エピソード・オブ・タタン
「ねぇ知ってる? プリンは大航海時代に、海の上で生まれたお菓子らしいよ」
おやつの時間。フレアさんが皆の前にお皿を置きながら、そんな豆知識を教えてくれた。「トッピングはお好みで」と渡された生クリームを、てっぺんに飾っていたリーゼさんが、顔を上げて目を丸くする。
「え、そうなの?」
「イギリスの船上料理人が、余ったパンくずとか肉の脂身なんかを、卵液と混ぜて蒸し焼きにしたのが始まりなんだって」
「日本の茶碗蒸しみたいだな」
ぷるんと柔らかに揺れるプリンに、スプーンを差し入れながら、コットンさんが言う。フレアさんは私の前にもお皿を置いて、ニコッと笑った。
「はい。タタンにはいつもの味付けね」
「ありがとうございます、フレアさん」
スプーンを持って、1口分すくう。しっかりした固めの玉子を口に含むと、バニラの香りがふわっと漂った。そして控えめな甘さと少し苦めのカラメルソースが、口の中に広がっていく。
「美味しいです……!」
昔ながらの喫茶店で売っているようなレトロプリンは、私でも食べられる、甘いもののうちの1つだ。生クリームや砂糖たっぷりのお菓子は苦手だけど、甘さ控えめのものなら大丈夫。思わず頬を緩ませる私を見て、フレアさんは嬉しそうに笑っていた。
他の皆のプリンは、優しい甘さでぷるんと柔らかく、ほろ苦いカラメルソースがアクセントになっているタイプ。フレアさんが私だけに作ってくれる、その優しさが嬉しい。
ぱくり、ともう1口、プリンを口にする。やっぱり、この味好きだなぁ。
頭の中でかちりと音がして、小さな記憶の宝箱が開く。思い出すのは、レトロプリンを好きになったきっかけ。プリンみたいに少し苦くて、でもほんのり甘い思い出だ。
***
私が生まれた場所は、いつもむせ返るような甘い匂いで満ちていた。
ビスケットの壁、飴で作られた窓。お菓子でできた建物。ジュースが流れる川。濃厚なバターやお砂糖、クリームの匂い。そのせいか、物心ついた時から、私の周りだけ酸素が薄いように感じた。
いつもどこか息苦しくて、少し歩いただけでも息が切れる。身体が重くて、だるさが抜けてくれない。熱が出たり風邪を引いたりする。他の兄弟が元気に駆け回る中で、私だけ虚弱だった。
「とんだ失敗作を産んじまった」
「お前なんか、作るんじゃなかったよ」
皆が"ママ"と呼ぶその人は、威圧的な目で私を見下ろして、その言葉で私を殴りつけて。それきり、私の方を見てくれなくなった。家族のはずなのに、誰も私を見ない。誰も私を知らない。誰も私に会わない。声を出そうにも、お腹に力が入らなくて、掠れた小さな声しか出ない。
小さくてやせっぽちで、ひ弱な私。たくさんいる家族の中で、私だけが透明人間みたいだった。
私が6歳の頃。窓を閉め切っているおかげで、そこまで甘い匂いが入ってこない私の部屋を、初めて訪れた子がいた。ビクビクした様子でドアにもたれ、部屋の外の音に耳をすませている。
「……どうしたの……?」
のろのろとベッドから、上体を起こして声をかける。するとその子は、ビクッと肩を跳ね上げて私を振り返った。レースの襟がついた、花柄のワンピースを着た女の子。柔らかそうな茶色の髪に、茶色の目。くるんと長いまつ毛がついた丸い目は、おでこにもあった。
「あ……、あ……! か、かってにはいって、ごめんなさい!」
おでこの目を両手で押さえて、女の子はポロポロと泣き出す。慰めたいけど、今日は特に身体がだるくて動けない。女の子が落ち着くのを待ってから、私は口を開いた。
「おそとがこわいなら、ここにいていいよ」
「……え……」
「だいじょうぶ。わたしのおへや、だれもこないから」
私のお世話をしてくれる人が、1人か2人、ごはんを運んでくる。それ以外は誰も来ない、静かな部屋だ。隠れるにはぴったりだろう。そう思いながら言うと、女の子はびっくりしたように、私を見つめていた。
「きもちわるいって、いわないの……?」
「え?」
「わたしのめ、かいぶつみたいって、おもわないの……?」
思わず首を傾げた。怪物とは、怖いもののことだ。目が1つ多いだけで、怖いなんて思えない。それよりも、誰かにいらないと、失敗作だと言われたことの方が怖いのに。目の前にいるのは、私より小さくて、泣いている女の子なのに。
「うん」
こくりと頷くと、ようやく泣き止んだ女の子の目に、また涙が溜まっていく。どうしよう。また泣かせちゃった。おろおろしながら待っていると、女の子がおずおずと近寄ってきた。そしてベッド脇に、ちょこんと座り込む。
「わたし、タタン。あなたのおなまえは?」
「……プリン」
その子は3つ歳下の、私の妹だった。
その日から、プリンは毎日、私の部屋に来るようになった。話を聞くと、他の兄弟からいじめられているらしい。泣いている彼女の頭を撫でて、慰めるうちに、プリンは泣き顔以外の表情も見せてくれるようになった。
「おねえちゃんは、どうしていつもおへやにいるの?」
「からだがよわいからだよ。すぐつかれちゃったり、おねつが出たりするの」
「おねえちゃん、たべものだとなにがすき?」
「うーん……。ない、かなぁ。あまいものは、ぜんぶにがて」
「じゃあ、あまくなかったら、すき?」
「たぶん」
家族に忘れ去られた部屋の中。2人だけで寄り添って、ないしょ話をするような声で話したり、私の部屋にある絵本を読んだりする、穏やかな時間。プリンが来てくれると、寂しさが少しずつ埋められていくみたいだった。
ある日、プリンがお菓子を作ってきてくれた。プリンと同じ名前のお菓子。カップに入ったそれは、ひんやり冷たくて、身体にこもった嫌な熱をそっと冷ましてくれるみたいだった。
スプーンですくって、1口食べる。甘くない固めの玉子がつるりと喉をすべっていく。おいしい。スプーンを持つ手が止まらず、ぱくぱくと食べ続ける。こんなに食が進むのは、めったになかった。焦げたような苦いカラメルソースも、とても美味しく感じた。
「あのね、おさとうへらしてみたの。カラメルは、ちょっとこがしちゃったけど……」
「すごくおいしかった。ありがとう、プリン」
「ほんと?!」
「うん。またつくってくれたら、うれしい」
素直な気持ちを伝えると、プリンはすごく輝いた笑顔で、「またつくるね!」と約束してくれた。食べたのは甘さ控えめのお菓子なのに、なぜか胸の辺りが甘い気持ちになる。でも嫌な甘ったるさじゃなくて、ほんのり優しい甘さだった。
***
私が8歳になったある日、夢を見た。
夢の中の私は、森の中を自由に走っている。いくら動いても息が切れない。羽が生えているみたいに、身体が軽い。このままどこにでも行けそうなくらいだ。
走っているうちに、目の前が明るく開ける。広がっているのは、青い青い海。水平線の方から、流れ星のような光が近づいてくる。
それに手を伸ばしたとき、目が覚めた。
ベッドから起き上がる。今日はいつもより、身体の調子がいい。たまには部屋の換気をしようと思いながら、鍵を外して窓を開けた。爽やかな風が、部屋の中に流れ込んでくる。
「……あれ?」
それは、甘い匂いがしない風。ミントみたいにすっきりした、新鮮な風。高い塔から微かに見える海で、何かが……誰かが呼んでいる気がした。
清らかに澄んだ空気が、手足に力を与えてくれる。目に見えない何かに、背中を押されるように、私は部屋を出ていた。廊下を抜け、階段を降り、ドアを開ける。自分のどこにこんな体力があったんだろう。息は上がるけど、足はどんどん前へ前へと進んでいく。
夢で見た通り、森の中を駆け抜ける。やがてたどり着いたのは、島の端っこだ。ここまで来ると、甘いお菓子の匂いはもう、微かにしか感じない。深く息を吸い込んで吐き出し、匂いのしない空気を味わう。そのとき、小さな船の影が見えた。
何かの影が近づいてくる。目の前に現れたのは、四角いカーペットに乗った男の子だった。黒い髪に快活そうな顔。ケーキを飾るイチゴみたいに、キラキラした真っ赤な目が、私を見つめている。初めましてのはずなのに、彼は親しみやすそうな笑顔で、私に手を差し伸べた。
「『こたたん』さんですよね? 今世では初めまして! 私、『朱雀@最推し不死鳥』です!」
こたたん。朱雀。その名前を聞いたとたん、私はポカンと口を開けた。観音開きの扉が勢いよく開け放たれたみたいに、前世の記憶がぶわっと蘇る。
「え、え……!? す、『朱雀』さん!? なんでここに……!?」
「前世の仲間を集めてる最中なんです! こたたんさんも来てくれませんか?」
差し伸べられた手と、彼――彼女? のはじけるような笑顔を、交互に見る。その手に自分の手を重ねようとして、私は動きを止めた。この島に未練は無いけれど、1つだけ残る気がかり。プリンの泣き顔や笑顔が、頭の中に浮かぶ。
「あ、あの……。お別れを言いたい子がいるんですけど、いいですか……?」
「ん? もちろん!」
こころよく頷いてくれた朱雀さんにお礼を言って、森を引き返す。森から街へ戻る頃、馴染んだ気配を感じた。きょろきょろ周りを見回すと、離れた場所に小さな女の子を見つける。
「プリン……!」
駆け寄りながら声をかけると、やっぱりプリンだった。起きたばかりなのか、寝癖がついた髪は下ろしたままで、着てる服もネグリジェだ。迷子のように心細そうな顔をしていたプリンが、ぎゅっと抱きついてくる。
「おねえちゃん、どこいっちゃうの……!?」
「プリン?」
「おねえちゃんが、もりのほうにいっちゃうの、まどからみたの。ねえ、どこにもいかないで。おいてかないで……!」
しゃくりあげながら、プリンがぎゅうぎゅうと私を抱きしめる。その背中にそっと手を回して、小さな頭を撫でながら、私は考える。「置いていかないで」と泣いている妹に、何ができるか。
「私ね、ここから出ることにしたんだ。プリンも来る?」
そう聞くと、プリンは呆然としたように顔を上げた。涙をぽろぽろこぼしながら、何かを言おうとするかのように、口がぱくぱくと動く。小さな身体を震わせた後、プリンは目を閉じて、ふるふると首を横に振った。
きっと、"お母さん"が怖いんだろう。無理もない。私は宝物を扱うように、プリンを抱きしめ返し、その耳にささやいた。
「ごめんね。元気でね」
腕と身体を離す。プリンはスカートの裾を両手で握りしめて、顔をくしゃくしゃにしていた。彼女の頭をぽんぽんと撫でてから、私はくるりと踵を返す。追いかけてくる気配は、無い。
この島にいい思い出は無いけど、それでもプリンと離れることが、寂しくないわけじゃない。走るうちに、私の視界もじわりと歪む。涙がにじんで、こぼれ落ちていくのをそのままにしながら、私は朱雀さんのもとへ向かった。
朱雀さんの手を取り、船に乗り込む。そこには5人の女の人や女の子が待っていた。皆が優しい目で、私の方を真っ直ぐに見てくれる。それがどきどきして、気恥ずかしくて、でもあったかくて嬉しかった。
「改めまして、今世ではスザクです! ようこそ、夢女子冒険団のトロイメライ号へ!」
「わ……私、今世ではタタンです。よろしくお願いします……!」
息がしやすい。身体が軽い。声が出しやすい。前世から繋がっていた人たちが、陽だまりみたいに迎えてくれる。こんな温もりにあふれた場所があったなんて、知らなかった。
少しひんやりした潮風が頬を撫でる。もう私を不自由にしていた、甘ったるい匂いは無くなっていた。