マイ・ディア・ファミリー!
キャンバスとはじめに向き合う。はじめに見守られながら、アトリエで絵筆を走らせる。そうしているうちに、夏が過ぎ、秋が去り、やがて粉雪がはらりと舞い降りた。
冷たく澄んだ晴れの日に、個展は開催された。ギャラリーの中は温かく、早めの春や夏がその空間にあふれている。訪れた人たちは、大体朗らかそうな顔をして、私が描きあげた絵を眺めていた。
「あら。この子、絵のモデルさんかしら」
「可愛い坊やねえ」
来場した老婦人たちに声をかけられ、はじめはにこにこしながら手を振る。せっかくなので彼も連れてきたところ、ギャラリーの中を歩き回っては、お客さんたちに無邪気な笑顔を振りまいていた。
可愛がられている彼を見ると、はじめを中心に陽だまりが生まれているようで、心が和む。
「はじめ」
あまり遠くに行かないように、声をかけると、はじめは人の間を器用にすり抜けて戻ってくる。そして私の隣に、妹を守る兄のように控えた。小さな頭を撫でて、私はギャラリーの中を眺める。
可愛らしい春の花が咲く花壇。生き生きとした夏の野菜が実る畑。明るく温かな色の絵ばかりだ。
目玉は、この中で一番大きなF50号の絵。安定の農家スタイルのはじめが、赤く塾したプチトマトを持って、光がはじけるような満面の笑みを浮かべている。夏の日差しが彼の白い頬を照らし、生命力にあふれた緑が彼を囲んでいた。
タイトルは、『家族の肖像』。
「……は、初めまして。先生のファンです」
そのとき、おどおどした猫背ぎみの、若い男が近づいてきた。黒いウエストバッグを斜めがけにしていて、肩紐を両手で握っている。
「これまでの個展も、何回も行ってまして。……今回は、その、いつもと雰囲気が違うんですね」
「そうですね。描きたいモデルに合わせて、挑戦しました」
「……ポスターやチラシにあった絵……。もしかして、その子がモデル、ですか」
「はい。この子のおかげで、いい刺激を得られたんです」
はじめの肩に手を回す。彼の方を見ると、はじめは誇らしそうに笑っていた。つられて微笑むと、男がぼそりと呟く。
「……そいつのせいで、先生は凡人になり下がったんですね」
「……は?」
男が薄暗い目で、はじめを見下ろす。嫌な予感がしてはじめを庇うと、男はぶつぶつと喋りだした。
「先生の絵は、もっと孤高で美しかった。僕はそれが大好きで……。なのに今回は、それが無い。気安くて、平凡で、誰でも触れそうな場所にある感じで……」
これはまずい。目線を素早く動かして、マネージャーを探す。離れたところにいる彼女も、こちらの様子に気づいたようで、警備の人に小走りで駆け寄った。
「先生は高みにいなきゃいけないんです。お荷物なんて抱えるべきじゃない。そいつは先生に悪影響しか与えません」
媚びるような目で、男は私を見つめる。
私の中で、何かがぷつりと切れた。
お荷物? 悪影響? 私にとって彼がどんな存在か、私が彼にどれだけ助けられたか。何も、何も知らないくせに。
「訂正しろ」
氷で作ったムチのような声が、ぴしりと空気を打った。
「私の家族を、侮辱するな」
後ろではじめが、息を呑む音が聞こえた。目の前の男がうつむき、バッグを漁る。するりと出てきたものが、照明をはじいて鈍く光った。
「……僕は、先生のために言ってるんです!」
鋭い切っ先が、私の心臓に向けられた。生まれて初めて、刃物を向けられたことに動揺し、血の気が引く。マネージャーと警備員の声が、遠く聞こえた。
刺されたら、痛いだろうな。そう思っても動けなかった。だって後ろに、はじめがいる。ナイフを振り上げられ、強く目をつむった。
「……ッ!」
一瞬の風と、殴るような音。人が倒れる音と、刃物が転がる澄んだ音。誰かの悲鳴と足音。恐る恐る目を開けると、仰向けに倒れた男の側に、はじめが立っていた。
ぞくっと肌が粟立つ。雷を扱う帝釈天を思わせる怒気が、彼の背中から立ち上っているように見えた。周りの人間もそれを感じ取っているのか、誰もはじめに近づけない。
「……っ、はじめ!」
ぐっと息を吸い込み、名前を呼んだ。はじめが振り返り、新橋色の目に私を映す。そして、すごい勢いで私に飛びついた。
「ぐふっ」
何か既視感あるな、この感じ。ぎゅうぎゅう抱きついてくる彼を撫でながら、気絶した男が警備員に連れて行かれるのを見送る。何事も無かったように、その場のざわめきが、だんだん収まっていく。
「……はじめ。ありがとう。助かった」
しゃがみ込んで、抱きしめ返す。彼がぐりぐり顔を押し付けてくるから、髪の毛が私の頬に当たってくすぐったい。落ち着かせるように、彼の背中を優しくとんとん叩く。
「大丈夫だ。何も心配することない」
不安と葛藤が混ざったような顔で、見上げてくるはじめ。彼の目に薄く浮かんでいた雫を、そっと指先で拭いながら、私は言う。
「大事な家族の手を、離すわけないだろ」
彼の目を真っ直ぐ見つめると、はじめがまた抱きついてきた。湧き上がる感情を伝えようとするかのように、ぎゅーっと。一緒にいたいと訴えるような抱擁に、答えるように。私も彼の背中に腕を回した。