マーマン・ラプソディー



青い海が一望できる小高い場所に、白い石造りの建物がある。海洋研究センターという文字が門に彫られているその場所では、その名の通り、海の水温や水質、海洋生物の生態など、海に関する様々なことについて研究されていた。


「おはよう、ピルラ!」

プールがある部屋を開けて、明るく挨拶をしたのは、まだ18歳になったばかりの少女――アヤだった。研究員の証である白衣が大きく見えるほど小柄で、濡れないように袖をまくって使っている。ふわふわと顔の横で揺れる巻き毛も相まって、あどけない印象を与えていた。

そんな彼女に呼ばれて、水の中からひょこりと顔が出てくる。
白皙という言葉が当てはまる、一度も紫外線を浴びたことが無いような肌。しなやかな筋肉と平らな胸板から、雄だということが分かる。自分で切ったらしい、毛の長さがばらばらの髪は、精練された絹糸のような白銀。
水面をぱちゃりと叩く尾ひれがついた乳白色の下半身は、光の加減で虹色の照りを帯びる。この真珠そっくりな鱗の色彩を見て、アヤはパールの語源とも言われるラテン語の名前をつけたのだった。
どこもかしこも白い体のうち、目だけは海の色が移ったかのような深いターコイズブルー。魔性を持っているような美しい顔立ちは、名工によって造られた大理石の像のようで、冷たさも感じさせた。

「今日の朝ごはんは、アジとマグロだよ」

ゴム手袋をはめた手で、アヤはバケツから捌いた魚を取り、人魚に渡す。人魚――ピルラは水かきや鋭く長い爪がある手で受け取ると、魚にかぶりついた。

「このマグロ、100gで1000円以上するんだって。すごいよね〜。君は人がなかなか食べられないものを食べてるんだよ」

アヤの言葉を気にせず、赤いお刺身をむしゃむしゃ食べているピルラ。その様子を、アヤはにこにこしながら眺めていた。

ピルラは数ヶ月前、嵐が去った日の朝に、浜辺で発見された。そもそも人魚とは、遥か昔に人間によって乱獲され、絶滅したと思われていた存在だった。

気を失い、傷を負い、息も弱かったピルラを、研究員たちは慌てて施設に運び、水槽に入れて手当をした。やがて彼は目を覚ましたが、研究員が近づけば威嚇し、手を伸ばせば引っ掻いたり噛み付いたりする。怪我をしても大事にならないようにと、体力や筋力に自信がある男の研究員たちが手を焼くなか、アヤが名乗りを上げた。

「私、試してみてもいいですか?」

結論から言うと、アヤも彼に噛まれた。ごはんの魚を水に入れた時だ。あまりにも柔らかい皮膚や肉に牙が食い込み、動揺したのはピルラの方だった。

鍛えられたために固くなった筋肉や、太い骨など、脅威となるものが何も無い。簡単に食いちぎれそうな手や細い腕にぎょっとして、口を離して距離を取る。そんなピルラに、アヤは手から血を流しながら言った。

「大丈夫。怖がらないで。誰も君を傷つけないよ」

アヤの真剣な目が通じたのか、その日からピルラが、アヤを含めた研究員たちに、攻撃をすることは無くなった。警戒するような態度は残っていたものの、爪や牙を向けなくなったため、アヤはそのままピルラの担当になった。彼女が彼に名前をつけたのも、この時である。

「ピルラ、今日は音楽を聞こうか」

プールの側に座り、防水性のスマホを操作するアヤを、ピルラは腕に顔を乗せながら見上げている。流れてきたのは、流行りのポップソングをオルゴールに変換したもの。金属を弾くような澄んだ音色が、部屋を満たしていく。

「意外と現代的なものが好きだよね」

クラシック音楽を流した時は、退屈そうに泳いでいたことを思い出しながら、アヤは手帳にメモをした。ピルラは目を閉じて聞き入っている。前にヒップホップを流したら、そわそわと体を揺らしていた。

オルゴールの曲が終わり、長方形の画面の中で、4人組のバンドのライブ映像が再生される。彼らが歌っているのは、不自由なガラスに囲まれて育った人魚の歌。本当の自由や幸せとは何なのかを、考えさせられる詞だ。

ピルラもいつか、海に返す日が来る。
その時、私は笑顔で「さよなら」を言えるだろうか。

「っ!?」

ピタリ、と冷たいものがアヤの手に触れた次の瞬間、言葉にならない声が一瞬空気を裂く。バッとピルラの方を見ると、彼は軽い火傷をしたように赤くなった指を押さえて、顔をしかめていた。

「うわーっ!? ピルラ、早く水で冷やして!」

白衣の袖を下ろし、直接ピルラの肌に触れないようにしてから、アヤは彼の指をプールの水につけさせる。その間、ピルラは暴れもせず大人しくしていた。

「人間は人魚より体温が高いから、私に触るとすぐヤケドしちゃうんだよ。もう私に触っちゃダメだよ、ピルラ」

見た目は25歳くらいに見えるピルラに対して、アヤは小さい子を諭すような口調で注意する。ピルラは少しだけ、不満そうな表情になって、袖に覆われたアヤの手を見ていた。

***

八百比丘尼をご存知だろうか。
人魚の肉を食べたことで不老長寿となり、800歳まで生きた伝説上の人物である。
この伝説の影響で、人魚の血や肉は不老長寿を得られる薬と言われ、人魚なら大人でも子どもでも関係無しに人魚狩りが行われた。更に、人魚は不吉の象徴として扱われていたことも拍車をかけ、人魚の個体数は激減した。

人魚自身の寿命は長く、300年は生きられるが、その血や肉に不老長寿を与える力は無い。あくまで伝説は伝説に過ぎないのだと人間側が気づくまで、長い時間がかかった。

ピルラは人魚の、最後の生き残りだった。
同族が人間に理不尽に襲われ、奪われることを繰り返されるなかで、人間は全て敵だと考えるようになった。人間に見つからないように、海の底で暮らした。もし2本の足がある存在がいれば攻撃対象。やられる前にやれ。そうして独りきりでも生き延びてきた。

"誰も君を傷つけないよ"

そんなこと、あるはずが無いと思っていた。
しかし、ガラスに囲まれたその場所では、自分の怪我の手当をしたり、食べ物を運んできたりする人間はいても、体を切り刻んだり鱗を剥ぎ取ったりする人間はいなかった。

「ピルラ」

もう思い出せなくなった名前の代わりに、新しい名前を呼んでくれる存在が現れるなんて、夢にも思わなかった。


「あ、ヤ」

低く艶のある声が出た。喉をさすりながら、ピルラは懸命に、自分の目の前にいる少女の名前を口の中で転がした。

「アヤ」

からん、と乾いた音を立てて、掃除用のデッキブラシが床に落ちる。アヤはこぼれ落ちそうなほどに目を見開いて、ピルラを凝視した。

「しょっ、所長ー! せんぱーい! ピルラがっ、ピルラが喋りましたーーー!!」

そんなに俺が話すのは変か。言葉を教えたのはお前だろうが。
ばたばたと部屋を飛び出したアヤを引き止められず、細い背中をなすすべなく見送りながら、ピルラはひっそりショックを受けた。



「イルカみたいな鳴き声を出したり、舌を打ち付けるような音を出したりすることはあったが、言葉を話せる日が来るとは……!」
「やっぱり水の中じゃ、話すよりも音を出した方が、コミュニケーションを取りやすいからでしょうか。話せるようになったのは、水から顔を出している時間が長くなったからでは?」
「すごいよピルラ! これでピルラとたくさん話せるね!」
「アヤは能天気過ぎじゃない?」

数人の研究員たちが、興奮したように話しているのを横目に、ピルラは尾びれを揺らめかせて水の中を泳ぐ。

傍にいることが多い人間の名を呼んだくらいで大げさな。そう思いながら、彼はアヤ以外の人間たちが部屋から出ていくのを、水中で待っていた。これ以上珍獣みたいに扱われるのはごめんである。

「ピルラ〜」

弾んだ声で名前を呼ばれ、近づいて水から顔を出す。何がそんなに嬉しいのか、アヤは頬をゆるゆるに緩めて、ピルラを見つめていた。

「ピルラの好きな食べ物は?」
「魚」
「好きな種類はある?」
「カツオとサケ。前に食べたマグロも美味かった」
「もしかして味占めたかな。あ、どんな音楽が好き?」
「テンポが早いやつ」

今まで見てきたことと照らし合わせながら、面接にも似た質問を続けていく。青い花柄の手帳にメモを取りながら、アヤは「うーん」と斜め前に視線を向けた。

「……アヤは、何でここにいるんだ?」

組んだ腕に顔を乗せて、ピルラが声をかける。彼の方から質問が来るとは思わず、アヤは思わず目を瞬かせた。海色の瞳が、こちらを窺うように見上げている。

白衣の下を探り、アヤが何かを取り出した。それは細い革紐で作った首飾りで、柔らかく丸みを帯びた曇りガラスのようなものがぶらさがっていた。胸元で水色に光っている。

「宝石みたいでしょ。シーグラスっていって、波に揉まれるうちに角が取れたガラスの欠片なんだよ。小さい頃は、本当の宝石だと思ってたな」

首を傾げるピルラに、アヤは話し始めた。

「私ね、海から離れた土地で産まれたんだ。だから、小さい頃に初めて海を見て、思ったの。こんなに綺麗な場所があるんだって」

サンダルの隙間から流れ込み、ちくちくと足を刺激する熱い砂。緑が混じったような青い海原。鼻をくすぐる潮の香り。耳を優しく撫でる波の音。

「それから、魚とか貝とか、海に住んでる生き物にも興味を持って、図鑑を読んで勉強したんだ」

海に惹かれ、たくさんのことを知って、いつしかアヤの夢は輪郭を持って形成されていた。
この国で働ける年齢である18歳になったら、あの青い世界で、たくさんの生き物に囲まれて過ごしたい。

「海と、海の生き物が好きだから、私はここにいるんだよ」

光を反射した波のような瞳からは、嘘偽りが全く無いように思えた。
自分が生まれ育った場所を、アヤが愛してくれていることが、ピルラは嬉しいと感じていた。
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