平和主義者でも戦わなきゃいけないときがある


革命軍メンバーと白ひげ海賊団による援護。フォレスト冒険団による足止め。その場にいる者を味方につけ、ルフィはとうとう処刑台にたどり着く。エースの力を封じていた、海楼石の手錠が、音を立てて石畳の上に落ちた。

「火拳のエースが解放されたァ〜〜!!」

燃え盛る炎の中から、3人の人影が現れる。その光景に、オリス広場に集まっていたリーゼはガッツポーズを取った。

「キタキタキタァ!」
「ここから正念場ですね」
「すごい……!」

ロングスカートの下から、銀製のナイフを取り出しながら、ダイナは呟く。大勢の敵を蹴散らしていくエースとルフィを見ながら、タタンは感嘆の声を上げた。その横で拳を振りながら、リーゼは破顔する。

「頼んだよ〜!フレアとセイラさん!」


ぽたぽたと、赤い雫が石畳にこぼれた。それを見て、クザンが静かに口を開く。

「……あんな大技使いまくったんだ。そろそろ限界なんじゃねェか?」

セイラの鼻から、細く血が流れる。空想を現実にし、無から有を生み出すトショトショの実は、体力だけでなく精神力も削る。また、複数の効果を使えば使うほど、脳に負荷がかかっていく。

ときおり、ぼんやりと霞む視界で、セイラは前を睨みつける。息を切らしながらも、ウエストポーチから白い粒を取り出して噛み砕く。応急処置のために持ってきた、ブドウ糖タブレットだ。

(……これは、少し予想外ね。ここまで能力を使ったことなかったから、自分の限界を自覚できなかった)

くらりと目眩がして、硬い石畳に膝をつく。まだやることがある。ここで動けなくなっては意味が無い。立ち上がろうとするが、力が上手く入らない。

「"アイスサーベル"」

クザンが氷柱にも似た氷の剣を作り出し、セイラに向かって振り上げる。そのまま串刺しにされるかと思いきや、大きな拳がそれを砕いた。

限界を迎えたように、ふらりと倒れ込むセイラを、大きな手がそっと支える。すくい上げるように彼女を持ち上げたのは、白ひげだった。叱らなければならないような、けれど労りもこもっているような眼差しで、ぐったりしているセイラを眺める。

「見ねェ間に、とんだじゃじゃ馬になりやがって……」
「セイラさん!」

黄猿を退けて駆け寄ってきたスザクは、セイラの様子を見て目を見開いた。それを見下ろしながら、白ひげはセイラをスザクに預ける。

「お前らは先に行け」
「……あなたは、どうするつもりですか」
「おれはここに残る。……スザク。おれの娘と息子を、頼んだぞ」
「……ッ、はい!」

大剣を背負い、セイラを横抱きにして、スザクは力強く頷く。彼はもう決断してしまったのだろう。セイラが限界を迎えてしまった今、彼の覚悟に泥を塗るような行動も、彼の信頼を裏切るような行動も取れなかった。例えセイラの意に反していたとしても。

スザクの目を見つめ返し、白ひげは満足そうに笑う。そして白ひげ海賊団に向けて、最後の船長命令を下した。


「……うぅ……」
「セイラさん! 意識戻った?」
「……オヤジ、さまは……」
「……最後の船長命令を、皆に告げた」

撤退するスザクの腕の中で、セイラの目がゆっくりと見開かれる。ぎこちなく、もぞもぞと体を動かすセイラを、スザクはしっかり抱え直した。

「……だめ……、だめ、そんな、」
「セイラさん」
「スザク、下ろして。助けられなきゃ、ここに来たいみが、ない」
「セイラさん」

張り詰めた声が、空気を震わせた。足を止めずに走りながら、スザクは前だけを見ていた。

「私は、あなたをここで死なせるために、ここに来たんじゃない」
「……スザク……」
「悔しいのは分かる。でも、セイラさんの体はもう限界なんだよ。これ以上戦わせられない。『子が親より先に死ぬなんて事が、どれ程の親不孝か……』、分からないわけじゃないでしょ?」

セイラの目に、涙が溜まっていく。血がにじむほど唇を噛みしめ、セイラは嗚咽をもらした。透明な血を流しているようなその姿に、スザクも下唇を噛む。

そのとき、海兵の追っ手が見えた。こちらに気づき、何か叫びながら向かってくる。スザクはセイラを片腕に抱き寄せながら、背中の大剣に手をかけた。

――セイラさんを抱えたままで、どこまでやれるか。いや、やれるかどうかじゃない。やるしかない!

「せいやぁっ!」

スザクが覚悟を決めた瞬間、海兵たちが吹き飛ぶ。土煙が消えると、そこには2人の人影がいた。リーゼと、槍を構えたタタンだ。

「やっと見つけた! ……ってセイラさんどうしたの!?」
「能力の使いすぎ。他の皆は?」
「ダイナさんとフレアは、エースたちの近くにいるよ。スザクたち見つけたら、私とタタンも向こうに行くつもり」

リーゼが説明する途中で、セイラの涙に気づいたタタンが、心配そうに白ひげを振り返る。それから少し考え込むように眉を寄せ、おもむろに口を開いた。

「スザクさん。セイラさんを、お願いします」
「タタン?」
殿しんがりはっ、……私がやります!」
「……! 分かった。お願い! 行くよリーゼ!」
「えっ、スザク!? タタン?! ちょっとー!」

真剣な目つきと、普段大人しいタタンには珍しく、はっきり意思表示をするような声。頷いたスザクがセイラを抱え直し、全力で走り出す。逆方向に戻っていくタタンの背中に声をかけながらも、リーゼは慌ててスザクを追いかけた。せっかく合流できたのに、またはぐれたら困る。

「スザク! ほんとに大丈夫!? タタンの足、震えてたよ!?」
「だからだよ! あのタタンに、『殿をやる』って言われたら、任せるしかないっしょ!」
「……それもそっか!」

タタンなら大丈夫。やってくれる。その信頼は2人の中に、しっかりと育っている。納得したようにリーゼは頷き、スザクに腕を伸ばした。

「セイラさんは私が守るから、スザクは私を守ってくれる?」
「オッケー。任せたよ、リーゼ」
「任されましたー!」

目指すはトロイメライ号。セイラを横抱きにして運ぶリーゼの隣で、スザクは大剣を片手に持ちながら駆ける。するとセイラが、ぎこちなく片腕を持ち上げた。

「……『いばら姫』……」
「セイラさん!?」
「……"茨の檻"……!」

最後の力を振り絞るような声と共に、ポウッと淡い光が指先に灯る。その光が流れ星のように四方八方に飛び散った。光が地面に落ちて弾けると、そこにヒビが入り、緑色の茨が勢いよく飛び出す。

茨の垣は海兵たちの行く手を阻み、無理やり通り抜けようとする海兵たちを、鋭いトゲで引っ掛けたり攻撃したりした。セイラの意識が途切れ、がくりと彼女の頭が傾く。

「セイラさぁーーん!」
「最後まで無茶するなよバカァーー!」

リーゼとスザクの叫びがこだました。

***

サカズキの挑発を聞き逃すことができず、激昂したエースがサカズキとぶつかり合う。しかしマグマグの実は、メラメラの実の上位互換。腕を焼かれたエースが地面にうずくまったとき、サカズキの首が飛んだ。

「何してんの! 早く撤退して!」

黒く染まった刀を持って立っていたのは、淡い茶色の髪をなびかせた女だ。ところどころ煤けているが、着ているコックコートがくっきりと白く戦場に映える。ボコボコとマグマが吹き出し、頭部の再生をしようとするサカズキに、彼女――フレアは向き合った。

「悪いけど、ここは引き受けさせてもらうよ」
「何でそこまで……!」

フォレスト冒険団が白ひげ海賊団に恩を返すために、この戦争に参加したことは、エースにも聞こえていた。しかし船員の1人が、なぜ身を挺してまで自分を守ろうとするのか。その背中にエースが問いかけたとき、フレアが振り返る。

「そんなの! 君が好きだからに決まってるでしょうが!!」

戦場の中心で愛を叫んだフレアに、周囲の空気が停止した。誰もが度肝を抜かれたように、フレアに注目している。だって、海賊王の息子だと世界に知れ渡った男に、堂々と好意を伝える女がいるなんて、思わないじゃないか。まだ戦争の真っ最中だぞ。いくら海賊相手でもTPOってもんがあるだろ。

「……はああああっ!!?」

火がついたように赤くなるエース。フレアの勢いは止まらない。

「あーもうこの際だから言っちゃうわ。私は君が好きなんだよポートガス・D・エース! よく食べるところも太陽みたいな笑顔も、弟や仲間には優しいお兄ちゃん気質なところも、でもどこか憎めない末っ子気質な面があるのも大好き! 仲間のために身体張るところとかメラメラの実の能力使うところなんてカッコよすぎるし何なの君! おかげで沼の底から出られないままなんだよこっちは! 出る気は毛頭無いけど! その後の推しに炎属性多いの絶対に君の影響だからね!!」

白ひげ海賊団もジンベエも、周囲にいた者たちはポカンと口を開けていた。(スザクが言ってた『エースの大ファン』って、もしかしなくてもアイツのことか?)とマルコは思う。

そこにちょうど合流したスザクたちは、すぐ側に海軍大将サカズキがいることをうっかり忘れて、いつものテンションで話し出す。

「すごい。許容範囲を超える愛を浴びて、エースが真っ赤になってる」
「ウブで可愛らしいですね」
「フレアにとっては、殿堂入りの最推しだからな。少なくとも20年分の愛の凝縮バージョンを、今ここでぶちまけられてるよ」

そこでハッと我に返ったルフィは、フレアに向かって声を上げた。

「お前エースのこと好きなのか! おれもエース好きだ!」

フレアの告白は、割と離れた場所にいるガープとセンゴクの耳にも、微かに届いていた。

「……なあセンゴク、わしはひ孫の誕生日プレゼントを見繕っとくべきか?」
「海賊王の孫の誕生を祝おうとするんじゃないッ!!」

まるで現実逃避をしているような、しかし真剣に悩んでいるような声音だ。困惑したように顎に手を当てて、考え込むガープの頭を、センゴクは思い切りぶん殴った。


「くだらん話は終いか」

噴火する火山のようにマグマがあふれる。頭部の再生を終えたサカズキに対し、フレアは刀を構えながら、考えを巡らせた。

(エースの死を偽装して助ける作戦、どのタイミングでやろう……)

セイラが用意した、仮死状態になる薬水は、フレアのウエストポーチに入れてある。シェイクスピアが書いた悲劇『ロミオとジュリエット』に出てくる秘薬だ。全員の目をくらませる機会を待って、エースに飲ませるつもりだった。

しかしここまで来て、本当にエースに死なれるわけにはいかない。戦うしかないと判断し、フレアは呼吸を整える。こめかみを汗が伝う。

――本来なら、マグマよりも炎の方が、高い温度になるはずなんだ。頼むよ私の身体と愛刀! ひとまずエースたちを逃がすための時間を稼いで!

フレアの腕や体から、炎があふれる。それは普通の炎よりも変わった色をしていた。ピンク色に燃える炎の中で、黄緑がかった水色が揺れている。三角形の形をした火の粉が、ちらちらと舞い踊る。

フォレスト冒険団は全員、転生特典として、それぞれ高い戦闘能力を得ていた。フレアの炎もその1つ。とあるアニメ映画に出てくる、突然変異で誕生した炎を操る人種。彼らが使う"バーニッシュフレア"に、限りなく近い炎を使うことができる。

ピンク色の炎を硬化させると、黒い鎧になってフレアを包む。刀に武装色の覇気をまとわせ、フレアはサカズキと対峙した。

マグマの拳がフレアに迫る。それをかわし、熱に焼かれないように間合いを取りながら、フレアは刀に炎をまとわせる。

「"千切り"!」

1〜2mmほどの細さにするように、速く細かい斬撃がサカズキを襲った。

「覇気使いか……! うっとおしいのォ……!」

サカズキの苛立ちを表すように、焦げ付くような熱が辺りを包む。飛び散るマグマを避けるが、避けきれなかった髪がジリジリと焼け焦げた。マグマの拳がフレアに迫る。

その瞬間、強い衝撃がフレアを突き飛ばした。

「ッ!?」

少しの浮遊感。そして地面に転がる痛み。少しの間うめいてから、ハッとフレアは体を起こす。さっきまで自分がいた場所には、入れ替わるように、人の姿があった。

マグマの拳が、あらわになったその人の上半身を貫いている。サカズキの拳を代わりに受けていたのは、エースだった。

「エース〜〜〜!!」

フレアがそれを認識したのと、ルフィの叫びが響いたのは、ほぼ同時。エースの体が地面に倒れたとき、エースを守るかのように、炎の壁が彼を囲んだ。マグマであるサカズキの体を焼くほどの、青い炎だった。


「……何で、私を庇ったの?」

ウエストポーチから取り出した、『命の水』が入った小瓶。それを片手で強く握り締め、フレアはぽつりと呟く。仰向けに倒れたまま、動かなくなったエースからの、返事は無い。

『命の水』は、どんなに死にそうな病気や怪我も癒す水であって、死んだ人間を生き返らせる水ではない。エースの胸の中央――心臓がある場所――は、ぽっかりと穴が空いていて、肉と血が焦げる匂いがした。フレアの足から力が抜け、エースの側にへたり込む。彼の口元に手を当てるが、少しの風も感じない。

「……だめだよ」

あっという間に、目の前で失われてしまった命を前に、フレアはぽつりと呟く。息付く間もなく脳内で再生されるのは、エースが息絶えるまでの、告白の場面。弟や家族たちへ、彼が伝えた、最期の言葉。

「……君はまだ、大切な人たちに、伝えないといけないことがあるでしょ」

自分でも意外に思うくらい、頭の中は冷静だった。そして、今まで試したことは一度も無いのに、なぜかこうすべきだという確信があった。

「……こんな形で置いていくなんて、許さない」

――何も言い残さずに、君を想う人たちを置いていくなんて、許さない。

エースの顎を指先で持ち上げ、フレアは大きく息を吸い込む。そしてエースの唇に、自身の唇を重ねた。火を起こすように息を吹き込むと、エースの身体の中で炎が燃える。フレアが使うのと同じ、紫がかったピンク色の炎。何度か繰り返すうちに、小さかった炎がどんどん燃え上がっていく。

炎はエースの身体を舐めるように広がり、失われた肉体を補うように灯った。やがて炎がエースの身体に馴染んだとき、その肉体は再生していた。サカズキの拳によって、失われたはずの心臓が、ゆっくりと鼓動を始める。

その身体を横抱きにし、フレアは立ち上がる。そして炎の中から勢いよく飛び出した。ルフィのもとへ駆け寄ると、彼は白目をむいて気絶している。原作に無い状態だが、好都合だった。

ぐったりしたルフィを背負い、足に力を込める。周りを見れば、海兵たちが剣や銃を向けてフレアたちを取り囲んでいた。恐らく死んだと思われているエースと、気絶したルフィ。そして2人を抱えている女が1人。討ち取るなら今だろう。

「邪魔ッ、するなアアアアアッ!!」

ブチリとフレアの中で、何かが切れる音がした。彼女が吠えた瞬間、炎が爆ぜる。海兵たちが思わず距離をとるほど、フレアの剣幕は凄まじかった。怒りそのもののような炎が、ゴウゴウと唸りを上げながら、あちこちで燃え盛る。

「この2人を、これ以上傷つけてみろ……!」
「全員まとめて灰にしてやる!!」

獣のように目がぎらつく。炎が渦巻き、うねり、形を変えた。フレアたちを守るように現れたのは、どす黒い炎で作られた龍。黒い龍はフレアたちを乗せ、長い尾をひらめかせて、上空へと舞い上がる。

「――フレアさん!」

大きめの振動と共に、龍の背中に誰かが飛び移った。フレアが2人を抱えたまま振り向くと、そこには1人の魚人が立っている。3m程の巨体に水色の肌。牙がのぞく、への字型の大きな口。小さな目は少しの戸惑いと警戒心を含んで、フレアを見つめていた。

「……元王下七武海。"海侠"のジンベエさん、ですね?」
「そうじゃ。聞きたいことは色々あるが……、エースさんは今、どうなっておる」
「……彼は生きてます。でも、それは秘密にしてほしい。エースを逃がすために、彼は死んだと、海軍に誤認させます」
「それは、ルフィくんにもか」
「はい」

ジンベエが痛ましげな顔で、ルフィを見下ろす。目の前でエースの心臓が、マグマで貫かれるのを見て、ルフィの心が耐えられなかったのだろうか。彼の表情は、エースが遺した言葉を聞いて、精神が崩壊したときの顔そのものだった。

「ルフィを、お願いします。ジンベエさん」
「……分かった!」
「これ、うちの船医特製の水です。怪我や病気によく効きます」

使わなかった『命の水』を両手で渡すと、ジンベエは大きな手で受け取ってくれた。そしてルフィを抱え、黒い龍から飛び降りて駆け出す。


フレアを追うように、海賊たちも慌てて走り出す。一緒に追いかけながら、その場に残されたフォレスト冒険団は、同じことを考えていた。まるで子熊を守ろうとする母熊のような、殺気と迫力。初めて見た彼女の表情に、彼女たちは少しだけ身震いした。

――フレアって、ブチ切れたらあんなに怖かったんだ……。

***

「お前は残ったのか」

声をかけられ、タタンは声の主を見上げた。"シロヒゲ"さんという名前だと思っていたその人は、"エドワード・ニューゲート"さんというらしい。セイラさんがとても丁寧に教えてくれたから、よく覚えている。

大きな人だ。ムキムキの分厚い胸板も、丸太よりも太い腕や足も、身長も。ずっと見上げていたら、首が痛くなりそうなくらい。フォレスト冒険団も背が高い人が多いけど、タタンが声をかけると、皆タタンの目線に合わせて腰をかがめてくれた。

――この人が、セイラさんの、『オヤジ様』。

タタンは、自分の父が誰なのか知らない。血の繋がった親は母だけだ。冒険団のメンバーも女性ばかり(スザクは身体は男性だけど、心が女性なのでノーカウント)なので、タタンは『父親』という存在に縁が無かった。

もし、この人がお父さんだったら、どんな感じだったんだろう。

「あなたは、行かないんですか……?」
「さっきも言ったろう。この先の時代に、おれの乗り込む船はねェ」

タタンはちょっとムッとした。どうにかして、この頑固なおじいちゃんを、彼の家族のもとに帰さねばならないと決意した。タタンには漢の覚悟など分からぬ。タタンは冒険団の戦闘員で、頂上戦争の内容も詳しく覚えていない初心者である。しかし、大切に思ってくれる人たちを蔑ろにする人間には、人一倍に敏感であった。

「一緒に帰ろう! オヤジ!」

セイラが出した"茨の檻"のおかげで、大半の海賊は逃げ切れたようだ。船の方から、白ひげを呼ぶたくさんの声が聞こえる。彼の帰りを待っている人たちがいる。彼を守ろうと、命を懸けて戦った人――セイラがいる。それなのに、彼はその人たちに背中を向けて、動こうとしない。

「……」
「? 何やってんだ、小娘……」

無言で槍を構え、素振りを始めたタタン。それを見下ろしながら、白ひげが片方の眉を訝しげに上げる。そのときだった。

「えいっ!」

3回素振りを繰り返したタタンが、思い切り槍を振るう。その直後、とんでもない突風が白ひげを押した。踏ん張ろうとするもじりじりと押され、やがて足が宙に浮く。

白ひげことエドワード・ニューゲート。御歳72歳。風に吹き飛ばされるのは初めての経験だった。

「「「オヤジーーーっ!?」」」

彼を待っていたモビー・ディック号。そこに白ひげは片膝をついて着地する。彼がドンッと飛び乗った影響で、船がぐらぐらと大きく揺れた。センゴクが冷や汗を一筋流しながら、驚愕したように口を開く。

「槍を振るって風を起こし、その勢いで白ひげを移動させただと……!?」

いやどういうことだ。
その場にいた全員の意見が一致した。
リトルオーズJr.がやるなら分かる。白ひげがやるのもまあ分かる。だが、この場で一番小柄で華奢であろう彼女が、やってみせるとは思わないだろう。

「そうはならんやろ」
「なっとるやろがい」

スザクとリーゼも足を止めて呟いた。

「何しやがるこのハナッタレェーーー!!」

オヤジ、オヤジと口々に言いながら、しがみついてくる息子たちに囲まれ、白ひげは叫んだ。遠くからビリビリと空気を震わせるその声に、タタンの肩がびくりと跳ね上がる。しかしその目は、キッと意志の強さを見せていた。

「帰りを待ってくれる人たちがいるなら、ちゃんと帰ってくださいっ!」

タタンは素直で、真っ直ぐな子である。痛いものは痛い、怖いものは怖い、辛いものは辛い。好きなものは好き。やりたいことはやってみる。やらなきゃいけないことはやる。自分の信念に従って行動する。一度決めたら折れない。曲がらない。槍のように貫き通す。そういう子だ。

「帰りを待ってくれる人がいるのは、幸せなことです! ありがたいことなんです! ちゃんとその人たちに、『おかえり』って、言わせてくださいっ!」

純粋な叫びに、海兵たちの何人かは、ほろりと泣いた。生きて帰りたい。妻と子に会いたい。親に会って孝行したい。田舎のじいちゃん元気だったかな。


「逃がすな! フォレスト冒険団の戦闘員だけでも討ち取れ!」

気を取り直した海兵たちに囲まれ、「ぴゃあ」とか細い悲鳴を上げて、タタンは飛び上がった。氷と光の攻撃が彼女に襲いかかる。しかしその先には、誰もいなかった。

「――まったく。『おもしれー女』グランプリがあったら、間違いなく君が優勝だよ! タタン!」

柔らかい胸がタタンに当たる。長い黒髪が扇のように広がる。タタンをお姫様抱っこしていたのは、スザクだった。戦場の外まで逃げていたはずの彼女が、なぜここまで戻ってこられたか。

「セイラさんのひみつ道具、まだ使ってないのがあったんだよね。"かけ足男の駿足しゅんそく"の効果が込もった水」

グリム童話『六人男、世界を股にかける』。その物語には、とても足が速い男が登場する。その男の効果を使うと、鳥が飛ぶより速く、風が吹き抜けるように走れるのだ。

「一緒に船に帰ろう、タタン!」
「……! はいっ!」

優しく細められる赤い目を見て、タタンは思わず目を潤ませる。自分の肩に顔を寄せるタタンを、ぎゅっと抱きしめて、スザクは走る。誰も追いつけない速度で、一陣の黒い風のように駆け抜けていく。

火拳のエース、生死不明。白ひげは討ち取られることなく、海賊たちとフォレスト冒険団は撤退。マリンフォード頂上戦争は、海軍と海賊の痛み分けで終わったかのように見えた。
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