失われた風景

聞き間違いかと思わず相手の顔を見詰めると、何もかもに絶望したような顔でキュヒョンが俯いた。
幼い子供が兄を慕っているような気持ではないのだとその態度が物語っている。
自分だって彼の事を好きなのだ。
ただ、今、この場で伝えるべきではないとも思う。
まだ彼の話は終わっていないのだから。
大学生になって好きなことを学んで、人並みに彼女も出来て普通の学生と何も変わらない生活をしていました。
そして偶然あなたを見かけた。
子供の頃に会ったきりでしたけど、すぐにあなただと分かりました。
それに周りの人たちがあなたの名前を呼んでいたことで確信もしました。
普通に大学に通っていれば、学生の生活リズムなんてほぼ決まっているようなものですから、何曜日の何時頃にあの場所。
決まった場所であなたを見つけることが出来ました。
少しストーカーっぽいですけど…。
ただ幸せそうなあなたを確認できるのが嬉しかっただけなんです。
だけど女性ってそういうところカンが鋭いですよね。
バイトで忙しいうえに、会える時もほとんど無意識にシウォンさんを見かける場所の近くに足が向いてた。
ある日彼女が苛立ったように言ったんです。
「あなたが付き合っているのは私だけよね?私の事好きなのよね?」
僕は僕なりに彼女の事を大切にしていたつもりだったけど、そう思われてはいなかったんだと気づきました。
それはそうですよね。
僕は自分の事で手一杯で彼女の事を一番に考えることは無理だったし、それを理解してくれているのだと勝手に思い込んでいたんですから。
だから彼女の事をもっと大切にしよう。
そう思った矢先。
彼女が旧友と話しているところにたまたま出くわしたんです。
向こうは僕に気づく様子もなかったし、同じ店の中でも死角になるような席でしたからこちらから声を掛けようかとも思ったんですけど。
聞こえてきたのは彼女たちが今付き合っている男性の話でした。
「成績だっていいし容姿も悪くはない、将来は有望だけどつまらない男」
それが彼女の僕に対する総評です。
もっとも実際は本当に僕が今まで見てきた彼女なのかと思うくらいに辛辣な言葉でしたけど。
でも思った以上にショックではなくて…。
それならこのまま付き合っていく必要はないんだろうなと思って彼女に伝えたんです。
僕はどうしても君を一番は考えられない。
向こうにしてみれば自分から別れるならともかく僕から別れ話を切り出されるなんて思ってもいなかったんだと思います。
実際、その時には前に僕の事を話していた友達がこっそり僕の事を見に来ていたみたいで…。
友達に見られていた手前、自分から別れたとも言えなくなった。
「やっぱり他に好きな人が居るんでしょ」
それは違う。
そう言えなかったんです。
その時も。
よく考えてみればそれ以前も。
好きだという気持ちが彼女に対するそれとは違っていても、僕にとってあなたの存在の方が大切だったことは違いなかった。
「大切な人は居るよ。ずっと」
そう口にして、ずっと大切だったけれどその気持ちが昔と変わっている事にも気づきました。
あなたに会えてから彼女よりも、あなたのことが好きだってことに。
気づいたところで何が変わるというわけでもないけれど、自分の中では腑に落ちたんです。
それからは聞いているかも知れませんが、彼女が僕のことをあることないこと吹聴していたみたいで僕は大学では浮いた存在になってました。
その時には探偵事務所のバイトもしていたので、そんな噂もかえって都合がよかったんで放っておいたんですけど。
ちゃんとわかってくれている友人もいましたし。

なんだそれは。
ジアの言っていたことがなんとなく理解できる。
ましてやキュヒョンの本当の姿を知っていれば猶更だ。
「悪く言われて都合がいいなんてことあるの?」
「ええ。意外に思われるかもしれませんがストーカー被害って本当にしても虚言にしても思い込みだったとしても依頼は割と多いんです。特に新年度になると本当の被害も増えます。ですから当然依頼も何件かはあって…。それが大学生なら外の人間が対象者の傍に張り付くのは難しいですけど学内の人間だと簡単ですし、その噂のせいで対象者が変わったところで僕にしか悪い風評はありません。寧ろストーカーの感情を対象者よりこちらに向けさせることも出来たので」
「損な役割だね」
「…まぁ…でもちゃんと対処法や防衛術は教えられてましたし、成功報酬はもらえたし。それに探偵事務所のバイト自体はおいしいとこもありましたし」
「そうなの?」
「ええ。例えば対象者がバイトするとなれば、そのバイト先で僕も働くことが可能でしたし、その報酬はそのまま受け取りましたから。…そんな時にバイト先で一人の男性から告白されたんです」
正直。
自分でもよくわからなくて…。
シウォンさんの事は好きだと思うけれど、だからと言って今までそういう対象になった男の人なんていませんでした。
だから「付き合ってほしい」と言われて。
嫌悪感とかそういうものはなかったんです。
違和感は多少ありましたけど。
こっちの戸惑いも伝わってたんでしょうね。
「まずは友達からでいいから。その気持ちが少しでも変わってくれたら嬉しい」
好きになれるかどうかは分からないけど、嫌いでもない。
あやふやなままで付き合ってました。
卑怯だな、って自分でも思ってました。
シウォンさんの身代わりみたいなものですから。
でもあの人優しかったし、ちょっとだけですけど笑顔がシウォンさんに似ていました。
まぁ、気が多いのは問題でしたけど。
結局それが理由で別れたんです。
それ以上に僕が彼自身の事を恋愛の対象として好きにはなれなかった。
シウォンさんが大学を卒業してからはあなたの姿を見ることも無くなったし、このままこの気持ちも薄れていくだろうと思っていました。
けれど、暫くしてソンミニヒョンが家に来るようになったんです。
「不思議ですよね。シウォンさんとの間でいつも何かが繋がるんです」
「だったら、それは運命じゃない?」
「運命、ですか?」
「そう。きっとどこかで会わなきゃならなかったんだ。だから俺はあの鍵がどうしても欲しくなったんだよ。今までちっとも思いもしなかったのに。すべてのタイミングが上手く嚙み合ったんだから運命だよ」
そう言うと、キュヒョンも少しだけ安心したように笑う。
「それなら運命って優しいのか残酷なのかわからないですね…」

ソンミニヒョンがくれた二週間の間に気持ちに区切りをつけるつもりでいました。
僕はあなたとただの幼馴染で、昔、あなたから預かった鍵を返せばいい。
でも、今までは知らなかったあなたの一面を見るたびに諦めようとする気持ちがどんどん弱くなるんです。
自分の気持ちに整理がつかなくなってきた。
そんな時にあの放火事件が起きました。
罰が下されたんだと思いました。
身勝手で自分の事しか考えていなかったのだと思い知らされた気がしたのに、それでもまだあなたと繋がっていた鍵を返すのを躊躇しそうになりました。
あなたと話すことも、鍵を返すことも怖かった。
まっすぐ向き合うことが怖かった。
そんな自分が怖くて、鍵だけを置いてここに来ました。
逃げたと言われても仕方がない。
ちゃんと話せるまで時間が欲しかった。
それは言い訳にしかならないですけど。
でも、もう少し自分の中の気持ちが落ち着いてから、あなたに会いに行くつもりでした。
「なのに、シウォンさんが来るなんて…」
キュヒョンはテーブルに置いていた水のボトルを両手で挟んで回す。
冷たい感覚で自分を落ち着かせようとしているのか、その指先は微かに白くなっていた。

人差し指でこめかみを押しつつ大きく呼吸すると、キュヒョンの肩が跳ねる。
さて、どう切り崩していけばいいのか。
目の前にあるのは下手なところから手を付ければ崩れかねない砂の山だ。
「俺がキュヒョンを探すことは考えなかった?」
「…僕があの鍵をずっと身に着けていたのはシウォンさんも知っていましたから、理由が知りたいと思うのなら、それは十分にあることだとは思っていました。ただシウォンさん本人が探すとは思わなかったんです」
あぁ、確かに。
以前の自分ならそれこそ探偵でも雇って調べたかもしれない。
そうすればキュヒョンの口からではなく「報告書」という紙に書かれた、今聞いた彼の感情などは全く含まない表面上の事実だけを知って納得したはずだ。
だけど、今はそれが真実ではないと知っている。
「だからソンミニヒョンからあなたが僕を探していると聞いて驚きました」
「あー。今更だけど迷惑だった?」
キョヒョンは微笑んで首を振る。
「見つけて欲しいような、欲しくないような…。複雑な心境でした。シウォンさんが僕を見つけるのが早いか、僕がシウォンさんに会いに行けるのが早いか…なんだかゲームみたいですよね」
「じゃあ、俺が勝ったってことでいいのかな?」
「ゲームだったなら、そうなります」
「だったら勝者は何かしら欲しい物を貰わなきゃね」
「…何を?」
「まずは質問に答えてもらおうかな」
そう言うとキュヒョンは不思議そうにこちらを見る。
「今の話の中で俺がキュヒョンを気持ち悪いと思うような要素はどこにもなかったんだけど」
「…好きだったって、言いましたよね?」
「それ、俺が勝ったってことはまだ過去形じゃないって思っていいってこと?」
もしキュヒョンの方から会いに来られたらその時こそ本当に過去形だ。
キュヒョンはこちらを見たまま何も言わない。
どう答えるべきかを考えているのだろう。
すっとそれた視線が指先に移る。
「…過去形にしなきゃ、もっと気持ち悪いじゃないですか」
「どうして?今でもキュヒョンが俺を好きでいてくれるのなら、俺たちはめでたく両想いってことになるんだけど」
暫く指先を見詰めていたキュヒョンが嗤うように短く息を吐いた。
「…何の冗談ですか?」
「冗談を言いに来るほど暇じゃないよ、俺は」
「それこそ、あなたが僕の事を好きになる要素なんてどこにもない」
「じゃあ、キュヒョンが俺を好きだと言ってくれる要素もないじゃないか。あの鍵は支えになったのかもしれないけれど、それだけだ。俺を好きだと言ってくれる要素にはならないよね?」
好きだと気づいた時にはキュヒョンは居なくなっていた。
探している間にもいろんな一面を知ってやっぱり好きだなって思えた。
…多分、最初に家に来た時に朝スープを作ってくれた時から少しづつ好きになってたんだと思う。
それまで「好きだ」と思っていた恋人たちは、きらびやかな世界を優雅に泳ぐ色鮮やかな熱帯魚と同じだった。
自分が整えた世界に身を置くことに満足し、狭い世界に飽きたら去っていった。
けれどキュヒョンは違ったのだ。
飾らない、さりげない気づかいや優しさで自分ですら気づかなかった身体の中心にある空洞を少しづつ埋めてくれた。
だから、気づけたのだ。
彼が好きなのだと。
「理由なんてない。でもそれが必要ならいくらでも探すし、探せるけど。好きだと思う言葉を並べろって言われたらなによりも先にキュヒョンって名前が出ると思う。自分でも何故だかなんてわからないけど」
そういうものじゃないの?
そう言うとおずおずと顔を上げる。
「そんな簡単に…」
「そんなに簡単でもないよ。それなりに自分でもちゃんと考えたけど結論は変わらない。それにヒョクが言ったんだ。『その人と一緒にいるだけで楽しくて、何を食べても一緒だってだけで美味しく思えるような人。なくせない人。そんな人が絶対に現れる』って。どう考えても俺にとってはキュヒョンだった」
もどかしい。
上手く伝えたいのに、言葉というのはどういえば上手く確実にこの想いが届くのかがわからない。
「どうしよ…」
キュヒョンがまた深く項垂れた。
「その言葉を信じたいのに、信じるのが怖いなんてあなたには分からないでしょ」
「…何が怖いの?嘘に聞こえる?」
「僕が愛した人は僕を置いていってしまう。あなたを信じてもしおいていかれたら、僕はどう生きたらいいのかもうわからないんです。今までの支えだった物ももう何も残っていない」
キュヒョンの座っている椅子の横にひざまずくと、ポケットから取り出したそれを掲げて見せる。
不思議そうな表情の彼の首にそれを掛けると、目を瞠った。
「なんで…」
「これは…俺の宝物を仕舞っていた箱の鍵だった。大切なものを仕舞っておくためのね。だけどもう今はいらないんだ。大切な物を入れるのにあの箱じゃ大きさが足りないんだ。今、大切なものはキュヒョンだから。守るために鍵をかけたんだよ」
「シウォンさん…」
「あ。それと、これ。やっと返せる」
もう一つポケットから取り出したのはガラス玉。
「キュヒョンの星、なんだろ?」
ポロリとキュヒョンの目から綺麗な滴が落ちる。
ガラス玉なんかより、こっちの方がよほど価値がありそうな美しさだ。
「だからね。これからはキュヒョンは自分自身を大切にすることを支えにすればいいんだ。それでいいんだよ。君の両親も、俺もみんなそれを願ってるんだ」
キュヒョンが自分のコートを手繰り寄せると、そのポケットに手を突っ込む。
そしてビロードの小さな袋を出してこちらの手の上にそれを乗せた。
袋を開けると中から転がり出てきたガラス玉。
「やっと…返せた。シウォナの星」
そうして笑ったキュヒョンがまた綺麗で思わず抱きしめると、頼りなく背中に触れた手。
ほぅ、っと息を吐いてキュヒョンがぽそりと呟いた。
「あなたが好きです、シウォンさん」
「…うん。よかった」
本当に。
出会えてよかった。
俺たちの星を残してくれた両親に心から感謝したいと思った。
ここに導いてくれたたくさんの想いと星に。
「…やっぱり、よくない、かも」
「え?」
「両思いだってわかった瞬間に遠距離恋愛決定じゃないか」
キュヒョンが腕の中で脱力して、次にくつくつと笑いだす。
「距離に負ける程度の気持ちですか?」
「負けないよ」
「じゃあ、そこは諦めてください」
楽しそうな声だけで。
それだけでいいと思った。

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