失われた風景

【65日目】
いつもと変わらない朝。
社長室に入ると、これまたいつもと寸分変わらない秘書の挨拶が出迎えた。
出勤途中に問い詰めてやろうかと思ったが、今日迎えに来たのはソンミンではなく運転士だった。
全くタイミングが悪い。
「始業までまだ時間があるよな?」
「ええ」
「じゃあ、少し仕事に関係ない話してもいい?」
「…改まってなんだよ」
「ソンミナ。キュヒョンのこと知ってただろ」
ソンミンはにっこりと微笑む。
「知ってるよ。そりゃあ」
「なんで言わなかったんだよ!」
「聞かれなかったから」
聞かれなかったから、ときたか。
確かに自分で探さなければ、と思っていたけれども知っているなら多少の情報提供くらいはあってもいいんじゃないだろうか。
「でも、思ってたより早かったね」
「なにが」
「キュヒョナまで辿り着くのにもっと時間がかかるかと思ってた」
「頑張ったんで」
ちっ、と小さな音。
今舌打ちしたか⁉
舌打ちしただろ⁉
「居場所、分かったってこと?」
「わかったよ。だから、それも知ってたんだろ?」
「知ってたよ。俺も一緒に探したから」
「…で。どうして俺に黙ってた訳ですか、ソンミンさん」
「…だから聞かれなかったし、お前が自分で探すことが大事なんだろ。キュヒョナが今までどれだけお前の事見てたのかもしらないくせに」
「え…」
「腹が立つから教えてやらない。聞きたかったらキュヒョナに直接聞け。それに聞かれたところで教えなかったよ。キュヒョナと先に黙ってるって約束してるんだから」
ソンミンがそう言ったところで始業のチャイムが鳴る。
この話はここまでとばかりにソンミンは手にしていた手帳を広げた。
「社長。今日のスケジュール確認させていただきます」
「はい、どーぞ…」
なんだか納得いかない。
まだ、自分が知らないことがあるらしい。
そして、自分はプライベートと仕事の区別はしっかりつける方だと思っていた。
「なんか、今日空気悪くない?」
昼休みに社長室に入ってきたヒョクチェがそう言うまでは。
「空気清浄機が壊れてるんじゃないのか?」
「そういうことじゃねぇよ!」
「修理業者に連絡しておきましょうか」
「だから、そうじゃねぇって!なんなの。喧嘩でもしてるの⁉」
二人の顔を交互に見て言われてしまっては苦笑いするしかない。
「喧嘩なんてしてない」
「じゃあ何」
「…嫉妬してるだけ」
そう答えるとソンミンがプッと吹き出す。
「嫉妬されてるんだって、ミニヒョン」
「らしいね。知ったことじゃないけど」
腕を組んで、首を捻ったヒョクチェは手にしていたビニールの袋をデスクに置く。
「飯食った?」
「まだ」
「そ。じゃあ食べようぜー」
中からはコンビニで調達してきたらしいおにぎり、サンドイッチ、パン。
そしてスイーツまで。
「どういう組み合わせだ」
「腹減ってる時ってなんでも美味そうに見えるじゃん。ついつい買っちゃったんだよ。…でもさぁ」
ヒョクチェが心底不思議そうな顔をして聞いてくる。
「前に食べた塩むすびあるだろ?探偵さんが作ってくれたとかいってたの。あれさぁ、シンプルだったのにめっちゃ美味かったなぁ」
何が違うんだろうね。
そう言って笑う。
リョウクが言うには愛情らしいけれど。
それを聞いた時、ヒョクチェも傍に居なかったか?
解ってて言っているのか、本当に覚えていないのか。
「…ソンミン。来週の月曜休みとれるかな」
しばらく考えて何かに気づいたソンミンが首を縦に振るとスケジュール帳を開く。
「なんとか調整する。月曜って休館日だよね?」
「そういうこと」
「なんの話?」
「さっき話題に出た探偵の話。今は探偵じゃないけど」
「見つかったの?よかったじゃん。えっと…キュヒョンだったっけ?」
頷いて見せると楽しそうに笑ったヒョクチェがサンドイッチの包装フィルムを剥がしながら言った。
「じゃあ、キュヒョナによろしく。またおむすび作ってって言っといて」
ヒョクチェに悪気はないことは重々わかっているけれど。
だからと言ってこればかりはどうしようもない。
人の顔を見てくすりと笑うソンミンを睨むと、彼は小さく舌を出した。
「ヒョク。今、シウォナの機嫌損ねたよ」
「え⁉ なんで⁉」
本当に分からないといった顔でこっちを見るからその理由を答える。
「ちょっと…嫉妬しただけだよ」
「なんだそりゃ」
キュヒョナ、なんて簡単に呼んだからだ。
そう言ったら笑われるか、呆れられるか。
そんなこっちの気も知らないで全身から幸せオーラを発しながらサンドイッチを頬張るのを見ていると、それもどうでもよくなってくる。
なんでも美味しそうに食べるのだから、これは一種の才能だ。
ビニールの中身を物色すると苺が入ったロールケーキ。
「これ、美味いの?」
「俺は好き!クリームもちゃんと苺に合わせてる感じとか」
シウォナ食べる?
そう聞かれて。
「いや、今はいいよ」
一緒に食べようと約束したままだから。

【71日目】
夜が明けると、照明のオレンジに染まった天井が現れる。
リクライニングが効き過ぎるシートにそのまま沈み込んでいると、制服らしい紺色のベストスーツを着た女性が隣で足を止めた。
「お客様、上映が終了いたしましたのでご退席お願いできますか?」
「すみません。あまりに座り心地がいいものだから…」
そういうと嬉しそうに微笑む。
「ありがとうございます。たまに眠ってしまわれる方もいらっしゃいます。寝ていただくためのイベントなども年に数回行ってますので興味がございましたら是非参加してみてください」
そんなイベントもあるのか。
それはそれで面白そうだ。
「あと、解説の声も心地よくて。実は彼知り合いなんです」
「あら、そうだったんですね。少しお待ちいただけますか?」
円形の部屋の真ん中には大きな機械が設置されていて、そこを中心にすり鉢のように段々にシートが配置されている。
その中の一角に教卓のような台が設置されてあり、マイクと手元を照らす小さなライト、そして何やら機材が置かれている場所に足早に向かった案内係の女性は資料を纏めていた青年に話しかける。
リクライニングを倒したままだから、きっとこちらの顔までは見えていないのだろう。
目を閉じたままでいると、微かな足音が隣で止まって影を感じる。
「…シウォンさん」
「やぁ」
目を開けてキュヒョンの顔を確認する。
変わってない。
前髪はもう伸ばす予定はないのだろうか、相変わらず綺麗な顔をしているなと思った。
「上映終わりましたよ。起きてください」
「うん。さっき案内係の人に聞いた」
リクライニングを戻すように起き上がるとキュヒョンは肩を竦めて苦笑いした。
「凄くハンサムなお友達だって言われて誰の事かと思いましたけど、納得です」
「悪い気はしないね」
「でしょうね」
差し出された手を掴むと、そのまま立ち上がる。
「久しぶり」
「…はい」
「元気そうでよかった」
「シウォンさんも」
出会い方も、別れ方も、普通と違っていたから再会なんてドラマみたいな感じになったりするのかと思ったけれど。
数年ぶりに友達に会ったみたいな何とも言えない懐かしさと気恥ずかしさを感じるだけで、ごくごく普通に再会できてしまった。
「シウォンさん、わざわざ科学館に星を観に来た訳ではないですよね?」
「どうして?」
「星を見るだけなら市内にもプラネタリウムはありますから」
肩をすくめてみせると小さく笑う。
とりあえず出ましょう、そう言われてドーム型の部屋から出る。
「今日の上映はさっきの回で最後だったのでよかったら館内を案内しましょうか?」
「ありがたいけど、それよりも終わってから時間をもらえる方が嬉しいんだけど。急に来たから予定があれば仕方ないけどね」
諦めたように微笑むその表情は見た覚えがあった。
あの時は何かを吹っ切ったようにもみえたけれど。
キュヒョンが消えた前日。
感謝の言葉を述べられたあの時。
けれど今回は彼は目の前から消えたりはしない。
「やっぱり星を観に来たわけじゃないんですね」
「観たよ」
「本来の目的ですよ。何から話せばいいかわかりませんけど。僕はあなたに話さなきゃいけない事がたくさんあります」
「うん。話を聞くのももちろんだけどね」
足を止めた彼に微笑みかける。
他に何かあるのかと警戒気味なキュヒョンに。
「キュヒョンに会いに来た」
「…はい?」
「だから、一番はキュヒョンに会いたかったんだ。ただそれだけ」
暫く俯いたキュヒョンは手に持っていたファイルを顔の前に翳す。
「シウォンさんって…」
「何?」
「相変わらずモテ要素満載ですね」
「なんだよ、それ。それとなんで顔隠してるの?」
「今、絶対に見られたくない顔してるからです」
どんな顔だよ。
小さく笑うとコツンとつま先を蹴られた。
そのまま笑っていると、さっきよりも強めに蹴られる。
やっぱり可愛いとか思えるのはもうどうしようもないじゃないか。
先程声をかけてくれた案内係の女性がくすりと笑って横を通り過ぎるまで、まるでゆったりとしたリズムを刻むかのようにキュヒョンはつま先を蹴り続けた。

閉館時間は17:00それから片づけて終業は18:00になるらしい。
科学館の近くのカフェに入って、頼んだコーヒーが冷める頃に窓ガラスを軽く叩く音がして視線を向けると、キュヒョンが立っていた。
あの頃より寒さも随分と和らいだせいか見慣れたダウンジャケットではなく、薄手のモッズコート。
外に出るとポケットに手を突っ込んで空を見上げていたキュヒョンの横に並ぶ。
「シウォンさん、帰りの時間って…」
「明日は休み。キュヒョンは休館日だろ?」
「…さすが。ちゃんと調べてますね」
科学館のパンフレットを見せると納得したらしい。
「じゃあ今日は泊まりですか?」
「そうだよ明日の16時の飛行機で帰る」
時間は充分ある。
充分とった以上に聞きたいことはあるけれど。
「とりあえず食事して、ゆっくり話出来るとこですかね」
「場所なら提供できるよ」
考える様子のキュヒョンに今日の宿泊予定のホテルを指す。
「じゃあ、お邪魔します」
「なんなら食事もホテルにあるだろうけど」
「科学館の学芸員の収入考えて下さい。それならあの辺りに美味い洋食店があるんで、そこでどうですか?」
同意すると、キュヒョンは店まで案内してくれる。
店のドアを開けながら振り返った彼は楽しそうに笑った。
「リョウガの料理と同じくらい美味しいですよ」
確かにリョウクの作る料理は美味しいけれど、それ以上にキュヒョンが作ってくれた歪な形の塩結びの方が好きだと言ったらどんな顔をするだろうか。
きっと『物好き』だと言って苦笑いするだろうな、そんなことを思いながら案内された席に着いたのだ。

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