春待つ桜は目を覚ます


そのお店は、とある商店街の路地裏の、奥深くにありました。

細く入り組んだ道を、恐る恐る進んでいくと、物語の世界に出てくるようなお店が現れます。
歴史を重ねてきたようなレンガの壁は、淡い黄色のモッコウバラで覆われ、ランプは来客を歓迎するように灯ります。
ステンドグラスがはめ込まれた木製のドアを開ければ、出迎えるのはたくさんの人形たち。

この世のものとは思われぬ美しさを持ち、ミルクと砂糖菓子と愛情で育つ、生きる人形。それがプランツ・ドールです。

***

不思議な場所に迷い込んでしまった。
仕事帰りに本屋さんに寄ろうとしただけなのに、どこで道を間違えたんだろう。

スマホで検索しようにも、上手く電波が繋がらない。このお店の人に聞こうかな。見たところレトロな純喫茶にも見えるけど、看板が見当たらないからよく分からない。

レリーフがついた真鍮のドアノブを捻り、そっとドアを引くと、そこにはたくさんの人形が並んでいた。

「うわぁ……」

思わず感嘆の声がもれる。アンティークのようなガラス戸のキャビネットにも、テーブルの上にも、ソファにも、人形が座っている。少年の姿をしたものがほとんどで、どれも美しい。

「あれ……?」

でもよく見ると、顔や身体に傷があるものが多かった。これはこれで個性があるけど、ここはヴィンテージのお店なのかな。わ、この子も独特の雰囲気。

ソファに腰かけていた1体の人形に、つい心を惹かれ、しゃがみ込んで眺める。
私から見て左側の髪は、黒檀のような黒。もう片方の髪は雪のような白。まつ毛も左右で白黒に分かれていて、色白の肌はなめらかそうだ。

中国式の長い衣服には、光沢のある白い生地に、銀糸で桜の花の刺繍が施されている。袖口や縁どりが黒で、彼の髪色によく合っていた。

「いらっしゃい」

不意に声をかけられ、心臓が跳ね上がる。振り向くと、カウンターの方から1人の少女が近づいてきた。
前髪をさらりと分けたボブカットの髪。長いまつ毛にふちどられた淡い茶色の目。私から見て右目の下にぽつんとある泣きぼくろ。耳で揺れるのは、三角形を模したピアス。どこか大人びた雰囲気を漂わせた少女だった。

「何か探し物?」
「あ、その。すみません、道を聞きたくて」

立ち上がりながら、忘れかけていた目的を思い出し、少し後ろめたい気持ちで言葉を返す。すると、少女が何かに気づいたように「あ」と呟いた。

つられて後ろを見ると、ぱちりと大きな双眸と目が合う。その瞬間、目にも止まらぬ早さで、ソファが空っぽになった。

「……あ、あれ?! さっきまでここに人形が……」
「お客さん、せっかくだからゆっくりしていって。話したいこともあるし」

少女がいたずらっぽい笑みを浮かべ、カウンターの方へ消えていく。勧められた椅子におずおずと腰かけて待つと、香ばしい湯気を立てたカップがテーブルに置かれた。それから、ミルクポットとシュガーポットも。

「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」

コーヒーにミルクと2個の角砂糖を入れ、ふぅふぅ息を吹きかけて冷まし、少しずつ飲む。いつもはお茶だから、眠気覚まし以外に飲むコーヒーは、何だか新鮮だった。

「お客さん。プランツドールって知ってる?」
「えっと、確か生きる人形ですよね。すごく高いっていう……」
「そう。うちはプランツドールの店なんだけど、その中でも訳ありの人形を扱ってるの」

彼女いわく、傷がついてしまった子。持ち主を事故で失い、愛情を得られなくなってしまった子。持ち主の扱いによって、枯れかけてしまった子等が集まるのだそうだ。

「あなたが起こしたのも、その1人」

少女が見守るような優しい目で、私の後ろに視線を向ける。振り返れば、ソファの影に隠れるように、小さな子が顔をのぞかせていた。私と目が合いそうになると、うつむいてしまう。

「あの子は遥。色々な所を転々としてきたみたいなんだけど、その度に下取りに出されたらしくて。ドールの中でも特に、愛情とふれあいに慣れてないわ」

非があるのは、あの子が目覚めてないのに、無理やり買い取った客たちね。相性が悪くて当然なのに、難癖までつけるんだから。

そう語る彼女の声を聞きながら、私は遥と呼ばれた子から目が離せなくなっていた。人の都合で訳ありになってしまったから、野良猫みたいに警戒心が高いのだろうか。

「あの、私が起こしたってどういうことでしょうか?」
「遥があなたを、持ち主に選んだってことよ。プランツドールは普段眠ってるけど、気に入った相手に出会うと目覚めるの」
「えっ」

まさか自分が原因とは思わず、すっとんきょうな声が出る。

「……私でいいんですか?」
「遥が起きたことが、その証ね」
「でも私、かなり警戒されてる気が。全然目も合わないし」
「経緯がアレだからな……。こればっかりは、お互いに慣れていってもらうしかないわね」

必要なのは、1日3回のミルク。色つやを保つための砂糖菓子。そして何よりの栄養は、持ち主から与えられる愛情。

私が連れて帰らないと、あの子は今度こそ枯れてしまう。それを察して、私は頭を抱えた。

「……ちなみにおいくらでしょうか」

顔を上げて怖々と聞くと、少女は計算機のボタンをポチポチと叩き、画面を見せる。それはあまり安いとは言えないけど、新品のものと比べればかなり破格だった。

ただのぬいぐるみや人形を買うんじゃない。生きている存在を買うんだから、最後まで面倒を見る責任を持たなくちゃいけない。深呼吸をし、私は覚悟を決めた。

「……っ、買います!」

今までこつこつ貯金しといてよかった。
口座振込の手続きをし、必要なものを受け取る。改めて遥の方を向くと、ソファの影から出てきた彼が、ぽつんと立ち尽くしていた。小さな拳が、微かに震えている。下を向いたままの彼を見て、少女が言う。

「遥は、まだ人を諦めてない。遥のこと、よろしくね」

人の都合で訳ありになってしまったのに。人と正面から向き合えなくなっているのに。それでも私を選んでくれた。その事実に、きゅっと唇を噛む。

私は目線を合わせるようにしゃがみ込み、静かに手を伸ばした。

「初めまして。一緒に帰ろう。遥」

前髪の下から、様子をうかがうような上目遣いで、彼が私の方を向く。黒水晶と琥珀をはめ込んだような目が、照明の下で揺れるようにきらめいた。

伸ばしかけた小さな手が、ためらうように途中で止まる。やがて、ぎこちなく私の手に、彼の手が重ねられて、胸が切なく締めつけられた。
1/3ページ
スキ