世界でいちばん安らぐ場所



「蓮、今日はお出かけしようか」

窓の向こうに広がる世界。テレビに映る、見たことのない景色。それらに見入っていたからか、こいつはオレを外に連れ出してくれるようになった。

賑やかな場所。魚や生き物が集まった、人工的な水の世界。たくさんの木や花が植えられた温室。店がいくつも並び、明るい人の声が飛び交う街。1つずつ、オレの中に、新しい世界が増えていく。

「あれはネジバナ。これはタイサンボクだよ」

こいつは、道端に咲いている草花の名前も教えてくれた。ピンク色のビーズを繋げたような花が、くるりと巻きついている植物。人の顔くらいありそうな、大きくて白い花を咲かせる木。

知識と小物が、少しずつ溜まっていく。オレとこいつが出かけた日の証。それらは些細なものかもしれないけど、オレの目には宝のように、きらきらと光って見えた。

「蓮、今日はどこに行こうか」

任せる。お前となら、どこでも、きっと楽しい。そう伝えたくて、オレを抱えるこいつに、体を預ける。すると、こいつは小さく鈴を転がすように笑って、オレを抱きしめた。

***

「プランツドールってのは金持ちが持つもんだろ? 売っぱらえば、いい小遣いになりそうだ」

家に帰る途中のことだった。性根が腐っていそうな3人の男たちが、道を塞ぐ。ヤツらはプランツドールについて、あまり知識を持ってないらしい。中古のドールを売り飛ばしても、新品と比べたら大した値にはならないのに。

オレをしっかり抱え直し、こいつが走り出す。足を踏み出す度に、オレの体が揺れた。いつもと違う景色を、いくつも通り過ぎていく。

呼吸が苦しそうなものに変わっても、腕の力は変わらない。こいつの服を掴んでくっつきながら、目を閉じたとき、体が傾く感覚がした。

こいつの腕越しに、倒れる衝撃が微かに伝わる。それから、男が怒鳴る声。体がビクッと強ばり、冷や汗が背中を伝う。バシッと何かを叩く音と、こいつがうめく声が聞こえた。

「このアマ、手間かけさせやがって!」
「ッ」

目を開けると、頬を赤く腫らしているこいつが見えた。歯を食いしばっているけど、目の縁に薄く涙がにじんでいる。

――バチ、バチッ、と火花がひらめいた。

ずっと見ていなかった光を抑えようと、きつく目を閉じる。それでも火花は消えない。狂いそうなほど凶暴な感情が、体を起こし、牙を剥こうとする。

――許せない。

こいつを泣かせたヤツが。
こいつを傷つけたヤツが。
何より、こいつを危険に晒した、オレ自身が。

「さっさと渡してれば、痛い目を見ずに済んだんだぜ?」

オレを男たちに差し出せば、傷つかずに済むのに、こいつはオレを守るように抱きしめている。震えながら、絶対に離さないというように、強く。

「あと数発殴るか。そうすりゃ大人しくなるだろ」

そうはさせない。オレが、こいつを守る。
白い閃光が、視界を覆いつくした。



――ごめんね。
――だいじょうぶ。
――こわくないよ。

チリチリと震える鈴のような、静かな声が聞こえる。ハッとしたとき、オレは細くてやわらかい何かを噛んでいた。髪を撫でられる感触に、心が凪いでいくようで、オレは口を離す。

「大丈夫。怖くないよ」

ささやく声が聞き馴染んだもので、血の気が引いた。目の前には、さっきの男たちがぐったりと倒れている。じゃあ、オレを後ろから抱きしめているのは。オレをなだめてくれていたのは。オレが、さっきまで、噛んでいたのは。

「蓮、落ち着いた……?」

そっと体を反転させられる。心配そうにオレの顔をのぞき込みながら、こいつは息を呑んだように見えた。

「……ッ、……ッ」

傷つけてしまった。こいつはオレを受け入れて、守ろうとしてくれたのに。

今まで見てきた、背を向けて離れていく姿。その様子に、こいつの背中が重なる。あんな姿を晒して、こいつが側にいてくれる訳がない。

「……蓮、こっち見て」

こいつの視線から逃げるように、うずくまろうとする。両肩に手を添えられるけど、気にする余裕は無かった。拒絶されるのが怖くて、パーカーのフードを深く被る。

「ごめん。私が不用意に連れ出したから、蓮に嫌な思いをさせた」

何で、お前が謝るんだ。お前は何も悪くないのに。悪いのは、自分を抑えられなかった、オレなのに。懸命に首を横に振ると、信じられない言葉が聞こえた。

「本当にごめんなさい。それから、守ってくれて、ありがとう」

顔を上げると、真正面からオレを見つめているこいつがいた。真っ直ぐな、真剣な目には、拒絶も怯えも全然見えない。赤く腫れた頬と、腕に残る歯型が、痛々しかった。

こいつがこれ以上、痛い思いをしないように。指先でかするように、その傷跡を撫でる。歯型には、うっすらと血がにじんでいた。

――……オレのこと、まだ側に置いてくれんのか。

「当たり前だよ」

オレは、お前を傷つけたのに。そんな不安を取り去るような、はっきりした声が応えた。

「私はあなたの持ち主で、家族なんだから。病める時も健やかなる時も、側にいるよ」

視界が揺れて、ぬるい水に包まれる。ぽすりとこいつの肩に頭を押しつけると、ぎゅっと抱きしめられた。

もうほかに、なにもいらない。
世界でいちばん安らぐ場所で、オレは心の底から、そう感じた。
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