
飛び込むべきではないと本能が訴える。
それでもやっぱり放っておけない。
「くそっ!」
背後で誰かが呼び止める声がしたけれど止まるわけにはいかなかった。
正気じゃない。
こんな場所に飛び込むキュヒョンも、それを追う自分も。
建物の脇をくぐり抜けて裏に曲がったキュヒョンを一瞬で見失う。
途端に身体中を襲う不安。
不安は恐怖になる。
無事なのか?
自分のことよりも彼の存在が目の前にない事がなにより不安だった。
「キュヒョン!」
「ここです」
後ろから声がして振り返ると、自分の上着を抱えたキュヒョンが立っていた。
「何やってるんだ⁉気でも触れたのか⁉」
「本気で言ってます?だったらそのままお返ししますけど」
キュヒョンが掠れた声でそう言った途端。
炎があがる音がする。
随分と炎が近づいている。
屋内に飛び込んだわけではないのでまだ炎からも離れていることと、煙を吸わずに済んでいることが幸いだ。
「熱いと思った」
「悠長なこと言ってる場合じゃないよ。行くぞ」
体を丸めるようにして建物の横をすり抜けて、走り出たところに緊急車両が到着した。
消防隊員の指示する声。
周りに集まってきた人達のざわめき。
救急隊や警察官の声。
そういったものに酷く安心した。
少し離れた場所で座り込むと大きく息を吸う。
「全く、なんだってあんな無茶したんだ」
「あ」
キュヒョンは思い出したとばかりに慌てて抱えていたジャケットを広げる。
そして安心したように微笑んだ。
そこには一匹の猫。
おそるおそる顔を出したかと思えばジャケットから飛び出すと一目散に近くの家の垣根の中に消えて行った。
「礼もなしか」
「猫ですしね」
「それにしても…」
「すぐに戻るっていったのに…。さすがに無理ならやりませんよ。僕だって自分が大事ですから。…あの裏手に住み着いてるのがいるのは知ってたんで近くにいってみるだけのつもりだったんです。でも微かにですけど聞こえたから」
「なにが?」
「声が。猫ってパニックになると動けなくなるんです。でも鳴いたから。助けられる運命だったんですよ」
俯いてペンダントを握る。
「よかった…」
ふいにキュヒョンの体が傾いで慌てて手を伸ばして肩を支える。
「大丈夫?」
「すいません…安心したら急に…」
手に伝わってくる微かな震え。
「怖かったなら、それは無理したってことじゃないの?」
「怖いとは違うんです…今は悲しいだけで…」
はっ、と短く息を吐いたキュヒョンは薄く笑って肩を支えるシウォンの手から離れて、顔をあげた。
「シウォンさんの方こそなんで来たんですか」
「キュヒョンが行くからだよ」
「だから、すぐに戻るって…」
堂々巡りになりそうな会話を止めたのは遠慮がちにかけられた声だ。
「あの…」
「はい?」
「向こうに居る人からお二人が火元に飛び込んだって聞いたんですが。お怪我はありませんか?」
救急隊員らしき男性にキュヒョンが返事をした。
「大丈夫です。横を通っただけで入ったわけじゃないんで怪我もしてませんよ」
二人を頭から足元まで流すように見た隊員は納得したように頷くと、何かあったら直ぐに病院に行くようにと言い残し現場に戻っていく。
「…とりあえず帰るか」
「はい。ところでシウォンさん」
「何?」
「ケーキ。どこにやっちゃったんですか?」
「あれ…?どこにいったんだろう…」
苦笑いすると、キュヒョンが困ったように首を傾げる。
「だから待っててくれればよかったのに」
「仕方ないよ。ところでキュヒョン何で嘘ついたの?」
「何がですか?」
自分の左手を指し示す。
気まずそうな顔をするところを見ると自覚はあるらしい。
「手の甲に引っ掻き傷があるよね」
「…火事とは関係ないから…それに何かと面倒だし…」
「あと、前髪。少し焦げてるんだけど?」
「なんか燃えた紙みたいなものが落ちてきて…」
ボソボソと言い訳を始める手を掴む。
「別に怒ってる訳じゃないから」
「わかってます」
「帰ったら手当てだな」
「…ケーキの方がよかったなぁ」
「もう一回コンビニ行く?」
「そこまでして食べたい訳じゃないですよ?」
「はい、はい。今度もっと美味しいケーキをご馳走するから、諦めて帰るよ」
「だから食べたい訳じゃないですって!子供扱いしないで下さいよ」
拗ね始めたキュヒョンに笑って、腕を掴んで引き上げる。
「帰ろう」
コクリと頷くキュヒョンの頭を撫でると、だから子供扱いしないで下さいよと苦笑いされる。
離れた場所から猫の声が聞こえてそちらに視線を向けると先程の猫がこちらの様子を伺うように見ていて。
キュヒョンに視線を戻すと、彼の口角が柔らかく上がった。
「お礼、言いに来たみたいですよ」
「うん。よかったね」
本当にみんな無事でよかった。
キュヒョンが無事でよかった。
こんな事は二度とごめんだ。
これも一連の不審火だというなら、早く犯人が捕まればいい。
心からそう思う。
掴んだままの腕を離せなくてそのままで歩き出すと不安そうに呼ばれた。
「あの、もう大丈夫なんで手を離して下さい」
「嫌なら離すけど」
「嫌とか、じゃなくて」
「離すとまた何かしでかしそうだ」
「あの…僕の不注意でシウォンさんまで危険なめに遇わせてすみません」
「謝ることじゃないから。それにキュヒョンが居なくなるのは、俺にとって重大なことなんだ」
そう。
重大なことなんだ。
この存在がなくなるのは。
この手を離したくない理由なんて、多分最初から気づいてた。
この世の中で特別な存在だ。
それが愛情や友情のどのカテゴリーにはまるのかは分からないけれど。
「鍵はちゃんとお渡ししますよ」
「そういう事じゃないんだけど」
自分にすら分からない感情を、どう伝えればいいのかわからない。
「もう鍵を見つけるのは重大な事じゃないっていうか…」
「え?…そう、ですか」
何故か傷ついたような顔をしたキュヒョンは、黙ったままで歩き出す。
実際この言葉がどれ程彼を傷つけていたか、この時シウォンには全く分からなかったのだ。
リビングからはいつものスープの香り。
キッチンには欠伸をしながらコンロの前に立つキュヒョンが居る。
「おはよう」
「おはようございます」
顔を上げてこちらを見たキュヒョンに、昨日の夜から置かれていたチョコレートの箱を掲げてみせる。
「これ、ありがとう」
「つまらないものですみません」
「久々に食べたよ。美味かった」
「それなら良かったです」
その箱を、同じくテーブルの上に置かれていた新聞に持ち変える。
「封筒は?」
「入ってませんでした」
「隠してる?」
「隠す必要がありませんけど」
続けて入っていたものが入っていないと、それはそれで落ち着かない気にさせられる。
しかも昨日刑事が来たというタイミングまでが揃っているから尚更だ。
どこからか話が漏れてでもいるのかと考えてしまう。
元から繋がっているかどうかもはっきりしていないのに。
「確かにタイミングがよくて気持ち悪いですけど」
こちらが考えていることを読んだみたいに朝の空気に馴染んだ声が溜め息と共にそう言った。
「それこそ偶然かもしれませんから」
「そうだね」
「…納得してないって顔してますね」
「それは、そっちもだろ?」
「まぁ、そうですけど」
いつものようにスープを二人分運んで、キュヒョンはさくりとトーストを齧る。
「美味そう」
「食べますか?」
「いや、いいんだけど。キュヒョンが食べてると美味しそうだ。それに昨日はパーティーだったからね。まともに食べてないし」
首を傾げたキュヒョンにシウォンは笑う。
普通はそう聞けば食事もできるだろうと思うだろう。
けれど実際は挨拶や紹介などでほとんど食べることはできない。
もちろんそれを重視しないのであればきっちりと食べることもできるのだろうが。
「今日もですよね?」
「うん。そのかわり明日は家で食べることができそうだし」
「…体調とか大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。もう慣れてるしね」
「そんなこと、慣れないでください」
少し怒ったような声。
それに笑うと「笑い事じゃないですよ」と怒られる。
やっぱり母親みたいじゃないか。
キュヒョンにそういったらどんな顔をするんだろう。
そう考えると更に可笑しくなった。
怒るだろうか。
呆れるだろうか。
それとも笑うだろうか。
もしかしたら、呆れたように怒って苦笑いするのかもしれない。
そんなキュヒョンを見てみたい。
見せてくれればいいのに。
そんなことを考えている自分が一番可笑しい。
こんな感情を何て呼べばいいのかまだ分からないけれど。
パヒューム部門の立ち上げのせいで慌ただしい日々が続いている。
そちらを任せた人物は社内でも仕事には定評があるし、なにより本人が好きなジャンルらしい。
精力的に動いてくれているお陰で随分と助かっている。
ヒョクチェは新商品の発売の準備に追われているようだが、それでも社長室に顔を出しては色々と情報を置いて行ってくれる。
不審火騒ぎの方も今日はなかったと知らせてくれた。
夕方になってパーティー会場に向かう車の中から、ぼんやりと窓の外の景色を眺める。
信号待ちで止まった時に目に飛び込んできたのは見覚えのあるダウンジャケット。
後部座席に沈んでいた背中を浮かせる。
誰かを待っているのか、手の中のモバイルに視線を落とすと、顔を上げて辺りを見渡す。
そして軽く手を上げると、それを見つけた男性が近づいてキュヒョンに書類袋らしきものを押し付けると、笑って肩を組んで歩き出す。
戸惑ったような表情をしたのも一瞬でキュヒョンはあきらめたようにそれについていった。
「…え?」
思わずこぼれた声を拾ったソンミンがこちらに顔を向ける。
「どうかしました?」
「いや…。なんでもない」
あの男性はこの前きた刑事のうちの一人だ。
キム・ヨンウン。
そういえばキュヒョンの名前を聞いて驚いたような表情をしていたのを思い出す。
知り合いだったのだろうか。
胸の辺りにざわり波が立つような感覚にぐっとシャツを握りこむ。
何だったっけ、この感覚は。
随分と昔にあったような気はするのだけど。
もやもやとした感覚は消える事なく、胸にあるままだ。
それを抱えたまま、賑やかなパーティーでの恒例の挨拶回りを何とかやり過ごして帰宅する。
やはり遅い時間になるとキュヒョンの姿はリビングにはないが、昨夜と同様にテーブルの上に何か置かれていた。
ラップのかけられた皿の上にはおにぎり。
そして、今日は少し長めのメッセージ。
「お疲れ様でした。パーティーでは食事ができないとのことでしたので、無理にとは言いませんが食べれそうならどうぞ。隣の国では神様に「米」「水」「塩」がお供えされるそうです。神様にお供えするものだけで作っている塩むすびは「神様ごはん」なんだとか。信じている神様とは違うでしょうがシウォンさんに運がむきますように」
薄いフィルムをめくって一つを手に取る。
どちらかと言えば歪な形のそれは、それでも美味しそうに見えた。
一口齧ってみると、冷めているのに暖かく感じた。
塩だけのシンプルな握り飯なのに美味い。
腹が減っているという感覚はなかったのに一つを食べきると、シウォンはキッチンに立つ。
薬缶をコンロにかけて、茶葉を取り出すと熱いお茶を淹れた。
シンプルなものにあうのは、やはりシンプルなものなのだろうか。
熱いお茶を一口。
そして、もう一つの握り飯に手を伸ばす。
胸にあった不可解な感情が次第に薄れるのは、これが神様のご飯だからなのだろうか。
そうだとしたら素晴らしい効力だ。
【10日目】
体を揺すられて意識が覚醒する。
柔らかい声で名前を呼ばれて、ゆっくりと目を開けるとキュヒョンに見下ろすように顔を覗き込まれていた。
「…あれ?」
「あれ?じゃないですよ。こんなところで寝て風邪でもひいたらどうするんですか」
少し前屈みになっているせいか自分が見上げるようになっているせいか、前髪の下のこちらに向けられている瞳が見えた。
思わず手を伸ばして頬に触れる。
少し驚いたように見開かれた瞳に何故か悪いことをした気分になって言い訳を探した。
「おはよ…。眼鏡かけてないんだ」
「今、起きたところなので」
困ったように笑って離れた体温が惜しくて、閉じ込めるように手を握る。
体を起こして首を回すと、体のあちらこちらで音がした。
これはメンテナンスが必要かもしれないな、と苦笑いしたところでキュヒョンが遠慮がちに声をかけた。
「シウォンさん、用意しなくて大丈夫ですか?」
「…大丈夫じゃないね。ちょっと着替えてくるよ」
まずはシャワーか。
バスルームへ向かおうとしてシウォンは振り返る。
「あ。神様ごはんありがとう。お陰で元気が出たよ」
「…握るの下手ですいません」
「いや、あれはあれで味があると言うか」
「慰めになってませんけど。リョウガは上手なのにな」
「リョウクくんが作ったのは?」
キュヒョンはニッコリ笑うと楽しそうに答えた。
「勿論、僕が食べましたよ」
当たり前のように言われてしまうと笑うしかない。
しかしながら、雇い主より居候のほうが出来のいいものを食べるっていうのはどうなんだ。
だからシウォンは笑うととんでもない要求をキュヒョンにしたのだ。
「…社長に似つかわしくない昼食だな」
昼休みに入って社長室にやってきたヒョクチェの開口一番だ。
「そうか?」
ラップに包まれたご飯の塊を口に入れながらシウォンが面白そうに笑う。
「美味いよ」
「まぁ、よっぽどのことがなければ不味くはならないだろうけど」
机の上の一つに手を伸ばしたヒョクチェがそれを遠慮もせずに口にいれる。
「…うま」
「だろ?」
そこにソンミンがお茶の入った湯飲みを置く。
「わ。ミニヒョンありがとう。っていうか、ここはミニヒョンがお茶まで淹れるの?」
ソンミンは苦笑いをすると二人の顔を交互に見て呟いた。
「だって社長と営業部長がここでおにぎり食べてる姿を女性社員に晒す訳にはいきませんから」
「俺は別に構わないけど」
「俺もー」
モゴモゴと口を動かす二人にソンミンは大きく息を吐く。
「貴殿方は構わないでしようけど、女性社員のモチベーションが下がるんで」
「なにそれ」
あははと声に出して笑うヒョクチェの横に腰を落ち着けたソンミンも湯飲みに口をつける。
「ソンミンも食べろよ。美味いから」
「…いただきます」
「で。なんでおにぎり?」
ヒョクチェの疑問にシウォンが笑う。
「神様ごはんなんだってさ」
塩むすびが神様ごはんだという理由と今朝のことを話す。
リョウクが作ったものを自分が食べたと言い切ったキュヒョンは見た目はともかく教えて貰って作ったのだから味は同じだと主張した。
そこでシウォンは見た目だけならリョウクが作ったものを100点とすると、キュヒョンのは何点かと訊ねたのだ。
50点位だと答えたキュヒョンに、だったら、とシウォンは提案した。
「あと50点分作れば点数的には一緒だろ?」
「おかしな理由ですね」
「で、作ったんだ。あの探偵」
「そう。ご飯炊く所から始めて」
ぷっ、とヒョクチェが吹き出す。
ソンミンも横でくすくすと愉しそうにわらっていた。
「真面目というか、律儀というか。面白いなぁ」
「だよな。一緒にいて飽きない」
「本来の仕事ではないでしょうけど。でも神様ごはんは間違ってない気がします」
ソンミンがニッコリと微笑んだ。
「こんなに楽しい昼食は久しぶりです」
久々にゆっくりと家で食事ができた。
キュヒョンとの会話は相変わらず楽しかったし、リョウクの料理も相変わらず美味しい。
温め方のレクチャーが上手くいっているのか温かい料理が食べられるのもありがたかった。
食事が終わってからリビングでパソコンを操っていたキュヒョンが立ち上がる。
「僕、コンビニ行ってきますけど、シウォンさん何か必要な物ありますか?」
「うーん…別に無いけど。それにしてもよく行くね、コンビニ」
「コンビニ依存症なんで」
ふふっと笑うと部屋に戻って出てきたキュヒョンはやっぱりモコモコの格好で子供の頃家にあったテディベアを思い出させた。
それがかれこれ一時間前。
ドアを見つめて、そのまま壁に掛けてある時計に目をやるとシウォンは小さく舌打ちした。
「やっぱり一緒に行くべきだったかな…」
外に出て彼が歩いていた、或いは歩いているはずである道を見遣ってみるけれど、仕事終わりのサラリーマンらしき人影が一つみえるだけだ。
彼の目的地であるはずのコンビニまでたいした距離はない。
あのコンビニでどんなに買う物に悩んだとしても、どんなにゆったり歩いたとしても、いくらなんでも時間が掛かりすぎだ。
暫く街灯を睨み付けていたシウォンは諦めて溜め息吐いた。
ああ、全く。
なんでこんな心配をしてるんだか。
部屋に戻って上着を掴むと再び外に出る。
コンビニまでの道を歩いていると、向こうからモバイルの明かりに顔を照らされながら歩いてくるキュヒョンが見えて一気に脱力した。
顔を上げた彼の口角が少し上がる。
「シウォンさん、どうしたんです?」
「いや、ちょっとコンビニに…」
「だったら電話してくれればよかったのに」
本当に頼みたいものがあればそうしていたけれど。
今更、引き返すわけにもいかない。
「まぁ、たまにはね。なんとなく甘い物が食べたくなったんだよ」
「じゃあ、僕も一緒に行こうかな」
「…行ってたんじゃないの?」
「そうですけど、まぁ、いいじゃないですか」
楽しそうに踵を返すキュヒョン。
「本当にコンビニ好きなんだね」
「なんか、安心しません?いつでも明るくて誰かが居る場所って」
「それは分かる気がするけど」
だからってコンビニ。
まぁ、本人が楽しいのであれば仕方がないか。
見えてきたなじみの看板と灯りは確かに寒い夜にはほっとさせる空間かもしれない。
「なにかお勧めある?」
「僕、ですか?」
「そう。コンビニ依存らしいからよく知ってるかと思って」
キュヒョンは冷蔵棚を指差した。
「僕はあの苺のはいったロールケーキ、好きですよ?」
最近のコンビニスイーツはクオリティーが高いと食べることが好きなヒョクチェもシウォンの家に遊びに来る時によく持ってきたりはしているけれど自分で買うことはあまりない。
人気商品とポップが貼られているそれを2つレジに持っていくと会計を済ませた。
「シウォンさんって甘い物好きなんですか?」
「嫌いじゃないけど、なんで?」
「2つも食べるのかなと思って」
「1つはキュヒョンのだよ。食べるだろ?」
「僕の?」
「そうだけど?」
それ以外に理由なんてあるわけもない。
「一緒に食べよう」
「…いただきます」
少し照れたような声にシウォンが笑ったその時。
嵯わめく声が耳に届いた。
それから黒い煙と赤い炎。
その相反する色は二人が居る大通りから横道に入った場所だ。
「火事だ」
呆然とした様子でキュヒョンが呟くとそろりと動いた手がペンダントを握り込む。
そのまま立ち尽くすキュヒョンはその一点を見つめたまま。
「キュヒョン?」
名前を呼んでみても反応がない。
その肩を掴んで揺すると、やっと視線がこちらに向いた。
「シウォン、さん」
「大丈夫か?」
こくりと頷くのを確認するとその現場を確認した。
この場合どう対処していいものだか。
何事もなかったように家に帰るのもなんとなく気持ちがいいものではない。
あれだけ人が居るのであればもう通報もされているだろうし、自分たちに出来る事なんて何もないに等しい。
「あ」
何かを思い出したようにキュヒョンが炎の方向に走り出した。
慌ててそれを追いかける。
火災現場に近づくとそこが小さな店舗になっていることに気付く。
「ここ、シウォンさんのところの商品扱ってるところですよ」
「え?」
「コスメのセレクトショップみたいなところです」
そこまで言って今度は辺りを見渡す。
そしてまた炎に向かって走り出した。
「キュヒョン!」
「すぐに戻りますから!」
嘘だろう。
少し離れたこの場所でさえ熱気が凄いというのに一体何を考えているんだ。
飛び込むべきではないと本能が訴える。
それでもやっぱり放っておけない。
「くそっ!」
背後で誰かが呼び止める声がしたけれど止まるわけにはいかなかった。
正気じゃない。
こんな場所に飛び込むキュヒョンも、それを追う自分も。
建物の脇をくぐり抜けて裏に曲がったキュヒョンを一瞬で見失う。
途端に身体中を襲う不安。
不安は恐怖になる。
無事なのか?
自分のことよりも彼の存在が目の前にない事がなにより不安だった。
「キュヒョン!」
「ここです」
後ろから声がして振り返ると、自分の上着を抱えたキュヒョンが立っていた。
「何やってるんだ⁉気でも触れたのか⁉」
「本気で言ってます?だったらそのままお返ししますけど」
キュヒョンが掠れた声でそう言った途端。
炎があがる音がする。
随分と炎が近づいている。
屋内に飛び込んだわけではないのでまだ炎からも離れていることと、煙を吸わずに済んでいることが幸いだ。
「熱いと思った」
「悠長なこと言ってる場合じゃないよ。行くぞ」
体を丸めるようにして建物の横をすり抜けて、走り出たところに緊急車両が到着した。
消防隊員の指示する声。
周りに集まってきた人達のざわめき。
救急隊や警察官の声。
そういったものに酷く安心した。
少し離れた場所で座り込むと大きく息を吸う。
「全く、なんだってあんな無茶したんだ」
「あ」
キュヒョンは思い出したとばかりに慌てて抱えていたジャケットを広げる。
そして安心したように微笑んだ。
そこには一匹の猫。
おそるおそる顔を出したかと思えばジャケットから飛び出すと一目散に近くの家の垣根の中に消えて行った。
「礼もなしか」
「猫ですしね」
「それにしても…」
「すぐに戻るっていったのに…。さすがに無理ならやりませんよ。僕だって自分が大事ですから。…あの裏手に住み着いてるのがいるのは知ってたんで近くにいってみるだけのつもりだったんです。でも微かにですけど聞こえたから」
「なにが?」
「声が。猫ってパニックになると動けなくなるんです。でも鳴いたから。助けられる運命だったんですよ」
俯いてペンダントを握る。
「よかった…」
ふいにキュヒョンの体が傾いで慌てて手を伸ばして肩を支える。
「大丈夫?」
「すいません…安心したら急に…」
手に伝わってくる微かな震え。
「怖かったなら、それは無理したってことじゃないの?」
「怖いとは違うんです…今は悲しいだけで…」
はっ、と短く息を吐いたキュヒョンは薄く笑って肩を支えるシウォンの手から離れて、顔をあげた。
「シウォンさんの方こそなんで来たんですか」
「キュヒョンが行くからだよ」
「だから、すぐに戻るって…」
堂々巡りになりそうな会話を止めたのは遠慮がちにかけられた声だ。
「あの…」
「はい?」
「向こうに居る人からお二人が火元に飛び込んだって聞いたんですが。お怪我はありませんか?」
救急隊員らしき男性にキュヒョンが返事をした。
「大丈夫です。横を通っただけで入ったわけじゃないんで怪我もしてませんよ」
二人を頭から足元まで流すように見た隊員は納得したように頷くと、何かあったら直ぐに病院に行くようにと言い残し現場に戻っていく。
「…とりあえず帰るか」
「はい。ところでシウォンさん」
「何?」
「ケーキ。どこにやっちゃったんですか?」
「あれ…?どこにいったんだろう…」
苦笑いすると、キュヒョンが困ったように首を傾げる。
「だから待っててくれればよかったのに」
「仕方ないよ。ところでキュヒョン何で嘘ついたの?」
「何がですか?」
自分の左手を指し示す。
気まずそうな顔をするところを見ると自覚はあるらしい。
「手の甲に引っ掻き傷があるよね」
「…火事とは関係ないから…それに何かと面倒だし…」
「あと、前髪。少し焦げてるんだけど?」
「なんか燃えた紙みたいなものが落ちてきて…」
ボソボソと言い訳を始める手を掴む。
「別に怒ってる訳じゃないから」
「わかってます」
「帰ったら手当てだな」
「…ケーキの方がよかったなぁ」
「もう一回コンビニ行く?」
「そこまでして食べたい訳じゃないですよ?」
「はい、はい。今度もっと美味しいケーキをご馳走するから、諦めて帰るよ」
「だから食べたい訳じゃないですって!子供扱いしないで下さいよ」
拗ね始めたキュヒョンに笑って、腕を掴んで引き上げる。
「帰ろう」
コクリと頷くキュヒョンの頭を撫でると、だから子供扱いしないで下さいよと苦笑いされる。
離れた場所から猫の声が聞こえてそちらに視線を向けると先程の猫がこちらの様子を伺うように見ていて。
キュヒョンに視線を戻すと、彼の口角が柔らかく上がった。
「お礼、言いに来たみたいですよ」
「うん。よかったね」
本当にみんな無事でよかった。
キュヒョンが無事でよかった。
こんな事は二度とごめんだ。
これも一連の不審火だというなら、早く犯人が捕まればいい。
心からそう思う。
掴んだままの腕を離せなくてそのままで歩き出すと不安そうに呼ばれた。
「あの、もう大丈夫なんで手を離して下さい」
「嫌なら離すけど」
「嫌とか、じゃなくて」
「離すとまた何かしでかしそうだ」
「あの…僕の不注意でシウォンさんまで危険なめに遇わせてすみません」
「謝ることじゃないから。それにキュヒョンが居なくなるのは、俺にとって重大なことなんだ」
そう。
重大なことなんだ。
この存在がなくなるのは。
この手を離したくない理由なんて、多分最初から気づいてた。
この世の中で特別な存在だ。
それが愛情や友情のどのカテゴリーにはまるのかは分からないけれど。
「鍵はちゃんとお渡ししますよ」
「そういう事じゃないんだけど」
自分にすら分からない感情を、どう伝えればいいのかわからない。
「もう鍵を見つけるのは重大な事じゃないっていうか…」
「え?…そう、ですか」
何故か傷ついたような顔をしたキュヒョンは、黙ったままで歩き出す。
実際この言葉がどれ程彼を傷つけていたか、この時シウォンには全く分からなかったのだ。