この世で誰より綺麗なあなたに


パチッと目が覚める。船長室と違う天井にぎょっとしながら体を起こすと、テレビやミニテーブル、本棚、押し入れが次々と視界に入ってきた。

私が一人暮らしをしているアパートの部屋だ。

「…………え?」

あれ? 私、赤犬さんに腹パン(貫通)されて死んだんじゃなかったっけ? 何で元の世界に帰ってきてるの? エースたちは? ミニオンたちはどうなったの?

長い夢でも見ていたかのようで、呆然としながら頬をつねる。ちゃんと痛い。パジャマをめくってお腹を確認すると、そこには傷跡なんて何も無かった。

目の奥が熱くなり、訳が分からないまま涙があふれる。片手で拭っても止まらなくて、両手を使おうとしたとき、あのブレスレットが目に映った。赤い宝石がきらりと光る。

あの世界で過ごした時間が、夢じゃないことを唯一証明してくれるものだった。ブレスレットをそっと手で包んで、私はうつむく。ぽたぽたと落ちた水滴が、布団の上に染みを作っていった。

***

元の世界に戻ってから、数日経つ。大学とアパートを行ったり来たりすることが多い生活を、私はしていた。安全な生活が保証されていて、荒くれ者もほとんどいなくて、波の揺れも気にしなくていいのに、いつも心のどこかが欠けているような感覚があった。

部屋の中には、ミニオンのグッズが増えていく。汚したり無くしたりしないように、ブレスレットは箱の中に大事にしまって、1日1回は眺めている。

「会いたいな……」

ぽつりと呟いて、私はベッドに潜り込んだ。


「ゲームクリアだっていうのに、浮かない顔だね?」


暗闇の中で声が聞こえた。
少年のようにも少女のようにも聞こえる声に振り返ると、ぼんやり白い光が浮かんでいた。目を凝らすと、12歳くらいの子が両手を後ろに組んで首を傾げている。純白の布を何枚も重ねたような服を着ていて、髪も肌も雪みたいに真っ白だ。金色に輝く瞳が、こちらを不思議そうに見つめている。

「ゲームクリアって、どういうこと?」
「そのままの意味だよ。異世界で冒険しながら、愛を探すゲーム。友愛でも家族愛でも恋愛でも良し。元の世界に戻る鍵は、自分の命と引き換えになったとしても、大切に思える誰かと出会うこと」
「千葉にあるテーマパークの世界に出てきそうな条件だな……」

頭に浮かんだのは、魔女の呪いで野獣に変えられた王子様と、読書が大好きな美女の恋物語だった。あと、氷の魔法が使える姉と、明るい妹の家族愛の物語。

「大切に思える人と出会ったら、次元を超えて引き離すって残酷すぎない? 人の心は無いの?」
「人の心なんてあるわけないでしょ。僕は人じゃないんだから」
「……」
「その痛い子を見る目やめてくれない?」

白い子は心外そうに唇を尖らせる。話している内容から考えると、どうやらこの子が私をあの世界に送り込んだ張本人らしい。

「とあるアニメーション映画に、"僕は明日死んでもいい。君を知らずに100年生きるくらいなら"っていう台詞があってね。愛を知らないで生きるより、知ることの方が大切だと僕も思うんだよね」
「さては大阪だけじゃなく、千葉のテーマパークも推してる?」

気が抜けるような会話をしていると、白い子の瞳が金星のようにきらめく。真面目な表情で、その子は口を開いた。

「君は、あの世界に戻りたいの?」

静かで、教え諭すような声が言葉を紡ぐ。

「異世界が楽しいのは、元の世界に帰れる保証があるからだよ。帰り道が無くて、君の常識が通用しない世界で、世界を敵に回しながら生きられると思う?」

瞬きをしてから、私は言った。

「私、舐められてますか?」

金色の瞳が丸くなる。それを見つめ返して、私は拳を握り、はっきりと告げた。

「それくらいで揺らぐような人間だったら、そもそも戦争に参加しないし、海軍の大将に楯突いたりもしませんよ」

覚悟なら、あの日にとっくにしていた。帰り道が分からなくて常識が通用しない生活も、こっちに帰るまでにもう慣れていた。

「何をされたって、言われたっていい。どんな場所にたどり着いても、絶対に笑顔で生き抜いてやる」
「……覚悟はちゃんとあるみたいだね」

白い子がふっと笑う。安心したような、見守るような、そんな笑顔だ。白魚のような手が、私の手首にそっと添えられる。

「忘れ物をしないように。君たちに幸あれ」

花のような香りに包まれ、私は目を閉じた。

***

さらさらとそよぐ風の音。鼻腔に流れ込んでくる、ほんのり甘い花の香り。ごろんと横に寝返りを打ち、ゆっくり目を開ける。

柔らかな緑の上に、私は横たわっていた。上半身を起こして辺りを見回すと、桜の花びらがひらひらと舞っている。目の前には大きな白い墓標と、大きな薙刀。見覚えのある大きな白い上着に、白ひげ海賊団の旗。

「"エドワード・ニューゲート、白ひげ海賊団船長"。"かつて大海賊時代にモビー・ディック号で荒れ狂う海をかけぬけた我らの偉大なキャプテンかつ親父 ここに眠る"……」

刻まれた文字から、白ひげさんが眠る場所なのだと分かる。両手を合わせて目を閉じ、彼の冥福を祈っていたとき、さくりと草を踏む音が小さく聞こえた。

***

親父への墓参りと、また旅に出ることを報告するために来たら、先客がいた。こんな隠れた所に来る奴なんて珍しい。白くて裾が長い服を着ている女だ。

おれが近づいた足音に気づいたのか、女が振り向く。

「…………ナナ……?」

頂上戦争で、冷静さを失っていたおれの代わりに戦い、目の前で命を落とした女が。鬼の血を引き、世界に存在を否定されたおれに、生きてほしいと叫んだ女が。最期に「あいしてる」とおれに告げた女が、そこにいた。

「……ナナ、なのか……?」
「ナナですよ」

細い手首には、おれが渡したブレスレットがきらめいている。おれの首飾りと同じ、丸いガーネットを繋げたやつ。

「エース、ただいま」

えへへ、と気が抜けるような顔で、ナナが笑う。

「……幽霊、じゃねえよな」
「足あるよ」
「バッカお前スカートの裾をめくるな!」
「ふくらはぎしか見せてないのに!?」
「……手、触ってもいいか?」
「どうぞどうぞ」

こちらに向けられた両手のひらと、おれの両手を合わせると、じんわりと温かさが伝わってくる。筋張ったおれの手よりも、小さくて滑らかな手を包むように、指を絡める。

考えるより体が先に動いていた。おれは指を解いてから、腕を大きく広げて、ナナを腕の中に囲いこんだ。勢いがつき過ぎたせいか、「うわわわわ!?」と慌てたような声を出して、ナナの体が傾く。

咄嗟にナナの頭に手を回し、2人一緒に草の上に転がった。細くて柔らかい感触が腕や手に伝わる。消えないことを確かめるように、ぎゅうぎゅうと抱きしめる。

「え、エース、苦しいよ〜」
「……うるせぇ、しばらくこうさせろ」

***

再会した途端、めちゃくちゃ情熱的なハグをされた。エースの頭が、私の肩にぐりぐりと押し付けられる。彼の髪が首筋に当たって、くすぐったい。大型犬に飛びつかれたら、こんな感じなのかな。

ずび、と鼻をすする音が微かに聞こえて、私はエースの頭をぽふぽふと撫でた。
エースの素肌を通して、彼の鼓動が伝わってくる。青い空を見上げながら、自分たちがこの世界に生きていることを、改めて実感する。

「会いたかった」

震える声が、言葉を紡ぐ。

「お前がいなくなってから、すげえ胸が苦しかった」
「オヤジたちやルフィとは違った形で、お前のことが大事なんだって気づいたんだ」
「おれを愛してくれて、ありがとう」
「おれも、お前のこと、愛してる」

肩が温かく湿っていく。彼の温もりに包まれながら、私は彼の背中に手を回した。



2人で白ひげさんのお墓参りをしてから、立ち上がって振り返ったとき。

お墓の前で腕組みをして、満足そうに笑っている白ひげさんが見えた。そしてその後ろに、もう2人。エースの何十年後の姿のような、カイゼル髭の男性。豊かな淡い金髪をなびかせた、そばかす顔のほっそりした女性。

風が吹いた直後、その姿は幻のように消えてしまっていたけれど。彼らの優しい眼差しを胸に、私はエースの手をしっかり握りしめて、歩き出した。

***

「これ絶対私が邪魔になると思う」
「大丈夫だって。お前小せえし」
「そりゃ185cmからしたら小さいだろうけども」

エースが乗ってきた船、ストライカー。1人乗りのその船は、2人が並んで座るスペースが無い。そもそも座れそうな所は、エースが燃料よろしくメラメラの実の能力を使う場所だし。

旗がくくりつけてある柱に、コアラのようにしがみつき、ちょこんとしゃがむように腰を下ろす。最初は落ちないように気を張っていたけど、だんだん風を受けて海面を勢いよく走っていくのに、胸がドキドキしてきた。こんなに気持ちがワクワクするの、久しぶりだ。

「何か楽しい!」
「ハハッ、そうかよ! スピード上げんぞ!」
「いけストライカー! 全速前進!」

2人で笑いながら、青1色の世界を駆け抜けていく。その時、前方から船が近づいてくるのが見えた。

赤、青、緑、ピンク、黄色。いろんな色を自由に塗りつけたような、しっちゃかめっちゃかで賑やかな帆。はためいているのは、1つ目と交差した2本のバナナを描いた、黄色い旗。

「……ス!」
「ボース!」
「ボスー!」
「エースー!」

「あいつら……!」
「ケビン! スチュアート! ボブ! 皆!」

黄色い仲間たちが、手すりから身を乗り出して手を振っていた。ぴょんと船から飛び降りてきたボブを、両手を伸ばして抱きとめる。

「ボス!」

頬を擦り寄せてくるボブの頭を撫でて、見上げれば、次々と黄色い小さな影がこちらに向かって落下してくるのが見えた。

「おい待て待て待て! これ以上乗られたら……っ!」
「ちょっ、ストップ! ストーーーーップ! 皆ステイ! 船で待ってて……あ、」

定員オーバーで転覆した。

***

「……もしかして、皆私のこと大好きか?」

あの後。海に浸かってぐったりしてしまったエースを抱えて、船に残ってたミニオンたちが投げてくれた浮き輪に捕まった。甲板に引き上げられ、チャックが持ってきてくれたタオルで髪や顔を拭きながら私は言う。

海に落ちたミニオンたちは自力で泳いで戻り、ストライカーも回収してくれた。元を辿ればこの子たちのせいだが、まあ許そう。こらデイブ、エースをつつかないの。

「エース、動けそう?」
「まだ力入んねえ……」
「しばらく甲板にいよっか」

うつ伏せに倒れている、エースの髪の水分を、2枚目のタオルで取る。日光に当たって体を乾かすうちに、エースも動けるようになっていた。

「皆、どうして私たちがいる場所が分かったの?」
「*□^╳§〇△」
「夢のお告げ? あと枕元で見つけたエターナルポースを頼りに来た? 行動力がすごいな」
「スペタスペタ。ネイチーブタブカナ、チュチュチュ」
「え、アレ? まだおやすみの時間には早過ぎるのに珍しいね」

それは寝る前に、ミニオンたちがよくねだっていたことだった。久しぶりに会えたから、甘えたい気分なのかな。それなら存分に応えないと。

「それじゃあ皆、1列に並んでねー」

そう言うと、しゅばっと黄色い列が出来上がる。隣ではエースが、頭の上にはてなマークを浮かべているような顔で見つめていた。

黄色い彼らの頭に、軽くキスを落としていく。大怪盗のボスがこの子たちにしていたように。白雪姫が、7人の小人たちに行ってらっしゃいのキスをするように。

「ふふ。ノーバート、君はさっきキスしたでしょ」

割り込まれたジョシュが不満そうな顔で、後ろからノーバートの頭をぽかりと叩く。そんな風に次々とキスをしていたら、頭の上にふっと影が射した。見上げると、いつの間にか列の最後に並んでいたらしいエースがいた。

「おれにもしてくれよ」
「ひぇ」

初めて見る真剣な顔と熱っぽい瞳に、心臓がドクンと跳ねる。え、どこにすればいいの? おでこ? ほっぺた? 唇はまだ早くないですか??

ふざけてハグし合ったことはあったけど、それとは違う。そのことに戸惑いながらも、壊れ物にふれるみたいに、恐る恐るエースのほっぺたに手を添える。

「「「ムアック! ムアック! ムアック!」」」
「チビどもあっち行ってろ!」

ミニオンたちのキスコールに、エースが赤い顔で怒鳴る。わーっとはしゃぐ声を上げながら、ミニオンたちは一斉に甲板から出て行った。恥ずかしそうに唸りながら、ドアの方を睨む横顔がなぜだか愛おしく、私はそばかすが散らばる頬にそっと口づけた。

ちゅ、と小さな音を立てて、顔を離す。エースの目が点になっていて、それも初めて見る顔だったものだから、思わず頬が緩んだ。

「……何笑ってんだよ」
「可愛いなって思った」
「カワイイとか言われても嬉しくねーよ。おれは男だぞ」
「知ってる? "可愛い"っていう言葉にはね、"愛しい"、"守りたい"、"健やかであれ"っていう意味があるんだよ」
「マジか」
「ウソでーす。私がそういう意味で使ってるだけ」

不満そうにむくれたり、素直に驚いたように目を丸くしたり、エースの表情がころころ変わる。それが面白くて、くすくす笑っていると、少し熱い手のひらが私の両頬を包んだ。

目の前が暗くなり、唇に柔らかくて少しかさついたものが重なる。何度か角度を変えてから、ようやく顔が離れた。したり顔のエースが、自分の唇をぺろりと舐める。

「"可愛い"な」

エースの体温が移ったかと思った。



船は進んでいく。終わらない旅の先へ。
果てのない悲しみや、残酷な結末があったとしても、今はもう信じない。

一緒なら、どんな遠くにでも行ける気がした。
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