吸血辺境伯との溺愛生活


宿に泊まり、馬車を乗り継ぎ、私たちは2週間かけて辺境領に到着した。緑豊かな場所で、穏やかな時間が流れているように感じる。道行く人たちも、のどかな表情を浮かべていた。

この土地を守っているのは、どんな方なのだろう。

アシェル・ドラクル辺境伯様のことを考える。お顔やお姿は分からないけれど、こんなに穏やかな場所を作り上げた方が、恐ろしい方とは思えない。どきどきする胸を押さえ、首にかけたロケットペンダントを握りしめて、屋敷へ向かう道を進んでいく。

「大丈夫ですよ、オリビア様」

温かな手がそっと重ねられる。顔を正面に向けると、アニーの笑顔が目に映った。

「あたしがついてます」

陽だまりのような笑顔に励まされる。緊張が少しずつほぐれていくようで、私はつられるように微笑んでいた。

***

待望のご令嬢が、本日到着するとの連絡があり、使用人たちが出迎えの準備を整える。そのとき、馬車が門をくぐって現れた。

御者の手を借りて降りてきたのは、オリーブ色の髪の少女だ。カチューシャをつけた髪がふんわりと揺れ、マスカットを思わせる淡い緑の目が、使用人たちを映す。

「お初にお目にかかります。オリビア・ガーランド伯爵令嬢です」

彼女がまとっているのは、深緑色の絹のドレスだった。裾からレースがのぞき、胸元には白バラの刺繍が施されている。流行りの色や模様では無いが、その古風な雰囲気がかえって、アンティークドールのような可憐さを魅せていた。

更にスミスが目を見張ったのは、彼女の立ち居振る舞いだ。貴族の令嬢は高度な行儀作法を教え込まれるものだが、それでもふわふわとした儚げな雰囲気は残っている。それはまるで、ガラスの温室で育てられた花のように。しかし目の前にいる彼女は、しっかりと地に足をつけたような芯の強さが感じ取れた。

彼女はアシェルにとって、そして辺境領にとって大切な人材となる。そう確信したスミスは、口元を緩めてオリビアを見つめた。

「遠路はるばる、ようこそお越しくださいました。執事のスミスと申します」
「メイド長のマーサと申します。お部屋へご案内いたしますね」

マーサと名乗ったのは、柔らかな笑みを浮かべるふくよかな女性だ。彼女に続き、数人のメイドたちが付き従う。そのうちの1人が、オリビアのトランクを運んだ。

ふかふかの絨毯を踏みしめ、つややかな手すりの階段を上る。宛てがわれたのは2階の部屋だ。マーサがドアを開いて招き入れたとき、オリビアはハッと息を呑む。

広々とした空間は、素敵なものであふれていた。壁紙やカーテンは、淡い色合いの花模様。家具は白を基調とした上品なデザインで、天蓋付きのベッドや長椅子、ドレッサーやテーブル等が置かれている。花瓶には色鮮やかなバラがいけられていた。

「お気に召しましたか? 旦那様がご用意したお部屋です。家具や壁紙等にご希望があれば、何でもお申し付けください」
「こ、こんなに素敵なお部屋を使っていいのですか……!?」
「はい。ここはもう、貴方様のお部屋でございますから」

マーサが答えている間に、他のメイドたちはてきぱきと荷解きを済ませていく。着替えはクローゼットに仕舞われ、日用品は棚に並べられた。トランクを片付けてから、1人のメイドがたずねてくる。

「他のお荷物は、後ほど運ばれてきますか?」
「いいえ。これだけです」

オリビアが答えると、マーサたちは少しだけ目を丸くする。しかし何事も無かったように表情を整え、深々と頭を下げてから退出した。アニーに部屋を案内するとのことで、アニーも共について行く。

「何かあったら、ベルでお呼びください」

ドアが閉まり、部屋に残されたオリビアは、改めて部屋を見回した。

薄暗くて肌寒くて、微かに埃の匂いがした地下室とは、何もかも違う。母親が生きていた頃よりも、広くて居心地のいい空間が、逆に落ち着かない。好みの家具やカーテンに、恐る恐るふれていく。

「旦那様がご用意した」とマーサは語っていた。清楚で可愛らしく、美しい部屋を、彼が作り上げてくれたのか。そう思うと、胸の辺りが温かな気持ちで満たされる。

オリビアは思わず、口元を両手で押さえる。せっかくの愛らしい空間が、ぼんやりとにじんでいた。

***

「オリビア様。入ってもよろしいでしょうか?」

トントンと軽いノックの音に、ふっとオリビアの意識が浮上する。時計の針は6時半を指していた。長旅の疲れが出たのか、長椅子で眠ってしまったらしい。体を起こし、髪を手ぐしで整えてから、オリビアは「どうぞ」と声を出した。

「夕食前のお支度に参りました」

入ってきたのはマーサと、アニーを含む数人のメイドたち。あれよあれよという間に、ドレスや下着を取り払われ、気づけばメイドたちに体を洗われていた。たっぷりの泡をスポンジに含み、優しい手つきで隅々まで磨いてくれる。

頭のてっぺんからつま先まですっきりした頃、猫足のバスタブに肩まで浸かっていた。たっぷりのお湯が、疲れで強ばっていたオリビアの体を、じんわりと温めていく。爽やかな植物に似た入浴剤の香りが、ほのかに漂った。

「どのドレスにいたしましょう? 旦那様がご用意したイブニングドレスもございますよ」
「それでは……。私の持ち物にあった、紺色のドレスをお願いします」

柔らかなタオルとドライヤーで乾かされながら、問いかけてきたマーサに答える。最初は、自分を大切に想ってくれる人たちが作り上げてくれたドレスで、婚約者に会いたい。そうオリビアは考えていた。

紺色の絹のドレスには、胸元と裾にかすみ草の刺繍が施されている。清楚で上品な雰囲気が、穏やかな夜に似合っていた。艶が増したオリーブ色の髪を、マーサが丁寧に編み込み、1輪の白バラで飾ってくれる。

「できましたよ」
「ありがとうございます」

マーサの方を振り返り、微笑みながらお礼を言う。するとマーサは少し驚いたように目を丸くした。先程も見せたような表情が、ふわりと温かな微笑みに変わる。

「まあ。これが私の仕事なのですから、お礼など要りませんのに。もったいないお言葉です」

その言葉には、いたわるような響きが感じられた。支度が整ったところで、マーサはオリビアを食堂に案内する。

「旦那様はお優しい方です。どうか、あの方のお心を、曇りなき眼で見つめてくださいませ」

見守るようなマーサの眼差しは、記憶に残る母を思わせる。包み込むような優しさを感じたオリビアは、こくりと頷いた。食堂のドアが、ゆっくりと開かれる。

そこには、すらりと背の高い青年が立っていた。

うなじの辺りで1つにまとめた髪は、濡れたような漆黒で、真っ直ぐ背中に流れている。透けるような青白い肌や、研ぎ澄まされたガーネットを思わせる目。細身でしなやかな体を包むのは、闇を切り取って縫い上げたような衣装。確かに伝承に出てくる吸血鬼のようだ。

王都にいる華やかな貴公子たちとは違う。月下が似合うような、ミステリアスな美しさ。"恐ろしく野蛮"と噂している人々が見たら、驚いてひっくり返るのではないだろうか。

「……我が屋敷へようこそ、ガーランド伯爵令嬢。私は、アシェル・ドラクル辺境伯だ」
「お初にお目にかかります。ガーランド伯爵家のオリビアと申します」

淡々とした低い声に、オリビアは挨拶を返す。お互いに手探りをするような、少しぎこちないやり取りをしてから、2人は食卓についた。少しずつ運ばれてくる料理は、種類が豊富でどれも美味しい。テーブルマナーは大丈夫か気になりながらも、オリビアは夢中で食べ進めていた。

「……食事は、お口に合うだろうか」
「はい。どれも、とても美味しいです」
「……そうか。よかった」

頬を緩ませるオリビアを見て、アシェルは赤ワインを舐めるように飲む。表情は変わらないけれど、まとう雰囲気はどこか和らいでいた。まるで、ほっと肩の力が抜けたような。

「……あなたの好きな食べ物を、聞いてもいいだろうか?」
「私、ですか? ラザニアと、甘いものが好きです」
「……では、今度の夕食に、ラザニアを用意させよう」

「ドラクル辺境伯様は、何がお好きですか?」
「……私は、トマトを使ったものが好きだ。サラダでも、パスタでも」

「…………その、オリビア嬢と、名前で呼んでもいいだろうか」
「はい。私も、アシェル様とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「……ああ」

おずおずと歩み寄るように、言葉を交わす。穏やかでゆっくりと流れるような時間の中、微かにナイフとフォークを使う音が聞こえる。こんなに凪いだような気持ちで、食事をするのは、ずいぶんと久しぶりだった。

デザートの柑橘を使ったソルベが、口の中に爽やかな余韻を残す。そのときナプキンを軽く畳んだアシェルが、そっと口を開いた。

「……少し、散歩でもどうだろうか」

アシェルのエスコートで、オリビアは庭に出る。今宵は満月で、白銀の光が煌々と辺りを満たしていた。石畳の上を進み、アーチ状の入り口を潜る。アシェルの歩みはゆったりとしていて、隣を歩くオリビアを気遣っているようだった。

「わぁ……!」

目の前に広がった光景に、オリビアは小さく歓声をあげる。月明かりの中で、純白のバラがいくつも花を咲かせていた。青みがかった夜の中で、バラたちはほのかに光っているように見える。そこは、幻想的な美しさを持つバラ園だった。

「……私が、好きな場所だ」

月光に照らされながら、アシェルは目を細める。神秘的な淡い笑みで、ガーネットの目に優しく見つめられると、オリビアの胸が甘く高鳴った。彼が大切にしている場所に、自分を連れてきてくれたことが、嬉しいと感じた。

「素敵な場所ですね。連れてきてくださって、ありがとうございます」
「……昼間は、また違う一面を見せてくれる。また、案内しよう」

静かな声が、耳に心地いい。アシェルは芝生に膝をつき、胸に手を当ててオリビアを見上げた。プレナイトのような彼女の目が、みずみずしくて美しいと思いながら。

「……私は、人と交流することが、あまり得意ではない。何かしてほしいことがあれば、どんな些細なことでも教えてほしい」

人との交流に慣れていないからこそ、丁寧に言葉を交わそうとする。そんな誠実な彼の心にふれて、オリビアは花が開くように微笑んだ。結婚するなら、隣で支えるなら、この方がいい。澄み切った月の下で、赤みを帯びて見える彼の耳すら、愛おしく映る。

「はい」

少しだけひんやりとしたアシェルの手を、オリビアは両手で包むように握る。アシェルは驚いたように、ぴくりと身動ぎしてから、ほっとしたように息をついた。
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