蝶よりも、花よりも



私のことを知っている人が、誰もいない街で、一人暮らしを始めた。

素朴で気さくな人たちがいる、温かい場所。自由で平穏な暮らしを手に入れた私は、のんびり商店街で買い物をしていた。精肉店や青果店、駄菓子屋さん等が並ぶ、ちょっとレトロで懐かしい商店街だ。

お店で買ったパイシートやシナモン、夕日色のリンゴをエコバッグに入れて、通りを歩く。明日はアップルパイを焼こう。シナモンはちょっと多めにして。自分の好きな味にできるって素晴らしい。

軽くハミングしながら、足取り軽く進んでいたとき。りん、と涼やかな音がした。澄み切った音色に惹かれ、辺りを見回す。右を向くと、建物に挟まれた路地が続いていた。

いつもは気にしていなかった場所が、妙に気になり出す。私を誘うように、また音が聞こえた。

「……行ってみようかな」

ちょっと遅くなっても、待たせる人はいないから大丈夫。肩にかけていたエコバッグの持ち手を握りしめ、私は路地の方へ足を向けた。

細く入り組んだ道を、わくわくしながら進んでいく。秘密の場所を探して探検していた、子どもの頃を思い出した。この先には何があるんだろう。何も無くても、一本道を引き返せばすぐ戻れるね。

そう考えているうちにたどり着いたのは、レンガ造りの建物だった。小さくて可愛い花がたくさん集まって咲いていて、壁に黄色と緑のベールをかけているみたい。温かな色合いのランプが灯っていて、その下には1つの風鈴がぶら下がっていた。

指先でちょんとつつくと、りん、と高く軽い音が鳴る。思わず頬を緩めながら、私は改めて、絵本に出てくるようなお店を眺めた。

ここは何のお店だろう。好奇心に抗えず、アンティークのようなドアを思い切って開けてみる。まず目に飛び込んできたのは、綺麗な人形たちだった。

「はわ……」

ため息をつきながら中に入る。美少年の人形たちが、眠るように目を閉じて座っているのは、なかなか圧巻だ。着ている服も、安売りを許さないような威厳を感じる。お金持ちの人しか入れない場所なのかな。

心配になりながらも、その場を離れるのが惜しくて、つい店内をうろついてしまう。その中で、引き寄せられる磁石のように、私は1体の人形の前で足を止めた。

その子は、とても中性的な人形だった。細いピンでアレンジが施された、柔らかそうなベビーピンクの髪。ほんのり緑がかった白い着物に、えんじ色の袴。肩から軽く落とすようにして、緩く羽織っているのは、花車と手毬が描かれた可愛らしい着物だ。なんかいい匂いする。

雅なお姫様にも見えそうだけど、眉の辺りや唇の下、そして耳にたくさん開けられた銀色のピアスにギャップを感じる。奥深い魅力に見とれていると、その子のまぶたが震え、ぱちりと開いた。

ペリドットをはめ込んだような目が、私を見つめる。そして、待っていた人をやっと見つけたように、ふわりと柔和な笑みを浮かべた。

「……」

びっくりして腰が抜けた。ぺたんと座り込んでしまった私を見て、彼はきょとんとしたように目を丸くする。そしてすぐに椅子から降りて、私に小さな手を差し伸べた。

「あ、ありがとう……」

下からすくうように私の手を取り、立つのを手伝ってくれる。小さな紳士と呼ぶべきスマートな振る舞いに、ちょっとドキドキしてしまった。

「いらっしゃい」

後ろから明るくかけられた声に、ビクッと体が揺れる。振り返ると、さらさらの髪の大人っぽい女の子が、奥の部屋から出てきたところだった。高校生かそれ以上に見えるけど、バイトさんかな?

「あら、起きたのね」

少女が視線を下げて言う。私ではなく、人形の少年に話しかけたらしい。彼は私の手を軽く握ったまま、にこっと嬉しそうに微笑んだ。

「あの、ここは何のお店なんですか? あと、この子は一体……」
「説明するわ。そこに座って」

少女が楽しそうに口元を緩め、ヴィンテージのような椅子を指さす。そこに近づくと、人形の少年が、座りやすいように椅子を引いてくれた。優しい。

「ありがとう」

お礼を言うと彼は、どういたしまして、と言うように微笑む。こんなに丁寧に扱われるのは初めてだから、何だかくすぐったいな。背もたれが楕円形の椅子に腰かけると、少女がコーヒーを持ってきてくれた。

「ここはプランツドールを扱う店なの。プランツドールのことは知ってる?」
「えーと、名前だけ聞いたことがあります」
「プランツドールは、生きる人形よ。普段は眠っているけど、持ち主を選んだときに目覚めるの」

改めて彼を見下ろすと、穏やかな微笑みを唇に乗せた彼が、見つめ返してくる。彼が目覚めたということは、彼が私を持ち主に選んだ、ということだろうか。

「その子は三輝。"名人"の称号を持つ桐生家が、丹精込めて育て上げたドールよ」
「……お、お高そうですね……」
「お値段はこのくらいね」
「……あれ、思ってた程じゃない……?」
「いろいろあって戻ってきた子なの」

こんなに綺麗で優しいドールなのに、何があったんだろう。値段だけ見たら、やっぱり高めだけど、払えない額じゃない。

「あの、私が買わなかったら、この子はどうなるんですか?」
「愛情不足で萎れて、いずれ枯れるわね。プランツドールはミルクと砂糖菓子、あと持ち主から得られる愛情で育つドールだから」
「枯れる、ってことは……」
「ドールの死を意味するわ」

残念そうに少女が眉を下げる。残酷な現実に一瞬呼吸を忘れた。三輝と呼ばれたドールをそっと見ると、ほんのり期待のこもった眼差しが返ってくる。一緒にいたいな、連れて帰ってほしいな、と雄弁に伝えてくるようだ。

1人だった生活に、誰かが入り込むこと。最後まで面倒を見る責任が生まれること。それら全てを考慮したうえで、私は決断した。

「……買います」

前はこんな高い買い物したら、絶対に怒られてたな。そう思いながら支払いの手続きをして、必要なものを受け取る。いつの間にか三輝も、自分のものらしいカバンを持っていて、私の方にすっと手を差し出してきた。

彼の手を握り返すと、彼は私をエスコートするように歩き出す。あまりにも自然で気づくのが遅れたけど、彼は私のペースに合わせて隣を歩いてくれていた。王子様かな。
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