コワレヤスキ
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私の中には、まだ赤ちゃんだった頃の記憶が残っている。
そんなはずは無いだろう。
昔に見た夢の内容なんじゃないか。
そう言われそうだから、誰にも話したことが無かったけど。やけに鮮明に美しく、たくさんの情報量を持って、その記憶は私の脳内に焼き付いていた。
最初に思い出すのは、柔らかな毛布の感触。
私はバスケットの中から、柔らかく降り注ぐ木もれ日を浴びていた。
ふわりと頬を撫でる風。子守唄をさえずっているような、鳥たちの鳴き声。辺りはのどかな空気が流れているのに、人の気配は全く感じられない。
だんだんと心細い気持ちが膨らんでいって。世界に私1人しか、いないような気がして。私はまだ、話せない声を懸命に上げた。
"私はここにいるよ"
"誰か見つけて"
"寂しいよ"
そんな気持ちを込めて泣いていたとき、目の前が薄暗くなる。涙でかすむ視界にぼんやり映ったのは、女の人のようだった。
「赤ちゃん……? どうしてこんな所に……」
ほっそりとした腕が、私を優しい手つきで抱き上げる。人の温もりと柔らかさを感じて、私は少しずつ落ち着いていった。
女の人が私をバスケットの中にそっと寝かせ、バスケットごと抱きかかえる。
ゆっくりと動き出した空を眺めてから。私は安心しきって、まどろみの中に落ちていった。
***
それから、7年間の月日が流れた。
「おかえりなさいませ、美咲お嬢様」
「ただいまかえりました」
門のところで出迎えてくれたメイドさんに挨拶を返し、私は自分の部屋がある東館に入る。すると、パタパタと軽やかな足音を立てて、弟の御園が階段を降りてきた。
「おねえちゃん、おかえりなさい!」
「ただいま、御園」
ひしっと抱きついて無邪気な笑顔を向けてくる、4歳の弟の可愛らしさに疲れが吹き飛んだ気持ちになる。
「おかえり、美咲」
「ただいま、兄さん」
階段を降りながら声をかけてきた御国兄さんにも、私は挨拶を返した。
兄さんは片手に、読みかけらしい分厚い本を持っている。賢くて冷静な兄さんは、私にとって憧れの存在だ。
「今日は合気道の日だっけ。どうだった?」
「体の使い方が、前より上手くなった気がする」
私、有栖院 美咲は、有名な財閥である有栖院家の養女として育てられた。
3歳から合気道とヴァイオリンを始めたり、小学校入学と共にフェンシングを始めたり、色々な習い事をしている。
ちなみに合気道とフェンシングはそれぞれ週2、ヴァイオリンは週1のペースだ。
「1週間のうち5日間は稽古があるのに、美咲は何でも器用にこなすタイプだよなー。しかも努力家だし」
「えへへ……」
頭を撫でてくれる兄さんの手は、とても優しくて温かい。
この家の人たちは、養子の私に対して本当の家族のように接してくれる。そのことがとても嬉しくて、私はこの家に住む皆を大切だと感じている。
本当の両親のことが分からなくても、不安や悲しみは無い。この温かな庭が、私の居場所だから。
「そういえば。今日は色んな財閥が集まるパーティーに行く日だから、オレたちもそろそろ支度しよう」
「あ、そうだった。カバンも下ろしてこなきゃ」
「ぼくは、おるすばんだよね……」
「御園はまだ小さいからなー。ユリーたちもいるから、良い子にしてるんだぞ」
「帰ってきたら、寝る前に絵本を読んであげるね」
その一言で、しょんぼりしていた御園の顔が、光が差したように明るくなる。素直な反応に思わず微笑みながら、私は自分の部屋に戻った。
荷物を下ろしてから、帝一瀬学園初等部の制服を脱ぎ、ハンガーにかける。
パーティーに持っていくハンドバッグには、レースのハンカチとティッシュ、そして宝物の懐中時計を入れることにした。
バラのレリーフがついたアンティークの時計で、私が赤ちゃんのときから持っていたものらしい。
そして私は、今日のために買ってもらったドレスを、初めてクローゼットから取り出した。赤いバラの花模様で、腰にリボンが巻かれ、パフスリーブがついた可愛いデザインのもの。
ドレスの裾と腰のリボンは、三月さんが整えてくれて。髪は、メイド長のやまねさんがカチューシャのように綺麗に編んで、大輪のバラの形をした髪飾りをつけてくれた。
「ありがとう。三月さん、やまねさん」
「とても素敵ですよ、美咲お嬢様」
「楽しんできてくださいね」
メイドさんや執事さんを含む家族たちに見送られて。準備ができた私と兄さんは、お父さんたちと一緒に、ピアノのように磨かれた車に乗り込んだ。
***
初めて来るパーティー会場は、まるでおとぎ話の世界のように見えた。
きらきらと透明な光を放つシャンデリア。
会場内を満たすクラシック音楽。
華やかなドレスに身を包んだ女の人。
スーツをきっちり着こなした男の人。
「わぁ……」
「やっぱり結構な人数が来てるな」
物珍しさにキョロキョロしていると、兄さんが私と手を繋いでくれた。
「美咲、パーティーに来たときに最初にすることは何だっけ?」
「えっと、主催者の人にあいさつ」
「正解。じゃあ行こうか」
お母さんに教えてもらったマナーをおさらいしながら、私たちは会場のあちこちを回った。
綺麗な格好をした他のお客さんたちに挨拶をしたり。真っ白な布で覆われたテーブルに並ぶ、美味しそうなお料理やデザートをいただいたり。オーケストラの人たちの演奏に拍手を送ったりしながら。
***
初めてのパーティーを心から楽しんでいたけれど。たくさんの人に囲まれたせいか、私はくたくたになってしまって。
気分転換も兼ねてお手洗いに行ったとき、鏡を見た私は大変なことに気がついた。
「あれ……? 髪飾りがない……!」
私の髪を彩っていた赤いバラが、いつの間にか無くなっていたのだ。
どこで落としたんだろう……。
やまねさんがせっかくつけてくれたのに……。
廊下を隅々まで見ながら、ゆっくりと来た道を戻っていく。けど、どこにも見当たらない。
会場で留め金が外れちゃったのかな……。
誰かに踏まれてたらどうしよう……。
泣きそうな気持ちで、とぼとぼと歩く。すると曲がるところを間違えてしまったのか、知らない廊下に来ていた。
「どうしよう……」
人が来る気配は無い。もう家族の元に帰れないんじゃないかという不安も重なって、思わず目にじわりと涙がにじむ。
「───あぁ、見つけた。君だったんだね」
後ろからかけられた、甘く優しい声。キュッと鳴る革靴の音。驚いて振り向くと、そこには男の人が1人立っていた。
黒いシャツと黒いネクタイ。白いベストに白いズボン、白いジャケット。肩にはもう1枚、黒いジャケットを羽織っている。
私は一瞬全てを忘れて、彼を見つめた。
男の人にこの感想は合わないかもしれないけど。彼はとても、綺麗な人だったから。
「あ……!」
彼の左手にある、赤いバラの花。声を上げた私の視線の先に気づいたのか、彼は私の前に片膝をついた。
「君の髪飾り、会場に落ちてたよ」
「そうだったんですか……! 見つけてくださって、ありがとうございます」
細くて綺麗な彼の指が、器用に私の髪にバラを飾る。少し頬にふれた温度は、とてもひんやりとしていた。
「ありがとうございます」ともう1度言うと、彼は赤色の目を細めて、ふっと微笑んだ。
「……いい匂いがするね」
「え?」
「魔術師の血の、匂いがする」
聞き慣れない言葉に首を傾げたとき。私の名前を呼ぶ、兄さんの声が聞こえた。
「あ……私、行かなきゃ。本当にありがとうございました」
ぺこりと丁寧に頭を下げてから、私はくるりと彼に背を向けて、兄さんがいる場所へ向かう。
このときの幼い私は、まだ何も分からなかった。そして知らなかった。
あの日出会った彼――『椿』が、私の人生も運命も……何もかも変えてしまうなんて。