優しいキスをあなたに
仕事と片付けを済ませ、挨拶をしてから職場を出る。家に帰ったら、隼飛と私の夕飯の準備をしよう。今日はお風呂も早めにすませちゃおうかな。
なんてったって明日はお休み。隼飛と一緒にゆっくり過ごすぞ〜!
何てウキウキとスキップしそうだった気持ちは、会社の出口付近にいた人物のせいで、儚く砕け散った。
「奇遇だなー、今帰りか?」
「あ、はい。お疲れ様でした」
「明日休みだろ? 俺も休みなんだよー。せっかくだし飲みに行かね? 俺、いい店知ってんのよ」
「すみません。今日は予定があるので……」
「いいじゃんちょっとくらい。相変わらずツレないなぁ。そんなとこも可愛いけど。最初からデレてる子よりちょっとツンとした子の方が可愛いよね」
いや先輩の趣味なんて知りたくないです。そそくさと通り過ぎると、後ろから追いかけてくる足音がする。
「あ、そうだ。明日空いてたら、一緒にドライブ行こうぜ。いい景色のとこ見つけたから、君を助手席に乗せて、連れていきたいってずっと思っててさあ」
「すみません、明日も予定が入ってて」
苦手な人と一緒に、逃げ場が無い車に乗って、知らない遠くの場所まで連れていかれるなんて考えられない。そんなことのために、隼飛との時間を奪わないでほしい。
自然と足も口調も早くなる。それに気づいているのかいないのか、先輩はへらへらと話しかけてくる。
「家ってこの辺なの? 女の子の1人歩きは危ないし、このまま送ってくよ」
「大丈夫です。1人で帰れます」
「そんなこと言わずにさー。俺もっと君と一緒にいたいんだよ」
「すみません。今日は疲れたのでゆっくり1人で休みたいんです」
もう休み明けに、出るとこ出てやろうかな。頼もしい同僚たちの顔を思い浮かべながら、私はパンプスのかかとを小刻みに鳴らすように進む。いっそパンプスを脱いで走りたい。
オートロックのマンションだから、先に鍵を開けて入りさえすれば、向こうは入ってこられない。家を知られるのは困るけど、仕方ない。もはや小走りでマンションに向かうと、共用エントランスから小さな人影が出てきた。
「えっ」
ぱたぱたと軽やかな足音がして、人影が私にぎゅっと抱きつく。
「隼飛!?」
何でここに、と思ったけど、私を見上げてふわっと微笑む顔が可愛くて、思わず頬が緩む。「ただいま〜」と彼の頭を撫でていると、突然肩に手を置かれ、後ろにぐいっと引かれた。
「え、子ども!?」
先輩が、私の肩口からのぞき込むように、隼飛をまじまじと見下ろしている。無駄に近い距離に鳥肌が立って、私は数歩離れた。先輩の視線から隼飛を隠すように、彼を抱き寄せる。
「えー、君って子どもいたんだ。結婚してないよね? 何か意外ー」
「いや、この子は」
「まあでも、それなら俺にもチャンスあるか。ごめんね、ボク。お母さんはこれから俺とデートだから、いい子におねんねしてるんでちゅよー」
「は!? ちょっ、ちょっと離してください! 痛い!」
ふざけたような赤ちゃん言葉を使いながら、先輩が私の腕を強く引く。無理やり連れていこうとする気配を感じて、ゾッとした。振りほどこうにも、ほどけない。
「離してくださいってば!」
今まで積もりに積もった苛立ちが、そのまま大きな声になる。そのとき突然、腕が解放された。
何が起きたか分からない。先輩が腕を押さえてうめいていて、私を守るように隼飛が立っている。隼飛を見下ろして、先輩が不機嫌そうに顔を歪めた。
「このガキ……! 邪魔すんな!」
「隼飛! 危ない!」
嘘でしょこの人。自分より小さい子相手にガチギレしてる。隼飛を引き寄せようと手を伸ばしたとき、隼飛が動いた。
掴みかかろうとした先輩の手を、するりと流れるようにかわす。更に合気道やカンフーを思わせる動きで、何度も相手をいなす。
軽やかでなめらかな動きに、思わず見とれた。うちの子、お強い。まるで先輩が勝手に転んでるみたいだ。
地面に転がって、顔を赤くしながらわめいている先輩は、とても私より歳上には見えなかった。
やがて諦めたのか、先輩が捨て台詞を吐きながら逃げていく。正直スカッとした気持ちで少し見送った後、隼飛の方に何気なく視線を移す。
傷1つ無く、汗1つかいていない。ドールだからかな、と思ったとき。私は彼の目を見て、息を呑んだ。
普段の彼からは想像もつかないほど、冷たい目。ひんやりしたナイフみたいな眼差しで、先輩の背中を見つめている。完全に視界から消えるまで待つように、じっと。
「……隼飛!」
呼び戻すように名前を呼ぶと、隼飛がパチッと瞬きをして、こっちを向く。そして、しゃらっとピアスを揺らして、いつも通りの笑顔を浮かべた。
隼飛がこんなに怒るの、初めて見た。
私のために、こんなに怒ってくれたのかな。
「助けてくれて、ありがとう。あの、もしかして隼飛って……。私のこと、すごく大切に思ってくれてたり……する?」
今まで、ちょっと自信が無かった。私はちゃんと、彼にとっていい持ち主なのかって。愛情は誰より注ぐ自信があるけど、その通りなのか決めるのは隼飛だ。
さっきの彼の怒りを見て思う。彼が持つのはきっと、穏やかな感情だけじゃない。怒りたいときは、ちゃんと怒る子だ。そんな彼が、私の前でいつも笑顔だったのは……。私といるのが、それだけ嬉しかったって、思っていいのかな。
隼飛がきょとんと瞬きをし、仕方ないなあと言うように笑う。それから私の片手を取り、彼の頬をくっつけてきた。
どこも荒れていない、すべすべの肌。内側からほのかに光るような珠の肌。ドールが美しいのは、持ち主の愛情がしっかり注がれている、何よりの証拠。
――心外だね。今、気づいたの?
どうしてだろう。ふれ合う温もりから、彼の想いが伝わってくる気がした。
――大切に思わないわけ、ないじゃないか。
――だって君は、オレのことを、こんなに大切にしてくれるのに。
くいくいと袖を引かれ、彼と目線を合わせるようにしゃがみ込む。隼飛は軽くつま先立ちをして、私の唇にやわらかなキスをしてきた。愛されていると分からせてくるような、優しくて長めのキス。
頬を熱くさせる私を見て、隼飛がいたずらっぽい微笑みを見せる。初めて見せるその顔からは、まるで、正解に誘導する先生のような余裕を感じた。