蝶よりも、花よりも
お互いを思いやる生活が日常になった頃。私は会社を出て、自宅への道を帰っていた。
明日はお休みだから、三輝の踊りを見せてもらおうかな。この前テレビで日本舞踊を見た影響か、三輝はいつの間にか舞踊を覚えて、私に披露してくれるようになった。
すり足を使いながら、しなやかでやわらかな動きで舞う姿は、何度見ても飽きることがない。首筋を伸ばして軽く曲げる動作には、どこか上品な色気を感じるし、扇子の扱い方も優雅だ。彼の踊りを見ていると、花や月を眺める情景が鮮やかに浮かぶ。それくらい表現力が高くて、美しい。
軽やかにパンプスのかかとを鳴らしながら帰る途中、私はふと足を止めた。気のせいかもしれないけど、最近誰かに、後をつけられている気がする。周りを確認してから、私はまた歩き出した。
大丈夫。家に帰って鍵を閉めちゃえば、誰も入ってこられない。早く帰って、三輝の顔が見たい。自然と足を早めたとき、後ろで微かに、誰かの足音が聞こえた気がした。
ようやくドアの前につく。背後を確認してから、鍵を取り出そうとすると、走るような足音が近づいてきた。びっくりして顔を上げると、帽子を深く被った男の人に、腕を掴まれる。
「やっと見つけた! こんなところにいたのかよ!」
帽子の下から現れた顔を見て、思わずヒッと息を呑む。そこにいたのは、元カレだった。
「さんざん探したんだぞ。早く帰ろう」
「……や、嫌、離して」
「ちゃんと話し合おう。いきなり居なくなったから、びっくりしたんだぜ」
話し合うって何。いつも私の話は聞いてくれなくて、自分の考えばっかり押し付けてきたくせに。どの口が言ってるの。
「……話なら、私、別れたいって言ってるよね。聞いてくれなかったのは、あなただよね」
「納得できるわけないだろ!」
ドンッと拳でドアを叩き、元カレが私を壁際に追い込む。大声を出されて、私はビクッと体が跳ねた。
「お前オレのこと好きだろ? 何で別れたいなんて言うんだよ!」
「……もう好きじゃないよ」
「は!?」
腕を掴む手に力を込められる。痛い、けど、言わなきゃいけない事がある。見下ろしてくる元カレを見上げ、私は冷めきった心のままに口を開いた。
「……もう私に関わらないで」
元カレがぐっと唇を噛む。それから、私を睨みつけ、唸るような声で言った。
「他に男でも見つけたのかよ」
「……」
三輝のことを、彼なんかに教える必要ない。そう思って口を閉ざすと、元カレは乱暴に私を引っ張った。無理やり連れていく気だ。そう察して、ゾワッと鳥肌が立つ。
「痛い! やめて、離してよ!」
「うるせぇな!」
そのとき、バンッとドアが開く音がした。振り返ると、小さな人影が駆け寄ってきて、元カレの腕を叩き落とす。解放された私を庇うように立ちはだかったのは、三輝だった。
「三輝……!」
元カレの怒りの矛先が、三輝に向かう。三輝を守ろうと手を伸ばしたとき。三輝が元カレを、掌底で吹き飛ばした。
うそ。あの体格差で、あんなに勢いよく吹っ飛ばせるものなんだ。 元カレも地面に転がったまま、唖然としている。やがて元カレの表情が、怯えたようなものに変わり、あたふたと逃げ出していった。
初めて見た三輝の強さと、あっけなく去る元カレの後ろ姿に、目が点になる。
三輝がくるりと私の方を向き、両手で軽く私の手を引く。心配そうに私を見上げて、部屋の方へ誘導しようとするので、私は部屋の鍵を開けた。
「助けてくれてありがとうね、三輝」
戸締りをして、リビングで人心地が付く。三輝の猫っ毛の髪を撫でると、三輝は気持ちよさそうに目を細めた。その表情が可愛らしくて、ぎゅっと抱きしめる。
彼を抱きしめていると、複雑な気持ちが、ふんわりほどけていく。絡まれて怖かった気持ちとか。私には高圧的だったのに、三輝にあっさり倒されて、逃げ出した元カレの姿に対する残念な気持ちとか。自分の見る目の無さに、落ち込む気持ちとか。
「……本当に、ありがとう」
心からの感謝を、三輝に伝える。すると、三輝が私の背中に両手を回した。
――どういたしましてー。
――もう怖い思いや辛い思いなんて、させないからね。
ゆるくてふんわりした声が、私に届く。彼の想いが嬉しくて、私は彼の髪を優しく撫で、その頭にそっとキスを落とした。
三輝はぱちりと瞬きをして、頬を淡いバラ色に染める。袖で口元を隠して、はにかみながら笑うのは、初めて見る表情だった。
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