イノセント・テイル
まっさらな紙に、丁寧に文章をつづるように、アイアンはコハクに様々なことを教えた。
まずはカトラリーの使い方。スプーンとフォークから始まり、慣れてきたところで、肉や魚の料理を食べるときはナイフも使った。
食事の仕方では、パンは1口ずつちぎって食べること。スープは飲むと言うより、スプーンで食べること等を、一緒に食事をすることで手本を見せた。
読み書きや簡単な計算も教え、村の本屋で買ってきた絵本を与えた。
勉強を詰め込みすぎないように、森へ連れ出し、コハクが興味を示した木や花や薬草の名前を教えた。
乾いた土が水を吸収するように、コハクは何にでも興味を示し、覚えていく。その成長を見守るのは、アイアンも楽しかった。それは、シディを慣らしているときと、似て非なる楽しさだった。
最初は、1人で生きられる力を付けさせるためだったのに。気づけば、次はどんなことを教えようかと、わくわくしている自分がいる。
「アイアン!」
光がはじけるような笑顔を、まっすぐに向けてくる彼女につられて、アイアンも小さく微笑んでいた。
***
アイアンとの生活は、コハクにとって、驚きと楽しさの連続だった。
毎日のように新しいことが見つかり、自分が知っている世界がどんどん広がっていく。人やもの、感情には名前があること。たくさんの物語。たくさんの言葉。アイアンと出かける森の中にも、わくわくする発見があった。
枝にとまる小鳥、木の上に住むリス。控えめで可憐な花や、見たことの無い薬草。木もよく見れば、1本1本に個性がある。
アイアンがいる森に来るまで、コハクは外に出たことがなかった。
プールがある美しい部屋。与えられるのは、果物、ケーキ、お菓子。レースやリボンやフリルで飾られた、シルクのドレス。着せ替えがたくさんある人形。宝石がついた首飾り。ふわふわのぬいぐるみ。
贅沢品にあふれた空間で、コハクが受けたのは、館に飾っておく人形か愛玩動物のような扱いだった。
――まるで、お姫さまみたいな暮らしをしていたんだな。
アイアンがくれた絵本から得た知識。それをもとにして、コハクは当時の自分の環境をそう捉えたけれど、あの場所に戻りたいとは思わなかった。
今の自分には言葉と知識がある。美味しいごはんもある。外に出かけるための靴もある。それに、優しいアイアンと可愛いシディがいる。他に何もいらないくらい、コハクは満たされていた。
だからこそ、アイアンがときおり見せる苦しげな表情が、コハクは気になってたまらない。優しくて物知りで、強くて大きな身体をしているのに。1人でいるときは、たまに痛みに耐えるような顔をしている。でも、コハクを見つけると、その表情はふっと小さくやわらぐのだ。
――どうしてかなあ。
ふしぎに思いながらも、アイアンがやわらかな表情になってくれるので、コハクは聞かないことにした。
***
それは、嵐の夜のことだった。
ガタガタと窓を叩く風や、ざあざあ降る激しい雨。一瞬だけ光った後、大きな音を立てる雷のせいで、コハクは眠れずにいた。何度も寝返りを打っていたが、柔らかい翼と毛布で体をくるみ、ベッドから降りる。
――アイアン、起きてるかなあ。
最近お気に入りの絵本を1冊持って、コハクは彼の部屋のドアをこつこつと叩く。返事は無く、部屋の主が出てくる気配も無い。そっとドアノブをひねって押すと、ドアは静かに開いた。
「……アイアン……?」
暗闇に慣れた視界の中で、ベッドの上に丸まっている大きな影が映る。それから、耳に届いたのは、低い唸り声。手負いの獣が出すような、苦しそうな声だ。
「アイアン、アイアン、だいじょうぶ?」
絵本が手から離れ、軽い音を立てて床に落ちる。ぱさりと肩から落ちた毛布も気にせず、コハクは丸い影を撫でた。アイアンは毛布を頭からすっぽり被り、きつく目を閉じて、歯を食いしばっていた。大きな手が、両耳をふさいでいる。
「どうしたの? どこか痛いの?」
洞穴のような毛布の中に潜り込み、コハクは声をかけた。暗がりの中で、紫がかった灰色の光が、1つだけ現れる。
「……あ……人が……爆弾の、音が……」
「ばくだん?」
「……ごめん……。スズ、ナマリ……。俺だけ、どうして……」
コハクには、その言葉の意味はよく分からなかった。しかし、アイアンが怖がっていることは、よく分かった。毛布をそっと落とし、両方の腕で、がたがたと震える彼の身体を抱きしめる。毛布の代わりに、自分の翼でアイアンを包み、彼の真っ白な短い髪を優しく撫でた。
「だいじょうぶだよ。こわくないよ」
おまじないをささやくように、何度も何度も唱える。すると、アイアンがすがりつくように、コハクの背中に手を回した。その力はびっくりするほど強く、指の1本1本がくい込んでくる。骨が軋みそうなほど、ぎゅううっと荒々しく抱きしめられ、息が詰まる。それでもコハクは、彼に声をかけ続けた。
森で知らない花を見つけて、駆け寄った際に転んだとき。初めて料理の手伝いをして、熱い鍋に指をぶつけたとき。すぐに「いたい」と口から出てきたのに。この夜だけは、コハクは「いたい」と口に出さなかった。
自分が痛いことよりも、アイアンが辛そうなことが心配だった。
互いの心音を感じるほど、ぴったりと抱き合っているうちに、アイアンの震えが少しずつ治まっていく。
「……コハク……?」
「うん。そうだよ。コハクだよ」
「なんで、ここに……?」
「お外の音がおおきいから、ねむれなくなっちゃった。アイアンとお話したいなって来たら、アイアンが丸くなってた」
彼の髪を撫でながら言う。アイアンは呆然としたような顔で、腕の力を緩めた。そして、コハクの肩に頭をもたせかける。
「……悪い。もう少し、このままでいさせてくれ」
「いいよ」
コハクの胸の中に、ふわふわした羽のような想いが降り積もる。
想像もできない何かに、怯えている彼を、ふんわり包んで守ってあげたい。何も怖いことは無いのだと、安心させたい。その表情を、穏やかな笑みに変えたい。
「アイアンが、"もういいよ"ってなるまで、いるよ」
この感情の名前を、コハクはまだ知らない。ただ分かっているのは、自分の両腕と翼の使い方だけだった。