吸血辺境伯との溺愛生活
かたことと微かな振動が、体に伝わってくる。馬が進んでいくひづめの音を聞きながら、窓の外を眺めると、山や森の自然豊かな風景が見えた。王都では見ることがない景色だ。
「ずいぶん遠くまで来ましたねえ」
向かいの席に座るアニーも、物珍しげな表情で窓の向こうを見ながら言う。丸い茶色の目がくるくると動き、私の方に向けられた。
紺色のワンピースと白いエプロンを身につけた彼女は、私が家から連れていくことを、許された下働きだった。奥様――私の義理の母――が、同伴できる侍女は1人だけだと言って、聞かなかったから。
「一緒に来てくれてありがとう。アニー」
「いえいえ。あたしも奥様や他のお嬢様の態度にはうんざりしてましたから、いい機会ですよ。それに、オリビア様が眠れないときのホットミルクを、誰が作るんです」
胸にとんと拳を当てて、アニーは屈託の無い笑顔を見せる。毛先の跳ねたショートボブの髪や、そばかすが散らばった顔は、健康的な愛嬌があった。
彼女は私と歳が近い。私が奥様に下働きのような扱いをされるようになったとき、側にいて仕事を教えたり手伝ってくれたりした。おしゃべりで、少しそそっかしいところはあるけど、優しい頑張り屋だ。
「それにしても、お嫁に行くのに侍女が1人で、荷物はトランク1つだけなんて。あたし、もっと華やかな支度をするもんだと思ってました。奥様たちもケチですよねえ」
「本当は、婚礼家具やドレス、アクセサリーや一生分のハウスリネンをたくさん持っていくんだけど……。私の持ち物は、これしか無いものね」
トランクに詰め込んでいるのは、着替えと日用品。ハウスリネンの代わりに、私のイニシャルと婚約する方のイニシャルを刺繍したハンカチ。持っているアクセサリーは、母様の形見のロケットペンダントだけ。はめ込まれたジルコンが、澄んだアイスブルーに輝いていた。
着ているドレスは、メイド長たちが縫ってくれたものだ。綺麗なドレスは全部、奥様たちに取り上げられて、残りは家事仕事をする中で薄汚れてしまった。お嫁に行くのに、これではあんまりだと、皆が頑張ってくれたのだ。
給金はそれほど高くないから、新しいドレスは買えない。もし買えたとしても、また取り上げられてしまう。倉庫に放置されていた、シルクとレースのカーテンを綺麗に洗い、それを切って縫い上げられたドレス。胸元には、メイド長が自ら、花の刺繍を施してくれた。
「そのドレス、オリビア様にすごくピッタリですよ! 先輩たちとメイド長のセンスいいですね! これならあの辺境伯だって、恋に落ちちゃうんじゃないですか?」
「それは会ってみないと分からないけど。このドレスは、ずっと私の宝物にするわ。皆が私のために、ひと針ひと針作ってくれたんだもの」
ドレスを撫でると、愛おしさが込み上げてくる。優しくしてくれた人たちの想いが、とても嬉しい。このドレスを着ていれば、どんな困難があっても立ち向かえる気がしてくる。
私はオリビア・ガーランド。本来ならガーランド伯爵家の令嬢だけど、今はそのような扱いを受けていない。
数年前に母様が亡くなり、父様は別の女性と結婚した。義理の母と2人の姉は、先妻の娘である私のことを、よく思っていなかった。
最初は冷たい視線や、意地悪なささやき。やがて私の小物やドレスを少しずつ取り上げ、遂には家具に部屋も奪ってしまった。私が眠るのは台所の地下にある、壁に作り付けられた寝台。召使いの人たちが支えてくれなかったら、私の心は辛さに耐えられなかっただろう。
アニーと一緒にお皿を洗い、屋敷の掃除をし、庭に生えてきた雑草をむしる。そんな日々を送っていたある日、一通の手紙が届いた。それは、私の運命を変える手紙だった。
竜の紋章が刻まれた封蝋は、ドラクル辺境伯家のもの。ガーランド伯爵家の娘に、婚約を申し込みたいという内容だった。
――ドラクル辺境伯って、あの吸血辺境伯!?
――生き血に飢えていて、血を求めて戦場をさまようって、噂で聞いたわ!
――冷酷無慈悲で悪魔のような男なのでしょう! あたくしの可愛い娘たちを、そんな恐ろしい野蛮な方に嫁がせられませんわ!
ヒステリックに泣きわめく義姉たちと、顔を赤く染めて怒る奥様。当然いらないものを押し付けるように、私が差し出されることになった。私も吸血辺境伯の噂は知っていたけど、彼自身のことは何も知らない。この目で見たこともない方を、どう恐れればいいのだろう。
これからゆっくり、彼のことを知っていけたらいい。それに彼は、あの家から出る機会を与えてくれた方だ。召使いの皆と離れるのは寂しいけれど、彼には感謝の念しかない。
馬車は、まだ旅の途中だ。胸元で光るロケットをそっと握りしめ、私は通り過ぎていく景色を見つめた。ときおりアニーとのおしゃべりに、花を咲かせながら。
***
古めかしいが、手入れが行き届いた石造りの屋敷。図書室の窓際に作られたヌックに腰かけ、1人の青年が門の方を見ていた。長く艶やかな黒髪がさらりと流れ、蝋細工のような青白い肌を際立たせている。切れ長の目は、
「アシェル様。婚約者の到着は、まだ先でございますよ」
青年に声をかけたのは、執事服を着た男だ。白銀の髪を丁寧に撫でつけ、口ひげとモノクルが凛とした威厳を漂わせる。アシェルと呼ばれた青年は、静かに執事の方へ顔を向けた。
「婚約をやっと承諾してくださったご令嬢が待ち遠しいとはいえ、王都からこの地までは長い道のりになります。ご到着の瞬間まで、窓に張り付くおつもりですか?」
「……相変わらず、私のことを見通しているな。スミス」
「貴方様のことは、母君の腹から取り上げられた頃から知っておりますので」
表情は変わらずに落ち着いているが、その眼差しはどこか柔らかい。執事のスミスに心中を言い当てられ、アシェルは恥じらうように口をつぐんだ。頬は白いままだが、髪から少しのぞく耳は、薄紅に染まっている。
「婚約者を迎える準備ですが、やり残したことはございませんか?」
「部屋もドレスも調度品も、揃えられるものは全て揃えた。食事は、何が好きか分からないから、少ない量で種類を多くしてもらう予定だ」
「指輪のご用意も抜かりないですな」
「ああ」
お互いに改めて確認してから、アシェルは微かに身じろぎする。おとぎ話に出てくる吸血鬼のように、妖しげな魅力を漂わせる主人。しかしスミスの目には、大好きな人を早く出迎えたいと、そわそわしている幼子のように見えた。
「……オリビア嬢が到着したら、彼女の心ゆくまで、皆でもてなしてほしい。後で話を聞かせてくれ」
「そんなにお会いしたそうなのに、何をおっしゃるのです。長旅を乗り越えた婚約者を労わないおつもりですか」
「……"吸血辺境伯"と噂される私の姿を見たら、怖がらせてしまうかもしれない。婚約を受け入れてくれた方に、そんな心労はかけさせられない」
「婚約者が顔も見せてくださらないことの方が、オリビア嬢の心労になると思うのですが」
呆れたようにため息をつきながら、スミスは悩める主人を諭す。彼は国を守るために、戦場では冷酷無慈悲な面を見せるが、本来は不器用で優しい性格だ。どうか、彼の本質を見抜き、受け入れてくれるご令嬢でありますように。そう祈らずにはいられなかった。