マイ・ディア・ファミリー!
「今日はアトリエに行く。はじめも来るか?」
そう声をかけると、はじめは素早く駆け寄ってきた。手を繋いで庭を通り、離れに向かう。はじめがここに入るのは、今日が初めてだろう。私も久々だ。
ドアを開けると、木と絵の具の匂いが鼻をくすぐる。カーテンを開けると、大きな窓から差し込む光に照らされて、部屋の様子が明らかになった。
「……!」
はじめが見とれたように立ち尽くす。壁を埋め尽くすように飾られているのは、様々な大きさの絵。棚には絵の具やペンキやスケッチブックが、部屋の隅には木材やキャンバスが置かれている。
「私の仕事場だ」
1つ1つの絵を、はじめは興味津々で見て回る。そのうちの1つに、彼は足を止めてじっと見入っていた。
それは、角が生えている黒くて大きな怪物に、白くて小さな生き物が、1輪の花を差し出している絵だった。牙をむき出しにして泣いている怪物に対し、生き物はつぶらな目でにっこり微笑んでいる。
怪物の周りはボロボロに壊れているのに、生き物の周りは小さな花がいくつも咲いていた。白と黒と灰色しか無い世界で、生き物の周りだけ柔らかな淡い緑色。コントラストを意識して塗った水彩画だ。
まだ家族が生きていた頃に、描いた絵だ。懐かしい。
「その絵は『対話』ってタイトルだ。気に入ったか?」
たずねると、はじめはターコイズのような目をきらめかせて、何度も頷く。素直な反応に胸の辺りが温かくなり、私は頬を緩めた。
「さて、はじめも私の作品の1つになってもらおうか」
「!?」
「絵のモデルになってほしいってこと」
全てを美しく映す、宝石のような目の輝き。生き生きとしたリンゴのような頬。太陽のように眩しい笑み。それらを描きとめたいという想いが、私の中で強まっていた。
何かを描きたいという、飢えのような欲求が湧いてくるのは、久しぶりだった。はじめと出会う前は、描きたいものが無くて空っぽになったような気分だったのに。
「君の力が必要なんだ。手伝ってくれるか?」
彼の目を真剣に見つめる。はじめは驚いたように目を丸くしたけど、ニカッと笑って胸を張った。まるで、任せなさい! と宣言するような、頼もしい姿だった。
***
プチトマトの脇芽を取ったり、水やりをしたり、畑仕事をするはじめ。大きくなっていく青い実を、待ち遠しそうに眺めるはじめ。美味しそうにミルクを飲むはじめ。干したばかりの布団の上で、気持ちよさそうに大の字で寝転ぶはじめ。
スケッチブックに、色んな彼の姿を描き留めていたとき。日差しが強くなり、蝉が鳴き始める季節、個展の話が来た。制作中のものも含めて、出したい絵のラフ画やイメージ画をマネージャーに見せると、彼女は快くOKしてくれた。
「それにしても、珍しいですね。先生いつもは寒色系の絵なのに、今回は暖色系の色合いが多い。何か心境の変化でもありました?」
「……そうだな。描きたいモデルが、どうしても寒々しい色と無縁なんだ」
思い返せば、いつからだろう。確かに、冷たい色の絵ばかり描いていた。例えば、群青色の湖に映る満月。青く透き通る氷の玉座に腰かける、白い毛皮をまとった女王。暗い泉の中央に、ぽつんと1輪だけ咲く白い睡蓮。
油絵の具も水彩絵の具も、青い色ばかり買い足してたな。でも今は違う。これまでとは違う絵に挑戦している自分に、気持ちが高揚してくる。
はじめが来てくれたおかげだな。
「いい影響があったみたいで、よかったです」
マネージャーがどこか嬉しそうに微笑む。私がスランプになったと聞いてから、ずっと心配してくれてたのかもしれない。私の周りには優しい人が多いな、と改めて感じた。
打ち合わせから帰ると、はじめが笑顔で出迎えてくれる。彼と視線を合わせるようにしゃがむと、ぽんぽんと頭を撫でられた。これは、はじめなりの「おかえり」だから、もう慣れた。
「ただいま、はじめ」
ぎゅっと抱きしめると、日向の匂いがする。私にとっての幸せが、人の形をしたらこうなるんだろうな。そう思いながら、私は愛情という名の水を注ぐイメージで、はじめの頭を撫で返した。
「今日の夕飯は、畑で採れた野菜を使おうな。もちろん、はじめが収穫したプチトマトも」
「〜!」
「そっか。そんなに嬉しいか」
バンザイをしてはしゃぐ彼が微笑ましい。その日の夕食は、ズッキーニ代わりのキュウリとナス、余ってた人参と玉ねぎ、そしてトマトをコンソメでことこと煮込んだ、なんちゃってラタトゥイユ。
そして、はじめが作ったプチトマトに、モッツァレラチーズと畑で採れたバジルを合わせたカプレーゼになった。
「うん、甘くて美味い。はじめはプチトマト作りの天才だな」
みずみずしいプチトマトの感想を言うと、頬杖をついてこっちを見ていたはじめが、とろけるように笑う。それはミルクを飲み終えたときのような、満たされた笑顔だった。