失われた風景

【8日目】
「おはようございます」
「おはよう」
リビングのテーブルの上には新聞と封筒。
どうやらキュヒョンが持ってきてくれたらしい。
そっと溜息をついたシウォンが封筒を取り上げると、キュヒョンが慌てて鋏を使うようにと訴える。
「はいはい」
「シウォンさん…なんで笑ってるんですか」
まさか母親みたいだとも言えず、シウォンはそのまま笑いを噛み殺すと封筒を開ける。
いつもと同じ。
中の紙切れの文字をキュヒョンに見えるようにすると、彼もまた大きく息を吐き出した。
「防犯カメラとかつけていないんですか?」
「玄関にはあるけどね。門扉の方はセンサーライトだけ」
それでも十分な防犯効果はあるらしいけれど。
いつものようにスープカップを前に置いたキュヒョンが難しい顔をしていて、思わずその頬をきゅっと摘まむと驚いたように体を引く。
「難しい顔になってる。ただの悪戯だよ」
「夕方には入ってなくて、朝に入ってるってことは夜中に入れられてるってことですよ?子供はそんな時間にこんなことしません」
「暇な大人っているんだね」
シウォンが笑うと、困った人だなとあきれたように溜息を吐かれた。
理由がわかればある程度の対応もできる。
けれど、この単語だけの紙切れでは何もわからない。
「本当に心当たりないんだよな…。まぁ、自分がわからないだけなのかもしれないけど」
「会社の関係とか…」
「ありだよね。でも直接俺に攻撃されるようなことってないと思うんだよ」
「リストラ」
「ああ。ごめん。うち業績はそこそこなんで肩たたきしたことないんだ」
「…なかなかに自慢ですね」
「おかげさまで」
キュヒョンは面白そうに笑う。
「じゃあ、元カノ」
「…前に付き合ってた女性でも1年以上前に別れたんだ、今更恨まれるようなこともないと思うんだけど」
「あー…。なんか別れ方ですら綺麗そう、シウォンさんって」
「なんだよ、それ。大体ふられて終わるんだ」
「意外」
「『思ってたのと違う』って、なんだと思う?俺はどういう風に思われてるわけ?」
くすくすとキュヒョンは笑う。
「そういうところじゃないですか?一見クールですごく洗練されてる大人の男性ですけど、僕に付き合ってゲームしてくれたり。しかも最後はシウォンさんのほうが真剣だったし。よくも悪くも普通の人」
「普通だよ。どこがいけない?」
「だから、普通を期待してなかったんですよ。その付き合ってきた方たちが。普通のシウォンさんのほうが魅力的なのに」
魅力的、ねぇ。
なんだかくすぐったい気分になる。
そう思ってくれる人だったら一生かけて守りたいと思えたのだろうか。
今から思えば彼女達にそこまでの強い想いはなかったような気がする。
自分もまた彼女たちに文句は言えない人間だろう。
「まぁ、仕事が落ち着くまでは恋愛してもいられないかもね」
「そんなこと言ってたらおじいさんになっちゃいますよ。それに好きになる気持なんて自分でコントロールできないじゃないですか」
スープカップに口をつけて当たり前のように言ったキュヒョンは時計に目を向ける。
「そろそろお迎えの時間ですよ」
「本当だ。あ、3日程帰りの時間が遅くなると思うから。キュヒョンの夕食はリョウクくんに頼んであるから家で食べて」
「ありがとうございます」
カップに残っていたスープを飲みこんで言うとキュヒョンが「無理しないようにしてくださいね」と微笑んだ。
「そっちもね」
「…こっちは、多分もうすぐ見つかりますよ」
彼がここにいる理由。
それが見つかった時にはこの時間が失われるのか。
それは寂しいな。
素直にそう思った。

ドアのノックされる音に書類から顔を上げる。
「おはよ、シウォナ」
「ヒョクチェさん。社長って呼んでください」
ソンミンが眉を顰めながらも微笑んで忠告する。
ペロリと舌を出したヒョクチェは「ごめんね」とやっぱり悪びれることなく笑ってシウォンの前に立つと、デスクに腰を掛けた。
「さてと。いい話と悪い話があるんだけど。どっちを先に聞きたい?」
「…いい話かな」
「そう。じゃあいい話。申請が下りたから発表できるようになったよ。新製品の情報公開できるよう準備進めてもいいの?」
「やっとか…。そっちはなるべく早く発表できるように進めてくれればいいよ」
「で。悪い話。…手紙は来た?」
「まさか…」
「やられたよ。発見が早かったお陰で大した被害ではなかったけど、外装とか色々直さなくちゃならないみたいで最低でも1カ月営業できない」
手紙が届いたのが3通目。
直営店が放火被害を受けるのも3回目。
さすがにこれでは偶然とは言い難い。
首をかしげるソンミンに事情を説明すると、彼はこめかみを指で押さえた。
「警察に届けた方がいいのでは?今のところ被害が押さえられているだけでエスカレートする可能性もありますよ?」
「でも確実につながってる確証もない
「だからって…こんな偶然早々ありません」
きっぱりと言い切られると反論もできない。
「ただ、さすがに3回も続けてだから警察だって調べるとは思うけどね」
「だよね」
シウォンの言葉にヒョクチェが頷くと、デスクの電話が鳴る。
受話器を上げたソンミンが表情を硬くした。
「社長。警察の方がいらしてますけど…」
「すごいタイミングだね。ドラマみたい」
「ヒョク…楽しむなよ。いいよ。通して」
肩を竦めたソンミンは受付に許可を出すと、しばらくしてドアをノックする音。
そして二人の刑事が入ってくると、そのうちの一人がポカンと口を開けて一人の人物を指さした。
「あ。ヒョク」
「よりによってお前か、ドンヘ」
二人の顔を見比べたシウォンが疑問を口にした。
「知り合い?」
「あー…うん、まぁ…」
曖昧な返事をするヒョクチェに笑ったドンヘと呼ばれた刑事はシウォンにも同じ笑顔を向ける。
「初めまして。第一捜査課火災犯捜査係のキム・ヨンウンといいます。こちらは同係のイ・ドンヘ」
軽く頭を下げた刑事の方が胸ポケットから取り出した警察手帳を開いてこちらに提示した。
「突然伺ってすみません。実は本日未明に発生した不審火についてお聞きしたいことが」
ふぅ、と溜息を吐いたシウォンは応接用のソファーを勧めると自分も腰を下した。
聞きたいことは、こっちのほうが山ほどあるのだ。
ただし相手は刑事にではなく犯人の方ではあるけど。
「何をお話しすれば?」
「ここ3日立て続けにこの地区周辺で不審火があるのはご存知ですか?」
「ええ。しかも全てうちの直営店だ」
シウォンの言葉にヨンウンが頷く
横にいたドンヘがバインダーファイルを広げてメモを取る準備を始めたのを見て、少し緊張が和らいだ。
ドラマのように手帳に書き込むわけではないのか。
それに多分自分と変わらない年齢だろうと思われるのに、その彼が学生のようで。
「偶然とは思えないのですが。何か心当たりは」
「…あればいいんですけど。…ただ、悪戯かもしれませんけどこの3日自宅におかしな封筒が届いてはいますよ」
ヨンウンに訝しげな顔をされてシウォンは届いた手紙のことを説明する。
「それは…拝見することはできますか?」
「必要であればもちろん。早い方がいいですか?」
「できれば」
「…わかりました。ちょっと連絡しますのでその間お待ちください」
モバイルを取り出したシウォンは自宅の番号をコールする。
ほどなくして、リョウクの声が対応した。
キュヒョンがいるか尋ねると「今はいますよ」と変わった返事をされたので聞き返すと、いつもふらりと出ていくのだと教えてくれる。
電話を代わってもらうとキュヒョンは不思議そうな声でどうしたのかと聞いてきた。
「今、刑事さんが来ててね」
『刑事?…あ、不審火の件ですか?』
「そう。それで手紙のことを話したんだけど。それを見たいそうなんだ。キュヒョンなら詳細もわかるしよかったら対応してもらえないかな」
『わかりました』
「じゃあ、頼んだよ」
通話を切って正面に顔を向けるとヨンウンが驚いたような表情でこちらを見ていた。
「…なにか?」
「いえ。そのキュヒョンさんというのはご家族ですか?」
「…違いますよ。事情があって今うちで生活している知りあいで、彼なら手紙のこともよく知ってますから」
「そうですか」
それまで、精悍なイメージだった刑事の表情が微笑んだ途端に柔らかいイメージにかわる。
その後、一通りの質問をした二人の刑事が退室すると三人が揃って息を吐き出した。
それが可笑しくて、くすりと笑うとヒョクチェが肩を竦めてシウォンのデスクから降りる。
「とりあえず、働きますか」
「だな。ソンミン、午後からの会議の資料は?」
「そちらのデスクの上です。パフューム部門の立ち上げの資料ですから」
三人が其々の仕事を始める。
一時の非日常があっという間に日常に戻った。
会議に次ぐ会議。
夜には付き合いのある会社のパーティー。
長い一日を終えて帰ると、リビングのテーブルの上に小さな箱があった。
取り上げた箱には付箋が貼り付けられている。
『お疲れ様でした。疲れた時には甘いものがいいそうです。少しですがどうぞ』
どこにでも売っている、チョコレート。
箱を開けて中に綺麗に並んでいる一粒を口に放り込むと、体温で溶ける甘さがじんわりと染み込んだ。
「うん、美味い」
キュヒョンはもう休んでいるのだろう。
何故だか、今、あの声が聞きたいと思った。

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