2人の天使
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ふわふわ揺れる薄茶色の髪。マネキンのようにすらりと華奢な体。全体の色素が薄く、儚げな印象の少女が、カラオケボックスから出てきた。
「……今日も、ダメだったな……」
そうつぶやく声は暗いが、小鳥のさえずりのように耳に心地いい。淡い水色の目は少し潤み、眉根を下げてしょんぼりした表情をしている。
ここはとあるビルの2階。
お父さんの知り合いがこのビルを経営してるそうで、私は練習のためによくここを訪れている。お父さんには内緒で。
……"歌えない"私がカラオケに行ってるなんて。お父さんが知ったら、きっと心配かけちゃうから……。
きゅっと唇を噛み、うつむき気味に歩いていたとき。ピアノの音が耳に飛び込んできた。
「え……」
顔を上げ辺りを見回すと、3階へ続く階段が目に映る。ピアノの音はその方向から聞こえてくる。
あまりにも滑らかなメロディーに、誰かがCDをかけてると言われても納得できた。
でも、違う。
機械を通していない、生の演奏。透き通るような美しい音色。羽がふわりと舞うイメージが浮かぶ。
思わず、ドクン……と心臓が脈を打つ。
聞き覚えのある調べに、磁石のように引き寄せられ、足音をしのばせて階段に足をのせた。
1段、1段、ゆっくりと登る。その度メロディーが、少しずつ近づいていく。
自然とハミングが唇からこぼれた。
3階は貸しスタジオで、確かピアノも置いてあったはずだ。
ドアの前に立ち、中から間違いなく流れているメロディーに、慌ただしく跳ね出す鼓動を押さえる。
手の震えをこらえ、細くドアを開けてみる。隙間から黒く滑らかな光沢のグランドピアノと、そこに座る男の人が見えた。
演奏が止まる。
「聴くなら、こっち来たらどうだ」
「!!」
その言葉にびくっと肩が跳ね上がった。
ばれてた?!
おそるおそる顔を出すと、真っ直ぐな視線にぶつかった。
白く広い部屋の中にそろそろと足を踏み入れるも、彼の射抜くような瞳の強さに目が離せなくなる。
黒いパーカーに包まれた、細身の体つき。背中に背負う、天使の羽がついたリュック。黒髪にひと房入った白いメッシュは、まるで羽根のようだ。
服装も髪型も動画と違うけど、何となく気づいていた。
「"リヒト・ジキルランド・轟"さん?」
「リヒトでいい」
少しぶっきらぼうな声が告げる。
「お前、天使か?」
「へ……?」
ふいに投げかけられた質問に首をかしげると、彼は視線をそらし椅子を指さした。
「まず座れ」
「あっはい」
彼と向き合うように椅子を置き、ちょこんと座る。意志の強そうな視線を、戸惑いながら受け止める。
「……あの、オーストリアにいたことってありますか?」
動画で見た有名人が、目の前にいる現実を確かめるように、私は問いかけた。
「ああ。昔住んでた」
「じゃあ、会ってるかもしれないです。あなたのピアノ、すごく懐かしくて」
10年前のクリスマスを思い出し、微笑みながら彼に語る。
すると彼は口元に手を当てて、何か考え込むような表情をした。
「……もう1回弾いてやる。お前歌え」
「はい?!」
「何で驚く」
「だ、だって私、歌えない、し……」
「知らない曲をいきなり歌わせる訳ないだろ」
「そういう問題じゃなく……!」
「つべこべ言うな、ほらやるぞ」
声を尻すぼみにしながらあたふたしていると、もうすでに彼は鍵盤に手を置いていた。細くて綺麗な指に、少し奏でられた曲に息を呑む。
「……な? 知ってるやつだろ?」
一旦手を止めてこちらを見る彼に、こくんとうなずく。
懐かしい、お気に入りの旋律が流れ出す。
本当は少し怖い。でも、こうなったらやるしかない。私は覚悟を決め、すっと息を吸い込んでいた。
「……♪〜」
あ。と思った。
あれ?
胸や頬が、火がついたように熱を帯びていく。
ドキドキと心臓が強いリズムを刻みだす。
これまで歌おうとすると、声が喉元で固まって出て行かなかったのに。彼のピアノに導かれるように、歌声が伸びやかに引き出されてゆく。
昔みたいに、聖歌隊で歌ってたあの頃みたいに。高く、遠く。透明さを増して。
歌声とピアノが溶け合う。
その時、1つの思い出の蓋が開いた。
***
教会の裏庭。そこで色とりどりの野花をつんでいる、小さな私。
「るりら~、るりら~♪」
あたたかな春の空気。明るい小鳥たちの歌声。咲き誇るかわいらしい花たち。風がやわらかに吹きぬけていく。
なんてすてきな世界なんだろう。
なんて優しい世界だろう。
神様に愛されているからかな。
そう思うと、何だか賛美歌を歌いたくなってきて。私は朗らかに歌い出していた。
『アメイジング・グレイス』
一番好きな歌。メロディも、歌詞も。神様へ贈るのにぴったりな歌。
きらきらした木漏れ日の中に、ゆっくりと声をとかすように歌う。そのとき、教会の中から、もう一つの『アメイジング・グレイス』が聞こえた。
ピアノで奏られるそのメロディは、やがて私の歌声に合わせて、優しく寄り添う。私の歌と誰かのピアノの二重奏。
透き通るようなメロディと指をからませるようにふれあい、心がますます弾んでいく。
天使がピアノを弾いたらこんな感じかな?
誰がピアノに歌わせているの?
窓からそっとのぞき込む。ピアノの影に奏者がいるせいで、誰なのか判別することはできなかった。
"あなたはだぁれ?"
そう問いかけるように、窓枠に手をかけて続きを歌う。ピアノの音が答えるように、美しさを増す。何だかなぞなぞのよう。
歌が終わると、私はすぐに教会の表に回って扉を開けた。ピアノの人に花を渡したくて。
でも、ピアノの椅子には誰も座っていなかった。ちょこんと腰かけてみると、まだほんのり温かい。
「……天使さま、だったのかなぁ」
渡せなかった花束をかざしながら、幼い私はつぶやいた。確か9歳になる年の出来事だ。
***
メロディの余韻が消え、ハッとする。
「……歌えんじゃねぇか」
驚いたようにリヒトが言う。
「うん。……不思議だな」
私も首をかしげた。あの事があってから、ずっと歌声が出なかったのに……。
そのとき穏やかな音色が鳴った。リヒトがポケットからケータイを取り出し、耳に当てる。
「クランツ? ……そうか、分かった。……」
会話の様子だと、家族か誰かかな。
そう思いながら待っていると、通話を終えたリヒトがこっちを向いて聞いてきた。
「……明日もここで会えるか?」
その問いかけにこくこくうなずくと、彼はふっと少し笑った。
初めてほころんだ彼の表情に、思わずことんと胸が鳴った。