春待つ桜は目を覚ます


その後、しばらく謎の手紙は途絶えた。
警察の人からは、「何かあったらいつでも連絡してください」と連絡先を渡されているし、家には遥もいてくれる。そんな安心感を抱き始めた日、私はいつもより遅い時間に帰っていた。

「残業してしまった……」

家に帰ったら、遥のミルクを温めないと。メイクも落としてご飯を食べて、お風呂入って、遥とのんびりしよう。やることたくさん。パンプスのかかとをカツカツ鳴らしながら歩いていた。

何事も無くアパートにたどり着き、鍵を回してドアを開ける。玄関にいた遥に「ただいま」を言う代わりに、へろりと笑みがこぼれた。

その瞬間。

「!」

威嚇する野生動物のように、遥の瞳孔が開く。初めて見る彼の表情に戸惑ったとき、遥がダンッと床を蹴って飛び上がった。とっさにしゃがむと、遥は玄関の上を掴んで振り子のように外へ飛び出す。

「ブヘアッ!?」

重い音と、潰れたような悲鳴。慌てて振り返ると、地面に仰向けに転がる男の人に馬乗りになって、ボカボカ拳を振るう遥がいた。

え。あの男の人、誰。いつの間に背後に。それより遥。危ない。いや危ないのは向こうか? プランツドールって意外と血気盛んなんだな。てか意外すぎるくらい力が強い。いやそうじゃない。

頭の中で情報が処理しきれず、呆然とその光景を眺める。ハッとした時、私ははじかれたように遥に駆け寄っていた。

「遥! ダメ! 過剰防衛になる!」

小さな体を後ろから抱きかかえ、歯をむき出しにして唸る彼をなだめるように揺らす。男の人はすっかり伸びていて、鼻から血を流して白目をむいていた。

とりあえず遥を抱えたまま、警察に通報する。知らない男性は救急車で連れて行かれ、私は警察の人に事情を説明することになった。


「それにしても驚きました。僕てっきり、プランツドールって愛玩用だと思ってたんですよ。護身用のもあるんですね」
「いや多分この子が特別なだけです」


***

部屋に帰って鍵を閉め、ドアチェーンもちゃんとかかっていることを確認する。リビング兼寝室にたどり着いた時、私はぺたんとへたりこんだ。

どっと疲れた……。

遥がおろおろしながら、私の顔をのぞきこんでくる。それを見た時、私の目から涙が溢れてきた。

「!?、!!」
「ご、めん。……なんか、はるかの顔っ、みたら。安心、してっ」

更におろおろする遥を、腕を伸ばして抱きしめる。今になって、体がかたかた震える。遥がいなかったら、私は今頃どうなっていただろう。考えたくない。

これまで、私が守らないと枯れてしまう、儚い子だと思っていた。
でも、こんな小さな体で、私を守ってくれた。
この子はこんなに強くて、勇敢で、優しい子だったんだ。

「たすけてくれて、ありがとう……!」

ぐしゃぐしゃの顔と声で、何とか感謝を伝える。おずおずと彼の手が背中に回り、とんとんと軽く叩いたり、そっと撫でたりしてくれた。いつも私が、遥にしてるみたいに。

それがやけに心に染みて、私は余計泣いてしまった。



「うわぁ、顔どろどろ。遥も服に返り血ついちゃってる。もう今日は一緒にお風呂入ろっか」
「!?!?」
「嫌か。ごめん」

ぷしゅうと湯気が出そうなほど真っ赤っかな顔で、遥は首を勢いよく横に振った。首取れない? 大丈夫? 人形も恥ずかしがるんだな。

2人共さっぱりしてから、遥のミルクを用意する。分量を計っていると、遥がマグカップを2つ持ってきた。自分のやつと、私のやつ。

「一緒に飲もうってこと?」

そう聞くと、こくりと彼は頷く。やだうちの子優しい。好き。せっかくなので栄養価が高いと噂の、プランツドール用のミルクをごちそうになることにした。

ミルクをいつも以上に気をつけて、丁寧に温める。出来上がったミルクをカップに注ぎ、2人で飲んだ。

息をふきかけて口に含む。まろやかでほんのり甘くて、とても、とても美味しい。いつも飲んでいるものと似てるのに、何かが決定的に違う。これはお値段も高くなるわ。

遥と並んで寄り添って、ぽかぽかのミルクを飲む。夕飯は何も食べていないのに、不思議とお腹も心も満たされていた。

「幸せ、だね」

白黒のつむじに声をかけると、こっくりと確かに、頭が縦に揺れる。

カップを洗って、2人で布団に潜り込む。その夜見たのは、花びらで地面が埋まるほど桜が咲いている場所を、遥と散歩する夢だった。桜の花にさらわれないように、なんておどけて、手を繋ぐ。

――お前に会えて、よかった。

まだあどけなさが残る少年の声が、ぶっきらぼうな優しさを込めて、聞こえた。

――……オレが、お前を守る、から。

その言葉が、嬉しくて、愛しくて、目を開けた。まだ静かな寝息を立てている遥を、包むように抱きしめ、ささやく。

「いつもありがとう。これからもよろしくね」

朝日が登り、新しい今日が始まる。
大切な家族と、私は今日も生きていく。
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