迷いと呪縛
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その日の部活。
フリー50mを5本、という言葉に、旭が緊張したように顔と肩を強ばらせた。
「旭、いける?」
「っ、はい!」
心配そうな尚先輩に返事をする姿を見て、尚先輩と同じような表情をしてしまう。
「タイムも測るからね、まずは遙から」
泳ぎ出したハルを見ながら、フォーム等にいつもと違うところが無いかノートに書き込んでいく。
旭の様子をそっと見てみると、圧倒されたようにハルの泳ぎを見つめていた。
「次、旭!」
「っは、はいっ!」
止まっていた時間が動き出したように旭がスタート台に向かう。
笛の音。
飛び込むも、すぐに異変は起きた。
前へ進めずに水の中でもがいているような動き。
息を切らして足をつき、旭はもどかしさといらだちをぶつける様に水面を拳で叩いた。
その姿に胸が、ズキリとした。
次は個人の専門で100mを5本。
尚先輩が取ったタイムを書き取っていく。
尚先輩が苦笑したほうを見ると、夏也先輩とハルが泳いでいた。
たちまち泳ぎきり、水から顔を上げてすぐにこちらへ顔を向ける。
「どっちの勝ちだ!」
「僅差で夏也」
尚先輩の判定に嬉しそうにガッツポーズをし、プールから上がる夏也先輩。
泳ぐのが楽しそうな表情だった……。
そのとき、真琴が泳いでいた。
水から顔を上げ、肩で荒く息を吐いている。
ゴーグルをつけたままでも苦しそうなのが分かった。
「真琴、10本以上泳いだんじゃない?」
「……1本、増やしました……」
「がむしゃらに泳いだって、練習にならないよ」
「……大丈夫です。少し休んだら、もう1本、いきます」
息が絶え絶えになりながら答える真琴。
個人のタイムは悪くないのに、無理をしているみたいだ。
「……真琴」
膝に手をつき、息を整えようと呼吸を繰り返す真琴の背中をさする。
手がぬれるのなんて気にならない。
「……ごめん……」
「平気だ」
***
「今からリレーの練習だ」
夏也先輩の言葉にハルと郁弥がそっぽを向き、旭と真琴が小さく返事をする。
尚先輩が指摘していることを書き込みながら皆の泳ぎを見る。
引き継ぎの瞬間を指摘されることが大半だ。
「遅いな。何が原因だと思う?」
ストップウォッチを皆に見えるように向け、夏也先輩が固い声で聞いた。
私はノートを胸に抱え直し、ハルの隣で固唾を飲んだ。
「……引き継ぎ、ですか?」
「そうだね。じゃあ引き継ぎが上手くいかない原因は?」
おずおずと言った真琴に尚先輩が核心をつくような質問をした。
「リレー、泳ぎたい?」
その言葉に皆が口を閉ざす。
険しかったり暗い表情に、私は唇を噛んでノートを抱きしめる腕に力を込めていた。
「全員個人だけ出ればいい」
突然響いた声。
漠然と感じていたような思いがそのまま言葉になったみたいで、私ははじかれたように隣を見た。
他の3人の視線もハルに向く。
「俺は個人のフリーだけでいい」
ハルの視線は、夏也先輩と尚先輩に向けられていた。
自分の意思が固いことを示すみたいに。
「だから、お前が抜けたらリレーに出られなくなるっつってんだろ!」
怒りをはらんだ夏也先輩の声にもハルはゆるがない。
「皆も個人でいいって思ってる」
「……確かに。このメンバーでリレーなんてそもそも無理なんだ」
「え……」
冷めた声で同意した郁弥に思わず声がもれる。
「っ、んなこと言うな!俺は別にそんなこと思ってねえよ!」
慌てたように言う旭に、郁弥は苛立ったように言った。
「じゃあ少しは僕に合わせてよ!旭、自分勝手に泳ぎすぎなんだよ!」
「やめろ!引き継ぎが上手くいかないのは、全員が自分のことばっかり考えてるからだ」
『個人とリレーは違う。その意味をよく考えろ』
夏也先輩の厳しい声と言葉に、皆はただうつむいていた。
***
皆の暗い表情と先輩の厳しい声が頭から離れず、沈んだ気持ちで片付けをしていたときだった。
「蒼、ちょっといい?」
「尚先輩……、なんですか?」
手招きされて尚先輩のところへ行く。
何かあったのかな……。
どこかつかめないような表情に、少し不安になる。
「蒼に少し質問があるんだ」
「はい……」
「蒼、本当は泳ぎたいんじゃない?」
「……え、?」
ドキリとした。
一瞬だけ、呼吸を忘れるほど。
「皆の泳ぎとかプールを見てるとき、どこか羨ましそうに見えたから。
なんで泳げないのか、理由を聞いてもいい?」
尚先輩が言ったことは当たっていた。
皆が泳ぐ姿を見るたびに感じた、ちりちりと疼くような思い。
「……情けない話なんですけど、いいですか……?」
「うん」
そっと視線を上に上げると、尚先輩が微笑んでいた。
全部受け止めてくれそうな、そんな視線で。
「……私、水泳がすごく上手い兄がいるんです。
本当に速くてかっこよくて。そんな兄は私の憧れで……、私が水泳を始めたきっかけの1つでした」
今までを振り返るように、言葉に変えて話していく。
少しずつ、固く結んでいた紐をほどいていくような気持ちになる。
「……でも、私が大会で優勝するうちに、私と兄を重ねて見る人がいたんです」
プールに視線を向けてつぶやくように言う。
"速いね。向日 透青くんの妹さんだもんね"
笑顔で言われた言葉。
"勝って当たり前だよね。あの向日 透青の妹だし"
すれ違いざまに囁かれた言葉。
それが耳元でよみがえったような気がして、私は両手をぐっと握った。
「……今思えば、受け流せばよかったんです。……でも、それから"向日 透青の妹"って言葉が、やけに耳につくようになって……」
最初は兄みたいに泳ぐことを求められてるようで、私は兄の真似をするようになった。
フォームを覚えようとしたり、言葉遣いを男の子みたいに変えてみたり。
兄みたいにタイムをもっと上げようと、もがくように泳いだ。
いつしか、どんな応援も重石に変わっていた。
どんなに努力をしても、血のつながりだけでそれらを否定されているようだった。
兄と私は違う。
兄みたいにはなれない。
そのことに気づくのが、遅すぎた。
「『皆の気持ちに応えなきゃ、兄みたいに泳がなきゃ』って気持ちが、根を張ってきて……。
……気づいたら、泳げなくなってました」
ある日突然。
SCで泳ごうとしたら、自分がどう泳いでいたか分からなくなった。
頭が真っ白になって、混乱して、私はプールの底に沈んでいた。
「お兄さんとは、大丈夫?」
「兄とはちゃんと話し合ったから、今はもう問題ないです。……兄は悪くないんです。……私自身の、問題だから……」
うつむいたとき、ぽん、と頭に温かなものがふれた。
そのままふわふわとなでられる。
「あまり抱え込むと、だめになるぞ。……話してくれてありがとう」
穏やかな声と優しい手つきに、思わず視界がゆがんだ。
顔を上げられず、私はかすれた声で続けた。
「……私は、泳げる皆が羨ましい。
だから、自分勝手な気持ちなのは分かってるけど、悩んでいる皆は見たくないんです。
自由に泳いでいてほしいんです。
……でも、私に何ができるか、どうすればいいのか、分かりません」
尚先輩は、ただ黙って聞いてくれた。
それがよけいに胸を詰まらせて、私は涙をこぼした。
***
顔を洗い、ジャージから制服に着替えてからプールを出る。
ハルたちのところへ行こうとしたとき、名前を呼ぶ声とともに駆け寄ってくる2人がいた。
「蒼!一緒に帰んない?」
司と爽香だ。
思わず真琴とハルを見やると、2人は「いいよ」と言う代わりにうなずいてくれた。
「バスケ部と調理部終わる時間が重なってね、だったら水泳部も迎えに行こうかってなった!」
「……部活、どう……?」
「……ちょっと、大変かもしれない」
今までのことをかいつまんでハルたちがバラバラなことを話し、私は2人に聞いてみた。
「……どうしたらいいと思う?」
「……むつかしい!」
「だよな……」
両手を頭の後ろに当てて考え込む司。
爽香も難しそうにしぶい表情をしていた。
「あたしもあったよ、チーム内でもめごと起きるの。皆の気持ちがかかってるから、解決させるのがむつかしいんだよねー……」
「そうなのか……」
私個人の気持ちだと、リレーを泳いでほしいと思ってる。
いろんなこと、大変なこともあった上で、冬のあのリレーは輝いていたから。
あの4人だからできたのかもしれない。
でも、それじゃ少し寂しい気がするのだ。
あの瞬間が1つだけなんて、何だかもったいない気がして。
そのとき、とんと軽い調子で爽香がぶつかってきた。
意外な行動に思わず目を丸くすると、少し恥ずかしそうにした後に爽香は言った。
「……蒼ちゃんは、頑張ってる。……だから、きっと大丈夫」
"私は、そう思ってる"
小さな応援と話を聞いてくれる存在に、何だか少し前向きになれる気がした。