失われた風景
【6日目】
やっとできた休日。
だからと言って休日の過ごし方を考える事もできない。
何をしたらいいのかも分からないし、付き合ってくれそうな人物もすぐには思いつかなかった。
とりあえずゆっくり眠るという目標だけは無事に達成はできたものの。
「もう朝なんてウソだろ…。寝たのは5分前のような気がするぞ」
惰眠を貪ったはずなのにそうと感じることすら出来ないのだから、随分疲れていたのかと他人事のように考える。
とりあえず新聞でも取りに行こう。
シウォンは屋敷のドアを開けて、清々しい朝の空気を吸い込みながら空を見上げた。
門扉の郵便受けを開けると新聞と淡いブルーの封筒が入っていた。
封筒には自分の名前だけが印刷されている。
無駄だろうと思いつつ裏を見てみるけれど、そこには当然差出人の名前は書かれていなかった。
こういうものは多分開けない方が無難なもの。
それは分かってはいても万が一にも重要なことが書かれていれば困ったことになる。
封を切って中を確認すると、手紙とも言いにくいメモのような紙切れが一枚。
その上の文字に目を走らせてシウォンはふぅっと息を吐き出すと、紙切れを封筒に戻す。
よっぽどボキャブラリーの少ない人間なんだろうか。
ただ一言単語が書かれているだけ。
でも、それは人を最大に否定し、拒絶する言葉。
リビングに入るといつもと同じようにキュヒョンがキッチンに立っていて、その姿にほっとする。
たった一つの単語で神経は随分とささくれ立っているようだ。
テーブルの上に新聞と封筒を投げるように置くと、キュヒョンがカップを前に置く。
そして、封筒に目を止めた。
「これは?」
「郵便受けに入ってた」
黙ったまま封筒を見つめるキュヒョンに小さく笑う。
気にならない方が無理か。
なにせ探偵だし。
「別に見ても構わないけど、気分のいいものでもないよ?」
「…すみません。拝見します」
紙切れを取り出したキュヒョンの口許がきゅっと結ばれた。
意外にも人間の感情というものは口許だけでもわかるように出来ているんだな、なんて妙なことに感心しする。
「今までにもこんなことが?」
「無かったなぁ。自分では記憶がなくても、どこでどんな恨みを買ってるかなんてわからないしね」
自分の正義が、他人の悪になりえることもある。
「…ねぇ、キュヒョン」
「はい」
「探偵は休みは無いの?」
「はい?」
「無いの?」
「依頼が無ければ…休みってことになりますね」
「じゃあ、今、仕事中で2週間も仕事するってことになるのかな?」
「えっと…そう、なります…よね」
キュヒョンが困ったように言葉を返すとシウォンは「だよね」と頷いた。
「それってさ。労働基準法に違反しない?」
「えーと…?」
何が言いたいのか測りかねるキュヒョンの様子を十分に楽しんで、シウォンは本題を口にした。
「だから、今日は探偵は休みってことで。ちょっと付き合ってよ」
「え?」
「どこでもいい。ストレス解消。つき合ってよ」
困ったように前髪をかき上げたキュヒョンの見えるようになった目が細められる。
「それもご依頼の一環でしたら」
「じゃあ、そういうことで」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「疲れた…」
「これくらいで、だらしないなぁ」
ぐったりと項垂れるシウォンを見下ろすようにしてキュヒョンが笑う。
おかしい。
3時間前は全く逆の状況でシウォンが笑っていたはずなのに。
体を動かすことで少しはストレスも発散できるかとテニスをした時は確実に今と逆だったのだ。
その後でキュヒョンが希望したハンバーガーショップで昼食を摂った。
久しぶりのジャンクフード。
キュヒョンが居ると「久しぶり」なことが多くて、不思議と楽しくなる。
げんなりとした表情で、なぜこれでストレス発散になるんだと文句を言いながらハンバーガーに齧りついたキュヒョンにとっては、ストレス発散にはならないようだ。
「じゃあ、キュヒョンはストレス解消は何するの?」
「そうですね…歌う、とか。遊園地で絶叫マシンに乗るとか?後は…」
子供みたいだな、なんて考えてながら見ていると、その唇がニヤリと笑って「今度は僕に付き合ってください」そう言った。
そして、現在のこの状況。
「恐るべし、ゲームセンター」
シューティングゲームの前で項垂れるシウォンの肩をポンと叩いてキュヒョンが笑う。
「意外とストレス発散になるでしょ?」
「確かに」
そこそこの重さの銃器(もちろん本物ではないけれど)を扱うのは、なかなかに体力は消耗されるものの。
確実にストレス発散にはなっているようだ。
「こういう場所にくるのも何年ぶりかな」
ほら。
また久しぶりなことが。
「じゃあ、十分に楽しんでください。もう一勝負しましょう」
「…望むところ」
勝てる気はしないけれど。
それでも楽しいし、ストレス発散になっているのも事実だった。
次の日にも淡いブルーの封筒が入って居なければ。
【7日目】
淡いブルーの封筒を二人で睨むように見つめる。
「同じ、ですね」
「同じ、だね」
前日と同じように朝郵便受けに入っていた封筒。
中もほぼ同じものだ。
今日は剃刀の刃が入っていたけれど。
昨日と同じように封を開けようとした途端、違和感に気づいた。
なにか堅いものが入っている。
リビングに入った時に、キュヒョンが封筒を見て緊張したように口を結んだのを見て、心配してくれているのだなと思った。
鋏を使って封を開けると中に入っていたのは鈍い銀色の塊。
心当たりは正直ない。
仕事の関係だとしてもこんな個人的な攻撃をうけるような記憶は全くないのだ。
そして怒りというよりも困惑しているといった方が正しいだろう。
寧ろ。
「キュヒョン」
「はい」
「…なんか、怒ってる?」
「当然です」
何が気に入らないのか書いてあるわけでもなく、ボキャブラリーが窺い知れる程度の常套句。
いや、単語というべきか。
それが一言書かれているだけの紙切れを送りつける一方的な攻撃を卑怯と言わずしてなんというべきか。
腹立たしい。
それでも、その怒りの方向すら示せないのだ。
「だって、シウォンさん、傷ついてるでしょ」
「…んー、そんなことはないけど」
「そういう人ですよ。あなた。それなのに、それだけでは飽き足らずにその身さえも傷つけようとするなんて」
キュヒョンが自分の事を過大評価しているような気もするけれど。
それでも心配してくれる人間がいてくれるのは嬉しい。
ただ、だまって封筒を見ているだけの緊張した空気を破ったのは呼び鈴の音だった。
「誰だよ、朝っぱらから」
シウォンは立ち上がると玄関に向かう。
ドアを開けると、にこやかに微笑むヒョクチェがいて肩から力が抜けた。
「おっはよーシウォナ」
「休みの朝から、何の用だよ」
「探偵の顔を見に来たんだよ」
よくよく聞くと本当はデートの時間までの時間つぶしらしい。
するりとシウォンの開けた隙間から滑り込む様子は猫みたいだなと思う。
リビングに入るなり、キュヒョンを見つけたヒョクチェはにっこりと笑うと、遠慮なくキュヒョンの前に腰を下ろした。
「探偵さん?俺はシウォナの従兄弟でヒョクチェです。よろしく」
「あ…。チョ・ギュヒョンです。よろしくお願いします」
そして、キュヒョンの全身をマジマジと観察して。
無邪気に、ちょっと顔見せてよー。と、前髪をふわりと上げて。
それからシウォンに向き直ると「なるほどねー」と感心したようにそう言った。
何が、なるほどなんだ。
そう言ってやろうかと考えて、止めた。
多分、先日の自分の発した言葉に対してだと思い当たったから。
さすがに、それはなんとなくバラされたくない。
「シウォナ。コーヒー淹れて」
「俺はお前の給仕じゃないぞ」
とは言いつつも、自分のを淹れるついでだ。
そのまま、新しいカップを用意してコーヒーを淹れるとそれを手渡してやる。
「ありがと。ところでシウォナ」
「ん」
「昨日、うちの近くで不審火があったんだ」
ピクリとキュヒョンの肩が動いたような気がした。
ヒョクチェのマンションはここから遠い場所ではない。
と、言うことは先日の不審火と同一犯なのだろうか。
どちらにしても迷惑な話だ。
「不審火?ここのところ多いのか?」
「さぁ、それは分からないけどさ。…またうちの直営店が入ってる場所だったんだけど。これって偶然だと思う?」
最後の言葉はシウォンにではなくて、キュヒョンに向けて問いかけているようだ。
たまたま続けての不審火。
そんな偶然の可能性はどれくらいなんだろう。
絶対にないとは言えないけれど、ここは明らかに意図があるという方が正しい気がする。
淡いブルーの封筒を見つめたままのキュヒョンがまたペンダントをギュッと握って大きく息を吸い込んだ。
「調べてみますか?」
「それは別の依頼になるよね?」
「そう、ですけど」
「危険かもしれないよね?」
「それも否定はできませんが…もちろん安全を最優先しますよ」
「…不審火なら警察だって調べるよ、きっと」
危険なら、そこに飛び込ませるわけにはいかない。
彼の職業柄、危険なことに直面することも多々あるのだろうけれど、今自分が最優先するのはそこではない。
最優先すべき鍵の在処だって、キュヒョンが来る前ほど望んではいないのだから。
「でも、シウォンさん」
「いいから。まだ偶然の可能性だって無いわけじゃない。…キュヒョンの仕事は鍵を探すことだ」
「…わかりました」
ふうっと息を吐き出すキュヒョンを見つめてヒョクチェが困ったように笑った。
「ごめん。俺が変な話したから」
「ヒョクチェさんのせいでは…」
「そう。そっちの方はあながち間違ってないかもしれないから」
首を傾げるヒョクチェに封筒を手渡す。
宛名を見てシウォンの顔を見た相手に頷くと、中から紙切れを取り出したヒョクチェの表情が一瞬で曇った。
「何、コレ」
「昨日と今日、郵便受けに入ってた」
「…仕事の方?」
「分からないけど。可能性が無いわけじゃない。…今回の仕事に関連してるなら、今が勝負だしさ」
「…うん、それなら、来週にはカタが着くだろ。とりあえず気を付けるに越したことはないね」
自社製品の特許申請。
独自の技術を使った製品は他社に使用される訳にはいかない。
特許を申請してから特許請の発行までには随分と時間がかかる。
権利化されるまでには色々な審査、査定を受け、最後の特許査定までやっとこぎつけた。
あとは特許料の納付をすれば特許証が発行される。
ここまで来て、その事に関する邪魔は入ることは無いだろうとは思うのだけど。
「…それにしても、この紙切れ書いた奴、頭悪そう」
「お前が言うな」
「はい?俺、こいつよりは絶対頭いいね。自信あるわ」
シウォンが淹れたコーヒーにたっぷりのミルクと砂糖を入れたヒョクチェが一口それを飲んで、その紙切れをキュヒョンに向けながら「そう思わない?」と尋ねると。
「思いますよ」
真面目な顔で返すキュヒョンにヒョクチェが笑う。
「可愛くて面白い探偵だね」
そう言って。
ヒョクチェを無事デートに送り出し、珍しく急な呼び出しの電話もなく。
自分の部屋で過ごそうかとも思ったが文庫本だけを手に取ると再びリビングに戻ることにした。
そこには何を調べているのかノートパソコンを弄っているキュヒョンが居る。
彼にだって客室を与えているのだけれど、なぜかキュヒョンはこのリビングで作業していることが常だった。
そんな姿を時折視界の端に入れながら、シウォンは読みかけたままで止まっていた小説をソファーに凭れて読み始める。
ゆったりとした時間にキュヒョンがキーボードを叩く音だけが聴こえているが、それが妙に心地いい。
どれくらいの時間が過ぎたのか。
最後の一文を読み終えたシウォンがパタンと本を閉じて体を伸ばすとキュヒョンが顔をあげてこちらを見た。
時計を見るとデジタルの表示は間もなく16:00になろうとしている。
「キュヒョン。コーヒーでも飲む?」
「いただきます」
シウォンはキッチンに入ると吊り棚を開けて小さなコーヒーミルを取り出した。
豆を挽き始めると香ばしい香りが部屋を満たしていく。
「…そこから始めるんですか?」
「時間がある時はね。やっぱり挽きたての方が香りがいいし」
キュヒョンはクスンと鼻を鳴らすと口許に笑みを作った。
「確かに、いい香りですね」
首を回すと無造作に前髪を掻き上げて指で目頭を押さえたキュヒョンに、シウォンは小さく笑った。
自分が小説を読み終えるほどの時間パソコンの画面を見続けていたのだから、疲れるのも当然だ。
「髪、邪魔じゃないの?」
「…たまに。でもあまり顔を覚えられなくていいのでこれくらいの方が都合がいいです」
「ふぅん。そんなものなの?」
「そんなものです」
「でも、確かにその顔だったらすぐに覚えられそうだね。綺麗な顔してるし」
「キレイって…」
ぱかんと口を開けて固まったキュヒョンは、今度は慌てて前髪を一生懸命引っ張るようにして降ろし始める。
「あ。もったいない」
「もったいなく無いです!」
少し怒ったような口調はどうやら照れ隠しのようだ。
「言われたことない?」
「…」
返事はないもののむにゅ、と唇を曲げる様子から言われたことはあるんだなと推測する。
「もしかして、綺麗とか言われるの嫌だとか?」
「…そんなことは、ないですけど。でも男ですから、どうせならカッコいいとかの方がいいでしょ」
「そんなもの?」
「そんなものです。シウォンさんはカッコいいなんて言われ慣れてそうですから分からないかもしれませんけど」
なんだか本格的に拗ね始めているキュヒョンが可笑しくて笑うと「何で笑うんですか」と怒られた。
コーヒーを淹れたマグカップを彼の前に置いて、向かいに座る。
「そういえば…俺が帰ってくるときってキュヒョンはいつもリビングでなにかしらしてるよね。部屋が気に入らない?」
「あ。そうじゃなくて…。子供の頃からの癖というか…。僕、両親が居なくて祖父に育ててもらったんです。もちろん僕が子供の頃ですから祖父もまだ現役で働いてて。だから誰かが帰ってくる場所に居たかったんですよね。それがどうも抜けなくて」
悪いことを聞いてしまったかと思ったがキュヒョンの表情はただ懐かしそうな笑みを作っていて、少し安心した。
「そうか…俺も両親は子供の頃に亡くなったみたいだけど」
「…あ、の」
「あぁ。前社長である父は本当の叔父にあたるんだ。両親は事故で亡くなったそうだよ。…一緒に事故にあったはずなのにその事故のせいでそれ以前の記憶が俺には殆どないんだ」
全くすべてが消え去ったわけではない。
何かがきっかけで、ふと思い出すこともある。
それでも自分という存在すら曖昧だった。
両親の事も覚えていない。
だから叔父夫婦が自分を引き取って育ててくれたことも後になって知ったのだ。
記憶がない子供の自分にとって親が彼等であるという事を受け入れることはあまりにも容易かったのだから。
「記憶がないのは、不安だったりしますか?」
何故だかキュヒョンの方が泣き出しそうな顔をしていて、シウォンは慌てて首を横に振った。
「大人になってからなら不安だったかもしれないけれど。でもさすがに7歳くらいの事だから…。普通に記憶がある人間だってそれくらいの歳のことなら大人になればあやふやなものだろ?」
「そうです、ね」
キュヒョンがまたペンダントトップをギュッと握る。
「…不安とは違うけど、たまにね。大切なことを忘れてるような気はするよ」
思い出さなくてはいけないような。
忘れていてもいいような。
「それでも、今の貴方にどうしても必要なものでないのなら、思い出さなくてもいいと思いますよ、俺は」
キュヒョンは小さく息を吐き出すと、すっきりしたように微笑んだ。
「今のシウォンさんが、その記憶がない状態で形作られているならそれでいいと思います。そのままでいいと思います」
魔法か何かかと疑った。
今まで気にしていてた訳ではなかったはずなのに、急に肩から力が抜けたような気分になる。
キュヒョンといると、一人でいるときよりも楽に呼吸が出来ているような気がした。
ふっと笑ったシウォンはキュヒョンの顔を見る。
彼は同じように微笑んでいた。
「お腹減ったね」
「…ですね」
「食べに行こうか」
少し考えるそぶりを見せたキュヒョンが笑う。
「…ドレスコードが無いところなら喜んで」
やっとできた休日。
だからと言って休日の過ごし方を考える事もできない。
何をしたらいいのかも分からないし、付き合ってくれそうな人物もすぐには思いつかなかった。
とりあえずゆっくり眠るという目標だけは無事に達成はできたものの。
「もう朝なんてウソだろ…。寝たのは5分前のような気がするぞ」
惰眠を貪ったはずなのにそうと感じることすら出来ないのだから、随分疲れていたのかと他人事のように考える。
とりあえず新聞でも取りに行こう。
シウォンは屋敷のドアを開けて、清々しい朝の空気を吸い込みながら空を見上げた。
門扉の郵便受けを開けると新聞と淡いブルーの封筒が入っていた。
封筒には自分の名前だけが印刷されている。
無駄だろうと思いつつ裏を見てみるけれど、そこには当然差出人の名前は書かれていなかった。
こういうものは多分開けない方が無難なもの。
それは分かってはいても万が一にも重要なことが書かれていれば困ったことになる。
封を切って中を確認すると、手紙とも言いにくいメモのような紙切れが一枚。
その上の文字に目を走らせてシウォンはふぅっと息を吐き出すと、紙切れを封筒に戻す。
よっぽどボキャブラリーの少ない人間なんだろうか。
ただ一言単語が書かれているだけ。
でも、それは人を最大に否定し、拒絶する言葉。
リビングに入るといつもと同じようにキュヒョンがキッチンに立っていて、その姿にほっとする。
たった一つの単語で神経は随分とささくれ立っているようだ。
テーブルの上に新聞と封筒を投げるように置くと、キュヒョンがカップを前に置く。
そして、封筒に目を止めた。
「これは?」
「郵便受けに入ってた」
黙ったまま封筒を見つめるキュヒョンに小さく笑う。
気にならない方が無理か。
なにせ探偵だし。
「別に見ても構わないけど、気分のいいものでもないよ?」
「…すみません。拝見します」
紙切れを取り出したキュヒョンの口許がきゅっと結ばれた。
意外にも人間の感情というものは口許だけでもわかるように出来ているんだな、なんて妙なことに感心しする。
「今までにもこんなことが?」
「無かったなぁ。自分では記憶がなくても、どこでどんな恨みを買ってるかなんてわからないしね」
自分の正義が、他人の悪になりえることもある。
「…ねぇ、キュヒョン」
「はい」
「探偵は休みは無いの?」
「はい?」
「無いの?」
「依頼が無ければ…休みってことになりますね」
「じゃあ、今、仕事中で2週間も仕事するってことになるのかな?」
「えっと…そう、なります…よね」
キュヒョンが困ったように言葉を返すとシウォンは「だよね」と頷いた。
「それってさ。労働基準法に違反しない?」
「えーと…?」
何が言いたいのか測りかねるキュヒョンの様子を十分に楽しんで、シウォンは本題を口にした。
「だから、今日は探偵は休みってことで。ちょっと付き合ってよ」
「え?」
「どこでもいい。ストレス解消。つき合ってよ」
困ったように前髪をかき上げたキュヒョンの見えるようになった目が細められる。
「それもご依頼の一環でしたら」
「じゃあ、そういうことで」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「疲れた…」
「これくらいで、だらしないなぁ」
ぐったりと項垂れるシウォンを見下ろすようにしてキュヒョンが笑う。
おかしい。
3時間前は全く逆の状況でシウォンが笑っていたはずなのに。
体を動かすことで少しはストレスも発散できるかとテニスをした時は確実に今と逆だったのだ。
その後でキュヒョンが希望したハンバーガーショップで昼食を摂った。
久しぶりのジャンクフード。
キュヒョンが居ると「久しぶり」なことが多くて、不思議と楽しくなる。
げんなりとした表情で、なぜこれでストレス発散になるんだと文句を言いながらハンバーガーに齧りついたキュヒョンにとっては、ストレス発散にはならないようだ。
「じゃあ、キュヒョンはストレス解消は何するの?」
「そうですね…歌う、とか。遊園地で絶叫マシンに乗るとか?後は…」
子供みたいだな、なんて考えてながら見ていると、その唇がニヤリと笑って「今度は僕に付き合ってください」そう言った。
そして、現在のこの状況。
「恐るべし、ゲームセンター」
シューティングゲームの前で項垂れるシウォンの肩をポンと叩いてキュヒョンが笑う。
「意外とストレス発散になるでしょ?」
「確かに」
そこそこの重さの銃器(もちろん本物ではないけれど)を扱うのは、なかなかに体力は消耗されるものの。
確実にストレス発散にはなっているようだ。
「こういう場所にくるのも何年ぶりかな」
ほら。
また久しぶりなことが。
「じゃあ、十分に楽しんでください。もう一勝負しましょう」
「…望むところ」
勝てる気はしないけれど。
それでも楽しいし、ストレス発散になっているのも事実だった。
次の日にも淡いブルーの封筒が入って居なければ。
【7日目】
淡いブルーの封筒を二人で睨むように見つめる。
「同じ、ですね」
「同じ、だね」
前日と同じように朝郵便受けに入っていた封筒。
中もほぼ同じものだ。
今日は剃刀の刃が入っていたけれど。
昨日と同じように封を開けようとした途端、違和感に気づいた。
なにか堅いものが入っている。
リビングに入った時に、キュヒョンが封筒を見て緊張したように口を結んだのを見て、心配してくれているのだなと思った。
鋏を使って封を開けると中に入っていたのは鈍い銀色の塊。
心当たりは正直ない。
仕事の関係だとしてもこんな個人的な攻撃をうけるような記憶は全くないのだ。
そして怒りというよりも困惑しているといった方が正しいだろう。
寧ろ。
「キュヒョン」
「はい」
「…なんか、怒ってる?」
「当然です」
何が気に入らないのか書いてあるわけでもなく、ボキャブラリーが窺い知れる程度の常套句。
いや、単語というべきか。
それが一言書かれているだけの紙切れを送りつける一方的な攻撃を卑怯と言わずしてなんというべきか。
腹立たしい。
それでも、その怒りの方向すら示せないのだ。
「だって、シウォンさん、傷ついてるでしょ」
「…んー、そんなことはないけど」
「そういう人ですよ。あなた。それなのに、それだけでは飽き足らずにその身さえも傷つけようとするなんて」
キュヒョンが自分の事を過大評価しているような気もするけれど。
それでも心配してくれる人間がいてくれるのは嬉しい。
ただ、だまって封筒を見ているだけの緊張した空気を破ったのは呼び鈴の音だった。
「誰だよ、朝っぱらから」
シウォンは立ち上がると玄関に向かう。
ドアを開けると、にこやかに微笑むヒョクチェがいて肩から力が抜けた。
「おっはよーシウォナ」
「休みの朝から、何の用だよ」
「探偵の顔を見に来たんだよ」
よくよく聞くと本当はデートの時間までの時間つぶしらしい。
するりとシウォンの開けた隙間から滑り込む様子は猫みたいだなと思う。
リビングに入るなり、キュヒョンを見つけたヒョクチェはにっこりと笑うと、遠慮なくキュヒョンの前に腰を下ろした。
「探偵さん?俺はシウォナの従兄弟でヒョクチェです。よろしく」
「あ…。チョ・ギュヒョンです。よろしくお願いします」
そして、キュヒョンの全身をマジマジと観察して。
無邪気に、ちょっと顔見せてよー。と、前髪をふわりと上げて。
それからシウォンに向き直ると「なるほどねー」と感心したようにそう言った。
何が、なるほどなんだ。
そう言ってやろうかと考えて、止めた。
多分、先日の自分の発した言葉に対してだと思い当たったから。
さすがに、それはなんとなくバラされたくない。
「シウォナ。コーヒー淹れて」
「俺はお前の給仕じゃないぞ」
とは言いつつも、自分のを淹れるついでだ。
そのまま、新しいカップを用意してコーヒーを淹れるとそれを手渡してやる。
「ありがと。ところでシウォナ」
「ん」
「昨日、うちの近くで不審火があったんだ」
ピクリとキュヒョンの肩が動いたような気がした。
ヒョクチェのマンションはここから遠い場所ではない。
と、言うことは先日の不審火と同一犯なのだろうか。
どちらにしても迷惑な話だ。
「不審火?ここのところ多いのか?」
「さぁ、それは分からないけどさ。…またうちの直営店が入ってる場所だったんだけど。これって偶然だと思う?」
最後の言葉はシウォンにではなくて、キュヒョンに向けて問いかけているようだ。
たまたま続けての不審火。
そんな偶然の可能性はどれくらいなんだろう。
絶対にないとは言えないけれど、ここは明らかに意図があるという方が正しい気がする。
淡いブルーの封筒を見つめたままのキュヒョンがまたペンダントをギュッと握って大きく息を吸い込んだ。
「調べてみますか?」
「それは別の依頼になるよね?」
「そう、ですけど」
「危険かもしれないよね?」
「それも否定はできませんが…もちろん安全を最優先しますよ」
「…不審火なら警察だって調べるよ、きっと」
危険なら、そこに飛び込ませるわけにはいかない。
彼の職業柄、危険なことに直面することも多々あるのだろうけれど、今自分が最優先するのはそこではない。
最優先すべき鍵の在処だって、キュヒョンが来る前ほど望んではいないのだから。
「でも、シウォンさん」
「いいから。まだ偶然の可能性だって無いわけじゃない。…キュヒョンの仕事は鍵を探すことだ」
「…わかりました」
ふうっと息を吐き出すキュヒョンを見つめてヒョクチェが困ったように笑った。
「ごめん。俺が変な話したから」
「ヒョクチェさんのせいでは…」
「そう。そっちの方はあながち間違ってないかもしれないから」
首を傾げるヒョクチェに封筒を手渡す。
宛名を見てシウォンの顔を見た相手に頷くと、中から紙切れを取り出したヒョクチェの表情が一瞬で曇った。
「何、コレ」
「昨日と今日、郵便受けに入ってた」
「…仕事の方?」
「分からないけど。可能性が無いわけじゃない。…今回の仕事に関連してるなら、今が勝負だしさ」
「…うん、それなら、来週にはカタが着くだろ。とりあえず気を付けるに越したことはないね」
自社製品の特許申請。
独自の技術を使った製品は他社に使用される訳にはいかない。
特許を申請してから特許請の発行までには随分と時間がかかる。
権利化されるまでには色々な審査、査定を受け、最後の特許査定までやっとこぎつけた。
あとは特許料の納付をすれば特許証が発行される。
ここまで来て、その事に関する邪魔は入ることは無いだろうとは思うのだけど。
「…それにしても、この紙切れ書いた奴、頭悪そう」
「お前が言うな」
「はい?俺、こいつよりは絶対頭いいね。自信あるわ」
シウォンが淹れたコーヒーにたっぷりのミルクと砂糖を入れたヒョクチェが一口それを飲んで、その紙切れをキュヒョンに向けながら「そう思わない?」と尋ねると。
「思いますよ」
真面目な顔で返すキュヒョンにヒョクチェが笑う。
「可愛くて面白い探偵だね」
そう言って。
ヒョクチェを無事デートに送り出し、珍しく急な呼び出しの電話もなく。
自分の部屋で過ごそうかとも思ったが文庫本だけを手に取ると再びリビングに戻ることにした。
そこには何を調べているのかノートパソコンを弄っているキュヒョンが居る。
彼にだって客室を与えているのだけれど、なぜかキュヒョンはこのリビングで作業していることが常だった。
そんな姿を時折視界の端に入れながら、シウォンは読みかけたままで止まっていた小説をソファーに凭れて読み始める。
ゆったりとした時間にキュヒョンがキーボードを叩く音だけが聴こえているが、それが妙に心地いい。
どれくらいの時間が過ぎたのか。
最後の一文を読み終えたシウォンがパタンと本を閉じて体を伸ばすとキュヒョンが顔をあげてこちらを見た。
時計を見るとデジタルの表示は間もなく16:00になろうとしている。
「キュヒョン。コーヒーでも飲む?」
「いただきます」
シウォンはキッチンに入ると吊り棚を開けて小さなコーヒーミルを取り出した。
豆を挽き始めると香ばしい香りが部屋を満たしていく。
「…そこから始めるんですか?」
「時間がある時はね。やっぱり挽きたての方が香りがいいし」
キュヒョンはクスンと鼻を鳴らすと口許に笑みを作った。
「確かに、いい香りですね」
首を回すと無造作に前髪を掻き上げて指で目頭を押さえたキュヒョンに、シウォンは小さく笑った。
自分が小説を読み終えるほどの時間パソコンの画面を見続けていたのだから、疲れるのも当然だ。
「髪、邪魔じゃないの?」
「…たまに。でもあまり顔を覚えられなくていいのでこれくらいの方が都合がいいです」
「ふぅん。そんなものなの?」
「そんなものです」
「でも、確かにその顔だったらすぐに覚えられそうだね。綺麗な顔してるし」
「キレイって…」
ぱかんと口を開けて固まったキュヒョンは、今度は慌てて前髪を一生懸命引っ張るようにして降ろし始める。
「あ。もったいない」
「もったいなく無いです!」
少し怒ったような口調はどうやら照れ隠しのようだ。
「言われたことない?」
「…」
返事はないもののむにゅ、と唇を曲げる様子から言われたことはあるんだなと推測する。
「もしかして、綺麗とか言われるの嫌だとか?」
「…そんなことは、ないですけど。でも男ですから、どうせならカッコいいとかの方がいいでしょ」
「そんなもの?」
「そんなものです。シウォンさんはカッコいいなんて言われ慣れてそうですから分からないかもしれませんけど」
なんだか本格的に拗ね始めているキュヒョンが可笑しくて笑うと「何で笑うんですか」と怒られた。
コーヒーを淹れたマグカップを彼の前に置いて、向かいに座る。
「そういえば…俺が帰ってくるときってキュヒョンはいつもリビングでなにかしらしてるよね。部屋が気に入らない?」
「あ。そうじゃなくて…。子供の頃からの癖というか…。僕、両親が居なくて祖父に育ててもらったんです。もちろん僕が子供の頃ですから祖父もまだ現役で働いてて。だから誰かが帰ってくる場所に居たかったんですよね。それがどうも抜けなくて」
悪いことを聞いてしまったかと思ったがキュヒョンの表情はただ懐かしそうな笑みを作っていて、少し安心した。
「そうか…俺も両親は子供の頃に亡くなったみたいだけど」
「…あ、の」
「あぁ。前社長である父は本当の叔父にあたるんだ。両親は事故で亡くなったそうだよ。…一緒に事故にあったはずなのにその事故のせいでそれ以前の記憶が俺には殆どないんだ」
全くすべてが消え去ったわけではない。
何かがきっかけで、ふと思い出すこともある。
それでも自分という存在すら曖昧だった。
両親の事も覚えていない。
だから叔父夫婦が自分を引き取って育ててくれたことも後になって知ったのだ。
記憶がない子供の自分にとって親が彼等であるという事を受け入れることはあまりにも容易かったのだから。
「記憶がないのは、不安だったりしますか?」
何故だかキュヒョンの方が泣き出しそうな顔をしていて、シウォンは慌てて首を横に振った。
「大人になってからなら不安だったかもしれないけれど。でもさすがに7歳くらいの事だから…。普通に記憶がある人間だってそれくらいの歳のことなら大人になればあやふやなものだろ?」
「そうです、ね」
キュヒョンがまたペンダントトップをギュッと握る。
「…不安とは違うけど、たまにね。大切なことを忘れてるような気はするよ」
思い出さなくてはいけないような。
忘れていてもいいような。
「それでも、今の貴方にどうしても必要なものでないのなら、思い出さなくてもいいと思いますよ、俺は」
キュヒョンは小さく息を吐き出すと、すっきりしたように微笑んだ。
「今のシウォンさんが、その記憶がない状態で形作られているならそれでいいと思います。そのままでいいと思います」
魔法か何かかと疑った。
今まで気にしていてた訳ではなかったはずなのに、急に肩から力が抜けたような気分になる。
キュヒョンといると、一人でいるときよりも楽に呼吸が出来ているような気がした。
ふっと笑ったシウォンはキュヒョンの顔を見る。
彼は同じように微笑んでいた。
「お腹減ったね」
「…ですね」
「食べに行こうか」
少し考えるそぶりを見せたキュヒョンが笑う。
「…ドレスコードが無いところなら喜んで」