イノセント・テイル



ある日のこと。仕立てのいい、黒い衣服をまとった男が、村を訪れた。

「この少女を探しています」

彼が差し出す写真に写っていたのは、金色の髪に蜂蜜色の目を持つ少女。背中には天使のような純白の翼が生え、王女が着るような豪華なドレスをまとっていた。

***

日が暮れた頃。夕食の支度を始めていたとき、ドアを軽く叩く音がした。アイアンが細くドアを開けると、にゅっと入り込んだ手がドアを押し開ける。

「こんばんは」
「……何の用だ」

その男は、暗がりから抜け出たような、黒い紳士服とシルクハットを身につけていた。森には不釣り合いで、村の人間とも思えない。50代くらいに見える彼は、一見、人好きのする笑顔を浮かべていた。

「実は私、人探しをしています。何か情報をいただければ、すぐに帰ります。何も手掛かりが無くて、困っているんですよ」
「人探し……?」
「はい。この子です」

男が懐から写真を取り出し、アイアンに見せる。そこに写っているのは、人形のような金髪の少女。フリルやリボンで飾られたドレスをまとう、コハクだった。

「……!」
「私の大切な娘なんです。大事に大事に育ててきたのに、行方不明になってしまって」

男は悲しそうに眉を下げて見せるが、その瞳の奥には危うい色が見え隠れする。

――こいつが、コハクから、何もかも取り上げたのか。名前も、知識も、1人で生きる力も。人間として生きるために、必要なもの全てを。

腹の奥が、ふつふつと熱くなる。久しく感じていなかった怒りを抑えるように、アイアンはグッと目を閉じ、低い声で言う。

「……いや、知らない」
「そうですか……」

そのとき、アイアンの後ろから、小さな足音が近づく。アイアンがハッと振り返ると、小鳥のさえずりのような声がした。

「アイアン、お客さん?」
「コハク……!」

アイアンがコハクを隠そうとするも、一足遅かった。男はコハクを見た途端、頬を紅潮させ、目をギラギラと光らせる。感情を高ぶらせたように、男は声を上げた。

「ああ、ああ……! やっとだ! やっと見つけた! 私の可愛い天使!!」

突然の大声に、コハクはビクッと肩を跳ね上げ、アイアンの後ろに隠れる。家の中に踏み込もうとしてくる男を押しのけ、アイアンは勢いよくドアを閉めた。鍵をかけるも、ドンドンドン! と追いかけるように、激しいノックが聞こえてくる。

「コハク、こっちへ」

怯えたように震えるコハクの手を引き、アイアンは部屋の奥に足を進めた。自室に入り、ドアを閉める。そして、コハクを目を合わせるように膝をついた。

「コハク、あの男のことを覚えているか?」

そうたずねると、コハクは青ざめたまま、こくりと頷く。

「コハクが俺と出会う前、どんな暮らしをしていたかは、詳しく知らない。ただ、人間らしい扱いを受けていたと、言えないことは分かる」

自分がコハクに何をしたいかは、はっきりしている。でも、コハクの幸せを、自分が限定するわけにはいかない。アイアンは真摯な目で、コハクを見つめた。

「俺は、コハクに、自由に生きてほしい。あの男にコハクを渡して、コハクが俺と出会う前の状態に戻るなら、させたくない」

皿洗いや料理の手伝いを覚えつつも、手入れをしているおかげで、荒れていない白い手。その手を握り、アイアンは問いかけた。

「コハクは、どうしたい?」

蜂蜜色の目が、揺れる。名付けたきっかけになった、琥珀のような目を潤ませて、コハクは鈴を震わせるような声で言った。

「私、アイアンと……一緒にいたい」

ガシャン! と玄関の方から、ものが壊れる音がする。他にも数人隠れていたのか、人の気配がした。ドアを破られたかもしれない。アイアンは自室の窓を開け、辺りを素早く確認した。現れたのは、1羽のカラスだけだ。

「シディ。コハクを連れて、村まで逃げろ」

アイアンの言葉に答えるように、シディは羽ばたく。ドアの方へ足を向けるアイアンの腕を、コハクは慌てて掴んだ。

「アイアンも、アイアンも逃げよう?」
「俺はここで、彼らを止める」

コハクの手を優しくほどき、アイアンは微笑んだ。全ての覚悟を決めたような、穏やかな表情に、コハクは息を呑む。

「大丈夫だ。コハクには、指1本ふれさせない。俺が守る」

筋肉がしっかりついた両腕で、そっと囲い込むように、アイアンはコハクを抱きしめた。温かさで包むような、思いやりのある抱擁。

「逃げて、自由に、幸せになってくれ」

腕がほどかれ、広い背中がドアの向こうへ消える。シディに急かされるように、コハクは窓から外へ飛び出した。白い翼を広げ、木の向こうへ羽ばたく。久しぶりに飛んだせいでふらつくけれど、やがてコツを掴んで、真っ直ぐ飛べるようになった。

森の木の葉が姿を隠してくれる。空の月や星が、進む方向を教えてくれる。シディの後を追うように、コハクは懸命に翼を動かした。

「ウオォォォオン!」

闇を切り裂くような遠吠えが、空気を震わせる。振り返るも、シディが周りを旋回した。早く早く、と急き立てられるようで、コハクは慌てて前を向く。首にかけた、ラベンダー色のビーズがついたペンダントを、ぎゅっと握りしめる。

早く、早く村に行かなきゃ。助けを呼ばなきゃ。

目からあふれる涙は、これまで流してきたものと、全く違うように感じた。コハクが泣くようになったのは、アイアンと出会ってからだ。例えば転んだり、植物のトゲや包丁で指を怪我したりしたとき。そのときとは、何かが違う。

大切な人を失ってしまうかもしれない、焦りと恐怖。コハクにとって、初めての感情だった。

***

村の入口に降り立ち、コハクは走る。明かりの灯る家のドアを叩き、泣きながら必死に訴えた。

「お願い、アイアンを助けて!」

村の男性たちが集まり、すきくわ等の武器になりそうな物を持って、森へ向かう。松明が列を作って遠ざかる中、コハクは雑貨屋の老婦人のもとに身を寄せていた。

「怖かったねえ。男衆が行ってくれたから、きっと大丈夫だよ」

老婦人がカモミールティーをいれ、コハクの前に置く。コハクがちびちびとお茶を飲む間、老婦人はコハクの背中を、そっと撫でてくれた。

「……アイアンさんは、こうなることを、分かっていたのかもしれないねぇ」
「……どういうこと? おばあちゃん」
「アイアンさんは、コハクちゃんの話をしていたって、前に言っただろう? "言葉を知らない少女と出会った"って、アイアンさんは話してくれたんだよ」

――身なりはいいが、それだけだ。人間としてされるべき扱いを、彼女は受けていない。
――彼女をあんな風にした人間が、いつか彼女を探しに来るかもしれない。でも、俺は、そんな人間に彼女を渡したくない。
――この村には、小さいが学校もある。住んでいる人も、皆、優しい。コハクが生き方を自由に選べるように、いずれこの村で、コハクに生活をさせたい。

「そのときは、私にコハクちゃんをお願いしたい。村の人たちも手伝うつもりで、私たちはアイアンさんと約束をしたんだ」

コハクの目から、またぽろりと雫が流れた。
アイアンが、そんなに自分のことを、考えてくれていたなんて。自分の自由と幸せを、一番に考えてくれていたなんて。

嬉しいのに寂しくて、コハクは涙を流した。熱い雫が頬を伝い、スカートの上にぽろぽろとシミを作る。

――私はアイアンと、一緒にいたいのに。

アイアンと一緒に、生きる未来を選びたい。それなのに、その願いを邪魔する人たちがいる。私がアイアンにできることは何? 私がアイアンのために、してあげられることは、何も無いの? 私だけ、守られるままなの?

彼の苦しみも、恐怖も、傷も。全部抱きしめて、守りたいと思うのに!

うつむいたコハクの視界に、白いものが映る。白鳥のような、天使のような、白い羽根。それが軽い音を立てて、床にはらりと落ちた。

「……おばあちゃん、大きなハサミってある?」
「え? 庭木の刈り込み用ならあるけど、何に使うんだい?」
「私の翼、根元から切ってほしいの」
「……ええ!? そんなことして大丈夫なのかい?」
「……たぶん、この翼があるから、私は"自由"になれない。それなら、こんな翼、いらない」

見た目には美しい。空も飛べる。でもそれが、何の役に立つだろう。この翼を持ってから、私は自由を失っていたのに。

「もし切れなかったら、焼いて。お願い。アイアンが傷つくくらいなら、こんな翼、無くなったって平気だから!」

あどけない笑みを唇に乗せて、可愛らしい小鳥のように話していた少女の姿は、どこにも無い。強い意志を宿した目と、凛とした声に、老婦人は目を見開いた。

「……分かった。痛かったら、すぐに言ってちょうだい」
「お願いします!」

老婦人が刈り込みバサミを持って、自分を落ち着かせるように深呼吸する。コハクは目を閉じて、体に力を入れる。
翼の根元を刃が挟み、強い力が込められた。

***

荒々しい音が、夜の森に響く。10人ほどいた男たちは大半が倒され、紳士服の男はがたがた震えながら、木の影に隠れていた。

月明かりを浴びて、銀色にきらめく白い毛並みは、所々、赤黒く汚れている。鋭い爪や牙からも血が滴り、獣の唸り声が喉からこぼれた。へし折られた斧や剣が、彼の足元に落ちている。

――戦時中、その噂は聞いたことがある。
――その戦いぶりは勇猛果敢。1人でも仲間を守ろうと、戦地を駆ける、隻眼の狼。

鈍い音を立てて、最後の1人がなぎ倒された。男は口を手で押さえ、零れそうな悲鳴を懸命に留める。紫がかった灰色の光が、男を射抜くように見つめた。ずん、ずん、と死の気配が近づいてくる。

「や……っ、やめてくれ! 殺さないでくれえ!」

男は地に倒れ伏すようにして、泣きながら命乞いをした。二足歩行の狼に変化したアイアンは、それを見下ろしながら、問いかける。

「もう、コハクに――彼女に手出ししないか」
「出さない! 近づかないし、お前たちの前には二度と現れない! だから頼む! 命だけはぁ……!」

みっともなく懇願する男に、アイアンの怒りが少しずつ凪いでいく。

「その言葉、忘れるな。また彼女に手を出せば、その時が、お前の最期だ」

低い声で淡々と伝えたとき。向こうから、オレンジ色の灯りが列を作って向かってくるのが見えた。不思議に思って目を凝らしたとき、ドンッと音がした。

「が……ッ」

背中が、腹の辺りが、熱い。膝をついて振り返ると、男がアイアンに、拳銃を向けていた。

「や、やった……。私の美しい天使を取り戻したら、お前は我が家の敷物にしよう。白狼の頭付きの敷物だ」

男が再び引き金を引く前に、アイアンは男に飛びかかる。拳銃を叩き落とし、男の喉笛に噛み付くと、生ぬるい鉄の味が口内にあふれた。ヒューと男の気管から、空気が抜ける音がし、男の体が痙攣する。やがて、ぱったりと動かなくなった。

アイアンの全身から力が抜け、アイアンも地面に倒れ込む。指先や体が、ゆっくりと人間の姿に戻っていく。

「アイアン!」

薄れゆく意識の中で、村人たちの声が、聞こえたような気がした。

***

あの夜から、3日経った。
アイアンが目を覚ますと、そこは村の診療所だった。あの後、村人たちがここに運び込んでくれたらしい。医者に聞くと、幸いにも銃弾は、急所を外していた。

「わあああああん」

雑貨屋の老婦人に連れられて、お見舞いに来たコハクは、アイアンを見て思い切り泣いた。ベッドに伏せてわんわん泣くので、シーツが湿っていく。アイアンはおろおろしながら、コハクの柔らかな金髪を撫でた。

「コハクちゃん、アイアンさんのこと心配してたんだよ」

持ってきた果物を、ベッド脇のミニテーブルに起きながら、老婦人は眉を下げて言う。

「心配かけて、すまなかった」
「う、ぐすっ。アイアンのばかぁ。私っ、アイアンといっしょに、いたいって、言ったのにぃ……!」
「……すまなかった」

落ち着かせるように、コハクの頭を撫でていたとき、アイアンは気づく。コハクの背中から生えていた翼が、どこにも無い。翼を出せるように背中が空いた服を着ていたのに、今は背中が隠れたワンピースを着ていた。

「……コハク、翼が……」
「……自由になるために、おばあちゃんに切ってもらったんだ」

老婦人の方を見ると、彼女は静かに微笑む。

「あの翼が無ければ、私は天使じゃなくて、ただの女の子になれると思ったから。翼が無い私は、いや?」

琥珀色の目を心配そうに潤ませて、コハクはアイアンを見上げる。その髪を、頬を撫でて、アイアンは告げる。大切な存在を、慈しむような目で。

「いいや。翼があっても無くても、君は――コハクは、俺の大切な光だ」

流れ星のような出会いが、2人を繋げた。
少女の好奇心が運命を変え、青年の優しさが未来を掴んだ。

コハクの細腕がアイアンの首に抱きつき、アイアンの太い腕が、コハクの華奢な体をしっかりと抱きしめる。2人の姿は、まるでオレンジの片割れのように、ぴたりと重なり合っていた。
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