本編
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愛は勝負じゃない/水上敏志
俺、こう見えても負けず嫌いなんや。
「水上くん、ちょっといい?」
「……珍しいすね。莉子さんが俺に用事なんて」
嫌味半分、本音半分。俺なんかにも話しかけるあんたは、そりゃ聖人君子かなにかなんでしょうよ。死んでも褒めんけど。
「手短に話すね。今、雷蔵さんと弓型トリガーの開発の相談してるんだけど、試運転に協力しない?」
「弓型??またけったいなもん作ろうとしてますね」
容姿は凡、頭脳も凡、運動は音痴な方。けど、妙な部分で才能を感じさせるなんかがある。それを加味したって、どこにでもいる普通の女だ。特別なもんなんて一個も持ってない。
「面白くない?」
「おもろないわけじゃないですけど……使うのむずくないです?」
「扱いづらいかもだけど、メリットも結構あると思うよ」
建設的に話を進められる点、考えを言語化する能力がある点は、少し秀でているかもしれない。でもこの人、傷つきやすすぎるからディベート向かんし。
「どんなメリットです?」
「弾数は多く出来ないけど、一撃が重く出来ると思うよ」
「立ち回り狙撃手みたいになるけど、射程短すぎません?」
「そうだねー射手と狙撃手の中間くらいの射程はないとかも」
作ったところで、この人扱えるんか?射手未満、銃手未満、攻撃手未満やろが。
「命中率も腕によりけりすぎとちゃいます?」
「うーん、自信なくなってきたな……」
この場で考えんなや。立ち去りにくい。嫌いなのに放っておくことが出来ないってなんなんや。別にこの人の背後の人間が怖いわけでもないけど。立ち去る決断が出来ない。
「でも、弓を作ってトリオンの弦で射出するから、推進力のトリオンいらないし」
この人と競って、負けるもんなんて俺にひとつもない。怖がるに値しない人。そのはずなのに。俺は莉子さんが怖い。怖いから嫌いだ。
「矢の先だけブレードにすればいいから、矢一本にかかるコストはそこまで高くなさそうだし」
誰にでも親切だ。誰にでも優しい。誰からも愛される。俺はこの人に愛嬌だけは敵わない。
「低コストで威力が出そうなんだよね」
愛嬌だけ、どうしたって敵わない。ただその一点勝てないだけで、俺の大事なもん奪われるんじゃないかって気が気でない。そんなこと許せないし認められないが、そうなる道理だって馬鹿じゃないから分かってる。俺は、この人に勝たないといけない。俺が勝てない勝負なんて、やりたないんやけど。勝てなきゃ面白くない、負けるのが分かりきった勝負なんてさすなや。
「水上くん、使いこなせたら強くなれるんじゃない?」
「…………そうっすね」
好き嫌いを度外視して、仕事すんなや。そしてそれを優しさと勘違いさせんな。合理性三割、優しさ七割くらいか。いいバランスやね。真似出来ひんわ。
「練習すればするほど命中率上がるし、悪くないと思うよ」
「……しゃーないな、ある程度形になったらまた教えてくださいよ。試し射ちするんで」
「やった、ありがとう!」
嬉しそうっすね。あまりにも素直ですね。誰だってあんたみたいに真っ直ぐ生きられたら苦労せんのですわ。真っ直ぐにも真っ直ぐなりに、苦労はあるんだろうとは察するが。
「じゃあまた進捗あったら、伝えるね」
俺はあんたみたいになりたいわけじゃない。誰からも愛されるなんて、考えただけで反吐が出る。でも、あんたに勝つためには近付かないとダメなんか?あんたみたいにならずに、あの人から愛されることは無理なんやろか。
「おおきに」
礼は欠かない、これ以上負けを増やせない。自分が冷淡で人から見たらクズなことも知ってる。でも俺は俺の生き方を今更曲げられない。クズなりに愛されたい。こんな俺でも、生きててもいいんだと実感したいんだよ。
誰が否定しようと君は美しい/二宮匡貴
いつだって君は俺の美意識に触れる。アシンメトリーで歪な様相が、矛盾を抱えて苦悩し続ける姿が、君を形作る全てを、理解出来るような場所にいたいと願う。たとえ俺の想いが、知られることなく終わるとしても。
月に一度のお茶会。俺から誘い、いつからか小林の方から誘ってくれるようになり、定番になった。小林はいつも紅茶を飲む。興味もなかったのに、俺も紅茶を飲むようになった。君から教わり知る世界が色づく時、俺の身体は生命力で溢れる。今日、外は雨模様。小林の顔もどこか浮かない。
「今日はどうした。最近は元気か?」
「うーん、わりと調子良くて順調なんですが」
小林が額にかかる髪を払う。憂いを帯びた瞳が、美しいと思う。その瞳が喜びで満ちるのを、待ち侘びているのとは違う俺は、やはり身勝手なんだろう。
「このままでいいのかなぁって」
君の悩みの種が花咲く前に、余す所なく理解したいだけなんだ。種が芽吹いて葉と蔓を伸ばし、蕾となる過程が見たい。花が咲くかはどうでもいい。君が血を流して生きることに胸を震わせるから、怒りも悲しみも等しく尊くて。ハッピーエンドを望むけど、苦しみから解放されて欲しくない。
「このままで、生きていけそうなんです。なにも出来ないけど、生きていけそうなんです」
「不満なのか?」
「不満はないです。だからこそ、自立出来ないことが気になります。私は1人では、生きていけない」
「誰だって1人では生きていけないだろう」
「そりゃ、そう。ですが、私はおよそ普通の人が簡単にこなすことを、なにひとつ出来ない」
小林は普通の人ではないから、当然だろう。そんなことみんな知ってるし、それでも小林らしく生きてほしいと思っている奴が大半だ。それでも、彼女はなんとか普通に生きようとする。普通でいたくないと尖りながらも。
「誰かに、責められたわけでもないだろう?」
「責められたわけじゃないけど、いつだって頭の中で非難されます」
常識の規範の中で、小林を苦しめているのは彼女自身なのだ。怨嗟の声は、彼女の内側から溢れている。自分を傷つけながら、それでも自分らしくいたいと歌うから。俺は彼女を誰よりも理解したい。それだけなんだ。胸を張れなくとも、ぎゅっと自分の生き方を手放せない彼女を、理解してあげたい。しばし、言葉を忘れていた。カフェの外で車のクラクションが聞こえる。
「みんなに愛されて、助けられて甘えて。それだけで生きていくのは許されないでしょうか」
「……許しを乞うようなことじゃない」
君は君であるだけで素晴らしい。君が君であるだけで、君が信じられないほど世界は輝きを増すよ。本当は絶賛して、拍手で称えて、思いつく限り褒め言葉を並べたいけれど、そんなことは気持ち悪いだろうし出来ない。
「愛してくれる人に、なにも返せてないとは思いません。けれど、このままじゃ私は遊び人だ」
「それが悪いことなんて、誰にも決められない」
小林はため息を吐いて、少し微笑んだ。知っているはずなんだ、君は君が思うより聡明だ。
「自分が大切に思う人間だけ、見ていればいい。社会の目なんて、気にするな」
「……そうですよね」
俺がそう言ったところで、言わなくとも分かってて、小林は気にするし苦しみ続けるんだろう。社会に馴染めない苦しみを美しいと思うなど、俺はきっと残忍な人間で。だけど、冷たい血を温めて欲しいなどとは思わない。触れ合う熱など、知らなくていい。
「ありがとうございます。もう少し、このままでもいいかな」
もう少しと言わず、いつまででも。俺は付き合う。紅茶はすっかり冷めてしまったが、小林とはまだ話していたい。どんな憂いも怒りも悲しみも、喜びも。そっと見せに来て欲しい。どんなものであれ、俺は優しく受け入れる。そうありたい。そんな場所にいたい。
怖いものがあろうとも/忍田真史
怖い、怖い、怖い。人を傷つけるのが怖い。自分が傷つくのが怖い。生きていくのは、怖いことばかりだ。
今日は月に一回の忍田さんと定期面談の日。3日くらい前から調子が悪いことは日報で報告している。なんだか不安で仕方がなく、気持ちが不安定だ。身体も怠くて、ずっと眠たい。特に理由は思い当たらないけれど、恐らく天候が悪くて気圧が不安定なせいだろう。頭痛だけは薬で抑え込んでいる。それでもどこか、頭が重たい14時半。面談は15時から。急いでボーダー本部に向かう。最上階の、小さな会議室。とても静かなこの部屋で、忍田さんは毎月時間を取って、私の話を聞いてくれる。
「失礼します」
「お疲れ様。よく来れたな」
「なんとか、なんとか……」
忍田さんは軽く笑い、私に席に座るように目配せした。私は、忍田さんの真向かいに座る。忍田さんが手に持つバインダーに、なにが書かれているのか怖かった。
「さて、いつものことだが……今月は自分に何点ぐらいつけられる?」
「60……いや55点くらいかな……」
「それくらいか?よく頑張ってたと思うが」
「そうですかね」
自分ではまだ出来るはずと思うのだが、周りは頑張っていると言ってくれる。安心する反面、もっと頑張らねばと思うのだ。期待されないのは、悲しいし。大切にされた分、なにか返さなければと思うから。
「じゃあ65点で」
面談はスムーズに進んでいく。毎月の見直しと、次の目標を立てて。あとは、私の相談事を聞いてもらう。
「さて、こちらからは以上だが……なにか話したいことはあるかな?」
「えっと、」
与太話ではあるが。少し悩んだあと、口にしてみることにした。
「忍田さんには、怖いものってありますか?」
「怖いものか……」
忍田さんは、私から見ると強くて、すごく大人だと思う。大人になったら、怖いものってなくなるんだろうか。
「うーん……ゲジゲジ?」
「ゲジゲジ?」
「そう、ゲジゲジ……あれ昔に祖父母の田舎の家でよく出たんだが、怖いな……」
「ゴキブリを食べるんですよね。ゴキブリのスピードに追いつくために、無理な動きをすると簡単に足が取れるんです」
「詳しいな!?いや、うん……あんまり知りたくはなかったが……私はあれゴキブリより嫌いだな……」
忍田さんは手を顎に当て、眉間に皺を寄せて渋い顔をしていた。可笑しくて笑ってしまう。ゲジゲジなんてただの虫なのに。
「ちょっと気持ち悪いですよね。1人でいる時に出会したらビビります」
「いや、誰と一緒でも嫌だな……」
「ふふふ、じゃあ私が一緒の時は私が退治しますね」
「頼む」
忍田さんが真面目にそう言うので、少し心がほぐれた。そっか、大人にも怖いものってあるんだな。
「莉子は、なにが怖いと思う?怖かったから、訊いたんだろう?」
「私は……」
なにが怖いんだろう?怖いことが怖くて、実態が掴めない。ひと言にまとめるのは、時間が必要だった。悩む私に、忍田さんは声をかける。
「怖いのなら逃げ出したっていい。誰も君を責めないし、責める者がいるなら私が斬る。だが、逃げ出した自分を君が許せなくなるのなら、もう少しだけ頑張ってみて欲しい」
忍田さんの言葉を噛み締める。逃げ出してもいい、自分を許せるなら。腹の底から力が湧いてくるのを感じた。視界がはっきりとする。まだ頑張れる。
「はい、ありがとうございます」
「うん、無理をしては駄目だぞ。君は充分、頑張っている」
「もっと頑張りたいです」
「そうか。なら、それは我々がサポートしよう」
面談の時間が終わる。席を立ち、頭を下げて部屋を後にする。
「これからもなにかあればなんでも相談してくれ。必ず力になる」
「ありがとうございます。失礼します」
どんなに大人になっても、怖いものはなくならないのかもしれない。それでも、前に進むことはやめない。こんな私を、見守ってくれる人達がいるから。
選択を繰り返した先に/太刀川慶
「じゃ、お疲れーっす」
出水が帰って、隊室には私と太刀川さんだけになった。午前中の任務終わり、特に午後からすることもなくて。ダラダラと隊室にいる。太刀川さんは書類を片付けているか課題を片付けているのだと思ったけど、ちゃんと確認すれば書面を広げたままスマホでゲームをしているのだった。
「太刀川さん、コーヒーおかわり飲む?」
「おー頼む」
空になったマグカップに、おかわりを注いで持っていく。私は、さっき淹れたティーバッグでもう一杯紅茶を飲む。
「太刀川さん、今いい?」
「ちょい待ち。この面終わったら」
太刀川さんは真剣に画面と向き合っている。そんな面白いゲームなら、今度教えてもらおうかな。私はゲーム、出来る種類が限られるけど。
「あーっ!!ダメか!!」
太刀川さんが額に手をやり、天井を仰ぐ。でもすぐに気持ちを切り替えたのか、私の方に向き直った。
「悪ぃ、おまたせ。どうした?」
「うんと、その……」
歯切れの悪い私を、太刀川さんは急かすことなく待ってくれる。言葉を選ぼうと必死だったが、取り繕う必要もないかと、話してみることにした。
「この前さぁ、一人選ぶのが怖いって話したじゃん」
「あぁ、言ってたなぁ〜」
「怖くてもやっぱり、選ばなきゃダメかな」
紅茶を啜る。一杯分の砂糖は、一杯分の甘さしかない。砂糖が溶ける量は、決まっている。限りある甘やかな想いを、一杯分しかない心を、二人分に分けて用意することは、やはり酷いことだろうか。砂糖は溶けきらないほど、胸に秘めているのに。溶けないのなら、身体に限界があるから、やっぱり出来ないのと同じだろうか。
「ダメってことは、ないんじゃねぇの?選べ、とは言われるだろうけど」
「じゃあ選ばなきゃダメじゃん?」
「別に言わせておけばいいだろ」
太刀川さんはコーヒーをカップを揺らしながら呷る。それから、常備してある煎餅に手を伸ばした。ボリボリと咀嚼音が響く。私がなにも言えなくなったので、太刀川さんが口を開いた。
「選べって、誰かに言われたのか?いつもの妄想か?」
「……二宮さんにも、相談して」
「ほぉ、二宮」
お茶会で二宮さんと話したことを思い出す。二宮さんは優雅な雰囲気を纏って、とても優しい眼差しで私に告げた。
「「ありのままでいい。自分の気持ちに素直になって、選んだらいい」よって」
「なるほどなぁ」
太刀川さんは顎に手をやり髭をいじる。それから、柔らかな声で私の名前を呼ぶ。
「莉子」
「うん」
「選ばない、も。このままがいい、も。お前がちゃんと選んでるんだぞ」
「!」
自分で辿り着くことが出来なかった答え。そうか、そうなんだ。全ての日々は、逃げ出したことも、現状維持を願ったことも。全部、私の選択の上に。
「他の奴がなに言ったって気にすんな。お前の選択を曲げる理由になんねぇから」
「…………うん」
強い人の言葉だ。この人についてきてよかった。いつか私も、強くなれるだろうか。
「ありがとう、太刀川さん」
「おー別に。こんなことしか言えねぇけど」
「ううん、助かった。太刀川さんは、やっぱりカッコいいね」
「そうだろ?分かってくれるのお前だけなんだよな〜」
太刀川さんはたはは、と笑い頭を掻く。テーブルの上の書面は白紙。なんの紙かは知らないけれど、ちゃんとやった方がいいのでは。でも、それを言うのは私の役目ではないと甘えている。どちらが?まぁ、言いたくないから言わない。この人がだらしないことなんて百も承知だが、それ以上に強くて頼もしいこと、私は知ってるから。
「莉子、自分が笑顔でいられる場所にいろよ」
念押しするように、太刀川さんが言う。
「誰がなにを言ったとか、関係ない。俺のことも、二宮のこともだ。究極、迅が言ったことも弓場が言ったことも気にすんな」
「分かった」
「誰かのための犠牲になるなよ。絶対、後悔するから」
「うん」
素直に頷くと、太刀川さんはニヤッと笑った。ニヒルで余裕があって、ちょっと悪い顔。その顔を見ると、安心出来た。
「ありがとう、太刀川さん」
(素直すぎる彼女が、なににも染まらなければいいと。これだってエゴに過ぎないのだから。まっすぐ進め。露払いなら俺がするから)
(あの時、選んだのがお前で本当によかったと思ってるよ)
愛想笑いもなぞるような優しさも/歌川遼
(あ、死んだ)
刹那、そう過ぎって身体を翻す。肩を弾丸が掠る。逃走経路を計算する。三上さんの声が頭の裏、反響する。走る。なんとか緊急脱出圏内へ。走らなければ。意味なんていらない。目の前の道を塞がれる。銃口が俺を狙う。心臓目掛けて放たれたそれを、すんでのところで躱した時に、ふっと日常の思い出が降りかかる。
『ごめん歌川君、黒のボールペン貸して!』
(あのボールペン、返してもらってない!)
銃弾を避けて、相手を斬り伏せる。走る。とにかく、走る。追手は諦めたようで、攻撃は止んだ。暗い星空から、雨が降った。
遠征艇に帰還する。風間さんも菊地原も揃って。他の部隊も死傷者はなし。ドッと疲れた。息を吐き、身体を弛緩させる。さっきの走馬灯みたいな、火花のような一瞬を思い返す。確かにボールペンは返してもらってないけど。そんなこと、どうだっていいのに。
(なんで莉子さんを思い出したんだろう)
心当たりはない。莉子さんのことは、好きでも嫌いでもないし、距離が近いわけでもない。大事なボールペンだったわけでもない。こういった込み入った話、されるのは慣れてそうな人。本人に打ち明けてみようか、と思ったところで、莉子さんは遠征に参加していないのを思い出す。
(そりゃそうか。正しい判断だ)
莉子さんがこんな環境、切り抜けられるとは思えない。こんなところに来ちゃいけない人だと思う。みんなの大切な人、俺にとっては仲間の一人に過ぎない人。少なくとも、死ぬ間際に一目見ておきたいような人ではない。
「結構そういう経験、あるぞ」
風間さんに話したら、共感を得られたので安堵した。どうでもいいことを思い出してしまうのは、普通のことらしい。
「なんなんだろうな、あれ。どうせならもっと大事なことを思い出したいが」
風間さんは苦味を押し殺すように、笑みを浮かべた。俺も下手くそに笑う。別れの時には、笑顔でいたいものだ。
「そうですよね」
「でも、まぁ。どうでもいいことの、積み重ねを生きているだけなのかもしれないな」
俺たちは、所詮。そう言った風間さんはどこか清々しい顔をしていて、懐かしむように天井を見た。窓もない部屋で、時間だけが過ぎる。帰投まで、あと数日。
「おかえりなさい、太刀川さん。出水、柚宇ちゃん!」
太刀川隊を、莉子さんが出迎えていた。嬉しそうに抱き合うのを、どこか羨ましく思った。迎えてくれる人がいることを、迎えを待つだけの立場を。横目に通り過ぎる。馴染むように、日常へ戻る途中。船酔いでもしたように、足元がふらつく気がした。敵の白い手に足を掴まれて、引きずり戻されるような錯覚をする。
「歌川君!」
幻覚が弾ける。声のする方へ振り向けば、莉子さんが俺に駆け寄った。三上さんと同じくらいの背丈の、別の人。莉子さんはボールペンを差し出す。
「ごめん、借りたままになってた……渡せてよかった」
「あ、あぁ。ありがとうございます」
ちゃんと返ってきた。愛想笑いをして、ボールペンを受け取る。手に戻ってきても、やっぱりどうでもいい。
「莉子さんは、みんながいない間どうでしたか?」
誰と会っても話を広げてしまうのは、俺なりの世渡りの術。社交辞令と言われてしまうと、なんだか冷たい人間のようで嫌だ。
「ぼちぼちだよ。みんなは大変だったよね」
莉子さんは苦笑する。また、出来ない自分を責めているのだろう。
「莉子さんがいるから、みんなちゃんと帰ってくるんですよ」
お世辞ではない、本音だし間違っちゃいない。莉子さんみたいな存在が誰しもこちらにいるから、ちゃんと生きて帰ってくるんだ。
「莉子さんは莉子さんにしか出来ないこと、ちゃんとやってますよ」
貴方に向ける特別な笑顔なんてないけど。秘めた想いなんてないけど。貴方が健やかでいることで、助かる人間がいるのは事実だ。人を励ますのに嘘なんて言わない。まだ普通の人間でいたいから。
「そうかな。ありがとう」
人から感謝されるのが嬉しいのは、誰だってそうだろう。人に優しくいるのに、それ以上の理由なんていらない。あの走馬灯のこと、話すのはやめにした。
俺、こう見えても負けず嫌いなんや。
「水上くん、ちょっといい?」
「……珍しいすね。莉子さんが俺に用事なんて」
嫌味半分、本音半分。俺なんかにも話しかけるあんたは、そりゃ聖人君子かなにかなんでしょうよ。死んでも褒めんけど。
「手短に話すね。今、雷蔵さんと弓型トリガーの開発の相談してるんだけど、試運転に協力しない?」
「弓型??またけったいなもん作ろうとしてますね」
容姿は凡、頭脳も凡、運動は音痴な方。けど、妙な部分で才能を感じさせるなんかがある。それを加味したって、どこにでもいる普通の女だ。特別なもんなんて一個も持ってない。
「面白くない?」
「おもろないわけじゃないですけど……使うのむずくないです?」
「扱いづらいかもだけど、メリットも結構あると思うよ」
建設的に話を進められる点、考えを言語化する能力がある点は、少し秀でているかもしれない。でもこの人、傷つきやすすぎるからディベート向かんし。
「どんなメリットです?」
「弾数は多く出来ないけど、一撃が重く出来ると思うよ」
「立ち回り狙撃手みたいになるけど、射程短すぎません?」
「そうだねー射手と狙撃手の中間くらいの射程はないとかも」
作ったところで、この人扱えるんか?射手未満、銃手未満、攻撃手未満やろが。
「命中率も腕によりけりすぎとちゃいます?」
「うーん、自信なくなってきたな……」
この場で考えんなや。立ち去りにくい。嫌いなのに放っておくことが出来ないってなんなんや。別にこの人の背後の人間が怖いわけでもないけど。立ち去る決断が出来ない。
「でも、弓を作ってトリオンの弦で射出するから、推進力のトリオンいらないし」
この人と競って、負けるもんなんて俺にひとつもない。怖がるに値しない人。そのはずなのに。俺は莉子さんが怖い。怖いから嫌いだ。
「矢の先だけブレードにすればいいから、矢一本にかかるコストはそこまで高くなさそうだし」
誰にでも親切だ。誰にでも優しい。誰からも愛される。俺はこの人に愛嬌だけは敵わない。
「低コストで威力が出そうなんだよね」
愛嬌だけ、どうしたって敵わない。ただその一点勝てないだけで、俺の大事なもん奪われるんじゃないかって気が気でない。そんなこと許せないし認められないが、そうなる道理だって馬鹿じゃないから分かってる。俺は、この人に勝たないといけない。俺が勝てない勝負なんて、やりたないんやけど。勝てなきゃ面白くない、負けるのが分かりきった勝負なんてさすなや。
「水上くん、使いこなせたら強くなれるんじゃない?」
「…………そうっすね」
好き嫌いを度外視して、仕事すんなや。そしてそれを優しさと勘違いさせんな。合理性三割、優しさ七割くらいか。いいバランスやね。真似出来ひんわ。
「練習すればするほど命中率上がるし、悪くないと思うよ」
「……しゃーないな、ある程度形になったらまた教えてくださいよ。試し射ちするんで」
「やった、ありがとう!」
嬉しそうっすね。あまりにも素直ですね。誰だってあんたみたいに真っ直ぐ生きられたら苦労せんのですわ。真っ直ぐにも真っ直ぐなりに、苦労はあるんだろうとは察するが。
「じゃあまた進捗あったら、伝えるね」
俺はあんたみたいになりたいわけじゃない。誰からも愛されるなんて、考えただけで反吐が出る。でも、あんたに勝つためには近付かないとダメなんか?あんたみたいにならずに、あの人から愛されることは無理なんやろか。
「おおきに」
礼は欠かない、これ以上負けを増やせない。自分が冷淡で人から見たらクズなことも知ってる。でも俺は俺の生き方を今更曲げられない。クズなりに愛されたい。こんな俺でも、生きててもいいんだと実感したいんだよ。
誰が否定しようと君は美しい/二宮匡貴
いつだって君は俺の美意識に触れる。アシンメトリーで歪な様相が、矛盾を抱えて苦悩し続ける姿が、君を形作る全てを、理解出来るような場所にいたいと願う。たとえ俺の想いが、知られることなく終わるとしても。
月に一度のお茶会。俺から誘い、いつからか小林の方から誘ってくれるようになり、定番になった。小林はいつも紅茶を飲む。興味もなかったのに、俺も紅茶を飲むようになった。君から教わり知る世界が色づく時、俺の身体は生命力で溢れる。今日、外は雨模様。小林の顔もどこか浮かない。
「今日はどうした。最近は元気か?」
「うーん、わりと調子良くて順調なんですが」
小林が額にかかる髪を払う。憂いを帯びた瞳が、美しいと思う。その瞳が喜びで満ちるのを、待ち侘びているのとは違う俺は、やはり身勝手なんだろう。
「このままでいいのかなぁって」
君の悩みの種が花咲く前に、余す所なく理解したいだけなんだ。種が芽吹いて葉と蔓を伸ばし、蕾となる過程が見たい。花が咲くかはどうでもいい。君が血を流して生きることに胸を震わせるから、怒りも悲しみも等しく尊くて。ハッピーエンドを望むけど、苦しみから解放されて欲しくない。
「このままで、生きていけそうなんです。なにも出来ないけど、生きていけそうなんです」
「不満なのか?」
「不満はないです。だからこそ、自立出来ないことが気になります。私は1人では、生きていけない」
「誰だって1人では生きていけないだろう」
「そりゃ、そう。ですが、私はおよそ普通の人が簡単にこなすことを、なにひとつ出来ない」
小林は普通の人ではないから、当然だろう。そんなことみんな知ってるし、それでも小林らしく生きてほしいと思っている奴が大半だ。それでも、彼女はなんとか普通に生きようとする。普通でいたくないと尖りながらも。
「誰かに、責められたわけでもないだろう?」
「責められたわけじゃないけど、いつだって頭の中で非難されます」
常識の規範の中で、小林を苦しめているのは彼女自身なのだ。怨嗟の声は、彼女の内側から溢れている。自分を傷つけながら、それでも自分らしくいたいと歌うから。俺は彼女を誰よりも理解したい。それだけなんだ。胸を張れなくとも、ぎゅっと自分の生き方を手放せない彼女を、理解してあげたい。しばし、言葉を忘れていた。カフェの外で車のクラクションが聞こえる。
「みんなに愛されて、助けられて甘えて。それだけで生きていくのは許されないでしょうか」
「……許しを乞うようなことじゃない」
君は君であるだけで素晴らしい。君が君であるだけで、君が信じられないほど世界は輝きを増すよ。本当は絶賛して、拍手で称えて、思いつく限り褒め言葉を並べたいけれど、そんなことは気持ち悪いだろうし出来ない。
「愛してくれる人に、なにも返せてないとは思いません。けれど、このままじゃ私は遊び人だ」
「それが悪いことなんて、誰にも決められない」
小林はため息を吐いて、少し微笑んだ。知っているはずなんだ、君は君が思うより聡明だ。
「自分が大切に思う人間だけ、見ていればいい。社会の目なんて、気にするな」
「……そうですよね」
俺がそう言ったところで、言わなくとも分かってて、小林は気にするし苦しみ続けるんだろう。社会に馴染めない苦しみを美しいと思うなど、俺はきっと残忍な人間で。だけど、冷たい血を温めて欲しいなどとは思わない。触れ合う熱など、知らなくていい。
「ありがとうございます。もう少し、このままでもいいかな」
もう少しと言わず、いつまででも。俺は付き合う。紅茶はすっかり冷めてしまったが、小林とはまだ話していたい。どんな憂いも怒りも悲しみも、喜びも。そっと見せに来て欲しい。どんなものであれ、俺は優しく受け入れる。そうありたい。そんな場所にいたい。
怖いものがあろうとも/忍田真史
怖い、怖い、怖い。人を傷つけるのが怖い。自分が傷つくのが怖い。生きていくのは、怖いことばかりだ。
今日は月に一回の忍田さんと定期面談の日。3日くらい前から調子が悪いことは日報で報告している。なんだか不安で仕方がなく、気持ちが不安定だ。身体も怠くて、ずっと眠たい。特に理由は思い当たらないけれど、恐らく天候が悪くて気圧が不安定なせいだろう。頭痛だけは薬で抑え込んでいる。それでもどこか、頭が重たい14時半。面談は15時から。急いでボーダー本部に向かう。最上階の、小さな会議室。とても静かなこの部屋で、忍田さんは毎月時間を取って、私の話を聞いてくれる。
「失礼します」
「お疲れ様。よく来れたな」
「なんとか、なんとか……」
忍田さんは軽く笑い、私に席に座るように目配せした。私は、忍田さんの真向かいに座る。忍田さんが手に持つバインダーに、なにが書かれているのか怖かった。
「さて、いつものことだが……今月は自分に何点ぐらいつけられる?」
「60……いや55点くらいかな……」
「それくらいか?よく頑張ってたと思うが」
「そうですかね」
自分ではまだ出来るはずと思うのだが、周りは頑張っていると言ってくれる。安心する反面、もっと頑張らねばと思うのだ。期待されないのは、悲しいし。大切にされた分、なにか返さなければと思うから。
「じゃあ65点で」
面談はスムーズに進んでいく。毎月の見直しと、次の目標を立てて。あとは、私の相談事を聞いてもらう。
「さて、こちらからは以上だが……なにか話したいことはあるかな?」
「えっと、」
与太話ではあるが。少し悩んだあと、口にしてみることにした。
「忍田さんには、怖いものってありますか?」
「怖いものか……」
忍田さんは、私から見ると強くて、すごく大人だと思う。大人になったら、怖いものってなくなるんだろうか。
「うーん……ゲジゲジ?」
「ゲジゲジ?」
「そう、ゲジゲジ……あれ昔に祖父母の田舎の家でよく出たんだが、怖いな……」
「ゴキブリを食べるんですよね。ゴキブリのスピードに追いつくために、無理な動きをすると簡単に足が取れるんです」
「詳しいな!?いや、うん……あんまり知りたくはなかったが……私はあれゴキブリより嫌いだな……」
忍田さんは手を顎に当て、眉間に皺を寄せて渋い顔をしていた。可笑しくて笑ってしまう。ゲジゲジなんてただの虫なのに。
「ちょっと気持ち悪いですよね。1人でいる時に出会したらビビります」
「いや、誰と一緒でも嫌だな……」
「ふふふ、じゃあ私が一緒の時は私が退治しますね」
「頼む」
忍田さんが真面目にそう言うので、少し心がほぐれた。そっか、大人にも怖いものってあるんだな。
「莉子は、なにが怖いと思う?怖かったから、訊いたんだろう?」
「私は……」
なにが怖いんだろう?怖いことが怖くて、実態が掴めない。ひと言にまとめるのは、時間が必要だった。悩む私に、忍田さんは声をかける。
「怖いのなら逃げ出したっていい。誰も君を責めないし、責める者がいるなら私が斬る。だが、逃げ出した自分を君が許せなくなるのなら、もう少しだけ頑張ってみて欲しい」
忍田さんの言葉を噛み締める。逃げ出してもいい、自分を許せるなら。腹の底から力が湧いてくるのを感じた。視界がはっきりとする。まだ頑張れる。
「はい、ありがとうございます」
「うん、無理をしては駄目だぞ。君は充分、頑張っている」
「もっと頑張りたいです」
「そうか。なら、それは我々がサポートしよう」
面談の時間が終わる。席を立ち、頭を下げて部屋を後にする。
「これからもなにかあればなんでも相談してくれ。必ず力になる」
「ありがとうございます。失礼します」
どんなに大人になっても、怖いものはなくならないのかもしれない。それでも、前に進むことはやめない。こんな私を、見守ってくれる人達がいるから。
選択を繰り返した先に/太刀川慶
「じゃ、お疲れーっす」
出水が帰って、隊室には私と太刀川さんだけになった。午前中の任務終わり、特に午後からすることもなくて。ダラダラと隊室にいる。太刀川さんは書類を片付けているか課題を片付けているのだと思ったけど、ちゃんと確認すれば書面を広げたままスマホでゲームをしているのだった。
「太刀川さん、コーヒーおかわり飲む?」
「おー頼む」
空になったマグカップに、おかわりを注いで持っていく。私は、さっき淹れたティーバッグでもう一杯紅茶を飲む。
「太刀川さん、今いい?」
「ちょい待ち。この面終わったら」
太刀川さんは真剣に画面と向き合っている。そんな面白いゲームなら、今度教えてもらおうかな。私はゲーム、出来る種類が限られるけど。
「あーっ!!ダメか!!」
太刀川さんが額に手をやり、天井を仰ぐ。でもすぐに気持ちを切り替えたのか、私の方に向き直った。
「悪ぃ、おまたせ。どうした?」
「うんと、その……」
歯切れの悪い私を、太刀川さんは急かすことなく待ってくれる。言葉を選ぼうと必死だったが、取り繕う必要もないかと、話してみることにした。
「この前さぁ、一人選ぶのが怖いって話したじゃん」
「あぁ、言ってたなぁ〜」
「怖くてもやっぱり、選ばなきゃダメかな」
紅茶を啜る。一杯分の砂糖は、一杯分の甘さしかない。砂糖が溶ける量は、決まっている。限りある甘やかな想いを、一杯分しかない心を、二人分に分けて用意することは、やはり酷いことだろうか。砂糖は溶けきらないほど、胸に秘めているのに。溶けないのなら、身体に限界があるから、やっぱり出来ないのと同じだろうか。
「ダメってことは、ないんじゃねぇの?選べ、とは言われるだろうけど」
「じゃあ選ばなきゃダメじゃん?」
「別に言わせておけばいいだろ」
太刀川さんはコーヒーをカップを揺らしながら呷る。それから、常備してある煎餅に手を伸ばした。ボリボリと咀嚼音が響く。私がなにも言えなくなったので、太刀川さんが口を開いた。
「選べって、誰かに言われたのか?いつもの妄想か?」
「……二宮さんにも、相談して」
「ほぉ、二宮」
お茶会で二宮さんと話したことを思い出す。二宮さんは優雅な雰囲気を纏って、とても優しい眼差しで私に告げた。
「「ありのままでいい。自分の気持ちに素直になって、選んだらいい」よって」
「なるほどなぁ」
太刀川さんは顎に手をやり髭をいじる。それから、柔らかな声で私の名前を呼ぶ。
「莉子」
「うん」
「選ばない、も。このままがいい、も。お前がちゃんと選んでるんだぞ」
「!」
自分で辿り着くことが出来なかった答え。そうか、そうなんだ。全ての日々は、逃げ出したことも、現状維持を願ったことも。全部、私の選択の上に。
「他の奴がなに言ったって気にすんな。お前の選択を曲げる理由になんねぇから」
「…………うん」
強い人の言葉だ。この人についてきてよかった。いつか私も、強くなれるだろうか。
「ありがとう、太刀川さん」
「おー別に。こんなことしか言えねぇけど」
「ううん、助かった。太刀川さんは、やっぱりカッコいいね」
「そうだろ?分かってくれるのお前だけなんだよな〜」
太刀川さんはたはは、と笑い頭を掻く。テーブルの上の書面は白紙。なんの紙かは知らないけれど、ちゃんとやった方がいいのでは。でも、それを言うのは私の役目ではないと甘えている。どちらが?まぁ、言いたくないから言わない。この人がだらしないことなんて百も承知だが、それ以上に強くて頼もしいこと、私は知ってるから。
「莉子、自分が笑顔でいられる場所にいろよ」
念押しするように、太刀川さんが言う。
「誰がなにを言ったとか、関係ない。俺のことも、二宮のこともだ。究極、迅が言ったことも弓場が言ったことも気にすんな」
「分かった」
「誰かのための犠牲になるなよ。絶対、後悔するから」
「うん」
素直に頷くと、太刀川さんはニヤッと笑った。ニヒルで余裕があって、ちょっと悪い顔。その顔を見ると、安心出来た。
「ありがとう、太刀川さん」
(素直すぎる彼女が、なににも染まらなければいいと。これだってエゴに過ぎないのだから。まっすぐ進め。露払いなら俺がするから)
(あの時、選んだのがお前で本当によかったと思ってるよ)
愛想笑いもなぞるような優しさも/歌川遼
(あ、死んだ)
刹那、そう過ぎって身体を翻す。肩を弾丸が掠る。逃走経路を計算する。三上さんの声が頭の裏、反響する。走る。なんとか緊急脱出圏内へ。走らなければ。意味なんていらない。目の前の道を塞がれる。銃口が俺を狙う。心臓目掛けて放たれたそれを、すんでのところで躱した時に、ふっと日常の思い出が降りかかる。
『ごめん歌川君、黒のボールペン貸して!』
(あのボールペン、返してもらってない!)
銃弾を避けて、相手を斬り伏せる。走る。とにかく、走る。追手は諦めたようで、攻撃は止んだ。暗い星空から、雨が降った。
遠征艇に帰還する。風間さんも菊地原も揃って。他の部隊も死傷者はなし。ドッと疲れた。息を吐き、身体を弛緩させる。さっきの走馬灯みたいな、火花のような一瞬を思い返す。確かにボールペンは返してもらってないけど。そんなこと、どうだっていいのに。
(なんで莉子さんを思い出したんだろう)
心当たりはない。莉子さんのことは、好きでも嫌いでもないし、距離が近いわけでもない。大事なボールペンだったわけでもない。こういった込み入った話、されるのは慣れてそうな人。本人に打ち明けてみようか、と思ったところで、莉子さんは遠征に参加していないのを思い出す。
(そりゃそうか。正しい判断だ)
莉子さんがこんな環境、切り抜けられるとは思えない。こんなところに来ちゃいけない人だと思う。みんなの大切な人、俺にとっては仲間の一人に過ぎない人。少なくとも、死ぬ間際に一目見ておきたいような人ではない。
「結構そういう経験、あるぞ」
風間さんに話したら、共感を得られたので安堵した。どうでもいいことを思い出してしまうのは、普通のことらしい。
「なんなんだろうな、あれ。どうせならもっと大事なことを思い出したいが」
風間さんは苦味を押し殺すように、笑みを浮かべた。俺も下手くそに笑う。別れの時には、笑顔でいたいものだ。
「そうですよね」
「でも、まぁ。どうでもいいことの、積み重ねを生きているだけなのかもしれないな」
俺たちは、所詮。そう言った風間さんはどこか清々しい顔をしていて、懐かしむように天井を見た。窓もない部屋で、時間だけが過ぎる。帰投まで、あと数日。
「おかえりなさい、太刀川さん。出水、柚宇ちゃん!」
太刀川隊を、莉子さんが出迎えていた。嬉しそうに抱き合うのを、どこか羨ましく思った。迎えてくれる人がいることを、迎えを待つだけの立場を。横目に通り過ぎる。馴染むように、日常へ戻る途中。船酔いでもしたように、足元がふらつく気がした。敵の白い手に足を掴まれて、引きずり戻されるような錯覚をする。
「歌川君!」
幻覚が弾ける。声のする方へ振り向けば、莉子さんが俺に駆け寄った。三上さんと同じくらいの背丈の、別の人。莉子さんはボールペンを差し出す。
「ごめん、借りたままになってた……渡せてよかった」
「あ、あぁ。ありがとうございます」
ちゃんと返ってきた。愛想笑いをして、ボールペンを受け取る。手に戻ってきても、やっぱりどうでもいい。
「莉子さんは、みんながいない間どうでしたか?」
誰と会っても話を広げてしまうのは、俺なりの世渡りの術。社交辞令と言われてしまうと、なんだか冷たい人間のようで嫌だ。
「ぼちぼちだよ。みんなは大変だったよね」
莉子さんは苦笑する。また、出来ない自分を責めているのだろう。
「莉子さんがいるから、みんなちゃんと帰ってくるんですよ」
お世辞ではない、本音だし間違っちゃいない。莉子さんみたいな存在が誰しもこちらにいるから、ちゃんと生きて帰ってくるんだ。
「莉子さんは莉子さんにしか出来ないこと、ちゃんとやってますよ」
貴方に向ける特別な笑顔なんてないけど。秘めた想いなんてないけど。貴方が健やかでいることで、助かる人間がいるのは事実だ。人を励ますのに嘘なんて言わない。まだ普通の人間でいたいから。
「そうかな。ありがとう」
人から感謝されるのが嬉しいのは、誰だってそうだろう。人に優しくいるのに、それ以上の理由なんていらない。あの走馬灯のこと、話すのはやめにした。