エピソード・オブ・リーゼ
両親のことや、自分が産まれた場所のことは覚えてない。気がついたら、いつも痛くて、毎日泣いてばかりだった。
冷たい石造りの部屋の中。怖い顔の男の人たちが、私を長方形のテーブルみたいな台に縛り付けて、私の腕や足や胴体を切り落とす。痛みは無いけど、鋭く光る刃物が自分に振り下ろされるのは、すごく怖かった。反射で「嫌だ嫌だ」と泣きわめいてしまうくらい。
腕を切断される。血は流れなくて、その代わりに新しい腕が生えてくる。そして切り落とされた腕の方からは、新しい身体が生えてきた。私とそっくり同じ姿の身体。
それは、「悪魔の実の能力」と言われた。
ムシムシの実 モデル"プラナリア"。
他にも"実験"と言われて、血を抜かれたり、肌の1部を切り取られたり、いろいろされた。実験が終わっても、痛いことは終わってくれない。
「うええーん、いたいよぉ、やめてよぉ……!」
ボカボカと硬い拳が降ってくる。丸くなって、細い腕で頭と顔を守りながら泣くと、その男の子はすごく楽しそうに笑っていた。跳ねた青い髪で、黒いサングラスをかけた男の子が、私の白い髪をぐいっと掴む。乱暴に引っ張られて、頭皮が痛む。
「やめるわけねェだろ、こんなに楽しいのに!」
お腹を蹴られる。床に転がりながら、ゲホゲホと咳き込む。息がうまくできない。喉が焼けるみたいで、口からよだれみたいなのがこぼれた。それを見た青い髪の子が、「きたねェ」とまた笑う。
私にとっては、それが日常だった。
***
痛いことが嫌で、辛いことが嫌で。私は自分の部屋を出て、あちこちさまよった。いつか建物の外に出られるんじゃないかと、淡い期待を抱いて。重たい首輪を少し持ち上げて、微かに痛むくらい空っぽのお腹を抱えて、私は当てもなく歩き回った。
もらえる食べ物は、冷たくて固いパンが1個と、コップ1杯の水。それが1日に2回。たまに緑の葉っぱや、一欠片の茶色いお肉がついてきて、その日はラッキーだ。青い髪の子が来ると、ひっくり返されて踏み潰されるから、急いで食べないといけない。
「……おなかすいた……」
廊下にもたれて、ずるずるとうずくまる。目がじわりと熱くなって、私は鼻をすすった。そのとき、ふわりといい匂いがして、顔を上げる。
少し離れたところに、明かりがこぼれている部屋があった。いい匂いにつられて、ふらふらと歩き出す。こっそりのぞき込むと、そこは台所のようだった。
黄色い髪の男の子が、ボウルに入っている何かをかき混ぜている。口角はほんのり上がっていて、青い髪の子の笑顔より穏やかで、幸せそうだった。かき混ぜるのに使っていた道具には、ふんわりした真っ白なものがついている。
見とれていたら、男の子と目が合った。
「わっ!?」
「か、かってにみてごめんなさい! なぐらないで……!」
目を丸くして声を上げた男の子に、必死で訴える。いつもの癖で、うずくまって頭を守ると、なかなか返事が来ない。痛みも来ない。その代わりに、小さな足音が、恐る恐る近づいてきた。
「……おれ、そんなことしないよ。大丈夫」
「……ほんと?」
「うん。やくそくする」
こわごわと顔を上げる。しゃがみ込んだ男の子が、どこか痛そうな顔をして私を見ていた。それからそっと小さな手を差し伸べてくる。叩いたり殴ったり、つねったり引っ張ったりしてこない手は、初めてだった。
自分の手を重ねてみると、優しく握られる。ぬるい手の温度が伝わってきて、それが何だかくすぐったい。一緒に立ち上がり、男の子が連れてきてくれたのは、横に長い扉の前だ。いい匂いがするのはそこからで、オレンジ色の光の中で、丸くふくらんだ何かがいくつも並んでいる。
「今、カップケーキをやいてるんだよ」
「かっぷけえき?」
「食べたことない?」
「うん。けーきって、こんなにぷわーっとふくれるの?」
「そうだよ。ケーキだけじゃなくて、パンも」
「すごいねえ……!」
見ている間にも、ケーキは少しずつふくらんで、表面に色がついていく。まるで魔法みたいなそれを、私は夢中になって見つめた。やがてオレンジ色の光が消え、男の子が扉を開ける。温かい湯気がほわっと上り、黒い板の上に並んだカップケーキが現れた。
「わあ……!」
「まだ熱いから、さわっちゃだめだぞ」
ケーキを冷ましている間に、男の子が冷蔵庫から果物を取り出す。赤くて小さくて可愛い。緑色のヘタをぷちりと摘み取り、ボウルに入れていく。
「これ、なあに?」
「イチゴだよ。1個食べてみるか?」
「いいの?」
「いいよ」
男の子がそう言ってくれたので、私は指先でイチゴをそうっとつまみ、口に入れた。柔らかくて甘くて、ちょっとだけ酸っぱい。初めて食べたけど美味しい。私がイチゴを味わう間に、男の子はケーキに真っ白な何かを乗せて、上にイチゴを乗せていた。
「はい、食べてみて」
「これ、たべていいの……? ほんとに……?」
「もちろん。どうぞ」
「これがケーキ? これがイチゴで……。この白いの、なに?」
「生クリーム。甘くておいしいよ」
両手のひらにちょこんと乗るカップケーキ。ほんのり黄色で、真っ白で、赤。色がいっぱいでキレイで、まるで食べ物じゃないみたい。食べるのもったいないな、と少し思ったくらい。
でも早く食べないと、台無しになっちゃう。私は思い切って大きく口を開け、バクッとかぶりついた。柔らかくて少しひんやりした生クリームが、鼻や口の周りにぺちゃりとつく。
「……おいしい!」
それは、今まで食べたどんなものよりも、あったかくて甘くて美味しかった。ケーキはふわふわで、なめらかな生クリームが舌の上でとろけて、甘酸っぱいイチゴの果汁が喉をすべり落ちる。
「すごいすごい! こんなおいしいごはん、はじめてたべた!」
「えっ。これ、ごはんじゃなくておやつだよ?」
「おやつ? それなに?」
「えっと、おやつっていうのは……。ごはんのとき以外に食べる、甘いもの?」
「ごはんじゃないのにたべられるの?!」
今日は初めて知ることばかりだ。詰め込むようにケーキを噛んで飲み込むと、すぐ無くなってしまう。ケーキは甘くてふわふわ柔らかくて、すぐに溶けちゃって、まるで夢みたいだ。
いい匂いにつられたのか、ネズミさんが集まってくる。男の子はネズミさんにも、優しい顔でケーキをあげていた。ぼうっとそれを見ていると、男の子が顔を上げて、私を見る。
「あのさ、また作ったら、食べてくれるか?」
「いいの!?」
「うん」
男の子がこくりと頷く。そして濡らした布で、私の鼻や口の周りをそっと拭いてくれた。誰にもされたことなかったから、びっくりしたけど、嫌じゃない。むしろくすぐったくて、何だか嬉しかった。
「おれはサンジ。きみの名前は?」
「えーと、んーと、リーゼ!」
「リーゼ」
ぽんと頭に思い浮かんだ名前を答える。ずっと「おい」とか「お前」とか、「モルモット」とか呼ばれてたから、すぐ思い出せなかった。サンジが嬉しそうに、ほんわり笑って、私の名前を呼ぶ。
そのときだ。私の身体に、ようやく血が巡り始めたような気がしたのは。
***
痛くて辛い日常は変わらない。でも、サンジといるときだけは、それを忘れられた。サンジがごはんを作るところを眺めて、たまに私でもできそうなお手伝いをして、できたての温かいごはんやおやつを食べる。痛いことも怖いことも、お腹が空くこともない。誰かと言葉を交わすことができる、しあわせな時間。
でも、青い髪の子や赤い髪の子、緑の髪の子が来ると、その時間は台無しになる。私もサンジも、彼らに見つかるとすぐ殴られた。
たくさん痛い思いをして、たくさん泣いて。ときおりサンジに庇われて。気が済んだ彼らがいなくなってから、ボロボロの顔や身体で、後片付けをする。散らばったお皿の破片や、ぐちゃぐちゃになってしまった料理を、ひとつひとつ拾い集める。
あの頃の私たちは、嬉しいことも悲しいことも、辛いことも痛いことも、分け合っていた。独りだったら耐えられないことも、2人だったら半分こできた。そして、独りだったら思いつきもしなかったことを、考えるようになった。
――もし、私が強くなったら。サンジはもう、泣かなくて済むのかな。
――どうしたら、強くなれるかな。
同じ痛みを抱えながら、数えきれないくらいの夜を越えた、ある日のこと。ずっと続くと思っていた私のしあわせは、突然終わりを迎えた。
「……サンジ、どこ……?」
サンジがいない。どの廊下にも、台所にも、どこにもいない。ごはんを持ってきてくれる人に聞いても、皆辛そうに口をつぐんで、首を横に振るばかり。誰に聞けば分かるだろう。
ひとかけらの希望を抱いて、青い髪の子にも聞いてみた。すると彼は、私を小突いて笑った。
「あいつはどこにもいねェよ」
「……そ、そんなことない……っ」
「いねェって。今頃どっかで野垂れ死んでるぜ」
「そんなことない……、そんなことない……っ!」
「あれから2年も経ってんだぞ! あのでき損ないはもういねェんだよ! いい加減分かれよ!」
苛立ったように怒鳴られ、ガツンと頭に衝撃が走る。視界がぐらりと揺れ、目から星が飛び散った気がした。冷えた床に倒れる私の髪を、青い髪の子は強く掴んで引っ張り上げる。そして私の顔をのぞき込み、呪いをかけるように告げた。
「あいつみたいに逃げようなんて、思ってるんじゃねェだろうな。お前みたいなグズでひ弱でビービー泣いてるやつ、ここから逃げられるわけねェだろ」
「どうせお前は、おれから離れられねェ。一生ここにいるしかねェんだよ」
何言ってんだこいつ。私の中で、何かがプツリと切れた。お腹の中が熱くなり、そこから手足が震えるほどのエネルギーが、巡るような感覚。それは、確かに怒りの感情だった。
フィルムが流れるように、誰かの記憶が頭の中に流れ込んでくる。さっき頭を殴られたからだろうか。楽しそうに絵を描いている少女。漫画を読みふける少女。パソコンの画面に向かって、スタイラスペンを走らせている女性。夢中になっている漫画のタイトルは、『ONE PIECE』。
これは、私の――前世の記憶か。
何も言わなくなった私を見て、満足したのか。青い髪の子――ニジが部屋を出ていく。ドラムを打つように鳴る心臓を押さえ、私は顔を上げた。
――絶対、ここから逃げてやる。
あのモラハラDV野郎に、何としても一泡吹かせてやる。お前の思い通りになってやるもんか。
背伸びをして、部屋の壁に作り付けられた棚を探る。そこには実験のときに使われる大振りのナイフがあった。手探りでそれを取り出し、息を吸い込んで吐く。大丈夫。痛くない。大丈夫。左腕を出して、大きく振りかぶる。
腕がぼとりと落ちる。新しい左腕が生えてきて、落ちた腕からは新しい身体が生えてきた。目を閉じて集中する。肉体は自動的に再生されるけど、肉体についている服等の情報は、再生するか否か選べるかもしれない。爆弾付きの首輪の情報を選ばずに、身体を再生させる。
目を開ける。目の前には重そうな首輪をつけた私が立っていた。私の首には何もついていない。首がすぅすぅして軽いのは、不思議な気分だった。本当は、それが当たり前なのに。
よかった。本体の情報も移動できたみたいだ。でも安心するのはまだ早い。目の前の私は、私の考えを分かっているように笑って、出口を指さした。分裂体を残し、私は部屋を出る。
歩き慣れた廊下を走る。どこを歩けば、どこに隠れれば見つからないか、ここにいる間に把握済みだ。
廊下をいくつも曲がり、階段を下りる。裏口のドアを見つけて開けると、新鮮な空気が流れ込んでくる。眩しい光に目がくらみ、ぎゅっと目を閉じた。少しずつ開けた目の前に広がるのは、青い青い海。後は船を見つけて、乗り込むだけ。
そのときだった。海の向こうから、船が1つ近づいてくる。ちょうどいいや、あれに乗ろう。物影に隠れて待っていると、別の何かが飛んできた。だんだん大きくなっていくそれに、思わず息を止める。
飛んできたのは、豪華な刺繍を施した絨毯だった。乗っているのは、赤い目をした黒髪の男の子。私と同じ歳くらいで、褐色肌も相まって、アラビアンナイトの王子様みたいだ。
「『百花繚乱エリーゼ』さんですか!? おれ、『朱雀@最推し不死鳥』です!」
「『朱雀』さん……? 不死鳥マルコの夢絵を集めてるから、いいね欄が黄色と青に染まってた『朱雀』さん!?」
「はい! 見つかってよかった……! 一緒に行きましょう!」
手を差し伸べられる。夢でも見てるみたいだ。まさか、転生した人が私の他にもいるなんて。しかも前世の相互だ。ご都合主義でも何でもいい! こんなの運命としか思えない!
「行きたい! 一緒に連れてって!」
「熱烈〜!」
迷わずに私はその手を取った。そのまま勢いよく抱きつくと、温かい少年の身体に抱き止められる。そのままころんと転がる私たちを、柔らかな絨毯が受け止めてくれた。
びゅーんと爽快な速さで、絨毯は一直線に空を飛び、船の甲板に舞い降りる。そこには3人の女の人もいた。宝塚の男役みたいなお姉さんと、大人版白雪姫みたいなお姉さん。それから、私より少し歳上くらいの、淡い茶色の髪の女の子。
「前世『百花繚乱エリーゼ』! 今世はリーゼでっす! よろしく〜! もしかして皆も相互だったりする? 皆の推し描かせて夢絵も描かせて久しぶりにお絵描きしたい」
「びっくりした、『百花』さんか」
「めちゃくちゃ怪我してるじゃん! 何があったの!?」
「実験体にされてたけど、今日逃げてきた!」
「いくら何でも不憫!」
「行き先がジェルマ王国で、嫌な予感はしていたけれど……。こっちへいらっしゃい。手当しましょう」
爆速で進む船の中。大人版白雪姫さん――セイラさんが、医務室らしい部屋に案内してくれる。丸い椅子に座ると、セイラさんが唱えた。
「『河童の妙薬』」
セイラさんの手の中に平たい瓶が現れる。セイラさんは私の細い腕をそっと持ち上げ、痛ましいものを見るように眉を寄せた。そこには青あざがたくさんある。
「これは打ち身や骨接ぎ、火傷に効くものよ。少し我慢してちょうだいね」
「うん」
瓶の中の塗り薬を、そっと塗り付けられる。いつも殴られたりぶたれたりしてたから、ほっそりした指で撫でられても、全然痛いと思わない。それに薬を塗られるうちに、痛みもアザもどんどん消えていった。
「すごい! もう痛くない!」
「小さな子にこんな怪我を負わせるなんて、ひどいことするわ」
「今世のリーゼは、何歳なんだ?」
「いちおう、10歳ってことにしてる!」
「一応?」
「今世でいつ産まれたか分かんないから!」
宝塚風のお姉さん――コットンさんに返事をすると、4人とも頭を抱えたり、手で顔を覆ったりしてしまった。スザクなんて膝から崩れ落ちている。年齢が分からないから、とりあえずサンジと同い年ということにしていた。
「まさか薬とかで、記憶消してるとか言わないよね……」
「そもそも何でそんなことに……」
「ジェルマ王国に、大砲の1つでも打ち込んでくるべきだったか」
「まず一刻も早く離れましょう。あんな場所に、もうリーゼを置いておけないわ」
「ほんと救出できてよかった……!」
皆優しいなあ。ほわほわした気持ちで眺めていると、ぐぎゅるるる、と音がする。私のお腹からだ。淡い茶色の髪の、コックコートの女の子――フレアが目を見開いて、私の方に顔を向ける。
「えへ、安心したらお腹すいちゃった」
「……ちなみに、今日は何食べたの?」
「カピカピになったパン1個と、お水! コップに1杯!」
「お姉ちゃんがおなかいっぱい食べさせてあげるからね!!」
「フレアが泣いてる」
「育ち盛り食べ盛りの子どもが、ひもじい思いしてるの地雷です!」
フレアが私をぎゅっと抱きしめる。女の子って、温かくて柔らかくて、いい匂い。全然痛くないし硬くない。私はフレアに抱きつき、頬を擦り寄せた。すごく優しくて、安心する。
キッチンとダイニングルームらしき場所に皆で行く。私はふかふかのクッションが乗った椅子に座り、皆にこれまでのことをかいつまんで話した。
「闇が深いな……」
「いくらリーゼが女性キャラ好きだからって、ヴィンスモーク家と繋がることある??」
「サンジがいたから、リーゼの慢性的な栄養不足がそこそこ解消されてた可能性あるよね」
「それにしてもニジが執拗過ぎるわね……。女の子1人相手に、わざわざ毎日のように痛めつけに行って、食事の邪魔もするんでしょう?」
「ほんとそれ。原作でもサンジや女の子をボッコボコにしてた奴とはいえ、ひどすぎ」
「大丈夫か? ニジに妙な執着されてない?」
「まっさかあ〜! 相手は血も涙も人の心もない改造人間だよ? 叩けばよく鳴くオモチャが1つ無くなったくらいで、何とも思わないよ」
スザクの発言を笑い飛ばしたとき、フレアがお盆を持ってきた。乗っているお椀からは、ほんわりと湯気が立っている。
「はい、召し上がれ」
「ありがとう! いただきまーす」
スプーンを持って、真っ白でとろりとしたそれを1口すくう。ふうふうと息を吹きかけて冷まし、パクッと口に入れた。ミルクのまろやかな味と、柔らかくとろけたパンの食感。あと、ほんのり塩とコショウの味がする。
「とろとろで美味しい! これ何?」
「パンがゆだよ」
「へー。パンもおかゆにできるんだね。初めて食べた!」
「しばらくこれで様子を見て、少しずつ野菜とかお肉も増やしていこ」
「わあい! ごはん楽しみ!」
「たんとお食べ……」
「いっぱい食べて大きくなるんだぞ……」
「お腹が苦しくならない程度にね」
なでなでと頭を撫でられながら、もう1口パンがゆを食べる。食べてる間に感じた幸せは、とろとろであったかくて、いい感じに塩気があって、ほのかに甘い味がした。