short-1-
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
午前十一時。隣の部屋からの、滑るようなピアノのメロディーに目を覚ます。薄暗い部屋の中、少ない生活音と共に届けられる綺麗な音。このピアノの音をもう五年ほど聞かされている。初めは下っ手くそだったピアノは、けれども毎日途切れることはなく鳴り続いている。いつの間にか、聞き惚れる程に洗練されていった。夜間の任務明けの僕に心地好く響く音色は、身体の疲れを癒すように染み渡っていく。プロの演奏には程遠いのだろうけど、たどたどしさも少し残る演奏が僕は好きだった。
(あ、今ミスタッチした)
指の動く気配までも聞こえてしまう僕の耳は贅沢だ。けれど、この気配まで分からなければここまで聞き惚れることはなかっただろう。かじかんだように動かない指が、次第に自由自在に動くまで。僕はこの部屋で、彼女の演奏を聴き続けてきたんだから。壁を隔てた隣人の、その成長を聴いてきた。彼女は僕に聞こえているなんて、ちっとも思ってはいないだろうが。
(盗聴みたいで、いい気はしないだろうな)
今度コンクールに出るのだと、彼女が母親と話しているのも聞いてしまった。だから、最近の練習は熱が入っているように思う。あまり、無理はしないで欲しい。伝える手段なんてないけど。所詮、ただの隣人だから。近所付き合いなんてほとんどない僕と、彼女の接点は部屋が隣ということだけ。顔くらいは知っているけど、挨拶をする程度だ。そう今一度自覚すると、この演奏を独り占めしている僕が醜く思える。
(あ、止まった)
納得がいかないのか、不意に演奏が止まる。そこから、同じフレーズを何回も繰り返した。リフレインのように続くそれは、僕の何かを駆り立てるようでざわついた。そろそろ起きよう。僕は身体を起こして顔を洗いに行く。洗面台に向かい合い、鏡に映る僕の顔はいつも通り冴えない不満顔だ。この耳が無ければ、苦しむこともなかっただろうに。いつも僕は自分が恨めしい。ため息をついて、遅めの朝食を摂った。
部屋に戻ると、演奏はまだ続いていた。身を潜めるように体育座りして、また耳を傾けた。全て考えるのはよそう。気持ちを空にして、音だけに集中する。耳に染み込むそれに、自然と頬が緩むのが分かった。脱力して、ただただ音だけを聴く、聴く。ピアノの音に優しく包まれるような感覚に、邪念が洗われるように思えた。
(…………ああ、気分がいい)
そうして演奏が終わると、今度はばたばたと外に行く支度を始めたように思えた。そこで今一度僕を邪念が襲う。僕は静かに立ち上がると、用もないのに外行きのジャケットを手にした。
「あ、こんにちは」
「……こんにちは」
それだけ。さも偶然玄関を出たように見せかけて。僕が彼女に届けられるのはその言葉だけ。不公平で、不平等で。僕の恋は報われはしない。それで充分だと、諦めている。
「あ、あの」
「??」
理由もなく反対に歩き始めようとした僕を彼女は呼び止めた。少し緊張した面持ちで、心音も速い。
「ピアノ……毎日うるさくないですか」
「別に……貴方上手だし。気にならないよ」
「本当ですか? よかった……」
そんな心配をしていたとは知らなかった。毎日毎日、のびのびと弾いているから。
「あの、よかったら、今度コンクールで弾くので、生で聴きに来てください」
そっと手渡されたチラシと、微笑み。今までの僕の気持ちが知られているんじゃないかと錯覚と目眩。ろくに受け答えも出来ずに受けとったそれを、僕は強く握り締めた。
(あ、今ミスタッチした)
指の動く気配までも聞こえてしまう僕の耳は贅沢だ。けれど、この気配まで分からなければここまで聞き惚れることはなかっただろう。かじかんだように動かない指が、次第に自由自在に動くまで。僕はこの部屋で、彼女の演奏を聴き続けてきたんだから。壁を隔てた隣人の、その成長を聴いてきた。彼女は僕に聞こえているなんて、ちっとも思ってはいないだろうが。
(盗聴みたいで、いい気はしないだろうな)
今度コンクールに出るのだと、彼女が母親と話しているのも聞いてしまった。だから、最近の練習は熱が入っているように思う。あまり、無理はしないで欲しい。伝える手段なんてないけど。所詮、ただの隣人だから。近所付き合いなんてほとんどない僕と、彼女の接点は部屋が隣ということだけ。顔くらいは知っているけど、挨拶をする程度だ。そう今一度自覚すると、この演奏を独り占めしている僕が醜く思える。
(あ、止まった)
納得がいかないのか、不意に演奏が止まる。そこから、同じフレーズを何回も繰り返した。リフレインのように続くそれは、僕の何かを駆り立てるようでざわついた。そろそろ起きよう。僕は身体を起こして顔を洗いに行く。洗面台に向かい合い、鏡に映る僕の顔はいつも通り冴えない不満顔だ。この耳が無ければ、苦しむこともなかっただろうに。いつも僕は自分が恨めしい。ため息をついて、遅めの朝食を摂った。
部屋に戻ると、演奏はまだ続いていた。身を潜めるように体育座りして、また耳を傾けた。全て考えるのはよそう。気持ちを空にして、音だけに集中する。耳に染み込むそれに、自然と頬が緩むのが分かった。脱力して、ただただ音だけを聴く、聴く。ピアノの音に優しく包まれるような感覚に、邪念が洗われるように思えた。
(…………ああ、気分がいい)
そうして演奏が終わると、今度はばたばたと外に行く支度を始めたように思えた。そこで今一度僕を邪念が襲う。僕は静かに立ち上がると、用もないのに外行きのジャケットを手にした。
「あ、こんにちは」
「……こんにちは」
それだけ。さも偶然玄関を出たように見せかけて。僕が彼女に届けられるのはその言葉だけ。不公平で、不平等で。僕の恋は報われはしない。それで充分だと、諦めている。
「あ、あの」
「??」
理由もなく反対に歩き始めようとした僕を彼女は呼び止めた。少し緊張した面持ちで、心音も速い。
「ピアノ……毎日うるさくないですか」
「別に……貴方上手だし。気にならないよ」
「本当ですか? よかった……」
そんな心配をしていたとは知らなかった。毎日毎日、のびのびと弾いているから。
「あの、よかったら、今度コンクールで弾くので、生で聴きに来てください」
そっと手渡されたチラシと、微笑み。今までの僕の気持ちが知られているんじゃないかと錯覚と目眩。ろくに受け答えも出来ずに受けとったそれを、僕は強く握り締めた。