夏の桜と永久の愛



次の年の夏も、その次の年の夏も、サクラは変わらず私を待ってくれた。綺麗な織物みたいに風になびく長い髪も、涼しげな青い目も、すらりとした体も、何も変わらない。

私はだんだん背が伸びて、体の輪郭が柔らかく丸みを帯びてきた。いつも見上げていたサクラの目線に、少しずつ近づいていく。

昔のままのサクラの隣で、私は大人に成長していった。

***

高校2年生になった夏休み。おじいちゃんの家に今年も泊まりに来た。明日は久しぶりにサクラに会える。嬉しいな。話したいことがたくさんある。何を話そう。何をしよう。そんなソワソワした気持ちで目を閉じる。


――不意に、目が覚めた。

布団の上で体を起こすと、タオルケットがぱさりと落ちる。蚊取り線香の匂いが細く漂う部屋を、ぼんやりする頭で見回した。

"――"、"――"

誰かが、私の名前を呼んでいる気がする。なぜか懐かしい声に誘われるように、私は部屋を出た。サンダルを履き、外へと足を踏み出す。

蛍みたいな淡い光が、ふわふわ浮いていた。手を伸ばすと、軽やかに逃げてしまう。夢を見ているみたいな気持ちで、私は可憐な光を追いかけた。

"――"

サクラに似た声が、私を呼ぶ。
手を伸ばすと、ばしゃんと冷たい飛沫が足を濡らした。ぎょっとして見下ろすと、サンダルを履いた素足が波に浸かっている。いつの間に、海まで来てたんだろう。後ずさろうとしたとき、強い力で足首を掴まれた。

「ひ……っ!」

"よう来た、よう来た"
"こっちへおいで、こっちへおいで"
"そこまでおいで、底までおいで"

「や……っ、やだ、いやだ! やめて! はなして!」

か細いのにはっきりと耳に届く声が、いくつも重なる。ざわざわ、ざわざわと、波に紛れるような声が体にまとわりつく気がした。引きつった声で足を動かしても、びくともしない。ずるずると海に引きずり込まれていく。

"さびしい、さびしい"
"だれもこない、誰も来ない"
"でも、お前さんは来てくれた。お前さんは来てくれた"

違う。サクラの声じゃない。サクラは私の名前を呼ばない。サクラは私の名前を知らない。呼ばなくてもいいくらい、いつも側に居た。

「いや! 離してったら! 行きたくない!」

バシャバシャと拳で波を叩いても、全然手応えが無い。なのに、体に跳ねる飛沫だけがねっとりと重さを増して、私を沈めようとする。もがけばもがくほど、絡め取られる。

「助けて! 誰か……っ!」

水面から顔を出し、必死に叫ぶ。

「サクラ、助けて……!」

どぷん、と音を立てて、息ができなくなる。あふれた涙が、海の中に溶けた。その時だった。

水の中で、風が吹いた。
私に絡みつく水を蹴散らすように、強い風が吹く。私の周りの水が霧散したと思ったら、しっかりした腕に抱きしめられていた。

そうっとまぶたを開く。白い浴衣と緑色の羽織。揺れるサンゴのイヤリング。遠くを睨みつける、青い目。風に踊るように揺れる長い髪。

「……さ、くら……?」
「……っ」

名前を呼ぶと、息が一瞬詰まるくらい、強く抱きしめられる。その身体が少しだけ震えていて、私も彼の身体に腕を回した。

「……絶対に、俺から離れるなよ」
「……うん」

サクラは片腕で私を抱き寄せ、もう片方の手に長い杖を握る。青い龍が巻きついている、翡翠色の杖だ。それを振ると、襲いかかってくる波がうねり、ざわめく声たちを絡めとる。

"邪魔をするな、邪魔をするな"
"娘を寄越せ、娘を寄越せ"

「黙れ」

底から冷気が這い登るような声で、サクラが声たちに向かって言う。

「こいつは、てめぇらみたいな亡霊が存在するために、使われていい奴じゃねえんだよ!」

轟く声に呼応するように、海が荒れた。ごうごうと唸る波に、声たちがかき消される。やがて、猛り狂っていた波が凪ぐ頃には、声はすっかり聞こえなくなっていた。

いつもの小島にそっと降り立つ。すると、ぷつんと糸が切れた人形みたいに、サクラの身体ががくんとくずおれた。

「サクラ!? 大丈夫……!?」

抱き起こすと、ぜいぜいと息をするサクラの額に、玉のような汗が浮いていた。肌は青白く透きとおっていて、見るからに具合が悪そうだ。どうしよう。どうしよう。オロオロしていると、サクラの手が私の手を、落ち着かせるように握る。

「……力を、使い切っただけだ」
「休めば、元気になる?」
「……いや、無理だ。あいつらを……、海の亡霊たちを、道連れにするつもりで暴れたからな」

彼の冷たい身体を抱きしめる。ぽつぽつと告げられるサクラの言葉を、聞き逃さないように耳を傾けた。

「……俺は、本来なら、もっと前に消えていた。……信仰する人間がいなくなって、もう何年も、経っていたからな」
「……独りでいたとき、お前が現れた。俺を慕って、供え物を持ってきて……、側にいてくれた。……だから、俺は、今日まで永らえた」
「……それに、亡霊たちは、目をつけたんだろう。……自分たちが、消えたくないから。……お前を使って、この世界に、とどまろうとした」

だから、サクラの声を真似て、私をおびき出したのだろうか。あのまま引きずり込まれていたら、と考えると、背筋がぞくりと寒くなる。

「……俺は、お前のおかげで、存在できた。……お前を、亡霊たちに奪われるくらいなら、俺諸共あいつらを消す方が……ずっと良い」
「サクラが助かる方法は……? 何も無いの……?」
「……無ぇよ。……もともと、ギリギリだった身だ」

成長するにつれて、考えていた。サクラが私の名前を知りたがらなかった理由。

――人間が、俺に真名を明かすってことは、何もかも俺に差し出すことと同義だ。生殺与奪の権利も、意思も、尊厳も、魂も、全てな。

あの時、難しくて分からなかった言葉の意味が、今なら分かる。

「……私がいれば、サクラはここに留まれる?」
「……」
「サクラになら、全部あげる。サクラになら、何されたっていい。私の意思も、命も、何もかもあげる。だから、」
「……やめろ」

くしゃりと髪を撫でられる。言葉の割に、声は何だか優しくて、どこか切ない響きを持っていた。柔らかくたしなめるような言い方に、言葉が詰まる。

「……んなこと、してもらいたくて、やったわけじゃない。……俺が守りたかったお前を、お前が守らなくて、どうすんだ……」
「だってぇ……」
「……泣くな……」

ひとつぶ、ふたつぶ、涙がこぼれる。そっと冷たい指先がぬぐってくれるけど、どうしても止まらない。

「……でも、まあ、最後の土産に聞きたい」
「最後なんて言わないでよぉ……」
「……教えてくれ。お前の、名前……」

頬に添えられた手に、自分の手を重ねる。

「……とわ、だよ」
「……とわ……」

大事に含むように、サクラは私の名前を呟く。桜の花びらみたいな唇が、幸せそうにほころんだ。

「……ずっと、呼びたかった」

顔が近づき、薄い柔らかな唇が、私のそれと重なり合う。
初めて聞いた名前も、その呟きに込めた花開くような想いも、全部大事にしまい込むみたいに。永遠に閉じこめておくみたいに。

東の空に、金色の光がにじむ。暗かった空が青色を取り戻していく中で、サクラの身体が花びらに変わっていく。白がかった淡い紅色。夏に現れた、空に知られぬ雪。

手のひらに残る、サンゴのイヤリングの片方を握りしめ、私は立ち上がる。
昇る朝日が、別れと始まりを告げていた。
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