失われた風景
逢いたいときにすぐに逢えない。
遠距離恋愛のデメリットの一位らしい。
けれど、それはきっと近くにいても十分にあり得ることだ。
お互いに自分の仕事に信念や誇りをもっているなら尚更。
仕事と恋人どちらが大切なのかなんて愚問以外の何物でもない。
カテゴリーが全く違うものをどうやって比べろというのか。
生きていくために必要な物、生きていく術として必要な物。
キュヒョンに言わせれば、今までの事を思えば気持ちがあるだけで十分に嬉しい事だという。
シウォンの方がどうしていいものやらと戸惑うほどだ。
溜まっていた仕事に集中しているとソンミンが珍しい生き物を見るような目をこちらに向けた。
「金曜日だって言うのに頑張りますね」
「明日デートなんで、呼び出されたくないからね」
「…向こう行くの?」
「いや、キュヒョナがこっちに帰ってくる」
「また、それも珍しい。それならシウォナが頑張るのも無理ないね」
週休二日、祝日が休み。
ほとんどの会社がそうであるように自社もそうだ。
しかしながらキュヒョンの方はシフト制の休暇体制。
休館日の月曜が休みかと思えば、どうやらそうとは限らないらしい。
「特別展示は開催期間が過ぎると展示を入れ替えるでしょ?その入れ替えは休館日に行うのでそういう時は出勤ですね。なので基本は月曜含めて週二で休みですけど展示入れ替えや観測会がある時は月曜以外で週二とりますよ」
なので必然的にこちらから会いに行くことが多くはなるが、それは別に苦にもならない。
彼が勤務する科学館の展示やプラネタリウムが思っていた以上に楽しいこともあるのだろう。
血は争えないということか。
自分が今まで触れていなかっただけで、もし両親が健在だったなら自分もキュヒョンと同じように星に関係する趣味を持っていたのかもしれない。
そう言うとキュヒョンが売店の袋を差し出した。
「じゃあ、まずはここから初めてみますか?」
中には星座の早見表。
小学校の授業の時間に使った気がする。
まるで子供の頃に戻ったような気分になった。
それは今デスクの上に置かれている。
今週特別展示の入れ替えだったキュヒョンは土曜と日曜に休みを入れて3連休をとったらしく、今日仕事が終わったその足でバスに乗ってこちらに来るらしい。
久しぶりのつかの間の逢瀬を邪魔されたくない。
仕事だっていつも以上に張り切るに決まっている。
朝の7時。
すっかり初夏といった気候はこの時間でも陽射しが暑いくらいだ。
駅前のバス路線用のロータリーのベンチに座って、膝の上に乗せたデイバックの上に眠そうな顔で顎を乗せてぼんやりしているキュヒョンを見付ける。
短くクラクションを鳴らすとふわりと微笑んだキュヒョンがゆっくりと立ち上がった。
助手席のドアを開けて乗り込んでくると、ほっと息を吐く。
「おはよう。眠れてないの?」
「寝たような、寝てないような…。バス窮屈なんですもん」
成人男子の平均身長よりも多少大きなキュヒョンには窮屈だったようだ。
「どうする?少し眠る?」
「予定とか、ないですか」
「うん。夕食は予約してるけど。それ以外は一緒に決めればいいかと思って何も決めてなかったな」
ふふっとキュヒョンが笑うのにおかしなことでも言ったのかと隣を見る。
「あ、なんか…一緒に決めればいいって嬉しいなと思って」
「…そうだな。そういうのあんまりないかも」
「シウォンさん、自分がリードしなきゃって頑張るタイプっぽいですし」
「…何気に当たり」
今までならきっとそうしたのだろう。
でもキュヒョンとなら何をしていても楽しいような気がして、それなら彼がしたいことや行きたい場所を聞いて決めてもいいかと思ったのだ。
「それで、行きたい場所とかある?」
うーん、と唸ったキュヒョンが膝上のデイバックにポスッと顏を埋める。
やっぱり眠いかな? 少し休んだ方がいいか? なんて考えているとくぐもった声がした。
「とりあえず…朝ごはん」
まるでそのセリフが言い終わるのを待っていたかのようにキュヒョンの腹が鳴る。
声を出して笑うと笑い事じゃないですよ、とくぐもった声に怒られた。
「何が食べたい?この時間じゃファストフードとかくらいしか…」
「シウォンさん、美味しいモーニング出す喫茶店とか知りません?」
学生時代にはそういうのも行ってたな、と思い出す。
懐かしい。
「…まだやってるのかな?前はよく行ってたんだけど」
車を走らせて10分。
昔と変わらない佇まいのままの喫茶店の入り口を開ける。
カランとドアに取り付けられたベルが揺れて鳴ると、コーヒーの香りとトーストの焼ける香ばしい香りがした。
「おはようございます」
カウンターの中から穏やかなマスターの声。
奥のテーブルに着くと穏やかな笑顔のウエイトレスがオーダーをとりにくる。
定番のトーストのセットとサンドイッチのセットで悩んでいるキュヒョンにどっちも食べたいなら違うものを頼んでシェアすればいいよと言うと頭にあるはずのない耳が見えた。
「本日のサンドイッチはミックスサンドかコンビーフサンドになりますがどちらにいたしましょう」
「…コンビーフ?」
「うん。美味しいよ。よく通って食べてた」
今度はしっぽが見えた。
コンビーフの方がいいらしい。
注文を終えて、ウエイトレスがカウンターに向かうとキュヒョンは椅子の背もたれに背中を預ける。
「…いい香り」
「コーヒーの?」
「それもですけど。トーストの香りとかバターとかなんか色々混じってて。なのに混沌としてなくていい香りってすごいですよね。なんか落ちつく」
「静かな音楽とか食器のぶつかる音とかなんかまったりして眠くなるよね」
こくこくと頷いてキュヒョンが笑う。
可愛いなぁ。
「この後どうしますか?」
「どこか行きたいところとかないの?久々にこっちに帰ってきたんだし」
「うーん…色々買い物とかはしたいんですけど、でも向こうでもできるし…シウォンさん読書好きでしたよね?」
「嫌いじゃないよ」
「あの…よかったら図書館とか…行きませんか?」
少しづつ語尾が小さくなるのは流石に却下されると思っての事なのか。
書店ではなくて図書館。
それはそれで新鮮だ。
「構わないけど。涼しいしね」
一緒に居られるだけでも楽しいのだから、そこが図書館だって問題ない。
運ばれてきたトーストとサンドイッチを絶賛しながら食べ切ったキュヒョンが、視線を向けた窓の外を歩く女性の差した日傘の影。それが地面に色濃く落ちて陽射しの強さを感じさせた。
図書館なんて学生時代に何度か利用しただけだ。
変わらない建物はノスタルジックな気もする。
けれどエントランスを抜けたとたんにあまりの変貌に目を瞠った。
天井まで吹き抜けの明るい書架スペース。
有名なチェーン店のカフェが併設されており、そこに本を持ち込むことも自由になっている。
逆に一定のスペース内であればそこで購入したものを持って出ても大丈夫らしい。
ゆったりとしたソファー席、壁側に設けられた自習席。
昔と変わらない広々としたテーブルに椅子が並べられている席もある。
あの独特の静寂さはなく、かといってうるさいわけではない。
程よい小さな会話と音。
朝の喫茶店のようなあの落ち着く音だ。
「驚いたな」
「4.5年前にリニュアルしたんですよ。向こうでも図書館には行ってみたんですけど蔵書数が桁違いです」
水を得た魚のようにキュヒョンはテーブルの一角を陣取ると、迷う様子もない足取りで奥の書架に向かっていた。
何か面白いものでもあるだろうかとゆったりと図書館の中を歩いてみる。
児童書の周りで絵本を手にした子供たちの表情が輝いていて思わず顔が緩んだ。
その奥にはコミック。
こんなものまで取り扱っているのか。
ライトノベルなんてものも扱っているらしい。
郷土史、言語、思想。
昔は目的のものしか閲覧しに来ていなかったのだ、きっと。
歩いているだけでも十分に楽しかった。
新刊のコーナーに好きな作家の本を見付けて手に取った。
もう、新しい本が出たのか。
ゆっくりと読む時間がないせいで最近は書店にも行っていない。
こういう時間も貴重だ。
席に戻るとすでにキュヒョンのスペースには本が山積みになっている。
児童書から普通の小説、写真集。
全て天体に関するものだ。
こんなにも天体に関する書籍があるものなのか。
一番上に載っている写真集の表紙の美しさに驚いた。
ボリビアのウユニ塩原だろう。
地平線から茜色の光。
そこからグラデーションになっている紺色の濃紺に星が瞬いて地上にその景色が再現されているような上下の合わせ鏡のような写真。
「綺麗だな…」
「ですよね。それ僕も好きです」
「写真集とか、たくさんあるんだなぁ」
「ええ。だから吟味できるのがありがたいんですよ。全部買ってたら破産する」
そう言って笑う。
星空の写真もあれば、天体望遠鏡で撮影したような星の写真集。
衛星や宇宙から撮影されたものまである。
「科学館のライブラリーに置いてないの?」
たしか小さなスペースがあった気がした。
「予算が知れてますから。吟味して購入品の届けを提出しないと」
楽しそうだ。
その表情を見てなんとなく理解した。
きっと彼は科学館に来た人達のこんな表情を見たいのだ。
だから休日にも図書館でこうして本を探してみる。
勿論自分が好きだというのが前提ではあるだろうけど。
真剣に本を捲り始める彼の様子を見て、こちらも本の表紙を捲った。
半分ほど読み進めて、ふと顔を上げると前では相変わらず楽しそうに本を捲っている姿。
身体をほぐすように伸びをすると、キュヒョンが顔を上げた。
「ひと休みしますか?」
「そうだな。カフェもあることだし。…そう考えると最強の場所だね、ここ」
クスリと笑ったキュヒョンが本を閉じる。
可愛いイラストが描かれた児童書。
「それは面白いの?」
「それが…」
キュヒョンが真剣な顔で答える。
「意外というと怒られそうですが、すっごく面白いです」
あまりにもいい顔をするものだから思わず笑うと「シウォンさんも読んでみればわかりますよー」と言われて、実際休憩して戻ってからその本を読むと予想外にはまってしまったのだけど。
外の陽気を見ているとアイスにしようかとも思うけれど、館内の快適な温度のお陰で暖かいコーヒーを飲める。
やっぱり暖かい方が香りが立って好きだ。
キュヒョンは甘みのあるフレーバーコーヒーを頼んで二人でゆったりとしたソファー席に座る。
「キュヒョナはどうしてあの科学館を選んだの?プラネタリウム施設ならこっちにもあるし…もちろん募集の関係とかもあるんだろうけど」
「そうですねぇ。でもプラネタリウムの解説員は別に学芸員の資格なんてなくてもいいんですよ。事務職でも嘱託員でも、アルバイトにだってできるんです」
「そうなの?」
「はい。プラネタリウム施設自体は学芸員を置くことが求められる【博物館法上の登録博物館】じゃないんですよ。科学館では学芸員も必要ですし、プラネタリウムの解説の他にも携われることは多いですし」
甘いコーヒーを一口飲んでキュヒョンが微笑む。
「子供の頃からよくプラネタリウムを観に行きました。一人で夜中に出かけることも出来なかったし。今はプラネタリウムの投影もデジタル投影とか多いし解説自体も録音されているものも多いんですけど、投影機を使って生で解説をしてくれるところがやっぱり好きだったし、今でも好きです。一か所僕にとっては特別な場所がありました。解説員が居て、いつでも同じ内容の解説のはずなのに、その時の客層で雰囲気が全く違う解説をするんです。それに憧れました。星に興味がある人も、そうでない人も引き込まれるような解説でした。その人が学芸員だと知って僕もそうなれたらいいなと思ったんです。…その人が今の科学館にいらっしゃるんですよね…」
ちょっとはにかんだように笑う。
うん、これは面白くない。
「ライバルがいるとは…」
「…そういうのとは違うと思いますけど?」
「違ってても、違わなくても、俺的にはそういう解釈になるんだよ」
キュヒョンは困惑したよう首を傾げた後、ふっと表情を緩ませた。
「シウォンさんって…嫉妬とかするんですね」
「いや、今までそんなにしたことない」
断言すると、今度はクツクツと肩を揺らして笑い始める。
「それは…ビックリします」
「…驚いてくれて何よりだ」
こっちが面白くない事がキュヒョンには楽しいらしい。
ひとしきり笑って、コーヒーを飲み終えた後。
再び本の探索を始めるキュヒョンの前で残っていたページを捲る。
彼が読み終えた児童書をそのまま読んで最後のページに満足して本を閉じると、同じように最後の一冊であろう本を閉じたキュヒョンがふっと息を吐いた。
外の眩しかった太陽の光もオレンジ色に変わり始めている。
「もうすぐ閉館の時間か」
「うわ、結局一日潰しちゃいましたね。…すみません」
「いや、楽しかったよ。面白い本にも出合えたし」
可愛いイラストを見せて言うと
「やっぱり、それ、楽しいですよね…シウォンさん、この後少しだけ書店に寄ってもらってもいいですか?」
「夕食は予約してあるからあまり時間はないけど大丈夫?」
「もう決まってるんで10分もいらないです。車で待っててもらえたらありがたいんですけど」
その言葉どうり書店で速攻で買い物を終えたキュヒョンが抱えていた本。
それがその後宝物になるとは思わなかったのだけど。
頼んでいた時間までに車を滑り込ませると、キュヒョンは首を傾げた。
「また、ドレスコードが必要な食事ですか?」
「ちがうよ。でも負けないくらい美味しいのは保証する」
ドアを開けて進むとテーブルの上には綺麗にカトラリーが並べられていた。
一流ホテルのロゴはもちろんついていない。
我が家のもの。
「時間はぴったりだよ」
「さすがですね、社長」
キッチンからひょっこりと顏を出したリョウクの顔を見てキュヒョンが驚いた。
「久しぶり、キュヒョナ!」
「リョウガ!ってことは今日の夕食の予約って…」
「僕が腕によりをかけて作りましたー」
ははっと声を出して笑ったキュヒョンはリョウクをぎゅっと抱きしめる。
「楽しみだー」
「はいはい、座って。社長怒っちゃうよー」
「怒らないよ」
なんというか、そこは兄弟というか親子というかそんな雰囲気しかないので許せる。
高級レストランではきっと出てこないであろうメニューだけれど、彩りも栄養も考えられた、味は抜群の料理を食べ終わると、片づけを始めるリョウクを手伝うと言い出した。
「あのね。これは僕の仕事だから。お給金貰ってるんだよ?キュヒョナが手伝っちゃ意味ないでしょ」
まるで母親が子供に言い含めるようにそう言っているのが聞こえて思わず笑ってしまう。
「だって、聞きたいっていうか、教えてもらいたいことがあるんだよ。いいよね、シウォンさん」
「どうぞ。二人の方が早く片付くだろ?給料減らしたりしないからキュヒョナの相手してあげて」
「何ですか、それ」
苦笑いしつつもキッチンに入っていく二人の背中を見て、コーヒーサーバーから注いだコーヒーをソファに座って飲む。
同じリビングでも誰かが居るのと居ないのでは雰囲気は随分と変わる。
暖かい空気は温度のせいだけじゃない。
何を話しているのかは分からないけど二人の声や、食器の音、どれも一人の時にはないものだ。
半時間ほどたった頃片づけを終えたらしいリョウクが挨拶をして帰り支度を始めると、やはりキュヒョンも玄関に向かう。
これは例のアレが発症したか。
「失礼します。また明後日よろしくお願いします」
「こちらこそ。で、キュヒョナ?」
「あ。リョウガ送ってきます」
やっぱりな。
「だからさぁ、僕一人でも平気だって…」
「…キュヒョナの場合コンビニ行きたいだけだと思うよ」
「…その通りです」
俺たちのやり取りにリョウクは小さく笑うと、じゃあ送ってもらうことにします、とキュヒョンとドアを開ける。
今度は静かで、とりあえず見るともなくテレビをつけて画面を見つめる。
最初にキュヒョンとここで食事をした時には彼がこんなにも大切な存在になるなんて想像もしなかったなと最初に出会った時の事を思い出した。
今思い出しても不思議な出会いだとは思うけど、それが全部奇跡だとも思える。
開かなかった箱はパンドラの箱でもなく、中にあった希望は小さな星で。
その小さな星は失くした記憶の塊だった。
カタリと小さな音に意識がそちらに向く。
手にビニールを掲げてキュヒョンが微笑んでいる。
やっぱり奇跡だ。
「食後のデザートです。前に食べ損ねたの思い出しました」
「じゃあ、コーヒーでも淹れようか」
「お願いします」
コーヒーを淹れたカップをキュヒョンの前に置くと、自分の前にロールケーキが乗った皿が置かれた。
「いただきます」
「僕もいただきます」
うん。確かに。
ヒョクチェが太鼓判を押すだけあってなかなかの味だ。
「キュヒョナ、明日はどこか行ってみたいところとかないの?」
「…今日、付き合ってもらったし。シウォンさんこそ行きたいところとかないんですか?仕事忙しいのに休みの度に僕に合わせてたら疲れますよ?」
「キュヒョナに会えない方がしんどいけど?」
「また、そういうことを…」
視線を伏せるようにしてコーヒーに口を付ける。
その様子もが照れているのだということももう知っている。
こちらとしては真実なのでするりと出る言葉でもキュヒョンにとっては何故か恥ずかしいようだ。
「何もしないのもありだと思いますけど」
「のんびり過ごす?」
「…です、ね」
こういう時に少しだけぎこちない空気が流れるのも最近は常で。
ここから先に進むにはお互いが戸惑ったままだ。
お互いに好きだと伝えてからはそれなりの時間が過ぎたけど、その間に会える時間はまだまだ足りていない気がする。
暫くは二人でテレビで流れている映画を見て、それが終わるとそろそろ寝ようかとリビングを出る。
シャワーを浴びてリビングに戻るとキュヒョンが何か小さな紙切れに書き込んでいた。
今日図書館で見ていたものを整理でもしているのだろうか。
「まだ、寝ないの?」
「あ。シウォンさんにコレを渡すの忘れてました」
最後に寄った書店の袋。
「何?」
「今日付き合ってもらったお礼です。気に入ってもらえるかは分からないけど」
「お礼って…こっちも十分楽しんだけど」
「じゃあ…プレゼントしたかったからってことで」
ふふっと笑ったキュヒョンの笑顔で十分だ。
「…ありがとう」
「いえ。…じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
荷物を抱えてもうすっかりキュヒョンのものだといってもいい客室に向かったのを確認して、袋の中から本を取り出す。
風景と星の綺麗な表紙の写真集だ。
彼らしいプレゼントに口元が緩んだ。
よく見ると一枚淡いブルーの付箋が覗いている。
そのページを開くとススキが月明かりに照らされた草原に空から降り注ぐ流星の写真。
ふわりと風が吹いた気がした。
揺れるススキの穂が自分の背と変わらない中を声を上げて笑いながら走った。
後ろをついてくる小さな彼が愛しくて、手を引いて走る。
月明かりだけしかないはずの草原の中。
車のルームランプと淡いランタンの明かりに向かって。
光の場所で手を広げたその人の腕の中に飛び込むと笑って抱き締められた。
あれは…
「父さん…母さん…」
この写真は失くした風景だ。
あの愛しい手は彼だ。
時間とか、そんなものはどうでもよくなった。
失くした風景の中に居た彼は。
これから先自分が見る風景の中に必ず存在してほしいのだから。
広くもない家の中を全力で走る。
客室のドアを叩くと、驚いた顔でドアを開けたキュヒョンを抱きしめた。
「シウォンさん?」
「…好きだよ、キュヒョナ」
「なんで、泣いてるんですか?」
「あの、写真」
「…僕たちが子供の頃、両親が天体観測に行ってた場所に似てるんです。シウォンさんは覚えてないだろうけど。思い出して欲しい訳じゃなくて…知って欲しかっただけで」
「知ってる。忘れてたけど知ってる景色だ。俺は…愛されてたって思い出した」
「…僕もその一人ですよ」
少し体を離したキュヒョンが慈しむようにキスをくれた。
遠距離恋愛のデメリットの一位らしい。
けれど、それはきっと近くにいても十分にあり得ることだ。
お互いに自分の仕事に信念や誇りをもっているなら尚更。
仕事と恋人どちらが大切なのかなんて愚問以外の何物でもない。
カテゴリーが全く違うものをどうやって比べろというのか。
生きていくために必要な物、生きていく術として必要な物。
キュヒョンに言わせれば、今までの事を思えば気持ちがあるだけで十分に嬉しい事だという。
シウォンの方がどうしていいものやらと戸惑うほどだ。
溜まっていた仕事に集中しているとソンミンが珍しい生き物を見るような目をこちらに向けた。
「金曜日だって言うのに頑張りますね」
「明日デートなんで、呼び出されたくないからね」
「…向こう行くの?」
「いや、キュヒョナがこっちに帰ってくる」
「また、それも珍しい。それならシウォナが頑張るのも無理ないね」
週休二日、祝日が休み。
ほとんどの会社がそうであるように自社もそうだ。
しかしながらキュヒョンの方はシフト制の休暇体制。
休館日の月曜が休みかと思えば、どうやらそうとは限らないらしい。
「特別展示は開催期間が過ぎると展示を入れ替えるでしょ?その入れ替えは休館日に行うのでそういう時は出勤ですね。なので基本は月曜含めて週二で休みですけど展示入れ替えや観測会がある時は月曜以外で週二とりますよ」
なので必然的にこちらから会いに行くことが多くはなるが、それは別に苦にもならない。
彼が勤務する科学館の展示やプラネタリウムが思っていた以上に楽しいこともあるのだろう。
血は争えないということか。
自分が今まで触れていなかっただけで、もし両親が健在だったなら自分もキュヒョンと同じように星に関係する趣味を持っていたのかもしれない。
そう言うとキュヒョンが売店の袋を差し出した。
「じゃあ、まずはここから初めてみますか?」
中には星座の早見表。
小学校の授業の時間に使った気がする。
まるで子供の頃に戻ったような気分になった。
それは今デスクの上に置かれている。
今週特別展示の入れ替えだったキュヒョンは土曜と日曜に休みを入れて3連休をとったらしく、今日仕事が終わったその足でバスに乗ってこちらに来るらしい。
久しぶりのつかの間の逢瀬を邪魔されたくない。
仕事だっていつも以上に張り切るに決まっている。
朝の7時。
すっかり初夏といった気候はこの時間でも陽射しが暑いくらいだ。
駅前のバス路線用のロータリーのベンチに座って、膝の上に乗せたデイバックの上に眠そうな顔で顎を乗せてぼんやりしているキュヒョンを見付ける。
短くクラクションを鳴らすとふわりと微笑んだキュヒョンがゆっくりと立ち上がった。
助手席のドアを開けて乗り込んでくると、ほっと息を吐く。
「おはよう。眠れてないの?」
「寝たような、寝てないような…。バス窮屈なんですもん」
成人男子の平均身長よりも多少大きなキュヒョンには窮屈だったようだ。
「どうする?少し眠る?」
「予定とか、ないですか」
「うん。夕食は予約してるけど。それ以外は一緒に決めればいいかと思って何も決めてなかったな」
ふふっとキュヒョンが笑うのにおかしなことでも言ったのかと隣を見る。
「あ、なんか…一緒に決めればいいって嬉しいなと思って」
「…そうだな。そういうのあんまりないかも」
「シウォンさん、自分がリードしなきゃって頑張るタイプっぽいですし」
「…何気に当たり」
今までならきっとそうしたのだろう。
でもキュヒョンとなら何をしていても楽しいような気がして、それなら彼がしたいことや行きたい場所を聞いて決めてもいいかと思ったのだ。
「それで、行きたい場所とかある?」
うーん、と唸ったキュヒョンが膝上のデイバックにポスッと顏を埋める。
やっぱり眠いかな? 少し休んだ方がいいか? なんて考えているとくぐもった声がした。
「とりあえず…朝ごはん」
まるでそのセリフが言い終わるのを待っていたかのようにキュヒョンの腹が鳴る。
声を出して笑うと笑い事じゃないですよ、とくぐもった声に怒られた。
「何が食べたい?この時間じゃファストフードとかくらいしか…」
「シウォンさん、美味しいモーニング出す喫茶店とか知りません?」
学生時代にはそういうのも行ってたな、と思い出す。
懐かしい。
「…まだやってるのかな?前はよく行ってたんだけど」
車を走らせて10分。
昔と変わらない佇まいのままの喫茶店の入り口を開ける。
カランとドアに取り付けられたベルが揺れて鳴ると、コーヒーの香りとトーストの焼ける香ばしい香りがした。
「おはようございます」
カウンターの中から穏やかなマスターの声。
奥のテーブルに着くと穏やかな笑顔のウエイトレスがオーダーをとりにくる。
定番のトーストのセットとサンドイッチのセットで悩んでいるキュヒョンにどっちも食べたいなら違うものを頼んでシェアすればいいよと言うと頭にあるはずのない耳が見えた。
「本日のサンドイッチはミックスサンドかコンビーフサンドになりますがどちらにいたしましょう」
「…コンビーフ?」
「うん。美味しいよ。よく通って食べてた」
今度はしっぽが見えた。
コンビーフの方がいいらしい。
注文を終えて、ウエイトレスがカウンターに向かうとキュヒョンは椅子の背もたれに背中を預ける。
「…いい香り」
「コーヒーの?」
「それもですけど。トーストの香りとかバターとかなんか色々混じってて。なのに混沌としてなくていい香りってすごいですよね。なんか落ちつく」
「静かな音楽とか食器のぶつかる音とかなんかまったりして眠くなるよね」
こくこくと頷いてキュヒョンが笑う。
可愛いなぁ。
「この後どうしますか?」
「どこか行きたいところとかないの?久々にこっちに帰ってきたんだし」
「うーん…色々買い物とかはしたいんですけど、でも向こうでもできるし…シウォンさん読書好きでしたよね?」
「嫌いじゃないよ」
「あの…よかったら図書館とか…行きませんか?」
少しづつ語尾が小さくなるのは流石に却下されると思っての事なのか。
書店ではなくて図書館。
それはそれで新鮮だ。
「構わないけど。涼しいしね」
一緒に居られるだけでも楽しいのだから、そこが図書館だって問題ない。
運ばれてきたトーストとサンドイッチを絶賛しながら食べ切ったキュヒョンが、視線を向けた窓の外を歩く女性の差した日傘の影。それが地面に色濃く落ちて陽射しの強さを感じさせた。
図書館なんて学生時代に何度か利用しただけだ。
変わらない建物はノスタルジックな気もする。
けれどエントランスを抜けたとたんにあまりの変貌に目を瞠った。
天井まで吹き抜けの明るい書架スペース。
有名なチェーン店のカフェが併設されており、そこに本を持ち込むことも自由になっている。
逆に一定のスペース内であればそこで購入したものを持って出ても大丈夫らしい。
ゆったりとしたソファー席、壁側に設けられた自習席。
昔と変わらない広々としたテーブルに椅子が並べられている席もある。
あの独特の静寂さはなく、かといってうるさいわけではない。
程よい小さな会話と音。
朝の喫茶店のようなあの落ち着く音だ。
「驚いたな」
「4.5年前にリニュアルしたんですよ。向こうでも図書館には行ってみたんですけど蔵書数が桁違いです」
水を得た魚のようにキュヒョンはテーブルの一角を陣取ると、迷う様子もない足取りで奥の書架に向かっていた。
何か面白いものでもあるだろうかとゆったりと図書館の中を歩いてみる。
児童書の周りで絵本を手にした子供たちの表情が輝いていて思わず顔が緩んだ。
その奥にはコミック。
こんなものまで取り扱っているのか。
ライトノベルなんてものも扱っているらしい。
郷土史、言語、思想。
昔は目的のものしか閲覧しに来ていなかったのだ、きっと。
歩いているだけでも十分に楽しかった。
新刊のコーナーに好きな作家の本を見付けて手に取った。
もう、新しい本が出たのか。
ゆっくりと読む時間がないせいで最近は書店にも行っていない。
こういう時間も貴重だ。
席に戻るとすでにキュヒョンのスペースには本が山積みになっている。
児童書から普通の小説、写真集。
全て天体に関するものだ。
こんなにも天体に関する書籍があるものなのか。
一番上に載っている写真集の表紙の美しさに驚いた。
ボリビアのウユニ塩原だろう。
地平線から茜色の光。
そこからグラデーションになっている紺色の濃紺に星が瞬いて地上にその景色が再現されているような上下の合わせ鏡のような写真。
「綺麗だな…」
「ですよね。それ僕も好きです」
「写真集とか、たくさんあるんだなぁ」
「ええ。だから吟味できるのがありがたいんですよ。全部買ってたら破産する」
そう言って笑う。
星空の写真もあれば、天体望遠鏡で撮影したような星の写真集。
衛星や宇宙から撮影されたものまである。
「科学館のライブラリーに置いてないの?」
たしか小さなスペースがあった気がした。
「予算が知れてますから。吟味して購入品の届けを提出しないと」
楽しそうだ。
その表情を見てなんとなく理解した。
きっと彼は科学館に来た人達のこんな表情を見たいのだ。
だから休日にも図書館でこうして本を探してみる。
勿論自分が好きだというのが前提ではあるだろうけど。
真剣に本を捲り始める彼の様子を見て、こちらも本の表紙を捲った。
半分ほど読み進めて、ふと顔を上げると前では相変わらず楽しそうに本を捲っている姿。
身体をほぐすように伸びをすると、キュヒョンが顔を上げた。
「ひと休みしますか?」
「そうだな。カフェもあることだし。…そう考えると最強の場所だね、ここ」
クスリと笑ったキュヒョンが本を閉じる。
可愛いイラストが描かれた児童書。
「それは面白いの?」
「それが…」
キュヒョンが真剣な顔で答える。
「意外というと怒られそうですが、すっごく面白いです」
あまりにもいい顔をするものだから思わず笑うと「シウォンさんも読んでみればわかりますよー」と言われて、実際休憩して戻ってからその本を読むと予想外にはまってしまったのだけど。
外の陽気を見ているとアイスにしようかとも思うけれど、館内の快適な温度のお陰で暖かいコーヒーを飲める。
やっぱり暖かい方が香りが立って好きだ。
キュヒョンは甘みのあるフレーバーコーヒーを頼んで二人でゆったりとしたソファー席に座る。
「キュヒョナはどうしてあの科学館を選んだの?プラネタリウム施設ならこっちにもあるし…もちろん募集の関係とかもあるんだろうけど」
「そうですねぇ。でもプラネタリウムの解説員は別に学芸員の資格なんてなくてもいいんですよ。事務職でも嘱託員でも、アルバイトにだってできるんです」
「そうなの?」
「はい。プラネタリウム施設自体は学芸員を置くことが求められる【博物館法上の登録博物館】じゃないんですよ。科学館では学芸員も必要ですし、プラネタリウムの解説の他にも携われることは多いですし」
甘いコーヒーを一口飲んでキュヒョンが微笑む。
「子供の頃からよくプラネタリウムを観に行きました。一人で夜中に出かけることも出来なかったし。今はプラネタリウムの投影もデジタル投影とか多いし解説自体も録音されているものも多いんですけど、投影機を使って生で解説をしてくれるところがやっぱり好きだったし、今でも好きです。一か所僕にとっては特別な場所がありました。解説員が居て、いつでも同じ内容の解説のはずなのに、その時の客層で雰囲気が全く違う解説をするんです。それに憧れました。星に興味がある人も、そうでない人も引き込まれるような解説でした。その人が学芸員だと知って僕もそうなれたらいいなと思ったんです。…その人が今の科学館にいらっしゃるんですよね…」
ちょっとはにかんだように笑う。
うん、これは面白くない。
「ライバルがいるとは…」
「…そういうのとは違うと思いますけど?」
「違ってても、違わなくても、俺的にはそういう解釈になるんだよ」
キュヒョンは困惑したよう首を傾げた後、ふっと表情を緩ませた。
「シウォンさんって…嫉妬とかするんですね」
「いや、今までそんなにしたことない」
断言すると、今度はクツクツと肩を揺らして笑い始める。
「それは…ビックリします」
「…驚いてくれて何よりだ」
こっちが面白くない事がキュヒョンには楽しいらしい。
ひとしきり笑って、コーヒーを飲み終えた後。
再び本の探索を始めるキュヒョンの前で残っていたページを捲る。
彼が読み終えた児童書をそのまま読んで最後のページに満足して本を閉じると、同じように最後の一冊であろう本を閉じたキュヒョンがふっと息を吐いた。
外の眩しかった太陽の光もオレンジ色に変わり始めている。
「もうすぐ閉館の時間か」
「うわ、結局一日潰しちゃいましたね。…すみません」
「いや、楽しかったよ。面白い本にも出合えたし」
可愛いイラストを見せて言うと
「やっぱり、それ、楽しいですよね…シウォンさん、この後少しだけ書店に寄ってもらってもいいですか?」
「夕食は予約してあるからあまり時間はないけど大丈夫?」
「もう決まってるんで10分もいらないです。車で待っててもらえたらありがたいんですけど」
その言葉どうり書店で速攻で買い物を終えたキュヒョンが抱えていた本。
それがその後宝物になるとは思わなかったのだけど。
頼んでいた時間までに車を滑り込ませると、キュヒョンは首を傾げた。
「また、ドレスコードが必要な食事ですか?」
「ちがうよ。でも負けないくらい美味しいのは保証する」
ドアを開けて進むとテーブルの上には綺麗にカトラリーが並べられていた。
一流ホテルのロゴはもちろんついていない。
我が家のもの。
「時間はぴったりだよ」
「さすがですね、社長」
キッチンからひょっこりと顏を出したリョウクの顔を見てキュヒョンが驚いた。
「久しぶり、キュヒョナ!」
「リョウガ!ってことは今日の夕食の予約って…」
「僕が腕によりをかけて作りましたー」
ははっと声を出して笑ったキュヒョンはリョウクをぎゅっと抱きしめる。
「楽しみだー」
「はいはい、座って。社長怒っちゃうよー」
「怒らないよ」
なんというか、そこは兄弟というか親子というかそんな雰囲気しかないので許せる。
高級レストランではきっと出てこないであろうメニューだけれど、彩りも栄養も考えられた、味は抜群の料理を食べ終わると、片づけを始めるリョウクを手伝うと言い出した。
「あのね。これは僕の仕事だから。お給金貰ってるんだよ?キュヒョナが手伝っちゃ意味ないでしょ」
まるで母親が子供に言い含めるようにそう言っているのが聞こえて思わず笑ってしまう。
「だって、聞きたいっていうか、教えてもらいたいことがあるんだよ。いいよね、シウォンさん」
「どうぞ。二人の方が早く片付くだろ?給料減らしたりしないからキュヒョナの相手してあげて」
「何ですか、それ」
苦笑いしつつもキッチンに入っていく二人の背中を見て、コーヒーサーバーから注いだコーヒーをソファに座って飲む。
同じリビングでも誰かが居るのと居ないのでは雰囲気は随分と変わる。
暖かい空気は温度のせいだけじゃない。
何を話しているのかは分からないけど二人の声や、食器の音、どれも一人の時にはないものだ。
半時間ほどたった頃片づけを終えたらしいリョウクが挨拶をして帰り支度を始めると、やはりキュヒョンも玄関に向かう。
これは例のアレが発症したか。
「失礼します。また明後日よろしくお願いします」
「こちらこそ。で、キュヒョナ?」
「あ。リョウガ送ってきます」
やっぱりな。
「だからさぁ、僕一人でも平気だって…」
「…キュヒョナの場合コンビニ行きたいだけだと思うよ」
「…その通りです」
俺たちのやり取りにリョウクは小さく笑うと、じゃあ送ってもらうことにします、とキュヒョンとドアを開ける。
今度は静かで、とりあえず見るともなくテレビをつけて画面を見つめる。
最初にキュヒョンとここで食事をした時には彼がこんなにも大切な存在になるなんて想像もしなかったなと最初に出会った時の事を思い出した。
今思い出しても不思議な出会いだとは思うけど、それが全部奇跡だとも思える。
開かなかった箱はパンドラの箱でもなく、中にあった希望は小さな星で。
その小さな星は失くした記憶の塊だった。
カタリと小さな音に意識がそちらに向く。
手にビニールを掲げてキュヒョンが微笑んでいる。
やっぱり奇跡だ。
「食後のデザートです。前に食べ損ねたの思い出しました」
「じゃあ、コーヒーでも淹れようか」
「お願いします」
コーヒーを淹れたカップをキュヒョンの前に置くと、自分の前にロールケーキが乗った皿が置かれた。
「いただきます」
「僕もいただきます」
うん。確かに。
ヒョクチェが太鼓判を押すだけあってなかなかの味だ。
「キュヒョナ、明日はどこか行ってみたいところとかないの?」
「…今日、付き合ってもらったし。シウォンさんこそ行きたいところとかないんですか?仕事忙しいのに休みの度に僕に合わせてたら疲れますよ?」
「キュヒョナに会えない方がしんどいけど?」
「また、そういうことを…」
視線を伏せるようにしてコーヒーに口を付ける。
その様子もが照れているのだということももう知っている。
こちらとしては真実なのでするりと出る言葉でもキュヒョンにとっては何故か恥ずかしいようだ。
「何もしないのもありだと思いますけど」
「のんびり過ごす?」
「…です、ね」
こういう時に少しだけぎこちない空気が流れるのも最近は常で。
ここから先に進むにはお互いが戸惑ったままだ。
お互いに好きだと伝えてからはそれなりの時間が過ぎたけど、その間に会える時間はまだまだ足りていない気がする。
暫くは二人でテレビで流れている映画を見て、それが終わるとそろそろ寝ようかとリビングを出る。
シャワーを浴びてリビングに戻るとキュヒョンが何か小さな紙切れに書き込んでいた。
今日図書館で見ていたものを整理でもしているのだろうか。
「まだ、寝ないの?」
「あ。シウォンさんにコレを渡すの忘れてました」
最後に寄った書店の袋。
「何?」
「今日付き合ってもらったお礼です。気に入ってもらえるかは分からないけど」
「お礼って…こっちも十分楽しんだけど」
「じゃあ…プレゼントしたかったからってことで」
ふふっと笑ったキュヒョンの笑顔で十分だ。
「…ありがとう」
「いえ。…じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
荷物を抱えてもうすっかりキュヒョンのものだといってもいい客室に向かったのを確認して、袋の中から本を取り出す。
風景と星の綺麗な表紙の写真集だ。
彼らしいプレゼントに口元が緩んだ。
よく見ると一枚淡いブルーの付箋が覗いている。
そのページを開くとススキが月明かりに照らされた草原に空から降り注ぐ流星の写真。
ふわりと風が吹いた気がした。
揺れるススキの穂が自分の背と変わらない中を声を上げて笑いながら走った。
後ろをついてくる小さな彼が愛しくて、手を引いて走る。
月明かりだけしかないはずの草原の中。
車のルームランプと淡いランタンの明かりに向かって。
光の場所で手を広げたその人の腕の中に飛び込むと笑って抱き締められた。
あれは…
「父さん…母さん…」
この写真は失くした風景だ。
あの愛しい手は彼だ。
時間とか、そんなものはどうでもよくなった。
失くした風景の中に居た彼は。
これから先自分が見る風景の中に必ず存在してほしいのだから。
広くもない家の中を全力で走る。
客室のドアを叩くと、驚いた顔でドアを開けたキュヒョンを抱きしめた。
「シウォンさん?」
「…好きだよ、キュヒョナ」
「なんで、泣いてるんですか?」
「あの、写真」
「…僕たちが子供の頃、両親が天体観測に行ってた場所に似てるんです。シウォンさんは覚えてないだろうけど。思い出して欲しい訳じゃなくて…知って欲しかっただけで」
「知ってる。忘れてたけど知ってる景色だ。俺は…愛されてたって思い出した」
「…僕もその一人ですよ」
少し体を離したキュヒョンが慈しむようにキスをくれた。