春待つ桜は愛を知る
きっかけは、1枚の紙だった。
その紙が来てから、手紙や、こいつの写真が家に届けられるようになった。書いてある内容はよく分からねえけど、こいつがその手紙を怖がっていることは、分かった。
手紙が届く音がする度に、顔が強ばって、ビクッと肩が揺れる。げんなりした顔で内容を読んで、ファイルにすっとしまい込む。それから、知らないヤツらに相談をして、困ったようにため息をつく。
腹が立った。姿を見せずに、こいつから笑顔を奪うヤツがいることに。
それ以来、手紙が届く音がした瞬間、オレはすぐさま見に行くようになった。こいつを怖がらせるのは、紙でも見過ごせない。
「ありがとう、遥」
オレの頭を撫でてくるこいつが、少しでも笑ってくれるなら。元凶を殴り飛ばせないことがもどかしくても、オレのやるべきことをやる。そう決めた。
***
その日は、いつもより帰りが遅かった。
手紙が来なくなって、あいつの笑顔が前みたいに戻ってきた頃。時計の短い針が2つ分動いても、「ただいま」の声が聞こえない。
何かあったのか。そう思っても、家を勝手に出られないオレは、玄関をそわそわしながら歩き回るしかない。あぐらをかいて唸ったとき、やっと鍵が回る音がした。
よかった。帰ってきたのか。そう思って顔をぱっと上げると、へろりとオレを見て笑うあいつがいる。
その後ろに、知らない野郎がいた。
「!」
無抵抗の相手をいたぶる獣のような目で、あいつを見下ろしている。仕事終わりのあいつと違って、さっきまで自分の部屋にいたかのような服装だ。本能が警報を鳴らし、オレはダンッと強く床を蹴った。
あんな目をするヤツを、あいつが客として連れてくるわけない。野郎の手があいつに届く前に、顔面に飛び蹴りを食らわせる。潰れたような悲鳴をあげて、野郎は吹っ飛ぶ。オレは拳をきつく握り、野郎の顔面に勢いよく打ちつけた。
オレにとって大事なヤツを、傷つけようとするな。壊そうとするな。奪おうとするな。
手紙を届けてきたヤツへの、積もった怒りも加わって、マグマのような怒りが全身を駆け巡る。
「遥! ダメ! 過剰防衛になる!」
慌てたような必死な声が、オレの名前を呼んだ。細くて柔らかな腕が、オレを後ろからしっかり抱きしめ、野郎から引きはがす。あやすように揺らされているうちに、オレはじたばた暴れるのをやめていた。
モヤが晴れたように、目の前がよく見えてくる。腫れ上がった顔の真ん中から血を流して、野郎は伸びていた。
こいつ、ビビったんじゃないか。
いきなり男をボコボコにしたオレを見て、こいつがどう思うかなんて、考えてなかった。血の気が引いて、こいつの様子をそっと見ると、こいつはどこかに電話をかけていた。
やがて野郎は、到着した白い車に運ばれていった。それから、あいつが相談していたヤツらに説明をし終わって、やっと家の中に戻る。
いつも寝てる部屋にたどり着いたとき、あいつがへたりこんでしまった。
「!?、!!」
どうしたんだ。どっか痛ぇのか。うろたえながら顔をのぞき込むと、こいつの目からぽろぽろと雫が流れ出す。オレのことが怖くなったのか? と焦ったとき、こいつが震え声で言った。
「ご、めん。……なんか、はるかの顔っ、みたら。安心、してっ」
ぎゅっと抱きしめられ、また顔が熱くなる。でもこいつが、声を詰まらせて泣きながら震えているから、顔の熱はだんだん引いていった。
「たすけてくれて、ありがとう……!」
こいつのことを守れた、という想いが、ビビる気持ちを溶かしていく。こいつがいつもオレに、してくれてるのを思い出しながら、オレはこいつの背中を軽く叩いたり撫でたりした。
こいつは、オレの心を守ってくれた。
だからオレは、こいつの全部を守りたい。身体も、心も、笑顔も、全部。
風呂に入って落ち着いてから、オレが飲むミルクの準備をする、こいつに近づく。少しでも元気になってほしくて、オレとこいつの分のマグカップを持っていくと、こいつはオレのやりたいことに気づいてくれた。
火にかけられてかき混ぜられ、ゆらゆら揺れる真っ白なミルクを、隣でながめる。肩や腕がくっつくくらい近くに座って、出来上がったミルクを飲む時間は、温かくて甘くて、ほっとした。
「幸せ、だね」
隣から降ってくる言葉に、素直に頷く。これが"幸せ"ってやつなんだと、オレにも分かってきたから。
その夜、夢を見た。
豊かな陽だまりの中、桜の花びらが辺りを埋めつくすほど咲いている。そんな場所で、あいつと並んで歩いていた。
「桜の花にさらわれないようにね」
そんなことをあいつが笑って言うから、オレは伸ばされた手を、しっかり握り返す。花なんかに連れていかれないように。柔らかな温もりを離さないように。
「お前に会えて、よかった」
伝えなきゃいけないと思った。いつもは言葉を使えないから、今この瞬間だけでも、自分の気持ちを正直に話したいと思った。夢の中だから、こいつにちゃんと伝わるか分からない。でも、今言わなかったら、一生伝えられない気がした。
「……オレが、お前を守る、から」
照れくさくても、目は逸らさない。あいつはちょっとだけ目を見開いて、花がふわりと開くみたいに笑った。嬉しそうな、幸せそうな、愛おしそうな、甘い笑顔。そっと抱き上げられ、温かさでくるむように抱きしめられる。
――いつもありがとう。これからもよろしくね。
木の隙間からこぼれる、光みたいな声が聞こえた。
抱きしめ返しながら、オレは猫がするみたいに、鼻の辺りをこすりつける。くすぐったそうな笑い声を聞きながら、オレは安心して目を閉じた。
目を覚ますことは、もう怖くなかった。