春待つ桜は目を覚ます


それから、遥との生活が始まった。

朝はまず、遥が飲むためのミルクを温める。膜が張ったり焦げ付いたりしないように、ゆっくり丁寧に。店員の少女によると、目安は人肌くらいらしい。

マグカップに注いであげると、遥はカップの取っ手を持って、1口飲む。すると目がぱっと見開かれ、頬がほわっと薄紅色に染まる。それからこくこくと夢中で飲み干し、桜のつぼみが綻ぶように小さく頬をゆるめるのだ。

その柔らかな表情が見られるのは短い時間だけど、初めて見た時はびっくりしたしときめいた。え、君そんな顔できるんだ。可愛い。守りたい。一生かけて絶対守る。

飽きもせずそんなことを考えながら、自分の朝ごはんを作っていると、カップを持った遥がそろそろと近づいてくる。カップをシンクに置いてから、私の後ろを行ったり来たり。それから隣に立って、ひょこひょこつま先立ちをした。

「料理、気になる?」

白黒のつむじに声をかけると、そんなこと無いと言わんばかりに、ぷいっとそっぽを向かれる。耳が赤いの隠れてないんだよなあ。

炊飯器からご飯を盛り、フライパンからお皿にベーコンエッグを移す。電気ケトルで沸かしたお湯で、インスタントの味噌汁を入れ、りんごを4等分にすれば、私の朝食が完成した。

「最近、物騒なニュースが多いねえ」

塩コショウで味付けしたベーコンエッグを、お箸で1口サイズに切りながら、テレビをチェックする。強盗、殺人、横領。どこかで誰かが、悲しいことをしている。

ちょっと離れた隣で、遥は睨むようにテレビを見ていた。お味噌汁を飲んでから、私は腕を伸ばして、遥の頭をそっと撫でる。

「大丈夫だよ。遥は私が守るからね」

そう言うと、遥は私を見て、ぶわっと顔を赤くした。デザートのりんごの皮より真っ赤だ。子ども扱いするなと抗議するように、私の手をペッチペッチと両手で叩いてくる。

「ごめんごめん」

謝りながら手を引けば、遥はつんと唇を尖らせた。何でこの子、こんなにも照れた顔が可愛いんだろうね。愛を込めてかまいたくなるけど、ダル絡みはしたくないから我慢しないと。

食べ終えた食器を片付け、洗った洗濯物を干す。それから薄くメイクをし、オフィスカジュアルな服に着替えた。

「それじゃあ遥、いい子でお留守番しててね」

何も言わないし手を振ることも無いけど、遥は違う色の目でじっと見送ってくれる。今日も一日頑張ろう。その気持ちで、私は笑顔で言った。

「行ってきます!」

***

「何か最近いきいきしてるね」
「ペットでも飼い始めた?」

会社では同僚にそう聞かれるほど、私の日々は充実していく。
前は読書に夢中になって、夜更かしをしたり、ご飯を適当に済ませたりすることもあった。でも、遥がいることで、決まった時間にご飯を食べ、お風呂に入り、眠るようになった。

何より疲れていても、家に帰れば遥がいるのが、かなりの癒しだ。

家でゆっくり過ごすときに、本を読んでいると、遥が興味を持ったように寄ってくる。ただ、細かい字が並んでいるのは苦手なようで、しおしおに顔をしかめていた。

愛情を注ぐ一環として、手持ちの絵本を読み聞かせてみると、妙にバトルシーンに集中していた。
今のところ、読んでほしそうに持ってくる回数が多いのは、『三びきのやぎのがらがらどん』。情操教育に良いかと聞かれれば、何とも言えない。

あとは『スイミー』。1匹だけで小さな魚たちを飲み込んでしまうマグロを、じっと見ていたり。スイミーが指揮を執って小さな魚たちを集め、みんなで大きな魚みたいに泳ぐシーンを眺めていたり。何か思うところがあるみたい。

遥と一緒に過ごすうちに、ゆっくりと変化が生まれていく。
例えば、遥が私の近くに座るようになったこと。何かの拍子で顔が近づいても、飛びのかなくなったこと。
ふれたり撫でたりすると、満更でもなさそうな顔で、されるがままになること。最初は別の布団で寝ていたけど、最近は私のベッドに入ってくるようになったこと。

私も遥に時間を費やすうちに、遥をどんどん大切に思うようになっていた。

「可愛い」
「大好き」
「いい子」

彼がすこやかに育つための、おまじないのように、そんな言葉を唱える。色白の肌が、ぶわっと紅色に染まるのが愛おしい。

こんな優しくて穏やかな日々が、ずっと続けばいい。そう願いながら、腕の中に潜り込んでくる彼の頭を撫でて、眠りについた。

***

ある夜のこと。買ってきた絵本を遥と読んでいたとき、カサッと玄関の方から軽い音がした。こんな時間に手紙の配達なんて、珍しい。そう思いながら見に行くと、たたきの上に紙が落ちている。
開くと、パソコンで打たれたらしい文字で、こんなことが書いてあった。

『あなたとセフレになりたい男性がいます』

「なんじゃこりゃ」

イタズラかな。一応何かあったときのための証拠として、取っておくか。そう思いながら透明なクリアファイルを取り出すと、遥がその紙を見て首を傾げていた。

「遥は知らなくていいよ。誰かのイタズラだろうし」

セフレなんて、遥の耳に一生入れたくない言葉だ。過保護でけっこう。この子は私が大事に育てると決めたんです。

ところがその日以降、謎の手紙やら、通勤中らしい私の写真やらが、投函されることが増えていった。一方的に家や私のことを知られているのは、さすがに気味が悪い。届けられたものを集めて、アパートの管理人さんや警察に相談し、捜査をしてもらうことになった。

カサッ。たたきに郵便物が落ちる音に、私は思わず肩を震わせる。すると遥が玄関の方にすっ飛んでいき、チラシを持って帰ってきた。

よかった。今回は、近くのスーパーの広告か。

「ありがとう。遥」

そう言って頭を撫でると、遥は恥ずかしそうに頬を赤くし、唇を小さく尖らせる。なかなか慣れない反応に、強ばっていた心がとろりと溶かされていった。
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