雨音が響いていますね



私が、母の腹からこの世に生まれ落ちて、20年の月日が流れた。

世間から、もう子どもではなく大人として認識される、この節目の年の姿を残すために、私は写真を撮りに行った。

あでやかな赤。淡く愛らしいピンク。黄緑がかった白。爽やかな水色。しとやかな紫。柔らかなオレンジ色。
色とりどりの花飾りたちは、手先の器用な母が造花やビーズでこしらえた物もあれば、お店で売られていた物もある。

それらをひとつひとつ手に取って、並べて吟味して、自分の好みに響いたものを選んだ。

フォトスタジオの化粧室でヘアメイクの雑誌を眺め、やってほしい髪型を指さしながら伝える。

スタッフの人と会話をしながら、ジェルタイプのオールインワン化粧品で手入れしていた肌に、下地クリームやファンデーションを塗られた。

長いと言ってもらえるが普段下を向いているまつ毛は、銀色のビューラーで挟まれて上へと持ち上げられ、マスカラを付けられる。
目の辺りがひやひやするというか、くすぐったいというか、妙な感覚だった。

唇にはグロスを付けられ、下手に唇を舐められないなという、リップクリームを塗った時と似たような気持ちになった。グロスが歯につかないかという心配も少々あった。

普段、私の目に映る世界を鮮明にしてくれる眼鏡は外されており、鏡の中の私の顔はぼやけた輪郭をしている。恐らく化粧で魅力的に変身しているのであろう自分の顔を想像しながら、私はふと思った。

彼が、今の私を見たら、どう思ってくれるのか。何と言ってくれるだろうか、と。

***

その子と出会ったのは、中学校に入学した時だった。

中学で初めての委員会に参加した日。
私はオリエンテーションで渡された学校の地図を片手に、迷いかけながら目的の教室へたどり着いた。

しかしそこでちょっとした問題が起きる。
教室にたどり着いたはいいものの、どこへ座ればいいのかさっぱり分からない。おろおろと右往左往していた私に、声をかけてくれた子がいた。

「何組なの?」
「え、あ、××組です」
「××組ならこっちの席だよ」

優しい笑顔と親しみやすそうな声に、私はすっかり心を奪われた。何だこのいい子は。友達になりたい。出会ってすぐの子にそんなことを思うなんて、初めてだった。

そんな出会いを経た次の日。
私はその子の声を、廊下の方で聞いた。

(あの時の子だ!)

ワクワクした気持ちで、私は教室から廊下を覗いた。そして驚いた。その子は髪を野球部のようなスポーツ刈りにし、黒い学生服を着ていた。
その時こう思ったのだ。

(あの子、男の子だったの!?)

こうして私は彼のことを、無自覚に「フレンドリーで優しくて可愛い女の子」だと誤解していたことを知った。

初めて会った昨日は、彼の髪はまだスポーツ刈りではなく、着ていたのは学校指定のジャージだった。

おまけに私の主観では、彼は可愛い女の子に見えていたし、声も変声期が来てないせいで、男らしく低いものではなかった。

初めて人の性別を間違えたことに私は呆然とし、彼に知られる前に気づけてよかったと安堵した。

後から思えば、当時の私は髪を短く切っていたため、逆に彼に男の子だと思われていた可能性もある。実際、別の男子に、同性だと間違われたこともあった(余談だが、その時私は『泣いちゃいそうだよ』という本を読んでいた)。

話を戻そう。

彼は明るい性格の少年だった。
偶然、廊下から教室の中が見えた時、彼の席はいつも人に囲まれていた。

「話しかけていいんだからな? 俺、話しやすいからさ」

エネルギッシュというほどではないけど、私にとっては、太陽のような少年だった。
彼の前向きなところが、快活な笑顔が、分け隔てなく接してくれる人懐こさが、私は好きだった。

小学生の頃はいじわるをしたりからかったりする男の子がほとんどで、こんなに優しく話しかけてくれる男の子はほぼ存在しなかったのだ。私が初対面で好印象を抱くのも無理からぬ話と言える。

「本当に本が好きだな」

図書室のガラス越しに、本を読んでいる私の姿を見つけただけで、話しかけに来てくれた彼の行動がすごく嬉しかった。

合唱コンクールで指揮を執る後ろ姿に、数学が得意な賢さに、英語の暗唱大会に出場する度胸に、心から憧れた。

彼は、私には無いものを、たくさん持っていた。


「つきあうとか、思いを伝えるとか、そんなこと思っていない」
「ただ一緒にいて、話をして、彼が笑ってくれれば、それでいい」


図書館で借りた小説の中に、川原の土手で、好きな人にそう思った少女がいた。その時私は、本の中に自分を見つけるという感覚を知った。

分かるよ。私も同じ気持ちだよ。小説の中のヒロインに、そう伝えたい気持ちになった。

彼の話をすると、友達はにまにまと笑いながら、私に春が来たと言う。それに対し、私はそんなんじゃないんだと恥ずかしがりながら否定した。信頼している友達だから、そういうやり取りができたんだと思う。

恋とは、似てるようで違う感情だと思う。
一緒にいると楽しくて、ふわふわした気持ちになった。話してると、あっという間に時間が過ぎていく。彼の考え方に、"なるほど"と思ったり、"いいなあ"と感じたりする。

何を話したかは具体的に覚えてないけど、楽しかったという思いだけはちゃんと残っていた。

自分が男子だったら、色恋の噂を流されることなんて気にせずに、もっとたくさん話しかけに行けるのにと思ったくらいだ。

だから、この気持ちはきっと、友愛か憧れだ。
もしくは、今まで周りにいなかったタイプの、優しさを持つ彼に懐いているんだ。

あの頃は、そう思っていた。

今は、あの時の感情に、明確な名前はつけられていない。

はっきり言えるのは、あの頃の私にとって、彼が一番特別な男の子だった。

国語が得意な私。数学が得意な彼。
アニメや漫画が好きな私。アニメや漫画に必要性を感じていなかったらしい彼。
美術部に所属していた私。野球部に所属していた彼。
内気で人見知りな私。明るくてコミュニケーション能力が高い彼。

私と彼は何かと正反対だった。
クラスは3年間一緒じゃなかったけど、その距離感が逆に良かったのかもしれない。

同じクラスになって、体育祭で一緒にダンスをしたり、同じ教室で勉強をしたり給食を食べたりしたい気持ちはあった。でも、近くにいすぎて、彼に自分のかっこ悪い姿を見せるのは嫌だった。

憧れの子の前では、かっこつけたい年頃だったのだ。どうか大目に見てほしい。

きっかけは、彼にとっては何てことない出来事だったかもしれない。過ごした時間も、他愛のない、ごく普通の日常だったかもしれない。

でも、彼と過ごしたあの時間は、私にとっては、誰にも知られず見つけた綺麗な石みたいに大切なものだった。

廊下で偶然目が合って、そのまま見つめ合うことになった、あの不思議な数秒間。
図書室で過ごした、楽しいひととき。
給食当番だった彼を手伝って、食器カゴの片方を持って、一緒に食器を返却しに行った昼休み。

くすぐったくて、少しどきどきして、何だか甘い。そんな金平糖のようなきらきらした思い出は、今も私の胸に残り続けている。



中学校の卒業式の日に、私は彼に手紙を渡した。

君に憧れていると、できれば私のことを忘れないでいてくれると嬉しいと、嘘偽りない素直な気持ちを書いた手紙。どうせ後悔するなら、渡さないより渡して後悔したいという気持ちだった。今思えば、自分のどこにそんな勇気があったのだろう。

それ以来、彼とは何も無い。
同じクラスじゃなかったから、連絡先も知らない。今どうしているかも分かっていない。

たぶん今頃、彼はいろんな出会いを経て、いろんな経験を積んで、自分の人生を歩んでいるのだろうと思う。私がそうだったみたいに。

中学の頃から少しずつ練習して、私はだんだん人前で話すのが平気になった。
初対面の人とも、普通に話せるようになった。
本が好きなのは、今も変わらない。

彼の知らない私の5年間。
私の知らない彼の5年間。

いつかまた会って、あの頃みたいに話せる日が来ればいいなと思う。

その頃には、私たちはどんな大人になっているのだろうか。
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