失われた風景

【64日目】
メモに書かれた住所をナビに打ち込んで着いた場所は、車を走らせて一時間程。
都心から少し離れるだけでも随分と緑が多く感じる。
多分ここだと思われる家の前に立ってさてどうしたものかと腕を組んだ。
キュヒョンがここに居るのなら問題はないだろう。
でも、居ないとなると突然訪ねてきた人間を警戒するのは当然だ。
キュヒョンのペンダントがあれば知り合いだと証明は出来るだろうが、今の彼の居るの場所を教えてもらうことまで出来るかどうかは分からない。
ここまできたのだから悩んでも仕方ないとは思っても呼鈴を鳴らすのにはまだ少し勇気が足りない。
野菜の入ったかごを抱えた年配の女性が横で立ち止まると頭の先から爪先まで流すように見て眉間にシワを寄せる。
「なんだい、この家に何か用かい?」
これは完全な不審者扱いだ。
まあ、それも仕方がないか。
出来るだけ営業的にならないように微笑んでみせる。
「すみません。こちらのお宅にキュヒョンさんは…」
女性の眉間の皺がすっと無くなる。
「キュヒョナの知り合いだったの」
そのまま呼鈴を押した女性がドアを開ける。
鍵をかけてもいないという都会ではあり得ない状況に面食らいながらもそのままでいると中に声を掛ける。
「ジョンホさん!野菜持ってきたよ!」
中から出てきた男性に思わず小さく声がこぼれた。
「あ…」
あまりにも見知った顔だった。
「いつもありがとう」
「いいよ。どうせ出荷も出来ない傷ものだし、いつも手伝ってもらって助かってるんだから。あぁ、そこにお客さんきてるよ。キュヒョナの知合いだって」
こちらに視線を向けて柔らかく微笑むその人は。
「社長、ご無沙汰しております」
「ジョンホ、さん?」
父の秘書。
会社を引き継いだ同時自分にもしばらくついてくれていた秘書のチョ・ジョンホその人だった。
手にしていたペンダントを見て目を細める。
「そうですか。キュヒョナはやっとあなたに鍵を返せましたか」
そう言って家の中に入れてくれる。
落ち着いた雰囲気の小さな家。
ここから彼は毎日出勤していたのか。
目の前に置かれたコーヒーは自分の好みも把握しているジョンホが淹れたもので、その辺りのコーヒーショップなどより遥かに美味かった。
「ジョンホさんはあの箱の鍵の在処を御存じだったんですね」
「気がついたのは随分と後でしたが、あれをキュヒョナが持っていたことは知っていました。あのペンダントはあの子に希望を与えてくれた。あの子が誰かにとって大切な存在なんだとずっと言い続けてくれたんです」
…私は妻とは上手くいかず息子が18になった時に離婚しました。
息子は私一人では何もできないだろうと、ここに残ってくれましてね。
本当に自慢の息子でした。
嫁も自慢でしたよ。
女手一つで育ててくれた母親の看病をしながら大学に通っていたそうで、その母親も彼女が結婚してから安心したように旅立ってしまいました。
そのせいか私を本当の父親のように大切にしてくれて、ここにもよく家族で遊びに来てくれて…。
本当に幸せでした。
息子夫婦が火事で亡くなったのはあの子が6歳の時です。
丁度シウォンさんの事故から一年経った頃でしょうか。
その日はたまたま遊びに来ていたキュヒョンが「ここに泊まる」と駄々をこねましてね。
息子は次の日どうしても外せない仕事があり、私に預けて夫婦で帰っていきました。
次の日には迎えに来るから、そう言って。
隣の家からの移り火で火の手も早く、結局助けられることはありませんでした。
可愛そうなのは残されたあの子です。
子供ながらに一緒に帰っていれば何かできたのかもしれない。
もっと我儘を通したのなら両親も諦めてここにとどまって巻き込まれなくても済んだかもしれない。
そんなことばかり言って泣いていました。
どんなにキュヒョンのせいではないのだと言っても首を横に振るだけで。
両親じゃなくて自分が居なくなればよかったのに、そうすれば私が悲しむこともなかったと。
6歳の子供にそんなことを言わせるのが辛かった。
「キュヒョナのお父さん、お母さんも大切で大好きだけれど、キュヒョナが居てくれてよかった」
何度も言い聞かせるようにそう言いました。
そういう時にはキュヒョンは必ず首からかけていたそのペンダントを握るんです。
そのペンダントはどうしたのかと聞くと、大好きな友達と約束したのだと。
また絶対合う約束をしてお互いに宝物を交換したんだと。
だったらそのペンダントは友達の宝物なのかと、尋ねるとポケットから小さなベルベット地の巾着を取り出して中を見せてくれました。
ラメの入ったビー玉で、それを光にかざすと眩しそうに目を細めるんです。
これは鍵だから、キュヒョンと会えないと宝物を渡せないから無くさないで持っていてと言われたんだと。
私以外の誰かがキュヒョンを必要としてくれている証だと思いたかったのではないでしょうかね。
それがあの箱の鍵だということに気づいたのはしばらくしてからでした。
社長室に置かれていた箱の模様と、ペンダントの模様が同じで、鍵と聞いていましたから。
キュヒョンも10歳になっていて、私はその鍵の持ち主がキュヒョンに会えない理由を話したんです。
事故で、記憶喪失になったのだと。
納得していました。
「ただ忘れられたわけじゃないのならよかった。でも会っても思い出してもらえないのは辛いから」
会うという選択を拒否したんです。
それでも万一にでもこの鍵の存在が必要になるなら。
いつでも返せるように。
そう言って身に着け続けていました。
ですからいつの間にかそれは彼の心のよりどころになっていたのだと思います。
「返す」という責任感や期待、そういったものが生きる希望を与えていたんでしょうね。

手の中にあるペンダントを見詰める。
この小さなペンダントにどれだけの想いが入っていたのか。
不可抗力とはいえ自分はすっかりと忘れていて、今だって思い出すことすらできないのに。
これはもう自分のものではなくてキュヒョンのものなのだ。
「…キュヒョンがスープを作ってくれたんです。なんだか懐かしい味がしました。でも料理はそれしかできないんだって言ってて」
「ああ、あれは…私が教えたんです。私もまともに料理なんてできませんが。火事で両親を亡くしたせいか火を怖がりましてね。自分で暖かい物を食べるということができなかったんです。仕事でどうしても遅くなることが多かったし、レンジで温めればいいものは用意はできてもなかなか…。ご近所の皆さんがごちそうしてくれたり暖かい差し入れを持ってきてくださったり、本当に助けられました。でも私が居る時には何か一つでも暖かい物をと思いまして。それを見ていたからでしょうね。作り方は分かったらしくて、ある時帰宅するとスープができているんです『いつもじいちゃんにばっかり作ってもらってるから僕が作って待ってていられたらいいなと思って』怖かっただろうに、そうやって待っててくれました。あの子は…いつだって人の事を考えられるいい子に育ってくれました」
親バカ、というか爺バカなんでしょうかね。
そう言って笑う。
『怖いとは違うんです…今はただ悲しいだけで…』
不審火に巻き込まれて火を見た時にキュヒョンはそう言った。
悲しいのは両親が亡くなったことなのか。
こちらの記憶がないことなのか。
誰かがこんなことをするという事実なのか。
…全てなのか。
そういえばあの時。
もう鍵を見付けることは重大な事じゃない。
そういったのを思い出す。
キュヒョンが傷ついたような表情をしたのはきっと彼を否定されたような気になったのかもしれない。
鍵を大切に持っていてくれた彼の事を。
全く逆のつもりだったのに。
「ジョンホさん、今、キュヒョンは…」
立ち上がった彼は電話台の引き出しから小さなパンフレットを取り出すとこちらに差し出す。
「ここに居ますよ」
キュヒョンを知ったのは彼が居なくなってからなのに。
ああ、キュヒョンらしいな、と思った。
「ソンミンくんも色々とキュヒョンのために探してくれまして」
「ソンミン?ここに来たことが?」
「ええ。私の仕事を早く覚えたいからと休日にも足を運んでくれました。キュヒョンとも仲良くしてくれて」
あいつ…。
隠してたのか。
なんというか…。
思わず笑ってしまう。
全く、誰もかれもがキュヒョンのことを好きになる。
なんだ、あの子は。
天使なのか。
そんなことを考え始める自分にすら笑えてしまった。

9/15ページ
スキ