夏椿の物語
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
はらり、ひらり。
開けた窓の向こうでは、桜の白っぽい花弁が風に流れていく。まるで雪が降るようだ。
明かりをつけない部屋を照らすのは、月の光だけ。足を曲げてぺたんと座る私は、パーカーの袖をまくって細い腕を出し、折りたたみ式のナイフをパチンと開いた。
月光にきらきら反射する切っ先を腕の内側に押し付け、すうっと動かす。皮膚は簡単に切れ、血が滲み、鈍い痛みが伝わってくる。
「いたい……」
確認するようにつぶやくと、自分の声がやけに部屋に響いた。
垂れた血が、腕をなめくじが這うようにのろのろ伝っていく。そのまま、ぽたりと落ちるのを待っていたとき。ぺろ、と黒い狐さんがその雫をなめた。
いつの間にか膝の上にいた狐さんが、傷口から滲む血をなめとっていく。先が白い2本の尻尾の、黒い狐さん。
「……アカネ……?」
その名前を呼んだ。
そのとき、アカネの耳がぴくりと動いた。
『……違う』
「え……?」
ふいに響いた男の人の声に、息をのむ。
アカネがくるりと回ると、私の傍らに黒い着物を着た男の人が片膝をついてかがんでいた。気づくと彼がつかむ私の腕は、血が止まっていた。
「椿。僕は椿だ」
アカネと同じ赤い瞳をした彼は、夢で聞いたのと同じ声でそう言った。
「つばき……?」
ぼんやり繰り返すと、彼は「そう」とうなずき、私の腕をそっと離した。
「ねぇ、君の名前を教えてよ」
感情がつかめない笑みをしながら彼は言った。
狐さんみたいな細い目は、薄いサングラス越しで読みにくい。
「名前……?」
名字はすぐに浮かんだ。おばあちゃんと同じだから。でも。
「私は、葉室、……えっと……」
名前? 私の、名前? なんだっけ……。
「名前は無いの?」
「えと……あ。確か、沙羅。葉室 沙羅」
彼に再び問われ、私はやっと自分の名前を思い出した。
「……私、名前、よく忘れちゃうんだ。……呼んでくれる人、いないから」
うつむきながらこぼすように言う。ぱさりと髪が、顔の周りに落ちる。
そう、呼んでくれる人は、もういないから。
私を理解してくれる人は、もう……
「───じゃあ、僕が名前を呼んであげる。君が"沙羅"だって、忘れないように」
彼の声に、言葉に、顔を上げる。
凍えていた心に、ぽつんと赤色が灯った。
優しげに細められた赤い瞳と目が合う。
雪の中に映える、椿の花。
「じゃあ沙羅、また来るね」
窓からベランダの柵に立ち、振り向き様にそう残して。彼はふわりと降り立ってしまった。
柵から身を乗り出して下を見るも、彼……椿はいなくなっていた。
***
からんからん、と下駄が鳴る。歩く度に、彼がまとう羽織が揺れる。
「……見つけてくれた恩返し、ってところかな」
────あの子は、僕に似てるかもしれない。
────でも、どうして、彼女が懐かしい気がするんだろう……?
***
『沙羅』
その名前をつけてくれたのは母さん。最初に呼んでくれたのも母さんだった。
もう顔も覚えていない。私が3歳の頃に、事故で天国へ行ってしまった。記憶にあるのは、幼い私の手を引く柔らかな手。
『沙羅』
それが私の名前だと、教えてくれたのはおばあちゃん。
何回も、何回も呼んで、私を見てくれた。私にたくさんのことを教えてくれた。生き方を教えてくれた。
カラッポの私に、たくさん愛を注いでくれた。
両手からこぼれるほどもらったのに、それらはまたぼやけだす。
ひき逃げにあったと、周りの人から聞いた。
心臓をもぎ取られたようだった。
私はまた、1人きりだ。
『沙羅』
誰かが名前を呼ぶ声がする。
優しい声が耳をくすぐった。
────おばあちゃん……。
むに、と頬をつままれて目を開ける。
そこには、ほんわり笑うおばあちゃんの代わりに、少しふくれっ面の男の人がいた。
「……椿……」
「ひどいなぁもう。来てみたら寝てるし、名前呼んだら"おばあちゃん"って言うし。……面白くなーい」
「……あー。声に出てた……?」
「うん。あ、稲荷寿司ごちそうさま」
やることが無くて、おいなりさんを夜食にぼんやり教科書を開いてたら寝てたらしい。お皿の上は空っぽだった。
「沙羅の稲荷寿司は美味しいよねー。お寿司屋さんのより美味しい」
「そうなの……?」
「僕は沙羅が作ったのが好き」
全部食べられた……。という気持ちはその一言で消える。
無邪気そうに笑う椿には、嘘が感じられなかった。また心の中に、花が咲く。
「…………ありがとう」
そう言うと、椿はハッとしたように目を丸くした。
それからそっと私の顔を両手で包んだ。骨ばった男の人の手と、さらりとした着物が頬にふれる。
「沙羅が笑うと、こうなるんだね」
至近距離でほころぶ椿の表情に、胸がことんと跳ねた。
────今、私……笑ってたの?
とくとくと高鳴る心臓に手を当てる。
「椿」
「なぁに?」
「椿」
声にならず、ぽすん、と椿の胸におでこを預ける。
椿の両手にふわりと包まれる。気づくと私は、ほろほろ涙をこぼしていた。
「椿、ありがとう」
椿の脇腹の辺りをきゅっとつかんで、言葉をしぼりだす。そのとき、椿の腕に力がこもった。
男の人だと改めて分かるくらい。優しく、でも強く。
「椿……?」
ぎゅううっと力が強まり、少し苦しくなって椿の脇腹をぺちぺちたたく。
「あ……、ごめん」
腕がほどかれ、温もりが少し遠ざかった。
私を見つめる椿の目が、ひどく切なげで、なくした何かを懐かしんでるようだった。