ストロベリーパフェでつかまえて




「おっ、お腹すいてませんか!?」

後ろから、そう声をかけられた。

1歩踏み出せば、すぐに重力に従って体が落ちてしまう場所。鉄柵を隔てた向こうで、1人の女の子が、私を真っ直ぐに見つめていた。




「何か食べに行きましょう。美味しいもの! 私がおごります!」

こちらに伸ばされた手を、恐る恐る取って、私は屋上の鉄柵をもう一度乗り越えた。

そのまま、彼女は私の手を離さずに、出口の方へ歩き出す。ぐいぐいと一方的に引っ張るんじゃなくて、私の歩くペースに合わせて進んでいく。

彼女は淡い黄色のパーカーに、花柄のスカートを合わせていた。丸みのあるショートボブが、可愛くて活発な印象を与えている。首には不思議な形のカメラ(多分ポラロイド)を提げていた。

屋上から、だんだん遠ざかっていく。

「……あ、あの」
「はい何でしょう」
「……え、と」

聞きたいことがいくつかあって。でもどれから聞けばいいか分からなくて、言葉が詰まる。なかなか言い出せない私を急かすことなく、彼女は私の手を引いていく。

「あ、ご飯系とスイーツ系ならどっちがいいですか?」
「え、あ、あの、スイーツ系? で……」
「分かりました! オススメのお店があるんですよー」

お店が並んでいる通りを、彼女は迷うことなく歩いていた。

ショーウィンドウに私の姿が映る。
風に煽られたせいか、ハーフアップにしていた髪がボサボサに乱れていた。着ているのは、味も素っ気も無い紺のパンツスーツ。履いているパンプスは、溝にひっかけたせいで踵が少しめくれている。

俯いて見ないふりをしていると、彼女が立ち止まった。

「着きました。ここですよ」

そこは小さなカフェだった。
白い壁に、ターコイズブルーの窓枠とドア。チリリンとベルの音を鳴らして入ると、イギリスのような洋風の店内と、アンティークのような可愛い小物が目を引いた。

彼女が「こんにちは」と、カウンターにいたマスターに声をかける。上品そうな50代くらいの男性が、にこやかにお辞儀をした。常連なのかな。

「メニューどうぞ」
「あ、ありがとうございます……」

流されるように、差し出されたメニューを受け取る。スコーンやケーキ、ワッフル等の洋菓子の中で、華やかな苺のパフェが目に留まった。

そういえば、パフェなんて何年ぶりだろう。

「決まりましたか?」

少し経って、そう問いかけてきた彼女に頷く。彼女は「すみませーん」とマスターに声をかけ、はきはきした声で注文した。

「私、スコーンセットをお願いします。飲み物はミルクティーを。あなたは?」
「あ、えと、これで」
「はい。スコーンセットとストロベリーパフェですね。かしこまりました」

見た目から得たイメージ通りの穏やかな声で、マスターが注文を確認し、カウンターの向こうに消える。

人の声が無くなった店内で、雫のようなピアノの音色がゆるやかに流れている。お冷を1口飲むと、それは程よい冷たさで、何となくミントのようにすっきりとした風味がした。

「……あの」
「何ですか?」
「……どうして、私をここに?」

そう聞くと、彼女はぱちりと瞬きをした。

「あなたが危ないところにいたから、です」
「危ないところ……」
「私、今日は高いところから見た景色を撮りたくて、あそこに行ったんです。そしたら、あなたが柵の向こうにいたから、"あ、これ危ないな"って思って」

首から提げたカメラを軽く持ち上げて、彼女は言う。そして、眉を下げて、申し訳なさそうな表情になった。

「お節介、でしたか?」
「……いえ」

首を横に振ると、彼女の顔がほっとしたようなものに変わる。素直な人だと、ふと思う。

「……ちょっと、疲れちゃったんです。色々」

口にしたら、ぽつぽつと言葉が零れてきた。

「だから、終わらせたくなっちゃって」

彼女は、何も言わずに聞いている。

「その時、あなたが手を伸ばしてくれたから、……今は、やめておこうかなって」

それが、余計に話しやすかった。


「お待たせしました」

テーブルの上に、スコーンとパフェが並ぶ。
「いただきます」と声を揃えてから、私は細長いスプーンを手に取った。

ふわふわの生クリームと、なめらかな舌触りのアイスが溶け、喉の奥を滑っていく。ザクザクとした食感のコーンフレークや、棒状のクッキーが、冷たくなった口に優しい。

子どもの頃、外にご飯を食べに行った時、よくデザートに頼んでいたのを思い出す。きらきらしてて、甘くて、なかなか食べられない豪華なデザート。舌にじんと、懐かしく甘酸っぱい苺の味が染みていく。

「……おいしい……」
「美味しいですねぇ」

正面にいる彼女も、頬をゆるめていた。
ナイフで半分に切ったスコーンに、苺のジャムとクリームを乗せて、食べている。赤と白のコントラストが綺麗だ。

「美味しいもの食べると、元気出ませんか?」
「……はい」

甘いものなんて、しばらく食べていなかった。毎日毎日、仕事ばかりで、3度の食事すらまともに取ることも少なくなっていた気がする。

エナジードリンクや、コンビニのお弁当。惣菜パンに栄養補給ゼリー。そんなものが多かった。

目の前の苺パフェが、ぼやけて、溶けて流れる。

頬を水が伝っていく感覚がして、ようやく自分が泣いていることに気がついた。

「ティッシュ使いますか?」
「ありがとう、ございます……」

ハンカチではなくティッシュ。軽くだけど、私が仕事用のメイクをしていることに気づいているのだろう。

視界がはっきりしたところで、またパフェを口にする。ひとさじ、ひとさじ、大事に含むように、私は味わった。

これが人生最後に食べるものだったら、素敵かもしれない。でも、今は、この世界から消えてなくなりたいという気持ちが、静かに凪いでいた。

「このカフェ、美味しいものいっぱいなので、また来てみてください」

名前も知らない彼女が、笑顔でそう言う。
胸の辺りが、ぼうっと温かくなる。

「……はい」

崖から落ちそうになったところを、手を伸ばして捕まえてもらったような、安心するような感覚。

もう少し、もう少しだけ、生きてみようかな。

***

カフェを出て、ドアの上に看板があることに気づく。そこには英語で、こう書かれていた。

「"キャッチャー・イン・ザ・ライ"……?」
「"ライ麦畑でつかまえて"って意味なんですよ。マスターが好きな小説らしいです」

タイトルを聞いて思い出した。
中学の頃、その本を借りて読んだことがある。
高校を退学することになった男の子が、こちらに語りかけてくるような文章だった。

その中で、主人公の男の子は言うのだ。

『ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ』と。

ライ麦畑で遊んでいる子どもたちが、崖から落ちそうになった時に、さっと飛び出してつかまえる。そんな人になりたいんだ、と。

「……あの、」

声をかけると、丸い茶色の瞳が、きょとんとした様子で私を映す。

知りたいと思った。

私にとっての、ライ麦畑のつかまえ役になったこの子のことを。

言葉を重ねて説得するんじゃなくて、ただ素直に手を伸ばして、安全な場所へ引き戻してくれたこの子の名前を。

「あなたの、名前は?」

彼女は、ふわりと笑って、名前を言った。
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