失われた風景
ったりした気分で目覚めて、カーテンの隙間から入ってくる光に瞬く。
腕の中で眠る彼を起こさないように気を付けて肩肘を付くと、あどけない寝顔を眺めた。
こんなに可愛くて綺麗なのに、抱きあっているときは情熱的で蠱惑的で手離してやれなくなった。
もう少し眠らせてやりたいと思いつつも柔らかな頬に触れたい衝動を抑えていると、微かに震えた睫毛がゆっくりと持ち上がった。
「おはよう」
「…おはようございます」
照れたように微笑むかと思っていたこっちの想像を裏切って、キュヒョンは陽光に負けないくらいの笑顔をみせる。
額同士をくっつけてお互いの存在を確かめるように手で体をなぞるとくすぐったそうに笑った。
「今日は何かしたいこととかないの?」
「もう、このままゆっくりしてたいです」
「…ちょっと無茶させ過ぎた?」
首を振ったキュヒョンが今度こそ照れくさそうに笑った。
「少しはだるいですけど…。好きな人とするのって気持ちいいんだなぁって…」
「そういうこと言うとまた無茶させたくなるからやめて」
もう、本当に。
この破壊力にこれからが心配になってくる。
「んー…」
キュヒョンが首を傾げるようにして唸った後、真剣な顔をして言う。
「シウォンさん…」
「なに?」
「お腹減った」
したい事、絞り出してそれ?
餌付けくらいしますとも。
それより。
「昨日シウォナって呼んでくれたのに」
「あ…あれは…その…なんていうか…」
「ん?」
「…癖みたいな、もので…」
癖って、つまり…そういうこと?
「…ふぅん」
にやけているとキュヒョンの両手がぐっと顔に押し付けられて体を離される。
「いやらしい笑い方しないでくださいよ」
「誰のせいだと」
唇を尖らせたキュヒョンが背中を向けてブランケットを被った。
さて、どうしようか。
「じゃあ何が食べたい?」
「…シウォンさんは?」
「俺…?あ。キュヒョナが作ったおにぎりかな」
「おにぎり?」
モソモソとブランケットの繭から顔を出して振り返った顔が訝し気に、本当にそれでいいのか、と疑問を目に乗せてこちらに送ってくるけれど。
「俺はあれで随分と救われたんだよ」
「よく、わかりませんけど…それでいいなら作りますよ?」
そう言ってキュヒョンがベッドから降りる。
「…あんまり見ないでください」
「綺麗なのに」
「…穴が開きそうなんで」
「熱視線だからねぇ」
他人事みたいに言うとキュヒョンは笑う。
今日も一日、この笑顔を独り占めできるだけで幸せだ。
シャワーから出てリビングに向かうとキッチンで炊飯器を真剣に見つめているキュヒョンがいる。
「見てたって早く炊けるわけじゃないだろ?」
「そうなんですけど…」
言いつつも視線はそのままだ。
仕方ないから炊飯器を見守るキュヒョンを見守ろうかと椅子に腰かけるとタイミングよく呼び鈴が鳴る。
休日の朝。
早い時間ではないとはいえ、こういう所業をする人間に心当たりはある。
玄関を開けると予想通りヒョクチェが立っていて「うっす」と小さく挨拶すると、やっぱり猫みたいにスルリと中に入り込んだ。
リビングに足を運んでキュヒョンの姿を確認すると少しだけ微笑む。
「あ、そっか。探偵さん来てたんだっけ」
「もう探偵じゃないんですけどね」
それにしてもおとなしい。
「どした?何かあったのか?」
「んー…。いや、俺が勝手に拗ねてるだけ」
「自覚あるのか」
「あるよ」
どうやら今日はデートの予定だったらしい。
観たかった映画の封切が今日でドンヘもオフだからと予定していたのだが、ドンヘはそれより前に友人とはキャンプに行く約束をしていたのをすっかり失念していたらしい。
映画は今日じゃなくてもいいし、先に約束をしていたのはそっちなのだからキャンプを優先しろといったのはヒョクチェだし、ドンヘは謝り倒していたし、何なら一緒に行かないかと誘ってもくれた。
「でもさぁ、俺、そのメンバーほとんど知らないんだよ」
「ヒョク人馴れするの早いから大丈夫だろ?」
「行っちゃえばね、楽しいと思うんだ。だけど何ていうか…俺の知らない中で楽しんでるドンヘとか見ちゃうとモヤっとするっていうか…あぁ俺って心が狭かったんだなぁって自己嫌悪っていうか」
嫉妬して拗ねてるけどそれは相手のせいじゃない。
気持ちは分かる。
キュヒョンがおにぎりの乗った皿をテーブルに置くとヒョクチェの分のスープもカップに入れて置いてくれた。
「でも、ドンヘヒョンも今頃気になってキャンプどころじゃないかもしれませんよ」
「…あぁ、ドンヘだもんな」
何かに納得したらしいヒョクチェはおにぎりを口に運んだ。
「…美味い。キュヒョナ握るの上手になったね」
「はい?」
「ほら、だいぶん前にさぁ、シウォナお昼にキュヒョナが作ったっておにぎり持ってきてたから」
歪な形だったおにぎりは今は綺麗な形で整然と並べられている。
「自炊頑張ってるんで」
「そっか」
笑ったヒョクチェにキュヒョンも微笑むと何かを思い出したようにヒョクチェに訊ねた。
「ヒョクチェさんはキャンプとか好きですか?」
「んー。本格的なのとかはしたことないかも。でも楽しいことは基本何でも好きだよ」
「じゃあ、今度はドンヘヒョン置いていきます?」
「何?」
キュヒョンはこっちにも視線を向ける。
「キャンプではないんですけど、アウトドアな事をちょっとしようかと思って。シウォンさんも予約しちゃっていいですか?」
「喜んで」
「中秋の名月の日。夜空けておいてください。他に誘いたい人いたら誘ってください。あんまり大人数も困るけど」
何かを企んでいるその言葉にヒョクチェと顔を見合わせて首を傾げる。
一体何があるのかは分からないけど、とりあえず今は腹ごしらえでもしようとリクエストに応えてもらったおにぎりはやっぱり驚くくらいに美味かった。
【月明り】
バックドアを開けてカーサイドタープを設置する。
それだけでアウトドア感が出るのだから不思議なものだ。
中秋の名月。
まだ日が沈み切っていない山道を走って着いた場所にちょっと口笛を吹きたくなった。
ある意味絶景。
一面ススキの野原だ。
「まさかの月見とは思わなかったな」
ヒョクチェがチェアーに腰かけて空を見上げる。
その横では自分たちが乗ってきた車に同じように慣れた手つきでタープを取り付けているドンヘ。
「結局ドンヘヒョンと一緒なんですね」
「だってあいつ休みだって言うし、なんだかんだでアウトドア用品揃ってるし」
「まぁ、こうなっちゃったらほぼほぼキャンプみたいなものですよね」
大き目のクーラーバッグを降ろしながらそう言ったのはリョウクだ。
「リョウガも来てたんだ。何、この二人に連れられてきちゃったの?」
「はい、お邪魔します。でも後から知り合いが合流してくれることになってて。二人の世界にいつまでもお邪魔してたら馬に蹴られて何とかってやつなので」
もっともだと笑うヒョクチェは開けたクーラーバッグの中を覗き込む。
「何か作ってくれるの?」
「ええ。ギュギュのリクエストで。下ごしらえはしてあるのですぐに出来ますよ」
「楽しみー」
折り畳みのレジャーテーブルを広げたドンヘが「ここ使う?」と人懐っこい笑顔をリョウクに向ける。
「ありがとうございます。えぇと…」
「あ。俺、ドンヘっていうの。よろしく」
「よろしくお願いします。僕はリョウク。シウォンさんのお宅で派遣家政夫させてもらってます」
「…あ。前にヒョクが言ってた人だ」
「えぇ?何言われてました?」
「すっごい料理上手だって」
ドンヘの一言にリョウクが嬉しそうに笑う。
キュヒョンと初めて会った時の彼の自論からすればこの中には誰一人悪い人間はいなさそうだ。
陽が落ちて濃紺の空に丸い月。
日頃、人工の光では消されてしまうような明りもここでは殊更明るく感じられた。
金色のススキの穂が月明かりを更に明るく見せているのかもしれない。
金色の海原のようなススキの穂に、暖かなランタンの光。
カセットコンロにかかっている鍋からは美味しそうな匂い。
リョウクがバケットを取り出しすと、キュヒョンがそれをナイフで切っていく。
そんな様子をヒョクチェが楽しそうに傍で観察していて、それを自分とドンヘが並んでみていて。
なんだか贅沢な時間を過ごしている気分になる。
そこに一台、車が乗り込んできた。
型は古いタイプだが、大事に乗っているのが分かる。
そこから降りてきた人物はこちらをみると頭を下げた。
「あ。ジョンウンさんだ」
「え?」
リョウクの言葉に顔を上げたキュヒョンが目を丸くする。
「ヒョン?」
「え?キュヒョナ?」
「「何でここに居るんだよ⁉」」
その二人を見て今度はリョウクが目を丸くした。
「え?知り合いなの?」
「知り合いも何も…僕がバイトしてた…探偵事務所の所長」
「探偵…?えー⁉ 聞いてないし!ジョンウンさん便利屋だって…」
「まぁ、それでもほぼほぼ間違ってはないけどね…」
不思議な縁にリョウクとの関係を尋ねてみると、どうやら同じアパートの住人で隣同士らしかった。
以前キュヒョンが所長と刑事が警察学校の同期だったといっていたせいかドンヘとも顔見知りらしい。
「事務所のバイトの子が最近所長が毎晩ちゃんと自分の家に帰るんですよねって不思議がってたけど…」
ふぅん、と訳知り顔で笑ったドンヘに咳払いしたジョンウンは「飯食わせてくれるって言うから迎えに来たんだよ」とぶっきらぼうに答えた。
どうやら胃袋を掴まれた様子だ。
「はい。できましたよー」
皿に入っていたのはクリームシチュー。
添えられたバケットにはスモークサーモンとクリームチーズ、アスパラがソテーされたものが挟んである。
陽が落ちてからひんやりと肌寒くなったこの時間にはありがたいごちそうだ。
シチューを食べたヒョクチェが足をバタバタさせる。
「美味いー」
「うわ、本当だ、美味しい!」
ドンヘも目を丸くしている。
「市販のルーですよ?キュヒョナにもそう言ったんですけど」
「でも、何か違うんだよ」
困ったように首を傾げるリョウクは「何が違うんだろ」と呟いている。
少しトーストされたバケットサンドは齧りつくとサクっと音を立てて、クリームチーズの柔らかな酸味がサーモンの塩気とアスパラの歯ごたえと瑞々しさが絶妙だ。
ジョンウンが咀嚼しながら首を傾げる。
「あのさ、これジャガイモじゃないよな。めちゃくちゃ美味いけど」
「あぁ。それがギュギュのリクエストですよ。ジャガイモじゃなくて里芋でって。僕もそれまでジャガイモでしか使ったことなかったから言われてから何回か作ったんですけど。こっちの方が好きになっちゃって…」
スプーンで掬い上げた里芋を口に入れる。
ジャガイモのほくほくとした触感とは違ってもちっとした触感は不思議とマッチしている。
「なんか…懐かしい?」
そう言うとキュヒョンが笑った。
「昔、母が作ってくれたんです。月見の時の定番メニューで」
「…もしかして、俺も食べてた?…それにここって…」
「…ここで、一緒に食べましたよ」
それで懐かしく感じたのか、と納得する。
「ねぇ、どうして月見の定番メニューなの?」
リョウクの質問にキュヒョンが答えた。
「中秋の名月って月にお供えするだろ?団子とススキが多いけど、地域によっては里芋を供えるところもあってね。【芋名月】なんて呼ぶところもあるんだ」
「へぇ…。納得」
里芋を口に入れたリョウクが満足そうに眼を細める。
しばらくしてヒョクチェとドンヘが揃ってシチューをおかわりして、バケットを取り合い始めるのを全員で笑って。
にぎやかで楽しい時間を過ごした。
日が変わる前に帰り支度をしてそれぞれの車に乗り込む。
助手席のキュヒョンがポツリと楽しかったというのに頷いた。
「またやろうか」
「来年ですね」
「来年じゃなくてもいいよ。キャンプとかでも楽しそうだ」
「はい。…こんなに楽しく月見したのは初めてです」
「これからはこんな感じで出来たらいいよね」
今までキュヒョンしかいなかった風景に今度は自分が入り込んでいこう。
自分だけでではなくみんなで。
楽しくて明るい色で描いていければいい。
子供の頃に失くしてしまった風景は、今新しく描かれて目の前にあるのだから。
腕の中で眠る彼を起こさないように気を付けて肩肘を付くと、あどけない寝顔を眺めた。
こんなに可愛くて綺麗なのに、抱きあっているときは情熱的で蠱惑的で手離してやれなくなった。
もう少し眠らせてやりたいと思いつつも柔らかな頬に触れたい衝動を抑えていると、微かに震えた睫毛がゆっくりと持ち上がった。
「おはよう」
「…おはようございます」
照れたように微笑むかと思っていたこっちの想像を裏切って、キュヒョンは陽光に負けないくらいの笑顔をみせる。
額同士をくっつけてお互いの存在を確かめるように手で体をなぞるとくすぐったそうに笑った。
「今日は何かしたいこととかないの?」
「もう、このままゆっくりしてたいです」
「…ちょっと無茶させ過ぎた?」
首を振ったキュヒョンが今度こそ照れくさそうに笑った。
「少しはだるいですけど…。好きな人とするのって気持ちいいんだなぁって…」
「そういうこと言うとまた無茶させたくなるからやめて」
もう、本当に。
この破壊力にこれからが心配になってくる。
「んー…」
キュヒョンが首を傾げるようにして唸った後、真剣な顔をして言う。
「シウォンさん…」
「なに?」
「お腹減った」
したい事、絞り出してそれ?
餌付けくらいしますとも。
それより。
「昨日シウォナって呼んでくれたのに」
「あ…あれは…その…なんていうか…」
「ん?」
「…癖みたいな、もので…」
癖って、つまり…そういうこと?
「…ふぅん」
にやけているとキュヒョンの両手がぐっと顔に押し付けられて体を離される。
「いやらしい笑い方しないでくださいよ」
「誰のせいだと」
唇を尖らせたキュヒョンが背中を向けてブランケットを被った。
さて、どうしようか。
「じゃあ何が食べたい?」
「…シウォンさんは?」
「俺…?あ。キュヒョナが作ったおにぎりかな」
「おにぎり?」
モソモソとブランケットの繭から顔を出して振り返った顔が訝し気に、本当にそれでいいのか、と疑問を目に乗せてこちらに送ってくるけれど。
「俺はあれで随分と救われたんだよ」
「よく、わかりませんけど…それでいいなら作りますよ?」
そう言ってキュヒョンがベッドから降りる。
「…あんまり見ないでください」
「綺麗なのに」
「…穴が開きそうなんで」
「熱視線だからねぇ」
他人事みたいに言うとキュヒョンは笑う。
今日も一日、この笑顔を独り占めできるだけで幸せだ。
シャワーから出てリビングに向かうとキッチンで炊飯器を真剣に見つめているキュヒョンがいる。
「見てたって早く炊けるわけじゃないだろ?」
「そうなんですけど…」
言いつつも視線はそのままだ。
仕方ないから炊飯器を見守るキュヒョンを見守ろうかと椅子に腰かけるとタイミングよく呼び鈴が鳴る。
休日の朝。
早い時間ではないとはいえ、こういう所業をする人間に心当たりはある。
玄関を開けると予想通りヒョクチェが立っていて「うっす」と小さく挨拶すると、やっぱり猫みたいにスルリと中に入り込んだ。
リビングに足を運んでキュヒョンの姿を確認すると少しだけ微笑む。
「あ、そっか。探偵さん来てたんだっけ」
「もう探偵じゃないんですけどね」
それにしてもおとなしい。
「どした?何かあったのか?」
「んー…。いや、俺が勝手に拗ねてるだけ」
「自覚あるのか」
「あるよ」
どうやら今日はデートの予定だったらしい。
観たかった映画の封切が今日でドンヘもオフだからと予定していたのだが、ドンヘはそれより前に友人とはキャンプに行く約束をしていたのをすっかり失念していたらしい。
映画は今日じゃなくてもいいし、先に約束をしていたのはそっちなのだからキャンプを優先しろといったのはヒョクチェだし、ドンヘは謝り倒していたし、何なら一緒に行かないかと誘ってもくれた。
「でもさぁ、俺、そのメンバーほとんど知らないんだよ」
「ヒョク人馴れするの早いから大丈夫だろ?」
「行っちゃえばね、楽しいと思うんだ。だけど何ていうか…俺の知らない中で楽しんでるドンヘとか見ちゃうとモヤっとするっていうか…あぁ俺って心が狭かったんだなぁって自己嫌悪っていうか」
嫉妬して拗ねてるけどそれは相手のせいじゃない。
気持ちは分かる。
キュヒョンがおにぎりの乗った皿をテーブルに置くとヒョクチェの分のスープもカップに入れて置いてくれた。
「でも、ドンヘヒョンも今頃気になってキャンプどころじゃないかもしれませんよ」
「…あぁ、ドンヘだもんな」
何かに納得したらしいヒョクチェはおにぎりを口に運んだ。
「…美味い。キュヒョナ握るの上手になったね」
「はい?」
「ほら、だいぶん前にさぁ、シウォナお昼にキュヒョナが作ったっておにぎり持ってきてたから」
歪な形だったおにぎりは今は綺麗な形で整然と並べられている。
「自炊頑張ってるんで」
「そっか」
笑ったヒョクチェにキュヒョンも微笑むと何かを思い出したようにヒョクチェに訊ねた。
「ヒョクチェさんはキャンプとか好きですか?」
「んー。本格的なのとかはしたことないかも。でも楽しいことは基本何でも好きだよ」
「じゃあ、今度はドンヘヒョン置いていきます?」
「何?」
キュヒョンはこっちにも視線を向ける。
「キャンプではないんですけど、アウトドアな事をちょっとしようかと思って。シウォンさんも予約しちゃっていいですか?」
「喜んで」
「中秋の名月の日。夜空けておいてください。他に誘いたい人いたら誘ってください。あんまり大人数も困るけど」
何かを企んでいるその言葉にヒョクチェと顔を見合わせて首を傾げる。
一体何があるのかは分からないけど、とりあえず今は腹ごしらえでもしようとリクエストに応えてもらったおにぎりはやっぱり驚くくらいに美味かった。
【月明り】
バックドアを開けてカーサイドタープを設置する。
それだけでアウトドア感が出るのだから不思議なものだ。
中秋の名月。
まだ日が沈み切っていない山道を走って着いた場所にちょっと口笛を吹きたくなった。
ある意味絶景。
一面ススキの野原だ。
「まさかの月見とは思わなかったな」
ヒョクチェがチェアーに腰かけて空を見上げる。
その横では自分たちが乗ってきた車に同じように慣れた手つきでタープを取り付けているドンヘ。
「結局ドンヘヒョンと一緒なんですね」
「だってあいつ休みだって言うし、なんだかんだでアウトドア用品揃ってるし」
「まぁ、こうなっちゃったらほぼほぼキャンプみたいなものですよね」
大き目のクーラーバッグを降ろしながらそう言ったのはリョウクだ。
「リョウガも来てたんだ。何、この二人に連れられてきちゃったの?」
「はい、お邪魔します。でも後から知り合いが合流してくれることになってて。二人の世界にいつまでもお邪魔してたら馬に蹴られて何とかってやつなので」
もっともだと笑うヒョクチェは開けたクーラーバッグの中を覗き込む。
「何か作ってくれるの?」
「ええ。ギュギュのリクエストで。下ごしらえはしてあるのですぐに出来ますよ」
「楽しみー」
折り畳みのレジャーテーブルを広げたドンヘが「ここ使う?」と人懐っこい笑顔をリョウクに向ける。
「ありがとうございます。えぇと…」
「あ。俺、ドンヘっていうの。よろしく」
「よろしくお願いします。僕はリョウク。シウォンさんのお宅で派遣家政夫させてもらってます」
「…あ。前にヒョクが言ってた人だ」
「えぇ?何言われてました?」
「すっごい料理上手だって」
ドンヘの一言にリョウクが嬉しそうに笑う。
キュヒョンと初めて会った時の彼の自論からすればこの中には誰一人悪い人間はいなさそうだ。
陽が落ちて濃紺の空に丸い月。
日頃、人工の光では消されてしまうような明りもここでは殊更明るく感じられた。
金色のススキの穂が月明かりを更に明るく見せているのかもしれない。
金色の海原のようなススキの穂に、暖かなランタンの光。
カセットコンロにかかっている鍋からは美味しそうな匂い。
リョウクがバケットを取り出しすと、キュヒョンがそれをナイフで切っていく。
そんな様子をヒョクチェが楽しそうに傍で観察していて、それを自分とドンヘが並んでみていて。
なんだか贅沢な時間を過ごしている気分になる。
そこに一台、車が乗り込んできた。
型は古いタイプだが、大事に乗っているのが分かる。
そこから降りてきた人物はこちらをみると頭を下げた。
「あ。ジョンウンさんだ」
「え?」
リョウクの言葉に顔を上げたキュヒョンが目を丸くする。
「ヒョン?」
「え?キュヒョナ?」
「「何でここに居るんだよ⁉」」
その二人を見て今度はリョウクが目を丸くした。
「え?知り合いなの?」
「知り合いも何も…僕がバイトしてた…探偵事務所の所長」
「探偵…?えー⁉ 聞いてないし!ジョンウンさん便利屋だって…」
「まぁ、それでもほぼほぼ間違ってはないけどね…」
不思議な縁にリョウクとの関係を尋ねてみると、どうやら同じアパートの住人で隣同士らしかった。
以前キュヒョンが所長と刑事が警察学校の同期だったといっていたせいかドンヘとも顔見知りらしい。
「事務所のバイトの子が最近所長が毎晩ちゃんと自分の家に帰るんですよねって不思議がってたけど…」
ふぅん、と訳知り顔で笑ったドンヘに咳払いしたジョンウンは「飯食わせてくれるって言うから迎えに来たんだよ」とぶっきらぼうに答えた。
どうやら胃袋を掴まれた様子だ。
「はい。できましたよー」
皿に入っていたのはクリームシチュー。
添えられたバケットにはスモークサーモンとクリームチーズ、アスパラがソテーされたものが挟んである。
陽が落ちてからひんやりと肌寒くなったこの時間にはありがたいごちそうだ。
シチューを食べたヒョクチェが足をバタバタさせる。
「美味いー」
「うわ、本当だ、美味しい!」
ドンヘも目を丸くしている。
「市販のルーですよ?キュヒョナにもそう言ったんですけど」
「でも、何か違うんだよ」
困ったように首を傾げるリョウクは「何が違うんだろ」と呟いている。
少しトーストされたバケットサンドは齧りつくとサクっと音を立てて、クリームチーズの柔らかな酸味がサーモンの塩気とアスパラの歯ごたえと瑞々しさが絶妙だ。
ジョンウンが咀嚼しながら首を傾げる。
「あのさ、これジャガイモじゃないよな。めちゃくちゃ美味いけど」
「あぁ。それがギュギュのリクエストですよ。ジャガイモじゃなくて里芋でって。僕もそれまでジャガイモでしか使ったことなかったから言われてから何回か作ったんですけど。こっちの方が好きになっちゃって…」
スプーンで掬い上げた里芋を口に入れる。
ジャガイモのほくほくとした触感とは違ってもちっとした触感は不思議とマッチしている。
「なんか…懐かしい?」
そう言うとキュヒョンが笑った。
「昔、母が作ってくれたんです。月見の時の定番メニューで」
「…もしかして、俺も食べてた?…それにここって…」
「…ここで、一緒に食べましたよ」
それで懐かしく感じたのか、と納得する。
「ねぇ、どうして月見の定番メニューなの?」
リョウクの質問にキュヒョンが答えた。
「中秋の名月って月にお供えするだろ?団子とススキが多いけど、地域によっては里芋を供えるところもあってね。【芋名月】なんて呼ぶところもあるんだ」
「へぇ…。納得」
里芋を口に入れたリョウクが満足そうに眼を細める。
しばらくしてヒョクチェとドンヘが揃ってシチューをおかわりして、バケットを取り合い始めるのを全員で笑って。
にぎやかで楽しい時間を過ごした。
日が変わる前に帰り支度をしてそれぞれの車に乗り込む。
助手席のキュヒョンがポツリと楽しかったというのに頷いた。
「またやろうか」
「来年ですね」
「来年じゃなくてもいいよ。キャンプとかでも楽しそうだ」
「はい。…こんなに楽しく月見したのは初めてです」
「これからはこんな感じで出来たらいいよね」
今までキュヒョンしかいなかった風景に今度は自分が入り込んでいこう。
自分だけでではなくみんなで。
楽しくて明るい色で描いていければいい。
子供の頃に失くしてしまった風景は、今新しく描かれて目の前にあるのだから。
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