『小公女』について未熟ながら論じてみた



まず、初めに。これを読んでいる皆さんは『小公女』という本をご存知だろうか。

『小公女』(『リトルプリンセス』という題名のものもある)は、1905年にアメリカの小説家であるフランシス・ホジソン・バーネットによって書かれた、児童文学作品である。
新潮文庫の後書きでは、「セーラ・クルーの物語は三回書かれている」と記されている。

書店や図書館で児童文学のコーナーを覗いてみれば、必ずある作品の1つではないだろうか。1985年には世界名作劇場でアニメーション化されており、現在ではマンガ版も出版されている。

私が読んだことがあるものを並べてみよう。

・『小公女』よい子とママのアニメ絵本 24 せかいめいさくシリーズ(ブティック社)
・『リトルプリンセス 小公女 新装版』青い鳥文庫(講談社)(訳:曽野綾子)
・『小公女』ポプラポケット文庫(ポプラ社)(訳:秋川久美子)
・『リトル・プリンセス 小公女 映画版』(文溪堂)(訳:清水奈緒子)
・『小公女』新潮文庫(新潮社)(訳:畔柳和代)

これらの他にも、小学校2年生のときに、教室に置いてあった『小公女』の大型絵本を読んだことがある。ふわふわとした短めの黒髪で、すらりとした手足のセーラが描かれていたと思う。作中でバレエの授業が行われていた。
セーラの父親の訃報が来たときに、「エミリーだけは取り上げないでください」というセーラの訴えを、ミンチン先生が「いいでしょう」と受け入れていたため、他の本と比べてミンチン先生が優しく見えた印象がある。
インターネットで調べてみたが、情報が足りないせいか、それらしい本を見つけることができなかった。無念。絵画のような挿絵だったので、出版年が古い本だという推測はできる。

見つけてはいるが読んだことがないのは、以下の通りである。

・『小公女セーラ』角川つばさ文庫(KADOKAWA)(訳:杉田七重)
・『小公女』岩波少年文庫(岩波書店)(訳:脇明子)
・『小公女』マンガジュニア名作シリーズ(学研プラス)(漫画:布袋あずき)

※マンガジュニア名作シリーズのものは、書店で軽く立ち読みした程度のため、読んだことがないものとする。

他にも調べれば出てくるわ出てくるわ。
ポプラ世界名作童話にこども世界名作童話(どちらもポプラ社)、偕成社、10歳までに読みたい世界名作(学研プラス)、100年後も読まれる名作(KADOKAWA)、福音館書店、西村書店、トキメキ夢文庫(新星出版社)、竹書房、朝日ソノラマ等々。
ありとあらゆる場所から、『小公女』が今も昔も出版されていることが分かる。

タイトルが同じで内容も同じなら、わざわざ同じものを読む必要は無いんじゃないか。そういう考えの人もいるだろう。

ところがどっこい。それぞれ読み比べてみると、意外と違うところがあるのだ。

まず主人公の名前。基本的に「セーラ・クルー」と書かれているが、たまに「セアラ」や「セエラ」、「セイラ」と表記されるものがある。
これは人によって、訳し方に差が出るからだと考えられる。他にも文章を読んでいくと、ところどころ書き方が異なるところもあり、それを見つけるのが私は面白く感じる。

例えば、別の本では「巻き毛」と書かれているところが、別の本では「先がカールしている」と書かれていたりする。
青い鳥文庫では「あまパン」と書かれていたが、新潮文庫では「ぶどうパン」と詳しく書かれていたりもする。同じくバーネットが書いた『秘密の花園』にも、ぶどうパンが出てくるため、干しぶどうがたくさん入ったパンが食べたくなってしまう。

主人公の見た目もそうだ。せかいめいさくシリーズ(これは私が人生で初めて読んだ小公女だ)では、セーラは金髪碧眼で、正統派のお姫様のように描かれている。しかし青い鳥文庫では、黒い髪に灰色がかった緑の目の少女として描かれている。アニメ版や最近出ている本でも、セーラは黒髪緑眼で描かれているため、こちらが原作の色に沿っていると考えられる。

内容にも違うところがある。
青い鳥文庫には無いが、私が小学校で読んだポプラポケット文庫では、なんとセーラが「あんたなんか(おがくずの詰まった)ただのお人形」と人形のエミリーを床に投げつけるシーンがあった。友達として、ときに自分の娘として、可愛がっていたエミリーをである。これは屋根裏部屋での生活が続いていた頃に起こった出来事だ。セーラの溜まりに溜まった苦しさや悲しさが爆発し、セーラの弱さが垣間見えるシーンだと私は考える。これまで読んできた『小公女』では見かけない場面だったため、当時はとても驚いた記憶がある。これは英語で書かれている原作に載っているシーンなのだろうか。原作に触れる機会があれば探してみたいものだ。

「大人も読む『小公女』を意識しながら訳した」と後書きで言われている新潮文庫では、このシーンが含まれていた。自分が辛い時に、ひたすら座っているだけのエミリーに対して、募っていた違和感が爆発したのだ。大切な友達だからこそ、エミリーが物言わぬ人形であることを認めたくなかったのだと考えた。

新潮文庫には、他にも細かな描写がたくさんあり、物語についてより深く知ることができた。例えば、セーラが語る物語の詳しい内容や、ベッキーがセーラの誕生日に、健気に贈り物を用意した描写。セーラがお金持ちの男の子から6ペンスをもらった時の、乞食とは思えない言葉遣いについての言及等。
そして、年少の女の子たちに、セーラが母性的に接する様子。押しのけずに優しくしてくれて、お人形のティーセットでお茶会を開いてくれる――しかも甘い紅茶がたっぷり――人がいたら、誰でも女神や女王と慕ってしまうだろう。私だったらお姉様と呼んでしまう。

映画版の本では、セーラが大切にしているロケットをミンチン先生が取り上げる場面、それをアーメンガードたちが協力してこっそり取り返す場面といった、他の『小公女』には見られない要素がある。特に異なる点は、戦争で亡くなったと言われていたセーラの父親が、記憶喪失になって生きていたという点である。
他の『小公女』では、セーラの父親は病気で亡くなっている。映画版には後にセーラの保護者となるトム・キャリスフォード氏が登場しないため、セーラが父親と再会できる唯一の『小公女』と言える。ちなみに物語のラストで、父親は娘の記憶を取り戻すため、完全なるハッピーエンドである。ご心配なく。
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