イノセント・テイル



森の朝は、静けさの中で始まる。

日の出とともに目覚めたアイアンは、朝の支度を始めた。服を着替え、冷たい水で顔を洗う。ふと鏡を見れば、複数の傷が残る顔と、紫がかった灰色の左目が、こちらを見つめ返してくる。潰れた右目を隠すように黒い眼帯をつけ、水汲み用の桶を2つ持って家を出た。

葉擦れの音や、ささやくような小鳥のさえずりが、耳をくすぐる。新鮮な空気を取り込むように深呼吸をすれば、肺の中がすうっと澄んでいくように感じた。

――ここは好きだ。俺に染み付いた汚れが、少しでもそそがれたような気がする。

あの血と硝煙にまみれた日々を、忘れたことは無い。この先も、忘れることは無い。ただ、この森に1人きりでいれば、生き続けることを許されているような気持ちになれる。呼吸をするのが、楽になる。

「カア、カア」
「おはよう、シディ。何か見つけたのか?」

泉に向かう途中、飛んできたのは、1羽のカラスだ。アイアンが慣らした相棒で、名前はシディ。羽の色が黒曜石そっくりだったため、この名前をつけた。シディはくるくるとアイアンの頭上を旋回し、泉とは別の方向へ飛んでいく。

とりあえず桶を持ったまま、アイアンはついて行くことにした。ブーツで生い茂る草を踏み、シディの後を追う。
すると、小さいながらも開けた場所にたどり着いた。丸い天窓のように頭上の木の枝が無くなっていて、そこから陽の光が差し込んでいる。ちょうどその光に照らされるように、白い何かが横たわっていた。

思わず息をのみ、警戒しながらも近づいていく。

ところどころ破れていたり、ほつれたりしているが、仕立ての良さそうなレースのドレス。繊細なスカートから伸びる、小さな素足。金色の波のように、輝く長い髪。きめこまかな肌は、縁がピンクの白バラを思わせる。

特に印象に残るのは、背中から生えている翼だ。雪よりも、真珠よりも白い羽。優雅な白鳥そっくりの翼を持つ少女は、教会のステンドグラスに描かれる天使のように見えた。

「……おい、大丈夫か?」

華奢な肩を軽く叩く。少女が起きる様子は無く、すやすやと穏やか過ぎる寝息が聞こえた。楽しい夢でも見ているかのように、頬が緩んでいる。無邪気な寝顔に、つい気が抜けてしまった。

桶を片手で持ち、もう片方の腕で少女を抱える。ほっそりとした少女の身体は、あまりにも軽くて柔らかく、アイアンはぎょっとした。

この不思議な少女は、どこから来たのだろう。
目立った外傷は見当たらないし、顔の色つやもいい。村以外で、こんな恵まれた子どもを見るのは久しぶりだ。戦争の被害を免れた地域出身だろうか。そして、この翼は……。


アイアンは考える。この世界に存在する、"獣人"のことを。
人間が国同士の戦争に勝つために、獣の特性が現れる薬を打ったことが始まりだった。その影響で、獣人は軍に所属していた人間であることが多く、一般人からは尊敬と感謝、そして畏怖の対象となっている。

獣人は、獣の特性が外見や力に現れる。普段の外見は普通の人間と変わらないが、力を使い過ぎると獣そのままの外見に変貌する。

戦時中、その薬は好事家の間にも流れていたらしい。美しい獣や愛玩動物を好む人間が、自らに打ったり他人に打ったりして楽しむことがあると、風の噂で聞いた。この少女の翼も、恐らくその薬の影響だろう。

苦い気持ちで、アイアンは唇を噛む。皮肉にも、平和を具現化したような少女の姿を、暗く影る瞳で見つめながら。

***

少女が目を覚ましたのは、昼過ぎだった。
様子を見に行くと、少女はベッドから上半身を起こした状態で、きょろきょろ辺りを見回していた。蜂蜜色の目が、好奇心いっぱいに輝き、アイアンを見つめ返す。

「目が覚めたか。気分はどうだ?」
「?」
「……痛いところや、苦しいところは無いか?」
「??」

何を問いかけても、少女は微笑んだまま、首をかしげるばかり。声に反応しているから、耳が聞こえないわけではないようだ。話せないというより、言葉が分からないらしい。

「俺はアイアン。君の名前は?」
「ナ、ま、ェ?」
「そうだ。名前だ」
「な、マえ」

たどたどしい声が、幼子のように言葉を真似る。にこにこしている少女は10代半ばか後半くらいに見えるが、表情や仕草があどけない。無垢な目は磨いたばかりの琥珀のようで、どこまでも透きとおっていた。

「……俺が、名前をつけてもいいか」
「?」
「今日から君は、"コハク"だ」
「コはく?」
「そうだ。コハク」
「コハく。なまエ、こはく」
「君はコハクで、俺はアイアンだ」
「あィアん、こはク」

指さしながら伝えると、少女も楽しそうに真似をする。歌の練習をする小鳥のように、何度も名前を繰り返し言う。そのとき、少女のお腹から、くるる……と小さな音がした。

「お腹が空いたか。食事にしよう」
「しょくジ?」
「ああ、食事だ」

寝室を出て、台所へ行く。コハクを椅子に座らせてから、アイアンは残っていたスープを温め、木製の器によそう。畑で採れた野菜を、ミルクとコンソメで煮込んだものだ。

器をコハクの前に置こうとしたとき、彼女が口をパカッと開けた。そのまま待っている姿が、エサをねだる雛鳥のようだと思っていると、コハクが不思議そうな顔でテーブルをぺちぺち両手で叩く。

試しにアイアンが、スープを木製のスプーンですくって、口の中にそっと流し込む。するとコハクは目を閉じて味わい、驚いたように目を丸くした。頬がバラ色に染まり、次をねだるように、口を大きめに開ける。

「美味しいか?」
「? オい、しぃ?」
「そうだ。美味しい」
「おイしい!」

コハクが目を弓なりに細め、幸せそうににっこり笑う。素直に感情を表現する彼女に、胸の辺りが温かくなるのを感じながら、アイアンは彼女にスープを食べさせた。

――次は、食事の仕方を教えるか。

そんなことも考えながら。
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