夏の桜と永久の愛
小学生の頃の夏休み。海辺に住むおじいちゃんの家に、泊まりに行った。
見慣れない広々とした海や、町のあちこちにいる猫、鼻をくすぐる潮の香りが珍しくて、1人であちこち探検していたとき。海に浮かぶ小島を見つけた。引き潮で歩いて行けそうだったから、私はとことこ進んでいった。
大きな木が1本だけ、青々とした葉を揺らしている。その下には白い鳥居と、石でできた小さな家。似たようなのがおじいちゃんの家の裏にもあって、おじいちゃんは「ホコラ」と呼んでいた。確か、神様のお家だ。
近くにちょこんと腰を下ろし、涼しい風に吹かれながら空を見上げる。どこまでも高く青い空に浸りたくて、仰向けに寝転がった。微かに聞こえる波の音が、耳を優しく撫でる。時間の流れがゆっくりになったみたいで、気持ちいい。
「――おい、ここで寝るな」
すると、ぶっきらぼうな声が降ってきて、1人のお兄さんが私の顔をのぞきこんだ。
1つに結んだサラサラの長い髪と、ひんやりした目は、海と同じ色。白い浴衣の上に緑色の着物を羽織っていて、帯には真珠の飾りがついている。耳には赤いイヤリングが揺れていた。
「すごい、キレイな人〜……」
「話聞いてんのか」
「ぷぎゃ」
眉間にシワを寄せたお兄さんが、私の鼻をつまむ。幸い数秒くらいで離してくれたので、私は鼻を押さえながら、しぶしぶ起き上がった。
「お兄さん、だあれ?」
「……ここに住んでる者だ」
「ここに? でもお家なんて無いよ?」
「あるだろ」
すらっとしたお兄さんが住めるところなんて、この小島のどこにも見当たらない。ぐるりと見渡すと、小さなホコラが目に止まった。
「もしかして、お兄さんは神様?」
「そんなもんだ」
「すごい! 私、神様初めて見た! なんて名前なの?」
「……忘れた」
「えー! 何で!?」
「呼ぶ奴がいねえからだよ」
自分の名前を忘れるなんて、信じられないことだ。お父さんもお母さんも、おじいちゃんもおばあちゃんも、友達も呼んでくれるのに。でもこのお兄さんは、誰も呼んでくれないんだ。それは、すごくさみしいことに感じた。
「お兄さん、これ何の木?」
「お前、興味の矛先がころりと変わるな……。これは桜だ。毎年春になると、けっこう咲くぞ」
「じゃあ、サクラ! お兄さんのこと、サクラって呼ぶね」
「……勝手につけんな」
「でも、名前が無いと呼べないよ? あ。私の名前はね、」
「知りたくねえ。興味ねえ」
「ひどーい! 何でそんなこと言うの!」
キッパリと冷たく遮られ、私はぷんぷん怒りながら拳を振り回す。頬をふくらませると、サクラはうるさそうに顔をしかめた。
「人間が、俺に真名を明かすってことは、何もかも俺に差し出すことと同義だ。生殺与奪の権利も、意思も、尊厳も、魂も、全てな」
「……せーさつよかつ? そんげん?」
難しい言葉に首をかしげる。サクラに何もかも渡すと、どうなるのだろう。名前を教えるのは、そんなに悪いことなのだろうか。きょとんとした私を見て、ため息をついてから、サクラは口を開いた。
「……お前が俺に名を教えれば、俺はお前の嫌がることを何でもさせられる」
「つ、つまり……、シシャモたくさん食べさせたり、おいしくないお薬のシロップを飲ませたりするの……?!」
「……、そういうことだ。嫌だろ?」
「うん」
こくこくと首を縦に振る。サクラに名前を呼んでもらえないのは寂しいけど、それは怖いことなのだから仕方がない。
「ねえねえ、サクラは何の神様なの?」
「……水を司ってる」
「そっかあ。だから海の上にあるんだね!」
「……お前はどこから来たんだ?」
「おじいちゃんち! あの辺にあるよ」
指さしながら答えると、サクラは「うん」とも「ふん」とも聞こえる相槌を打つ。それから私たちは、いろいろな話をした。喋っていたのは大体私の方。家族のこととか、学校のこと。この町で見つけたもののこと。
気づいた時には、辺り一面波に覆われていた。
「うわぁ……!」
「満ち潮だな」
「キレイだね……、ってそうじゃない! どうしよう! これじゃ帰れない!」
多分足つかないよね。水着じゃないから、泳いで帰るのも無理そう。ハイビスカスがプリントされたTシャツも、デニムのショートパンツも、お気に入りだから濡らしたくないし。おろおろしていると、サクラが立ち上がった。
「……」
「?」
無言で差し伸べられた手と、サクラの顔を交互に見る。首をかしげた私を見て、サクラはぼそりと呟いた。
「……送ってってやる」
「え、でも、どうやって?」
「いいから、掴まれ」
言われるままに、彼の手を取って立ち上がる。するとサクラは、私をひょいと片手で抱き上げた。いつもより目線が高くて、風が気持ちいい。落ちないように掴まると、彼はとんと地面を蹴り、水面に降り立った。
「わぁ……」
とん、とん、と彼が歩く度に波紋がうまれる。地面の上を歩くみたいに、サクラは海の上を悠々と歩いていた。不思議な様子に思わず見とれ、好奇心が湧き上がる。
「すごいすごい! 何で歩けるの?」
「これくらい普通だ」
「すごーーーい!」
「……っ、耳元で騒ぐな」
「あ、ごめん」
ふと、彼の耳で揺れるイヤリングが目に留まる。赤くてつるりとした石が、歩く度にゆらゆら揺れた。キレイなそれを、つんと軽くつついてみる。
「ねえサクラ、これ何の石?」
「……耳飾りのことか?」
「うん。キレイだねえ」
「……サンゴだ」
「サンゴって、あの枝みたいなやつ?」
「ああ」
絵本で見た、赤い枝みたいなものを思い出す。あれがこれになるのか。何か不思議な感じだ。
サクラが私を、砂浜の上にそっと下ろす。さくさくと砂を踏みしめて、陸の感触を楽しんでいると、サクラがふわりと着物の裾を揺らした。
「サクラー! ありがと〜!」
波の上を歩いていく後ろ姿に、大きな声をかける。
「またあした〜!」
小さくなる背中から、返事は無い。手を振ることも無い。でも私は、また明日、あの小島に行くことが楽しみになっていた。
***
次の日も、その次の日も、私は海の小島に出かけた。
おじいちゃんちで採れたブルーベリーや、コンビニで買ったアイスを持っていく日もあった。美味しいものを、サクラにもおすそ分けしたかったから。
「サクラー、来たよー!」
最初は呆れていたサクラも、すっかり慣れたのか、見つけやすい位置で待っててくれるようになった。小島に上り、サクラの隣に腰を下ろして、ビニール袋の口を開く。
「今日はスモモを持ってきたよ。おじいちゃんからもらったんだ」
赤く色づいたスモモは、甘い香りをただよわせている。1つ取ってサクラに渡し、もう1つ取ってかじりついた。薄い皮を歯で破ると、やわらかい果肉にたどりつく。果汁たっぷりの甘酸っぱい味が舌と喉をうるおした。
「おいしー!」
「……」
「いただきます」と呟いてから食べたサクラは、無言でスモモを食べている。サクラの手のひらにすっぽりおさまるスモモが、みるみるうちに小さくなっていった。気に入ったみたいだ。おじいちゃんが丹精込めて育てたスモモだから、嬉しい。
「おいしい?」
「……ああ。美味い。お前のじいさん、いい腕だな」
「えへへへへ」
「何でお前が照れるんだ」
「おじいちゃんのこと褒めてもらえるの、嬉しくって」
涼しい木陰でサクラと話をする。その時間は、家族と過ごすのとはまた違う楽しさがあった。夏休みが終わってほしくないと、今まで以上に強く思うくらいには。
「……お前、明日も来るのか」
「うん!」
「……なら、水に潜ってもいい格好で来い」
「分かった!」
いつもは私が、これやろうあれやろうと言う。例えば、しりとり、アルプスいちまんじゃく。あまり広くない小島でやる、だるまさんがころんだ。
その影響か、サクラもたまに遊びに誘ってくれるようになった。たくさんの貝殻の中から、ピッタリ合う貝を見つけるゲーム。水切りのコツを教えてくれたこともある。サクラが教えてくれるものは全部、おひさまに照らされた海に負けないくらい、キラキラ輝いて見えた。
***
翌日。ワンピースタイプの水着を中に着て、小島に向かう。サクラはいつも着てる着物のままで、私の手を引いた。
「絶対に、俺の手を離すなよ」
「はーい」
ぎゅっとサクラと手を繋ぐ。固くてすべすべした手は、少しひんやりしていた。せーの、で目を閉じて、海の中に潜る。でも苦しさが全然来なくて、私はそっと目を開けた。
「うわぁ……っ!」
ゆらゆら揺れる、青い世界。水面の網模様が底に映っていて、すごく幻想的だ。
「水の中なのに苦しくない! なんで!?」
「俺の力だ」
「サクラすごい! プールの時も、こんなふうだったらいいのになあ」
サクラに手を引かれて、すいすい泳ぎ出す。泳ぐのは嫌いじゃない。むしろサクラといれば、自分がお魚になったみたいに楽に泳げた。お魚がときおり横を通り過ぎていく。
小さな穴から顔を出すお魚。ゆったりゆうらり揺れている、こんぶやわかめ。ひょこりと動いて岩場に隠れる、長いヒゲのエビ。普段は見られない世界に、気持ちがワクワクと浮き立った。
「楽しかったー! サクラありがと!」
「……ああ」
小島に戻り、タオルで髪や体を拭きながら、私は満面の笑顔でお礼を言う。サクラはそっぽを向いたけど、照れ隠しみたいなものだと分かってるから、私はにこにこしていた。
そのとき、ぽんと横に何かが置かれる。ごつごつした茶色の二枚貝だ。首をかしげてサクラを見上げると、サクラの青い目が私を映す。
「……開けてみろ」
言われるままに、隙間に指を入れて、パカッと開けてみる。見た目からは想像できないオーロラ色の中に、白くて丸いものがきらめいた。そっと指でつまむと、意外なほど簡単に取れる。落とさないようにしっかり持って、目の前にかざした。
「……これ、真珠?」
「ああ」
「私、本物見るの初めてかも! すごいキレイ!」
真珠は柔らかな光を放っているようで、思わずため息をつくくらいキレイだ。じーっと見とれていると、サクラが言う。
「……やる」
「え、いいの?」
「いつもの礼だ」
手のひらにある真珠を、そっと握りしめて、貝の中にしまう。貝を大事に両手で持って、私はサクラの目を見つめた。この真珠を育てた海みたいな、深い青色。見ていると、あったかい気持ちがこみあげる。
「ありがとう。大事にするね」
頬をゆるませて伝えると、サクラは何かをこらえるように口をつぐんで、またそっぽを向いてしまった。